10月29日

 朝から畑仕事に駆り出される。畑のそばに、枯れた花の枝が落ちている。それを拾い集めて一輪車にのせて、田んぼまで捨てに行くのが、僕に与えられた仕事だ。

 枯れた花というのは、キバナコスモスらしかった。僕は実家の畑のほとりにキバナコスモスを植えてあることすら知らなかったが(僕が実家にいた頃は両親とも働いていたから、畑仕事はあまりしていなかったし、花を育てているというわけでもなかった。それが、特にこの10年くらいは、両親とも熱心に畑仕事をしたり、庭で花を育てたりするようになっていた)、春になると畑のほとりにキバナコスモスの種を蒔き、育てているらしかった。この畑に面した道を散歩する人も多く、「毎年楽しみにしている」という近所の人もいるそうだ。ただ、花が枯れたあとに放ったらかしておくと、手入れがなされていない印象を与えるのか、犬の糞を放置していく人が増えるからと、花が枯れると植木バサミで刈り取るのだという。

 父の体調に異変が生じたのは、このキバナコスモスを刈り取る作業をしていたときだった。いつものように畑仕事をしていたら、突然足がガクガクと震え出し、ひとりでは立っていられなくなり、母に支えられながら家に帰ってきたのだという。

 枯れて硬くなったキバナコスモスを集めて、一輪車に乗せて、田んぼに運んでいく。田んぼの一角に、枯れ枝が集められたところがある。枯れ枝はここにまとめておいて、年に何度か野焼きをするのだそうだ。

 うちには田んぼが何枚かある。うちはもともと農家だったけれど、祖父の代あたりから兼業農家となり、僕が生まれた頃には田んぼはすべて休耕田となっていた。一番下の田んぼには、梅の木が何本か植えられてある。あれはいつだったか、父が胃癌を患ったときに植えたものだ。僕が帰省した折に、父が「梅の苗木を買いに行きたい」と言い出して、僕が穴を掘って植えることになったのだった。田んぼに梅の木を植えるというのは、ちょっといやな感じがした。樹木というのは人の一生よりも長く生きうるものだ。それをこどもに植えさせるということに込められた感傷が、あまりに如実に伝わってくる感じがして、いやな感じがしたのだと思う。梅の木は、今はもう立派に育っている。

 ここに広がる田んぼは、これから先、どうなっていくのだろう。大学を卒業した頃から、そんなことを考えるようになった。上京する道を選んだ時点で、地元に帰ってくるつもりはなかった。あれはいつだったか、母の知り合いが実家に遊びにきていたことがあった。「これが下の子です」と、母は知り合いに僕を紹介した。今は東京の大学に通っているんです、と。それを聞いた母の知り合いは、お子さんがふたりとも家を離れたら、お母さんとしては寂しいでしょう、よくふたりとも送り出しましたね、と口にした。それに対して母は、「いつかは帰ってくると思うけど、一回は外の世界を見させたほうがいいと思うんです」と話していた。その言葉を聞きながら、無情というのか、なんとも言えない気持ちになったことを思い出す。母はいずれ、自分のこどもたちがここに帰ってくると思っている。でも、僕にはそのつもりは微塵もなかった。ただ、それをあえて口にするのはあんまりだという気がしたので、「帰るつもりはない」と言葉にすることはなかった。

 僕は中学を卒業したあと、広島市内の高校に通うことになった。中学の同級生のうち、広島市内の高校に進むのは少数派だったから、そこでいちど、地元の同級生との縁は途切れている。中学生の頃は携帯電話なんてなかったから、大人になって帰省したときにも、地元の友達と会って遊ぶ、みたいなことは一度もなかった。それに比べると、地元の高校に通っていた兄は、関西の大学に進学したあとも、帰省するたびに地元の友達に連絡をとって遊びに出かけていた。だからきっと、兄は地元に帰ってくるのだろうと思っていたのだが、兄は東京で就職し、東京で結婚し、東京で子育てをしている。だからきっと、兄もここに戻ってくることはないだろう。

 この田んぼは、もうすぐ手入れする人がいなくなってしまう。そのあと、この田んぼはどうなってしまうのだろう。僕はこどもを育てるということを考えていないから、この土地を自分より下の世代に引き継いでいく、ということは考えられない。ただ、自分が生きているあいだに、慣れ親しんだこの風景が消え去ってしまうことには、心のどこかで抵抗がある。かといって、田んぼを守るために郷里に戻って生きていく、ということも考えられない。かろうじて想像できるとすれば、父が亡くなり、ひとり残された母に介護が必要になったときに、母が亡くなるまでのあいだは実家で過ごす――というくらいのことだ。

 しかし、一時的にこの町に帰ってきて暮らすということを想像してみるにしても、どこかに就職する、という考えはまったく浮かんでこなかった。あくまで空想に過ぎないせいだろうか。この家を拠点に暮らしながら、時折どこかに取材に出かけて原稿を書く。それだけだと家にいるあいだ暇を持て余してしまうだろうから、この家や畑、田んぼを使って何かやるとして、コーヒーを淹れて出す、くらいのことはできるかもしれない。コーヒーだけだと寂しい(し、田舎町だと売り上げも少ないだろう)から、どこか旅先で出会ったものを提供することもできるかもしれない。こないだ取材したコザのタコス屋さんにタコスの作り方を教わったり、こないだ結婚披露パーティーに招いてもらったこーじさんが作る茶葉でお茶を淹れたり――あとは古本を並べるくらいか。それに関してはもう、この地域に暮らすこどもたちが、地元の書店や学校の図書館ではあまり出会えないような世界への扉を用意しておくことはできるかもしれない。だとしたら、売るというより、儲けは考えずに、私設図書館のような形が望ましいのかもしれない。あとは、自分が好きな人たちが、この畑を前に弾き語りでライブをしてくれたら楽しいかもしれないなあ。キバナコスモスをかき集めながら、そんなことを空想する。

 1時間ほどで作業を終えて、シャワーを浴びると、車を走らせてお好み焼き屋に出かけた。お好み焼きのスペシャルを1枚、スペシャルのダブル(麺2玉)を1枚注文し、テイクアウトする。出がけに母親から「美味しいアイスクリームを買うてきとって」と頼まれていたので、駅前のファミリーマートに寄り、ハーゲンダッツを4種類買っておく。

 家に帰ると、父はもうダイニングテーブル近くのソファに座っていた。「気分が悪いわけじゃないんじゃけど、気力がないよね」と、独り言のように言う。「いつもじゃったら、この髭を剃りたいと思うのにから――いや、今も剃りたいという気持ちはあるんじゃけど――剃ろうと思わんもん」と。

 その言葉を耳にした母が、「まあ、ちょっと休んだら元気になるけん」と声をかけている。その言葉は、少し前に読んだ梅原猛『地獄の思想』を思い出させた。その本を読もうと思ったのは、ただ単に「地獄めぐり」という「観光」はどのようにして生み出されたのだろうかということを考えたいと思ったからで、仏教に興味が湧いたわけではなかった。その本を、こんな形で思い出す形になるとは、夏のころには想像していなかった。

『地獄の思想』で取り上げられていたひとりは、天台宗の僧・源信だ。源信は『往生要集』を著し、浄土信仰の礎を築いた人物だ。そこで源信は、我々の住む世界は苦の世界であり、不浄の世界であり、この世界を逃れて極楽浄土を願い求めよう、と説いたのだそうだ。極楽浄土に赴くためには、阿弥陀浄土をいつも心に浮かべる必要がある。ただ、阿弥陀浄土全体を常に思い浮かべているのは難しいから、「南無阿弥陀仏」と阿弥陀仏の名を唱えることで、阿弥陀仏の白毫(眉間のあたり)を思い浮かべよ、と源信は説く。そして、人間が阿弥陀仏のところにいけるかどうか、その分かれ目であるところの臨終の作法を細かく規定しており、死にゆく人に次のような言葉を語れと説いたのだという。

「あなたが永いあいだ、浄土の行をしてきたのも、まったく極楽往生のためなのです。今がそのときです。あなたの心をじっと西のほうに向けなさい。すべての世間のことを忘れ、ひたすら心を澄して阿弥陀仏とその白毫相のことを思い続けなさい。そしてその光が無限に輝かしく、どんな罪人もかならず極楽浄土に救いとってくださることを信じなさい。あなたは長い浄土の修業をしてきたのです。極楽往生は確実です。南無阿弥陀仏をとなえなさい。今が大切です。今こそ極楽浄土に行けるかどうかの分かれめです。どうか静かに極楽浄土を念じてください。」

 この文章は原文ではなく、梅原訳だろう。死にゆく人に向かって、「お前の行く国はすばらしい国だ」と語りかける。「源信が美しい浄土を語れば語るほど、その言葉はかえって悲しみとなって返ってくるかのようである」と、梅原は書く。その情念には「悲しさと同時に甘さ」があり、「この悲しさと甘さが、私には日本的センチメンタリズムの原型であるかに思われる」と。

 その「悲しさと甘さ」を、母の言葉に感じ取る。ちょっと休んだところで、元気になるはずがないということは、母にだってわかっている。それでも、あと1ヶ月生きられるかどうかという夫に対して、「ちょっと休んだら元気になるけん」という優しい嘘をつくところに、「悲しさと甘さ」がある。

 「お好み焼き屋は、7人か8人ぐらい人がおった?」と、父が僕に尋ねる。そのお好み焼き屋には、日曜日はお昼からお酒を飲んで過ごす人たちが数人いるらしい。僕にとって馴染みのあるお好み焼きといえば、この「K」というお店のお好み焼きだ。ただ、お店で食べた記憶となると、数回くらいしかない(そのうち1回は、店内のテレビから『金正日死去』とニュース速報が流れてきたから、強く記憶に残っている)。

 「K」というお好み焼き屋は、うちから少し離れている。現在うちの実家があるのは、駅の西側だ。そこは母方の実家で、僕が中学生の頃に、母屋にくっつけるように家を建てて、それからはずっとそこに暮らしていた。その家を建てるまでは、駅の東側に家を借りて暮らしていた。「K」というお好み焼き屋は、駅からその借家のあいだにあるのではなく、さらに東に進んだ先にある。毎日の動線の中にはないお好み焼き屋に、どうして行くようになったのだろう。

「昔はね、中学校の向こう――歯医者があるとこらへんにお好み焼き屋があって、そこに食べに行きよったんよ」と父が言う。「ほいじゃけど、あんたが小学生の頃じゃったか、そこが潰れたんよ。ほいで他にないかと思うたときに、あっこの店を見つけて、美味しいけん通うようになったんよ。日曜日なんかには、ときどき持ち帰りを頼んで、買うて帰りよった。あと、日曜日で言うたら、『猫のショパン』でモーニングを食べに行きよったよのう」

 猫のショパンというのは、正式な店名ではなく、僕ら家族が勝手につけていた名前だ。どうしてそんな名前で呼ぶようになったのか、今となってはおぼえていない(「この曲はショパンだ」とわかるような家族でもないから、あらためて考えると不思議な呼び名だ)。そこには漫画のDr.スランプがあって、それを読むのが楽しみだった。そこには新聞が何紙か置いてあったから、父としてはそれを読みに通っていたのだろう。バターがたっぷりのったトーストと、サラダと、茹で玉子と、それにヤクルトがついていた。あの小さな喫茶店は、わりと思い出のある店だったが、僕が地元を離れたあとに閉店してしまった。今思えば、田舎町に朝7時から空いている少し洒落た感じの(木材を基調とした内装で、照明も控えめで、昔ながらといった佇まいの)喫茶店があったことのほうが、不思議に思える。

 僕が生まれ育った町はもともと農村だった。ただ、広島市が都市として成長するにつれ、郊外も発展するなかで、この町もぎりぎり広島までの通勤圏として、新興団地の建設が進められたのだろう(「団地」といっても、うちのあたりだと集合住宅ではなく、住宅が密集するエリアを「団地」と呼ぶ)。そうした新興団地があるのは、駅の東側のエリアだった(そのあたりは戦時中は陸軍が所有する土地だったと、最近になって知った)。山が切り開かれて、団地が造成されたことで、そこにスーパーマーケットができ、公園ができ、喫茶店ができたのだろう。「猫のショパン」があるあたりは、ちょっとした商店街のようになっていた。そこには小僧寿しもあって、日曜日の午前中はしばらく公園で遊んで、小僧寿しでお昼を買って帰ることも多かった。ドラえもんやドラミちゃんが容器になったパックも好きだったけど、よく食べた記憶があるのは、1段目がざるそばになっていて、2段目に握り寿司がのったパックだ。

「今思うたら、昔はわりかし栄えとったんよ」と、父が言う。父は広島にもほど近い町に生まれ育っていて、そちらのほうがずっと栄えていたはずだから、そんなふうに言うのは少し意外に感じられた。「あの頃は、町内だけで本屋が何軒もあったもん。ほいじゃけど、今はみじめなもんよ。本屋いうたら、フタバ図書のつまらんのがあるだけ」

 思い返してみると、小僧寿しの近くにも書店があった。そこはわりかし充実した書店で、児童書や学習参考書、雑誌などがたくさん並んでいた。たしか配達もしてくれていたような記憶がある。それ以外にも、フタバ図書もあったし(昔は本もたくさん取り揃えていた)、宮脇書店もあったし、漫画とアダルトを扱う新古書店もあった。それにしても、父にとって本屋がたくさんあることが「町が栄えている」という基準になるのかと、少し意外に感じられた。

 父の前には、お好み焼きが置かれたままになっていた。親指くらいの量だけ取り分けられたお好み焼きは、手がつけられないまま冷えていった。テレビではNHKのお昼のニュースが流れていて、錦帯橋が400周年だと報じられていた。あの橋を渡った先に、武家屋敷があるんよ。父は独り言のようにつぶやいたあと、「ちょっと、お好み焼きは今食べられん」と母に言った。

 テレビ画面が切り替わり、のど自慢が始まった。今日は愛媛県の四国中央市が舞台だ。父が「アイスクリームだけ食べる」と言うので、母はお好み焼きを食べる手をとめて、台所に行き、ハーゲンダッツのバニラ味を取り出してくる。まだかたいけんね、ちょっと置いとくよ。そう言って、またお好み焼きを食べ始めた。

 のど自慢のトップバッターが歌っていたのはB’zの「ウルトラソウル」だった。鐘がひとつだかふたつだか鳴ると、「続いては、亡き父にふたりで歌った思い出の歌です」とアナウンサーに紹介され、姉妹が登場する。歌っていたのは「恋のフーガ」だ。単なる流行歌として歌っていたのだろうけれど、娘がこの曲を父に歌っていたのかと思うと少し不思議に思えた。その姉妹の父は、糖尿病の合併症で目が見えなくなり、そんな父を励まそうと歌をうたって聴かせていたのだという。音楽だけが楽しみで、ふたりの歌唱を聴きながら体を動かしていたのだそうだ。そんな話を聞くのは、どこか気が詰まるようなところもあったけれど、父は気にする様子も(当然と言えば当然だが)なく、「アイスクリーム、まだ食べれんかね」と母に声をかけていた。アイスクリームも、ハーゲンダッツを全部食べるわけではなく、3口だけ頬張っていた。

 午後はひとりで車に乗り込んで、県北に向かった。車を走らせながら、父は思ったより長くないかもしれないなと考える。あれは誰だったか、亡くなる直前、もう食事が喉を通らなくなっていた父親が、コンビニのソフトクリームを食べたいと言っておいしそうに食べていたという話をしていた。あれは誰だったっけと、運転しながらしばらく考えて、そうだ、オードリーの若林だ、と思い出す。

 1時間半ほどで、東城町にたどり着く。今日の目的地は「ウィー東城店」だ。夏葉社の『本屋で待つ』を読んでから、いつか行ってみたいと思いながらも、なかなか足を運べずにいた。それはやはり、物理的に遠いからだ。ここに島田さんは足を運んで、他のどのような形でもなく、聞き書きとして一冊の本にまとめるということに思い至ったのだなと、そんなことを考えながら郷土書を買い求める。せっかく東城まできたのだからと、竹屋饅頭を買って引き返す。

 車を走らせているうちに、15時過ぎになる。スマートフォンでグリーンチャンネルにアクセスし、パドック解説を聴きながら車を走らせる。一番人気のイクイノックスは前走よりマイナス2キロ、パドックの様子からも死角はなさそうだ。単勝1.3倍、圧倒的な支持率だ。これを買っても儲けは少ないので、土をつけうる馬はないかと、昨晩ずっと予想を立てていた。去年の天皇賞・秋も、イクイノックスが完勝した。ただし、あのときはパンサラッサがかなりのハイペースで逃げて、展開をかきまわす形になった。今年は大逃げを打ちそうな馬が少なく、人気を集めている馬は後方から差す馬ばかり。こうなると、先行馬が有利なのではと予想を立てていたが、おそらく逃げるであろうジャックドールについて、解説者が「過去一番の出来」と評している。

 発走時刻が近づいてきたあたりで、コンビニを見かけたので車を止めて、アイスコーヒーを注文する。ひとくち飲んでから、ジャックドールを頭にして3連単を購入し、駐車場でレースを見守る。ジャックドールはハナを主張して逃げる形になったものの、予想を覆してというのか、イクイノックスは3番手からのレースとなった。そのプレッシャーが、ゆったりとした展開に持ち込むことを許さなかったのか、1000メートルは57秒7というハイペースでレースは進んでゆく。息を入れることのできなかったジャックドールは、直線に向くと足があがり、ずるずる後退していく。3番手にいたイクイノックスも、前半から飛ばして消耗しているはずなのに、楽な手応えで先頭に立つと、一頭だけ別次元の走りで快勝した。ちょっとこれは、強過ぎるわ。駐車場で惚れ惚れしながらため息をついていると、1分55秒2というレコードタイムが表示され、たまげる。ちょっと信じられないようなタイムだ。

 16時半には帰宅して、母親に竹屋饅頭を渡したあと、しばらく原稿を書いていた。18時近くになって母親から呼ばれて、1階におりる。今晩はすき焼きのようだ。とりあえず冷蔵庫からビールを取り出していると、「父さんは今食べとうないって言うけん、ふたりで食べよう」と母が言う。昼にアイスクリームを3口と、僕が買ってきた竹屋饅頭は食べたそうだが、それでお腹がいっぱいになってしまったらしかった。これはやはり、1ヶ月どころではないのかもしれないなと思う。

 母とふたりですき焼きをつつくのは、どこか気詰まりだった。気詰まり、というのは、正確ではないかもしれない。帰省したときでも、僕は親と会話をするわけでもなく、黙ったまま食事をとることは珍しくなかった。父がもう長くないということにも、「その時がきたのか」と思っているくらいで、ショックを受けているというのでもない。だから、そういう意味で気が詰まっているわけではないのだけれども、父親がいるのに母とふたりで食事をするということは、父の病状を際立たせてしまっているように感じられるのだった。

 ふと、テレビの前にある花瓶に目が留まる。その花瓶は、ずっと前からうちに置かれていたものだ。特に気に留めたことはなかったが、沖縄のやちむんで、なかなか立派な花瓶だ。あれは一体、いつ買ったものなのだろう。

  「あれはねえ、いつじゃったか、沖縄でもろうたんよ」と父が言う。「1985年ごろじゃったか――沖縄の東風平中学に取材に行ったとき、そこの先生がくれたんよ。あのとき、ビールをよけえ飲ましてもろうたよの。なかなか変わった先生じゃったけど、よお生徒を全国大会にまで出場させよった。その先生が言いよったのはね、『なんのために部活動を頑張らせるかって、この子らは卒業して結婚したら、内地へ行くことは滅多にないんです。でも、部活動で頑張れば、全国大会で内地に行ける。だから部活を頑張らすんです』って。あんたを連れて沖縄に行ったときも、同じ東風平中学の先生が万座ビーチホテルまで連れていってくれたんよ」

 小さい頃に東風平中学に連れて行かれたことはおぼえているし(それで「こちんだ」という地名をおぼえた)、万座ビーチホテルに宿泊したこともおぼえている。ただ、先生に万座ビーチホテルまで連れていってもらったことは、記憶から抜け落ちていた。Googleマップで検索すると、有料道路なしだと90分近くかかる道のりだ。わざわざそんな遠くまで乗せていってくれたのは、なぜだったのだろう。 

「そういやあね、お兄ちゃんが今年、こどもを連れて万座ビーチホテルに泊まったらしいんよ」と母が言った。兄はどういう気持ちで、自分が小さい頃に泊まったホテルに、こどもを連れて出かけたのだろう。僕の父は、どういうつもりで(自分で車は運転できないのに)万座ビーチホテルだなんて遠いホテルを予約したのだろう。

10月28日

 5時45分に日暮里駅を出発したスカイライナー1号は、思いのほか混み合っていた。コロナ禍が始まったばかりの頃に、ほとんど乗客がいなかった時代はもう、遠い昔のことのように思える。始発だというのにたくさんの乗客がいて、通路側の席まで埋まっている。連休というわけでもないのに、成田空港も結構な混雑で、保安検査場には長い列ができていた。その入り口にはゲートがある。読み取り機にチケットのコードをかざすと、ゲートが開く仕組みになっているのだが、チケットを持っていない人が侵入するのを防ぐためなのか、前の人が通過してすぐにゲートに進んでしまうと、機械が反応しなくなる。ゲートの近くに係員がいて、何度も「前の方が通過したあと、ゲートが青くなってからお進みください」と繰り返し注意しているのだが、ほとんど誰もその声を聴いておらず、ゲートは何度も詰まってしまっていた。「私、さっきから何度も言ってます! 青く光ってから進んでください!」と、係員の声がフロアに響き渡っていたが、あの声はどれだけ伝わっていたのだろう。

 春秋航空621便は、定刻より早く広島空港に到着した。「車だったら、道が空いてたから早く着くとかあるけどさ、飛行機が早く着くってどういうこと?」「めっちゃ空が空いてたんじゃない?」「それか、めっちゃ急いで飛んだんじゃない?」後ろの列に座る3人組の乗客が、笑いながら言葉を交わしている。

 空港と在来線の駅を結ぶリムジンバスが発車するまでしばらく時間があるので、カフェにでも入るかと空港をぶらつく。前に広島空港から飛行機に乗ったときには、3階にあるロイヤルホストを利用した。税込968円のモーニングプレートを注文すると、トースト2枚とスクランブルエッグ、ソーセージにハッシュドポテトがついてきた。そのプレートに並ぶ料理は、どれもぺらぺらしたものに感じられて、これで1000円近くかかるのか、と考えてしまった。たぶんきっと、昔からロイヤルホストのモーニングはこんな感じだったのだと思う。それがぺらぺらしたものに感じられるのはどういうことだろう。上等な朝食に慣れてしまった、ということではないのは確かだ。だとしたら、ファミレスという場所に感じていた特別さが消えてしまったのだろうか。

 今日はロイヤルホストではなく、出発ロビーにあるカフェバーに入り、550円のコーヒーを注文した。コーヒーが1杯550円か。空港のカフェバーなのだから、それぐらいの値段がして当然なのだろう。前はあんまり、「550円か」なんて思わなかったなと気づいて、不思議な感じがする。高校生の頃に、あれはどういうきっかけだったのか、父と東京に出かけたことがあった。父の用事があって、それに同行したのだったと思う。当時プロレスが好きだったこともあり、闘魂ショップに立ち寄った。その前だったか後だったかに喫茶店に入り、メニューを開くと、コーラフロートが750円と書かれてあって、その値段にびっくりしたおぼえがある。あの頃は高校生だったし、東京の物価にも慣れていなかった。あれから20年以上経った今、どういうわけかまた、コーヒーの値段に「550円か」と立ち止まっている。

 こんなに早い時間帯の飛行機で里帰りしたのは、特に理由があるわけではなかった。LCCの春秋航空が運航する成田―広島航路は1日に2便あって、早朝便のほうが安く済むからと、この便を選んだだけだった。こんなに早い時間に実家に帰っても時間を持て余してしまうから、550円のコーヒーでしばらく粘り、パソコンを広げて仕事をしていた。

 実家の最寄駅に到着したのは、11時過ぎだった。いつもなら駅まで母親に迎えにきてもらうところだけど、今回は歩いて帰ることにした。「今日帰る」とは伝えてあったけれど、午前中に帰るとは伝えていなかったから、お昼ごはんの用意はないだろう。ただ、この時間帯だと「なんかありあわせで作ろうか?」という話になってしまいそうで、なんだかそれも億劫に感じられたので、近所のラーメン屋でお昼を済ませることにした。そのラーメン屋は、僕が小さい頃からずっとある。店の裏が通学路になっていて、同級生と一緒に下校しながら、店から漂ってくるスープの匂いやチャーシューの香りをかぐのが好きだった。そのお店を切り盛りしているおばちゃんは祖母の知り合いかなにかで、ラーメンを食べに行くと「あら、ともくん!」と出迎えてくれた。今はもうそのおばちゃんは店に立っていなくて、誰でもない客のひとりとして、黙ってラーメンを平らげている。

 久しぶりにあのラーメンを食べよう。そう思って国道沿いを歩いていると、向こうから水色の車が走ってくるのが見えた。うちの車とおんなじようなタイプだなと思っていると、母が運転席に乗っているのが見えた。きっと買い物にでも出かけるところなのだろう。この国道沿いは、あんまり人が歩いているような道路でもないから、こっちの姿に気づくかもしれない。少しだけ笑顔をつくって、運転席に視線を送っていたのだけれども、母親はこちらに気づくともなく走り去っていった。その表情に、どこかひっかかるものがあった。僕が知っている母の表情より、どこか暗く感じられた。ただ、僕が接してきたのは、家族の時間を過ごしているときの母だ。その表情と、ひとりで車を運転するときの表情は別物だろう。ひとりで運転しているときに笑みを浮かべている人なんていないだろうし、あまり深く考えないことにして、ラーメンと餃子のセットを平らげて、実家に帰った。

 玄関には鍵がかかっていた。そこにも違和感をおぼえた。さっきすれ違った車には、母親の姿しか見えなかった。だとしたら、父親は家に残っているはずだ。それなのに、鍵がかかっているのはどういうことだろう。玄関前に立ち尽くしていると、通りかかった人がこちらにやってくる。どうやら町内会の人らしく、町内で消防訓練があって、それぞれの班から2名ずつ参加しなければならないので、それを伝えておいてもらえるように、とのこと。このまま玄関に立ち尽くし続けていると、またなにか伝言を預かることになるかもしれない。それも億劫だし、こうして立ち尽くしているのは不審者に見えるかもしれない。どこか空いている扉はないかと探してみると、母屋の縁側があいていたので、そこから家に入ることができた。

 家に入ってみると、やはり父の姿も見当たらなかった。戸締りもせずに出かけたのは、それだけ慌ただしかったからなのだろうか。母屋から自宅のほうへ移動してみると、夏に帰省した時とは少し様子が変わっていた。居間に置かれたコタツの横に、衝立のようなものが置かれてある。洗面台には椅子が置かれ、玄関には杖もあった。

 あれは去年のいつだったか、父の具合が芳しくない、という連絡があった。父は何年も前に胃癌の手術をおこなっていて、そちらの経過は順調だったのだが、あるとき病院で検査をしてもらったところ、足の付け根に腫瘍がある、と言われたそうだ。その腫瘍を治療するには、足を切断するしかない――大学病院の医師にそう言われたものの、父は「足は切らん」と言って帰ってきたのだ、と。

 去年の12月、祖母の一周忌で久しぶりに父と顔を合わせたのだが、座っているのがつらいのか、お坊さんがお経をあげているあいだ、父は何度も姿勢を変えて、どんどん態勢が崩れていった。その姿を目にしたときに、坪内さんが言っていた「戦後80年はないかもしれない」という言葉が頭に浮かんできた。戦後70年の年に、『en-taxi』に掲載されたインタビューの中で、坪内さんはそう語っていた。人間の社会的な記憶が5、6歳から始まるとして、終戦のときに6歳だった子が、戦後70年のときには76歳を迎えていた。戦後80年を迎える頃には86歳となり、平均寿命を迎えることになる。そうすると、戦争の記憶を持っている世代がほとんどいなくなってしまって、「戦後××年」というくくりがもはや意味をうしなってしまうのではないか――と。僕の父は昭和20年、ちょうど終戦の年に生まれている。

 この一年は観光をテーマにした取材で広島に帰る機会も多かったのだが、帰省するたび、父の衰えを感じるようになっていた。足を少し引きずって歩くようになっていたし、座っているのが辛いからと、車の助手席には厚手のクッションが敷かれるようになっていた(父は免許を持っていないので、もっぱら助手席に乗る)。ただ、玄関に置かれた杖や、洗面台に置かれた椅子を目にすると、いよいよ生活に支障をきたし始めているいるのだろうかと考えてしまう。

 ひとりで考えていても仕方がないので、母に電話をかけてみると、父を連れて町内のクリニックにきているとのことだった。ここ数日は食欲がガタッと落ちていて、心配になって祖母を診てもらっていたクリニックに出かけたところ、「とりあえず点滴を打ちましょう」という話になったのだそうだ。父も車に乗っていたものの、シートをばったり倒して乗っていたから、姿が見えなかったのだろう。電話をかけて2時間ほど経って、父と母は帰ってきた。父は母に支えられながら帰ってくると、母屋の縁側に行き、リクライニングチェアに座って眠り始めた。

 父を寝かしつけると、母は一枚の紙を取り出した。点滴を受けるに先立って、血液検査を受けたらしく、検査結果が書かれていた。何の数値だったか、今となっては記憶にないが、いくつかの項目に異常が診られるらしかった(そのひとつがヘモグロビンだったことはおぼえている)。うちでは詳しい検査はできないけれど、すぐにでも大きな病院で診察を受ける必要があるだと、そのクリニックの医師は母に言ったそうだ。少なくとも輸血を受ける必要がある数値である、と。

 その医師は、診察室を出ようとした母を呼び止めて腕を掴み、ちゃんとした検査を受けんとはっきりしたことは言えんけど、あと1ヶ月くらいじゃと思うといたほうがええかもしれんど、と母に言ったそうだ。そのクリニックは、最後の数年は寝たきりになった祖母を診てもらっていたクリニックだ。つまり、母が長い介護生活を終えたばかりだということを知っている。そこへきて、夫まで先が長くないということを伝えるときに、そんな言い方になったのだろう。

 その話を聞いても、僕の胸に去来するものは特になかった。ただ、母が僕の腕を掴んだ感触だけが強く残った。

 母は、病院で受けた説明を僕に伝えるとき、自分がそうされたことを再現するようにして、僕の腕をぐっと掴んだ。母に触れられる記憶というのは、小さい頃にまで遡る。だからだろうか、母が僕の腕を掴んだ衝撃が、母が受けた衝撃のあらわれであるかのように感じられた。

 午後は部屋で原稿を書いていた。17時半頃になって「ごはんできたよ」と呼ばれ、1階に降りてみると、父は苦しそうにソファに腰掛けていて、「あんまり食べれんで」と母に伝えているところだった。「ええんよ、ちょっと食べりゃあええんじゃけ。ほんとひとくちでええんよ」と言いながら、母は食卓に料理を並べていた。

「こんな無様な格好になっとるわ」。父はこちらに向き直すと、そんな言葉を口にした。返す言葉が思い浮かばず、僕は黙ってビールをあけて、グラスに注いだ。父の姿に言葉を失ったというわけでもなく、特に浮かんでくる言葉がなかったので、黙ってビールを飲んだ。最近はもう、ずっと母さんの世話になっとる、と父は続けた。

「今朝、母さんとも話したんじゃけど――D家の長男――父さんの一番上の兄貴のところは、父さんら兄弟とはあんまり付き合いがなかった」。そんなふうに、父は独り言のように話し始めた。父は5人兄弟の末っ子で、母と結婚するときに婿養子に入っている。「D」というのは父の旧姓で、その本家というのか、父が生まれ育ったところは電車で数駅離れたところにある。「うちは兄弟の付き合いがほとんどなかったけん、Dの家に行くときも、兄貴がおらんときを狙って行きよった。それでのう、D家の墓はUのA寺にあるんじゃけど、兄貴は結婚してすぐ、別のところに自分の墓を買うとったよ。40万じゃったか、いくらじゃったか――今となっては忘れたけどのう。ともにはのう、もしもこの先も橋本のままじゃったら、あっこのうちの墓に入ってほしいと思うとる。これは昔から言おう、言おうと思いよったんじゃけど、なかなか言えんじゃった」

 まさか「余命一ヶ月」と言っている医師がいるとは想像していないだろうけれど、体力の衰えを感じて、父は父なりに最期の時について考えているらしかった。そんなときに出てくるのがそんな話なのかと、思わずにはいられなかった。僕は「親になる」という選択をしなかった人間なので、墓という場所に対しては、何の想像も持ち得ていない。墓に入ったとしても、その墓の面倒を見る人は誰もいなくなる。いやそういう実務的な問題を差し引いて考えても、墓に入るということに対して何のイメージも持ち得ず、そこらへんに撒いて欲しいとしか思えずにいる。それは別に、散骨に対してロマンチックなイメージを抱いているという話でもなく、自分の骨が埋められている場所に(もっと言えば自分の骨に)何らかの意味があるとは思えず、それよりは自分がよく足を運んだ場所に何かが宿るのではないかと思っている、ということだ。ただ、「家」というものが今よりずっと強い意味を持っていた時代を生きてきて、「養子に入る」という人生を選んだ父からすれば、それはきっと、大きな問題だったのだろう。

 父は「ようやく言えた」といった様子で、どこかほっとした表情を浮かべている。僕は墓に入るということすら想像していないことを考えると、安堵した父の姿も含めて、すべては徒労であるかのように思えてくる。

「今頃はのう、縁側で庭を見ながら、じーっとしとる。あの庭は、きれいなけんね。あそこへ座って、3時間ぐらい――近頃は椅子に座っとるのがしんどいけん、1時間半ぐらいしかおられんけどのう。それで――前にも話したことがあるかもしれんけど、父さんの一番上の姉は広島市立女子――今の舟入高校に通いよって、学徒動員で被曝して死んだんよ。親父はそのとき、広島二中に勤めよった。そこの生徒らは廿日市のほうに学徒動員されとって、それを引率しておったけん、助かった。アーちゃん(僕の祖母)の弟は、広島工業学校に通いよって、学徒動員されて死んじゃった。そんとな話は、よおある話なんよ。じゃけん、縁側に座っとると、幸せじゃのうと思うんよ。足が痛いときもあるけど、幸せじゃのうと思う。あんたは沖縄に行く機会が多いじゃろうけん、戦闘機を見ることも多いと思うけど、うちの縁側に座っとったら、だんだん空が青うなってきて――そこには何も通らん。戦闘機が通らんのが、平和じゃと思う」

 僕は黙ったまま、ビールを飲んでいた。父が青い空を見上げているときに、戦闘機が飛び交っている空のことを考えてしまう。「今のイスラエルでもなんでも、人民を大切にするというのは、実際にするのは難しいよの」と、父はひとりで話を続けた。新聞を読んでも、立派なことを主張する人は多いけど、実際には相手の意見を蹴散らすだけで、人民を大切にするということをやるんは難しいことよと。人民、という言葉が出てくるのが、どこか意外に感じられた。ただ、僕の頭の中には、国際情勢のことよりも、縁側という言葉が呼び起こす記憶が膨らんでいた。

 今の実家は、中学2年生のころに、祖母が暮らす母屋にくっつけるようにして新築したものだ。それまでは同じ町内でも、少し違うエリアにある借家に暮らしていた。その家にも縁側があり、小さな庭があった。僕が小学生だったころ、父が鳥籠を買ってきたことがあった。父はその鳥籠の中にみかんを置いて、扉に糸を引っ掛けておいて、縁側でじっと息を潜めていた。その鳥籠にメジロが入った瞬間に、糸から手を離し、メジロを捕まえていた(メジロを捕まえるのは違法だと、当時からなんとなく知っていたけれど、今となっては時効だろう)。そんな記憶を掘り出して話すと、父はむせ返しながら笑っていた。

 「中学校時代の同級生で、よおメジロを捕まえよるやつがおったんよ」と、父は言った。「造り酒屋の息子で、金持ちでね、悪いやつじゃったんよ。そいつがいっつも、鳥をとりに行きよって、メジロもウグイスも、いっぱい持っとった。そいつがのう、いっつも話しよったんよ。すり餌を作るのが難しいんじゃ、って。でも、そいつらがやりよるのを見よったけ、捕まえるのはすぐにできたんよ」

 父が鳥を捕まえていたのは、僕が小学生の頃だ。仮に10歳だったとすると、当時父は47歳。その年齢になって、中学校時代の同級生を思い返すことがあるのかと、少し不思議に思う(こどもの相手をしていると、自分の少年時代の記憶がよみがえってくるのかもしれないけれど、それは僕にはわからないことだ)。父は私立高校の教員をしていた。電車で通勤していたにもかかわらず、小学生の僕が学校から帰ってくると、もう家にいる、という日も珍しくなかった。その家には自分の部屋というのはなく、台所と繋がっている部屋に兄と僕の机を並べていた。僕の机のすぐ隣に勝手口があって、そこにはいつも瓶ビールが2箱積み上がっていて、町内の酒屋さんが定期的に配達にきてくれていた。

「あの頃は、ひどかった」と父がつぶやく。父はいつも早い時間からビールを飲んで、21時頃には眠りについていた(その時間には「テレビ消せ!」と言われていたから、小さい頃にドラマやバラエティを見た記憶がない)。ただ、ビール以外の酒を飲むことはなく、ビールもせいぜい日に2、3本だったはずだから、「ひどかった」という印象は僕にはなかった。それを今になって「あの頃は、ひどかった」と振り返るのが意外でもあった。

 父と話しているあいだに、母は母屋から家具調トイレを運んできた。それも祖母の介護で使っていたものなのだろう。そんなものを運んでこられることに、父はちょっと怪訝な顔をしたものの、「もしも夜中にトイレに行こうと思うて、転んでしもうたら、どうにもできんけん」と母が言うと、特に文句は言わなかった。

 この家に引っ越してきた頃は、父と母は2階の和室に布団を並べて寝ていた。祖母の介護が始まってからは、母は母屋で寝るようになっていたと思う。祖母が亡くなってしばらくすると、今度は父の具合が悪くなって、布団で寝起きするのはしんどいからと、祖母が使っていた介護用ベッドを運んできて、父は1階の和室で寝起きするようになった。21時には眠りにつく父と違って、母は遅くまでテレビを見ている(そのまま寝落ちすることもある)ので、母屋で寝起きしている。

 「刺身、美味しかった?」と母が声をかける。

 「美味しいけど、えっと食べんかった」と父。えっと、というのは、たくさんという意味だ。

 「かぼちゃもやわらかかったじゃろ?」

 「いや、あんまりおいしゅうなかった。母さんがともに作るわりには、おいしゅうなかった」

 小さな茶碗に3分の1くらいだけ盛られたごはんを食べ終えると、「もう寝るけん」と父は言った。歯磨きする? もう寝る? おしっこはええんじゃね?――と、ひとしきり確認すると、母は父を立たせ、肩を貸すようにして父をベッドまで連れて行く。「ほいじゃあね、ともくん。無様な格好で」と言いながら、父は和室に消えていった。父を寝かせると、母は「ちょっと、向こうで食べようや」と言って、食卓に残っていた皿をお盆にのせて運んで行った。

「最近はねえ、今みたいに長い時間元気にしゃべること、あんまりないんよ」。母屋の扉を閉めると、母はそう言った。僕は日本酒の白牡丹を飲んでいた。「ちょっと、ひとくちちょうだいや」と母が言うので、母のコップにも酒を注いだ。

「母さんの味としては美味しくない、ってねえ」と、母は笑った。「だって、父さんの様子を見て、10分おきに台所と行ったり来たりしよったら、そりゃ美味しいものは作れんわいね。それがわかっとらんのじゃなと思うたけど、まあ、言わんかった。しょうがないよね。いつかはそういう日がくるんじゃけ。父さんにはもう、今の状態のことを言うつもりはないんよ。あの人はもう、おそれじゃけん。まあでも、アーちゃんの法事までは頑張って欲しいなと思うとる。父さんもねえ、アーちゃんの三回忌をちゃんとやらにゃいけんっていうことを、ずっと気にしよったけん。……今日、日本シリーズやりよるんかいね。ちょっと観てみようか」

 そう言って母はテレビをつけたが、時刻はまだ18時になったばかりで、野球中継は始まっていなかった。今日から日本シリーズが始まるようだ。母はミュージックフェアーにチャンネルを合わせて、特にテレビを観るでもなく、かぼちゃの煮物をツマんでお酒を飲んでいた。僕は日本シリーズが始まる前に食事を切り上げて、部屋に戻った。自分の部屋にはテレビがないので、隣の兄の部屋に入って、テレビをつける。日本シリーズにはあまり関心を持てなくて、チャンネルをまわしていると、『ジョブチューン』が放送されていた。今日はスシローの寿司を「超一流寿司職人」たちが査定していた。

 ひとりで白牡丹を飲みながら、母の言葉を思い返す。母はもう、どこか覚悟を決めている様子だった。祖母の三回忌の法要があるのは12月9日だから、1ヶ月半先だ。それまで父の体調は持つのだろうか。Googleカレンダーを開いて確認すると、今から1ヶ月後というと、僕はちょうどイタリアから帰国する日だ。もしも僕がイタリア滞在中に体調を崩したら、どうやって連絡をとればいいのだろうかと考える。と同時に、もしも連絡があったとしても、予定を早く切り上げて帰国するつもりは自分の中にはないのだなということにも気づかされる。親の死に目に会いたいという人であればきっと、イタリア行きを中止するのだろう。その人たちにとって、死に目に会うということは、何を意味しているのだろう。

 『ジョブチューン』ではスシローの回転寿司が合格をとり続けている。気仙沼産かつおたたき、グリルチキンチーズ炙り、店内殻むき赤えび、フカの天ぷらガーリックソース、新・コク旨まぐろ醤油ラーメン。あれは何のときだったか、「こちらはできるだけ油を落とさせていただいている商品になります」とスシローの従業員が口にしたのが印象に残った。この番組は、企業の社風というかカラーがはっきり見えるのが面白い。スシローの商品は、結局すべて「合格」になった。スタジオのタレントたちが試食するたびに「うめえー!」と言っていることに、白々しさをおぼえる。スシローで寿司なんか食べないくせに。酒を煽りながら、そんなことを考えていた。

10月8日

 6時過ぎに目を覚ますと、吸い込む息がずいぶん冷たく感じられた。その冷たさを懐かしく感じながらも、布団から出る気が起きず、1時間近くぐずぐずしてしまう。おい、そんなにぐずぐずしていたら第1レースのパドックを見逃してしまうぞと自分を奮い立たせて、シャワーを浴びて、8時過ぎに家を出た。

 地下鉄で神保町に出て、そこから都営新宿線に乗り換える。日曜朝の地下鉄には乗客の姿は少なく、ゆったり座って過ごせる。終点の笹塚で電車を降り、京王線がやってくるのをホームで待っていると、紀伊國屋書店の入っているビルが目に留まった。まだ大学生だった頃に、笹塚でアルバイトしている友人と一緒にこのあたりを散策した日のことを思い出され、妙にセンチメンタルな心地になっていると、乗客がぎっしり乗った特急電車がやってきて、急に現実に引き戻されたような心地になりつつ、少しでも空いている車両を探して電車に乗り込んだ。

 調布を過ぎると、次は東府中臨時、東府中臨時です、とアナウンスが流れる。京王の特急は、普段は東府中にはとまらず、競馬開催日だけ停車するらしかった。私鉄沿線に暮らしたことがないせいか、この特急、準急、快速などの仕組みがいつまで経っても把握できない。京王線で言うと、京王線と京王新線の違いもよくわかっていなくて、利用するたびまごまごする。

 東府中で競馬場線に乗り換えると、府中競馬正門前駅に辿り着く。東京の東側に住んでいるせいか、中山競馬場に比べると、ずいぶん遠くまで移動してきたという感じがする。改札を出て、正門へと続く陸橋を進んでいくと、左手に広々とした駐車場が見えてくる。すでにびっしり車で埋まっている。その光景を眺めていると、先週の凱旋門賞の中継を思い出す。ロンシャン競馬場の馬場の内側は、駐車場になっているのか、びっしり車が並んでいた。テレビで目にした風景を思い出しながら、陸橋から駐車場を見下ろしていると、軽トラが停まっているのが見えた。パリにも軽トラはあるんだろうか。

 陸橋を進んでいくと、右手にパドックが見えてくる。もうすでに第1レースの馬たちが周回しているのが見えた。少し歩くスピードを速めて、パドックを観にいく。陸橋の上から見たときにも感じたことだが、中山競馬場と比べて、東京競馬場は格段に広大である。パドックの周囲に収容できる人の数も、中山の3倍ぐらいあるのではないか。これまでにも東京競馬場と中山競馬場とに足を運んだことはあったけれど、あいだに何ヶ月も空白期間があったから、東京競馬場に行ったあとで中山競馬場に足を運んでも、競馬場という場所自体の広大さや開放感に気を取られて、その規模の違いというものをあまり意識できていなかった。でも、3週続けて中山に通って、そのサイズに体が馴染んでいたせいか、その広大さに圧倒されたのだった。
 その広大さは、パドックを眺めていても感じられる。中山競馬場のパドックを観ていると、10数頭だてのレースの場合は特に、馬が絶え間なくまわってくる。1枠1番の馬から順に観察し、2番、3番と次々馬がやってきて、最後の馬まで見終えたかと思うと、すぐにまた1番の馬がまわってくる。だからずっと、ぐるぐるまわってくる馬を見続けてしまう。それに比べると、東京競馬場はパドック自体も広いせいか、自分の前を通り過ぎて行った馬は、しばらくの間戻ってこないし、最後の馬が通り過ぎると、しばらく目の前にはどの馬もいない空白の時間がある。その空白の時間があることで、パドックで目にした馬の状態と、競馬新聞とを照らし合わせて、どういうふうに馬券を買おうか考えを巡らす余裕がある。ただ、中山競馬場の、目の前をずっと馬が周回し続け、考えをまとめる余裕もなく頭からぷすぷすと煙が出そうになってくる感じが、どこか懐かしく感じられる。あんまり広大で、熱気が大気に拡散されていく感じがする。

 1レースは2点だけ馬券を買って、パドックの近く、屋外にある「梅屋」で天ぷらそばを買い求め、朝ごはんにする。腹を満たしたところで、今日予約しておいたスタンド3階の指定席にあがる。まだ第1レースとあって、空席のままになっている座席も目立つが、ぼくが予約した席へと階段を降りていくと、隣の席にはもう人が座っているのが見えた。どんな人だろうかと、少し緊張する。この3階指定席は、ひとつのテーブルに対して椅子がふたつ付いているから、ひとりで予約すると、見知らぬ誰かとひとつのテーブルを共有しながら過ごすことになる。それも、第1レースから最終レースまでとなると、6時間以上は一緒に過ごすことになるのだ。席についてみると、隣に座っているのは60歳くらいの男性で、熱心に競馬新聞を読み込みながら印を書き込んでいた。なんとなく安心しながら椅子に腰を下ろし、第1レースが始まるのを待った。隣の男性は、ファンファーレがなっても次のレースの予想に集中していて、ゴール直前にちらりと顔をあげたきりだった。

 第1レースはダートコースで行われたのに対し、第2・第3レースは芝コースだった。ダートだとスタンドからちょっと遠いけど、芝コースはダートよりもスタンド側にあるから、馬が目の前を駆け抜けていく。午前中はまだまだ場内も空いているので、せっかくだから1階のスタンドに降りて観戦した。

 次の第4レースはダートだったこともあり、パドックで馬券を買ったあとで3階の指定席に移動した。すると、空席になっていた右隣のテーブルに、若い二人組がやってきた。席につくなり、ビニール袋から缶チューハイとじゃがりこを取り出して、乾杯している。ほどなくしてレースが始まり、4コーナーをまわって直線に向くと、その若者は「××!」と騎手の名前を叫び始めた。東京コースは左回りだから、馬は左のほうからやってくる。だから、右隣の若者も、左のほうに――つまりぼくのほうに向かって叫ぶ格好になる。若者が何度か甲高い声で叫ぶうちに、耳が痺れてくる。そんなに叫ぶということは、上位争いをした馬に乗っていた騎手だったんだろうかとレース後に出馬表を確かめると、その騎手が乗る馬は上位に食い込んではいなかった。少し嫌な予感がしたけれど、この第4レースは自分の馬券が当たっていたので、あまり深く考えることもなく、馬券を払い戻しに行った。

 第4レースは11時35分発走で、次の第5レースは12時25分発走である。それ以外は大体30分間隔でレースがあるので、ここでお昼ごはんを――と誰しも考える。だから飲食店にはどこも長蛇の列ができている。特にラーメン屋あたりには、第4レースが始まる前からすでに列がのび始めていた。ラーメン、焼きそば、カレー、パスタと、いろんな飲食店があるけれど、個人的に気になっていたのは長崎チャンポンの「みまつ」だ。他の飲食店に比べて、看板やメニュー表がゴテゴテしていなくて、昔ながらの佇まいという感じがする。多少並んだとしても、あそこのチャンポンにしようと店に向かうと、並びの飲食店はどこも行列ができているなか、すぐに買い求めることができた。

 スタンド内のテーブルはどこも塞がっていたので、外に出て、花壇のへりに腰掛けてチャンポンを啜る。魚介の出汁が濃厚なスープが「ミルキー」と形容されることがあるが、ここのスープはミルクスープのあじを彷彿とさせるミルキーである。実際に牛乳を使用しているかどうか、それを判別するだけの舌なんて持ち合わせていないけれど、遠い昔に友人からプレゼントされたスープのレシピブックに載っていた、白菜とベーコンのミルクスープの味が思い出された。

 食器を返却し、第5レースのパドックを観て馬券を買い、3階の指定席に戻る。この第5レースでも、右隣の若者は騎手の名前を連呼していた。あまりにやかましいので、いちど視線を向けると、少し静かになっていたが、次のレースのパドックを観ているあいだもずっと、耳鳴りが続いていた。

 ここぞというレース、大きく賭けたレースで思わず叫びたくなる気持ちは、わからないでもない。でも、わざわざ3階のスタンド席を予約しておいて、毎レース大声で叫ばれると、これは困る。遠く離れた座席で叫んでいるならともかく、すぐ隣である。そんなに毎レース叫びたいのであれば、1階でやってくれよと言いたくなる。1階のスタンドで騎手の名前を叫べば、本人に届くこともあるだろうが、3階のスタンドから届くこともないだろう。

 右隣のやかましさとは対照的に、同じテーブルを共有している男性はずっと、黙々と競馬新聞を読み込んで、レースが終わると(おそらく)パドックに出かけ、馬券を買ったあとに喫煙所に寄り、タバコの香りとともに席に戻ってくる。そしてまた、黙々と次のレースの予想に入る。馬券が当たったのか、それとも景気づけなのか、途中で1杯だけ生ビールを飲んでいた。

 やがてメインレースの時刻が近づいてくる。あれだけ広々としていたパドックも、人で埋まる。というよりも、通路が広めにとってあるせいか、あるいはパドックを見る観衆向けに階段状になっているエリアが限られているせいか、中山競馬場に比べると「立錐の余地もない」というわけでもないのに、人混みでパドックが見えなかった。1階から見るのは諦めて、2階に上がると、どうにか隙間を見つけることができたので、そこからパドックを見ることにした。

 今日のメインは、毎日王冠である。厳しいローテーションにも関わらず、春にヴィクトリアマイルと安田記念を連勝したソングラインが一番人気で、その馬体は光り輝いて見えた。競馬仲間の友人から、毎週パドック診断を求められているので、「ソングラインが圧倒的にかっこよく見えます」と送ると、「画面上でもそう思うぐらい光ってた!」と返信があった。もう一頭よく見えたのは、去年のマイルチャンピオンシップでも馬券に入れていたジャスティンカフェで、筋骨隆々とした馬体に圧倒された。開幕週の綺麗な馬場だけに、この日の芝コースは先行馬が粘るレースが目立っていたけれど、ソングラインを1着、ジャスティンカフェを2着に固定して、3連単を6点(600円)買うことに決めた。今日になって今更気づいたのだが、パドックを眺めていると、とにかく大柄な馬に惹かれてしまう。

 生ビールを買って、3階の指定席に戻り、ゆったりした気持ちで発走時刻を迎える。毎日王冠と聞くと、1998年のサイレンススズカと、その翌年のグラスワンダーが思い出される。その2頭の印象からか、それとも「王冠」という名前の響きなのか、毎日王冠と聞くとどこか気高い感じがする。その毎日王冠を現地で観戦しているというのは、不思議な感じがする。

 ゲートが開く。ポーンと飛び出したのは、3連単で3着に入れておいたウインカーネリアンだった。おお、よしよしと思うと、2着に予想したジャスティンカフェが一頭出遅れている。まあ差し馬だし、横山典弘なら最後方からでもどうにかしてくれるだろう――そう思っていると、右隣の若者たちが「出たよ、ノリ、またポツンだよ」と笑っているのが聴こえてくる。最初に競馬中継を観た記憶があるのは、1996年の天皇賞・春で、サクラローレルに乗っていたのは横山典弘だった。若者たちがどこか小馬鹿にするように話すのに少し苛立ちながらも、レースに集中する。

 4コーナーをまわって、直線に向く。まだ先頭はウインカーネリアンだ。そして、ジャスティンカフェはまだ一番後ろにいた。そこから大外に持ち出し、横山典弘が手綱を動かして追い始めると、じわりじわりと上がってくる。まだ鞭は飛んでいなかった。府中の直線は長く、もしかしたら届くんじゃないかと、ぼくの視線はジャスティンカフェにが釘付けになった。残り250メートルあたりで、ようやく横山典弘の鞭が飛んだ。その瞬間、ずっと黙々と予想を立て続けていた隣の男性が、「ノリ、来い!」と画面に向かって叫んだ。同じテーブルを共有するその男性は、眼下に広がるターフではなく、テーブルに設置されたモニターを食い入るように見つめながら、そう叫んだ。その瞬間に、どういうわけだか胸が一杯になった。

 残り200メートルを切ると、内を突いて先頭に立った馬や、その外側から並びかける馬、大外から駆け上がってくる馬、進路を探してぶんまわしてくる馬と、横いっぱいに広がった。競馬場で観戦していると、こうして馬たちがドーッと突っ込んでくる姿に圧倒されて、どこから伸びてくるのがどの馬か、判別できなくなってしまう。ただ、大外に持ち出したジャスティンカフェは、隣の男性客の叫びも届かず、鞭が入ったあたりで足が上がってしまい、7着に沈んだ。

 レースが終わると、隣の男性客は荷物をまとめて去っていった。さっきまで男性が食い入るように見つめていたモニター画面には、毎日王冠のリプレイ画面が映し出されていた。ビールを飲みながら、ぼくはひとり、その映像をじっと見つめていた。

10月1日

 町屋駅で京成電鉄に乗り換える。千住大橋、お花茶屋と進んでいき、やがて電車は川を越える。この川は何だったけと地図アプリを開くと、そこは荒川だった。ぼんやりしていたせいで、ひとつ手前の隅田川は見逃していた。青砥で成田空港行きに乗り換えると、大きなスーツケースを抱えた海外からの旅行客がちらほら乗っている。知人は空席を見つけて座ったが、車窓の景色をじっくり眺めようと、立ったまま電車に揺られる。

 京成高砂駅前に、「パーマ 着付 貸衣装」という看板が見えた。ここにはどんな時間が流れてきたのだろうかと、ぼんやり眺める。こういうときに「話を聞きに行ってみたい」と思うのは、どういう欲求なのだろう。京成八幡のあたりではお祭りをやっているらしく、一瞬神輿の姿が見えた。その光景に少し心が浮かれ、その浮かれ具合を知人と共有したくなって座席のほうに視線を向けると、知人はケータイの画面しか見ていなかった。

 東中山で電車を降りる。駅の近くにあるビニールハウス、先週通りかかったときには、「これから苗を植える直前」といった具合に土が慣らしてあるように見えたのだが、今週通りかかってもまだ何も植えられていなかった。知人と並んで歩いていると、「結局何にも予想せずにきちゃったけど、大丈夫かな!」「いや、俺もスプリンターズしか予想できてないわ!」と、大きな声が近づいてくる。このままだと、20分ぐらいこの声に悩まされることになるので、一旦立ち止まって、その二人組を先に行かせてから、また歩き出す。競馬場に行くと、後ろに立った人の声に悩まされることが多い。そんなボリュームで話さなくたって、相手に聴こえているだろう、と思ってしまう。自分の声が小さいから、そんなふうに思ってしまうのだろうか。

 競馬場の近くのファミリーマ―トに立ち寄ると、店の前でファミチキを頬張る人たちを何名か見かけた。競馬場のフードコートに個性的なフライドチキン屋さんがあるのに――と、先週初めて食べたばかりだというのに、そんなことを考える。ただ、ボリュームは競馬場のフライドチキンのほうがあるけれど、370円とそれなりの値段になってしまう。ぼくのように行楽気分で競馬場に出かけていると、せっかくだから370円のフライドチキンを食べよう、となるけれど、競馬場に通うことが日常になっている人――特に馬券を当てて稼ぐことを主目的に通っている人であれば、競馬場のフライドチキンよりファミチキを選ぶのだろう。

 競馬場には12時過ぎに到着した。今日の第5レースは新馬戦だから、それに合わせてやってきたのだ。今週は1階スタンド席(スマートシート)を予約しておいたので、まずは席に向かう。Cブロックのスマートシートは、ゴールまであと100メートルという、なかなか絶好のポジションである。パドックを見れなかったので、馬券は買わずに新馬戦を見届けたのち、今週も北フードコートに向かう。先週から気になっていた「トプカピ」という店でポークカレーを買って、別の店でビールを買って、知人と乾杯。「予想通りのあじでウマイ」と知人が言う。そのカレーは昔懐かしい味だったから、スパイシーなカレーが好みな知人が「ウマイ」というのが少し意外だった。

 第6レースのパドックを吟味し、馬券を買ってスマートシートに戻る。さっきまで空席だったひとつ前の列と、もうひとつ前の列にまたがってグループ客が座っていた。会社の同僚だろうか、にぎにぎとした感じで、「これ、ひとり一本ずつ買ってきたから!」と、缶チューハイを配っている。また別の誰かが、どこかに出かけたお土産なのだろう、個包装されたガナッシュの詰まった箱を開け、皆に配っている。いろんな土地で見かける土産物は、こんなふうに配られているのだなあと思いながら、その光景を眺める。そのグループ客は一向に席につかず、立ったまま土産物を配りあっていて、そうこうするうちに本馬場入場が始まった。早く座ってくれないと見えないんだけど、と苛立っていると、その気配を察した知人が、「いろんなことに腹立てて、忙しいねえ」としみじみした様子で言う。

 このスマートシートは、以前は自由席だった場所だ。それが最近改修され、座席と座席のあいだにドリンクホルダーが設けられたシートに――つまり席数を間引き、ゆったりした感覚で配置されたシートになり、有料の座席になった。この日であれば、600円だったか。スタンドからスマートシートエリアに入るところに係員が立っていて、QRコード画面を目視でチェックしている。さっきはそこでQRコード画面を提示し、階段を上がって自分の席に向かったのだが、その階段を上がりきった先にも出入り口はあった。ぼくが予約したのは「1階」のスマートシートだが、その出入り口は「2階」にあたる。だから、ぼくのQRコードでは出入りできない可能性もあるけれど、第6レースが終わったあとにその出入り口に向かってみると、その出入り口を通ってスマートシートエリアに入場する際にはQRコードをチェックしていたのだが、逆方向に進むぶんにはチェックをされなかった。

 しめた、と思った。というのも、そこを進んでいくと、2階からパドックを見下ろせるのだ。今日のメインレースはスプリンターズステークス、GⅠである。1階のパドックは相当混雑するだろう。でも、2階より上にあるテラスは指定席を購入した人しか入場できない。レース前にじっくりパドックを観ておきたいと思ったので、1階よりは混雑しないであろう2階からパドックが見れるなんてラッキーだ、と思ったのだった(あとになって、試しにその出入り口からスマートシートエリアに入場しようとしたところ、普通に通過できたので、「しめた」も何も、1階スマートシートを利用する客でも普通に利用できるエリアだったのだけれども)。

 2階の出入り口からパドックに移動し、じっくり馬を観察し、馬券を買ってスマートシートに戻る。知人と一緒に、その動きを繰り返す。あれは何レース目だったか、隣でパドックを見下ろす知人のほうにふと目を向けると、なぜかイヤフォンをつけていた。もしかしてラジオNIKKEIでパドック解説でも聞いているんだろうかと思ったら、そうではなく、単にイヤフォンのノイズキャンセリング機能を使っているだけだった。パドックにしろ、スタンドにしろ、競馬場で人混みに紛れているときにつらいのが、後ろの声だ。連れ同士に聴こえるくらいのボリュームで話しているのならともかく、結構なボリュームでしゃべり続ける人が一定数いる。後ろに立つ人たちの声というのは、結構耳に触る。延々と語られる情報やレースの見立てを背中で聴いていると、気が吸い取られていくような感じがして、どっと疲れてしまう。イヤフォンのノイズキャンセリングはいいアイディアだなと思ったが、ぼくが使っているAirPodsだと、あまり周囲の音を遮ってくれない。

 第9レースを見届けて、またパドックに移動する。さっきまでと比べて、人垣が多くなっている。10レースのパドックを見て、マークシートを知人に託す。どうしても11レースのパドックをじっくり見たくて、10レースをスタンドから見るのは諦めることにしたのだ。この時点で2階のテラスにいる人たちは皆、同じことを考えていたようで、10レースの出走馬がジョッキーを乗せ、馬場の方に姿を消しても、テラスから立ち去る人は見当たらなかった。

 しばらくすると、パネルを持った女性がやってきて、パドックの内側にある芝地に、「1」、「2」、「3」と書かれたパネルを並べていく。そこに着飾った人たちがやってくる。「やっぱり、皆金持ってそうな感じが出てるね」と、後ろで誰かがつぶやくのが聴こえてきて、ああ、馬主やその関係者か、と気づく。やがてスプリンターズSの出走馬が出てくる。一番人気のナムラクレアは、順調そのものという感じがする。それから、ピクシーナイトも格好良く見える。普段のレースと違って、ジョッキーも早めにパドックに姿を現し、馬主や関係者と談笑している。「川田も営業スマイルしてる」と、また別の方向から声が聴こえてきて、「8」のパネルが置かれたところに目を向ける。川田を笑顔を見せている。「今、川田何考えてんだろ」と、声が聴こえる。「いや、普通に、『早く馬に乗りてー』って思ってんじゃない?」と、聞かれたほうが答える。ほどなくして合図がかかり、ジョッキーが馬にまたがる。

 川田が騎乗するのはママコチャという馬で、重賞は未勝利ながら人気を集めていた。でも、パドックを眺めていても、どうしてそんなに人気が集まるのだろうかと不思議な感じがした(これはもちろん、ぼくが馬を見る目なんて持ち合わせていないせいもあるのだが)。川田が騎乗する、ということも人気を加速させているのだろうか。去年のリーディングジョッキーで、インタビューを読んでも理知的で、非の打ちどころがない、という感じがする。でも、あまりにも完璧に思えて、川田が乗る馬券を買うのを躊躇ってしまう自分がいる。そんなとき、なにかに賭けるという行為は、自分を写す鏡なのだということを実感させられる。

 パドックをじっくり見て、マークシートに記入する。1着にナムラクレア、2着/3着にジャスパークローネとピクシーナイト、3着にウインマーベルとメイケイエールを加えたフォーメーションで、100円ずつ6点購入する。

 あとはレースを観るだけだとビールを買って、スタンド内をぶらついていると、ママコチャの勝負服を見かけた。正確には、ママコチャの勝負服を模したシャツである。肩のところに白い馬のぬいぐるみをつけていたから、きっとソダシのファンなのだろう。ママコチャはソダシの全妹で、同じ馬主が所有している。「ソダシの妹が初めてGⅠに出走するから、応援にかけつけないと!」と、中山競馬場にやってきたのだろうか。

 スマートシートに戻ると、「ソフトクリーム持っていこうかと思ったけど、人が多くて全然無理やった」と知人が言う。中山競馬場には、「耕一路」というスタンドがある。先々週にひとりで競馬場にやってきて、のんびりあちこち探索しているとき、そこに長い行列ができているのを見かけていた。お昼時でもないのに、どうしてこんなに行列ができているのだろうかと近づいてみると、「COFFEE SHOP」と看板に書かれてあった。

 コーヒースタンドにどうして行列ができるのかと不思議に思っていたが、行列のお客さんたちは皆、ソフトクリームを注文していた。どうやらここのモカ・ソフトクリームは中山競馬場の名物になっているらしかった。知人はお昼ごはんを食べたあと、ひとりで場内を散策しているときに「耕一路」を見かけ、どこかのタイミングで食べようと心に決めていたらしかった。せっかくだから、ぼくにひとくちお裾分けをと思ったようだが、パドックはひとだかりがすごくて諦めたのだという。

 「ソフトクリームの中では、コーヒー味が一番好きなんよ」と、知人は言った。もう10年以上一緒に暮らしているけれど、そんな話は初めて聞いたので、知らないことってたくさんあるのだなと気づかされる。聞けば、小さい頃に家族でおばあちゃんちを訪ねた帰り道、サーティーワンに立ち寄ることが多く、そこで「ジャモカ」というコーヒーフレーバーのアイスクリームを食べるのが好きだったのだと、知人は教えてくれた。先々週に行列を見かけたときには「なんだ、ソフトクリームか」と通り過ぎていたくせに、そんな話を聞くと、妙に食べたくなってくるのだった。

 やがて本馬場入場を迎え、出走馬が馬場に姿を現し、スタンドは観衆で埋め尽くされる。ファンファーレが鳴り響き、歓声が湧き上がる。1200メートルのスプリント戦は、レースが始まると、あっという間に最後の直線に馬の群れがやってくる。抜け出したのはママコチャだった。残り200メートルを切っても、ママコチャが先頭のまま、馬の群れが迫ってくる。外からナムラクレアが差してくるが、ママコチャの脚色は衰える気配がなかった。内を突いてまた別の馬も伸びてくる。どの馬でもいいから、差してくれ!、と、心の中で叫んだ。そんな感情が自分の内側から出てくることが不思議だった。自分が買った馬よ、来てくれ!ではなく、どの馬でも、なんでもいいから差してくれ!という、謎の感情が湧き上がってきたのだった。そんな感情が届くはずもなく、ママコチャは1着でゴールし、見事にGⅠのタイトルを獲得した。

 なかば呆然としたまま、ターフビジョンに映し出されるリプレイ映像を眺める。やがてレースは確定し、表彰式が始まる。どこか緊張した面持ちの厩務員の姿を眺めていると、自然と拍手をしていた。表彰台にはもちろんオーナーの姿もあって、ああ、この人があの勝負服のオーナーなのか、とぼんやり眺めていた。

 最終レースも外れ、この日も1レースも当たらなかった。中山開催は今週で一旦終わり、来週からは府中に舞台が移る。次に中山開催がある頃にはもうすっかり冬になっているのだなと、東中山駅までとぼとぼ歩きながら考える。冬に食べるソフトクリームも悪くないけど、今日みたいに残暑を感じる季節のうちに、モカ・ソフトクリームを食べておけばよかった。

 夜になって、友人からLINEが届いた。そこには「ソダシが引退」と書かれてあった。記事を読むと、調教師のコメントとして、「ちょうど妹のママコチャがG1を勝ったことで、金子オーナーから『ちょうどいいタイミングでバトンを渡せるんじゃないか』というお話がありました」という言葉が報じられていた。それを目にした瞬間に、憤りをおぼえた。ソダシは安田記念を終えたあと、脚部不安で入厩できないままになっていたというから、直接の原因はそこにある。でも、引退する理由として、妹がGⅠ馬になって、「ちょうどいいタイミングでバトンを渡せるんじゃないか」というのは、どういう話なんだろうか。ソダシに魅了されていたファンは、あくまでソダシの走りに魅了されていたのではないか。

 ソダシの引退を知らせてくれた友人は、大のソダシファンだ。その胸中を思うと、なんと返事をすればよいのか、言葉に詰まってしまう。どう返事しようかと悩んでいるうちに、凱旋門賞の中継が始まった。

9月24日

 8月の終わりに、取材で北海道に出かけた。せっかく北海道に行くのだからと、レーシングカレンダーと照らし合わせてみると、その週の土曜日には札幌2歳ステークスが開催されるらしかった。まだ夏を感じさせる札幌競馬場で、帽子も日焼け止めもなくジリジリと肌を焼かれながらパドックを凝視し、馬券を外し、ビールを飲んだのは楽しい思い出となった。

 競馬を観始めたのは中学生のときだった。たぶんきっと、『みどりのマキバオー』がアニメ化されたことがきっかけだったのだと思う。週刊少年ジャンプは毎週読んでいて、『みどりのマキバオー』ももちろん楽しく読んでいたけれど、その段階ではまだ「競馬」というものは紙の中の世界だと感じていた。でも、それがアニメ化されて、実況の声や雑踏の音を耳にしたことで、リアルな競馬にも関心を持ったのだろう。それに、同じクラスで同じ部活に所属するY君が競馬好きだったのも、競馬に興味を持つ入り口になったような気がする。Y君が好きな馬はライスシャワーだった。

 中学生や高校生の頃は、熱心に競馬中継を観ていた。でも、高校卒業後に最初の一人暮らしをしたのは仁川だったというのに、阪神競馬場には一度も足を踏み入れず、競馬中継も観なくなってしまった。画面越しには親しんでいたけれど、そこから急に競馬場のすぐ近くに部屋を借りてしまったことで、尻込みしてしまったような気もする。それから20年ほど競馬から離れていたのだが、去年かかわった作品に競馬好きの人たちがいて、その人たちが日曜日になるたび真剣に競馬の予想をしている姿を見て、昔の記憶がよみがえってきて、また競馬中継を観るようになった。そして、去年の秋、その競馬仲間と3人でマイルチャンピオンシップを観に出かけた。20年前はいちども足を踏み入れなかった阪神競馬場でGⅠを観たことで、すっかり競馬熱が再燃した。

 いや、「再燃」とは少し違う。競馬を熱心に観なくなってからも、2回くらいは競馬場に出かけたことがある。いずれも日本ダービーの日で、熱心に予想をするわけでもなく、ただ競馬場の開放的な空間を満喫し、遠巻きにレースを眺めただけだった。でも、マイルチャンピオンシップのときは、雨が降るなか、朝からずっと友人たちとスタンドの最前列に立ち続け、目の前を駆け抜けるサラブレッドを観た。馬がドーッと駆けてきて、ドーッと駆け抜けていく迫力に圧倒されて、競馬場で競馬を観る楽しさを初めて知ったような気がした。しかも、そのマイルチャンピオンシップでは、ビギナーズラックで3連単も当たったのだった。

 それ以降、昨年末の有馬記念や、今年のヴィクトリアマイル、日本ダービーと、ときおり競馬場に足を運んできた。ただ、競馬場に行くとなると、「せっかくだから、1レースからしっかり予想を立てて、とにかく馬券を当てよう」という思いに取り憑かれてしまって、競馬場自体を堪能する、というところには至っていなかった。でも、札幌競馬場で競馬場自体の楽しさに改めて触れたことで、「もっと競馬場に通おう」という気持ちになった。そして先週は、ひとりで中山競馬場に出かけ、セントライト記念を観た。

 じっくり競馬場を堪能しようと、レースの予想はスパッと決めることにして、場内をぶらついてみた。お昼ごはんはどこで食べようかと、北フードコートに足を運んでみると、どこも歴史がありそうなシブい店が並んでいた。フライドチキン専門店や、昔ながらのカレーライスなど気になるお店はいくつもあったけれど、この日は行列のできていた「翠松楼」という店に並んだ。ラーメン、ワンタンメン、チャシューメン、チャーシューワンタンメン、ワンタンと、様々なメニューが並んでいる。注文口の店員さんが、注文を受けた順に、色違いの食券が並べてゆく。店内には麺を茹でる大将のほかに、ワンタン担当、チャーシュー担当といった具合に従業員が配置されていて、それぞれが食券の色を確認し、ぱぱぱぱっと、一杯のどんぶりに具材が盛り付けられてゆく。その様子を眺めているだけでも楽しかったが、注文したワンタンメンも美味しかった。もちろんビールも飲んだ。

 競馬場に張り出されてあるイベントカレンダーをチェックしていると、9月24日は生ビール半額デーだと書かれていた。これは知人を誘うしかないだろうと、連れ立って中山競馬場に出かけることにした。

 この日のメインレースはオールカマー。GⅠ馬が何頭も出走し、豪華な顔ぶれが揃っていた。それに、この日は入場が無料とあって、場内が混み合いそうだったので、スタンド3階にある指定席を予約しておいた。3階指定席だと、馬場をしっかり見渡せる上に、座席にモニターもついている。今年5月、知人と一緒に東京競馬場でヴィクトリアマイルを観に出かけたときにも、スタンド6階の指定席を予約した。ターフを一望できる、なかなか贅沢な場所だ。上から見下ろす景色は壮観だし、「やっぱち目の前でレースを観たい」と思えば、もちろん1階で観ることだってできる。競馬場で長時間過ごすとなると、ベースとなる場所が欲しくなる。ベンチや通路のあちこちに、新聞や飲み物、あるいは折りたたみ椅子が置かれていて、そうやって場所取りをしている人もいる。だから、指定席を予約しなくたって、ベースとなる場所をつくることは可能ではあるけれど、ベンチなんかは早い時間に埋まってしまっている。

 それに、去年の有馬記念のときに目にした光景も、荷物を置いて場所取りをすることを躊躇する理由のひとつだ。そのときは競馬仲間数名と一緒で、4コーナー付近にある芝生エリアにピクニックシートを広げて観戦していた。他の皆がスタンドに出かけるとき、シートと荷物を置いたままその場を離れるのはどうにも不安だったので、ぼくだけシートに残っていた(皆が戻ってきたところで、スタンドに出かけるようにしていた)。あれはたしか、ちょうどお昼時のことだった。観衆の多くが、シートや荷物を残したまま、お昼ごはんを求めてスタンドに向かった。人が少なくなった芝生エリアに、つかつかと男性がやってきて、無人のシートをおもむろに引き剥がし、荷物をどかし、自分のシートを貼って座り込んだ。その光景を目にしたこともあって、荷物だけを置いて場所を取る、ということには抵抗がある。それで指定席を予約しておいたのだ。

 指定席を予約するだけなら、1階の指定席を選べば安く済む。ただし、手頃な価格の座席のほうがきっと、倍率は高くなるだろう。それに、パドックの見やすさもある。先週のセントライト記念は特に指定席を取っていなかったのけれども、メインレースが近づくにつれパドックは混み合うようになり、セントライト記念のパドックを観るのはちょっと大変だった。今週は豪華な顔ぶれが揃う上に、入場無料デーだから、パドックはさらに混み合うだろう。ただ、指定席を手配しておけば、2階や3階のテラスから、パドックを観ることができるので、3階の指定席を予約しておいたのだ。

 11時過ぎに競馬場にたどり着き、まずは北フードコートに向かう。知人は「そばの気分」だというので、梅屋でちくわ天そばと、それに1杯目のビールを買って、腹を満たす。まだ食べられそうだったので、フライドチキンも1個ずつ買い求めると、袋の中に故障と塩の小袋も入っていた。フライドチキンをそのまま齧ってみる。これまでに食べたことがないタイプのフライドチキンで、びっくりする。まずはサクサクした衣の食感が伝わってくる。そして、その味付けも、素材そのままの味という感じがする(だから塩と胡椒がついてきて、自分の好みの味付けに仕上げるのだろう)。どこでも食べたことがない味だなと、妙に感動してしまって、塩も胡椒も振りかけないまま完食してしまった。

 腹を満たしたところで、3階の指定席に上がる。自分たちの席を見つけて、腰を下ろす。ふと、斜め前の席が目に留まる。そこには若い女性客がふたり座っていて、テーブルには持ち帰り用の器に盛られたミートソースを、箸を使って平らげている。あれ、パスタなんてあるのかと調べてみると、南フードコートにはドマーニが入っているらしかった。次回は南フードコートに行ってみようかなんて考えていると、そのテーブルに、マイメロのパスケースが立ててあるのが見えた。そのパスケースの中には白馬の写真が収められ、横に「はややっこ」の文字がデコられていた。

 パスタを食べ終えると、そのふたりは机に伏せて眠ってしまった。彼女たちはきっと、純然たるハヤヤッコのファンなのだろう。レースが進んでも眠ったままなので、一体どんな暮らしの中で、どんなきっかけでファンになったのだろうかと、話を聞いてみたいような思いに駆られる。9レースが始まる頃になってふたりとも目を覚まし、バズーカのような望遠レンズを装着したカメラを手に出かけて行った。おそらくパドックを撮影していたのだろう、メインレースの本馬場入場が始まる直前にふたりは戻ってきて、撮影したばかりの写真をさっそく見返していた。

 15時45分、メインレースのオールカマーの発走時刻を迎える。1番人気のタイトルホルダーは悠然と先頭に立ち、スタンド前を通過してゆく。3馬身から4馬身ほど他馬を引き離すと、ペースを落とし、ゆったりとした展開となり、最初の1000メートル通過は「1分1秒1」というアナウンスが聴こえてくる。3階の指定席にはテーブルごとにモニターが据え付けられていて、そこでもレースの模様を確認できるのだが、最初の1000メートルに差し掛かるあたりで、後方にいた馬がグングン上がっていくのが見えた。目を凝らすと、それは白い馬体をした馬だ。この日は芦毛のガイヤフォースも出走していたけれど、グングン上がって行ったのはハヤヤッコだった。スローペースでかかってしまったのか、3コーナーの手前でもうタイトルホルダーに並びかけていた。

 あのふたりは――と、思わずレースから目を外して、斜め前の席に視線を向けると、「速い」とつぶやきながら涙を流していた。早めに上がっていったぶん、残り200メートルを切ったあたりで足があがって他馬に交わされ、最終的には10着に終わったものの、その日のハヤヤッコの姿は印象に残った。これから先、ハヤヤッコの名前に触れるたび、3コーナー手前でタイトルホルダーに並びかけた姿と、そこで涙を流したふたりのことを思い出すことになるだろうなと思った。競馬場に出かけなければ、そんな光景を目の当たりにすることもなかっただろう。あの日のことを忘れないように、日記に書き残しておく。

4月23日

 6時過ぎに目を覚ます。コーヒーを淹れ、洗濯物を干す。シャワーを浴びて頭を3ミリに刈り、横手のテープ起こしを少しだけ進める。横手滞在中に、「ネット回線のギガを使い果たしたので、低速化します」とメッセージが届いていて(横手で宿泊したホテルは古い格安の宿だったので、Wi-Fiがなく、テザリングしていたせいで容量を使い果たしたのだろう)、これから旅先で過ごすとき、たとえばジョギング中に音声コンテンツを音声が途切れることなく聴けるようにと、あれこれダウンロードしておく。

 12時15分に家を出て、日暮里へ。スカイライナーは残り211席と表示されていた。僕が乗車した8号車には、僕以外は中国からやってきた団体客で埋まっていた。成田空港に到着すると、改札近くのファミリーマートで幕の内弁当を買った。チェックインして荷物を預け、保安検査場を通過し、弁当を平らげる。保安検査場を通過した先のエリアでコンビニ弁当を食べるのは初めてだ。今日は那覇行きではなく、石垣行きの便だからか(それも日曜の夕方に到着する便だからか)わりと空いている。最近のコンビニ弁当は量が少ないから、石垣空港に到着する前に腹が減り、最後の20分くらいはパソコンを閉じ、目も瞑って省エネモードで座席に座っていた。石垣空港にはフードコートと土産物店はあるもののコンビニがなく、おにぎり一個くらいでいいんだけど、と探し回るも適当な食べ物を見つけられなかった。かまぼこ(たらし揚げ)を買おうかとも思ったけど、650円ぐらいのパックしかなく、そんなにかまぼこを食べたら夕食にあれこれ食べられなくなってしまうので、我慢して路線バスに乗った。

 19時20分ごろにバスターミナルに到着し、ホテルにチェックイン。荷物を置いて、すぐに外に出る。石垣だと「やふぁやふぁ」というお店が好きなのだけど、日曜日は定休日だ(最近はいつも定休日の日にしか石垣に滞在できていない)。あれこれ迷って、「まる波」という店に入り、まぐろの刺身とぐるくん唐揚げと生ビール。テレビでは『千鳥のクセスゴ!』が放送されている。枠とタイトルが変わり、内容も少し変えることにしたのか、芸人たちが山梨県の航空学校にサプライズ訪問し、ネタを披露する、という企画を放送している。芸人が登場すると、学生たちは歓声を上げる。ただ、スタッフは「芸人だけだと盛り上がらなかった場合にそなえて、保険をかけていた」と、芸人に続いてJO1のメンバー3人が登場した。さっきとは比べ物にならない歓声があがる。そのVTRをスタジオで観ていたニューヨーク屋敷が、「JO1、全然本気出してないのに(芸人よりすごい歓声を浴びている)」「まだ8人残しとるのに」と、ぽんぽんコメントしている。「まだ8人」と、すぐに出てくるのがすごいなと感服する。登場した芸人の1組は怪奇!YesどんぐりRPGで、YouTubeを観ているから、まるで知り合いみたいな気持ちで応援してしまう。

 20時50分、「島そば一番地」へ。ここは3度目くらいか。昔ながらのそば屋という感じというか、(観光客で賑わっているものの)観光客相手という感じがなくて、落ち着く。まずはかまぼこ盛り合わせと八重泉(1合)を頼んだあと、最後に島そばを啜る。あっさりした味でおいしい。明日は泡盛の取材だから、島の泡盛を(限定醸造のような銘柄も含めて)扱っているお店がないかと探し歩いたのだが、見つけることはできなかった。繁華街を歩いて目につくのは、こう、リゾート感と開放感のある居酒屋と、民謡酒場みたいなところと、泡盛を置いてなさそうなバーと、爆音で音楽が響いている酒場だ。観光地とは土地の演技である、という危口さんの言葉をまたしても思い出す。

 結局どこにも入らず、コンビニで酒を買ってホテルに引き返す。コンビニの中も、繁華街も、酒場も、観光客とおぼしき人たちをたくさん見かけた。マスクをつけている人の割合は東京より格段に低く、というかマスクをつけている人なんてほとんど見かけなかった。「旅先だから」ということなのだろうか。旅先は、日常を離れて羽を伸ばせる、羽目を外せる場所としか認識されていないのだろうか。その土地にはその土地の歴史があり、生活があるということは、旅行客の目に映っているのだろうか。これは石垣を訪れるたびに感じていることだけれども、この島を訪れる観光客の大半は、ただ「リゾート」を非日常として楽しんでいるだけではないのかと考えてしまう。

4月22日

 7時過ぎに目を覚まし、ジョギングに出る。横手で大量にやきそばを食べて過ごしたので、ダイエットしなければ。ずいぶん久しぶりのジョギングで、NIKEのアプリで確認するとほぼ1年ぶりだった。不忍池まで往復4キロほど走ったのち、風呂に湯を張り、入浴。これから移動続きだから、東京に戻った日は体を休ませなければ、また体調を崩してしまう。それに、横手は昼と夜の寒暖差が激しかった。最高気温が25度の日もあれば、朝は10度くらいのこともあった。ちょうどテレビで「寒暖差が激しい気節は、自律神経が乱れ、疲れを感じやすくなる」とやっていて、自律神経を整える手段のひとつとして入浴が挙げられていた、というのもある。湯に浸かりながら、横手の資料を読みふけった。

 昼、知人の作る鯖缶とトマト缶のパスタを平らげる。今日はPCR検査を受けることもあり、ビールは我慢した。食後は箪笥の整理をする。もう着ない服や、記念品にもらったものの開封すらしていないタオルは処分してしまうことにする。これからはジョギングを再開したいところだが、短い靴下がほとんど見当たらなかったので、PCR検査前に秋葉原ヨドバシカメラ7階に入っているユニクロに立ち寄る。短い靴下を3足と、ドライクルーネックTシャツみたいなやつを2着買い求める。速乾素材のさらさらしたシャツ、もうすでに3着持っているけれど、ジョギングに使うだけでなく、これからの季節はこれを部屋着にしようと、買い足しておいた。ヨドバシカメラも大勢の観光客で賑わっていたけれど、PCR検査場も海外からの旅行客が目立った。

 15時15分に根津まで引き返し、バー「H」へ。やきそば、食べてこられたんですかとHさんに声をかけられ、「2日で9軒食べてきました」と告げると、Hさんは笑っていた。スーパーで売ってたやつで恐縮ですけど、お酒のあてにでも、といぶりがっこを渡し、ハイボールを2杯飲んだ。先週にも増して、根津界隈にはつつじまつりを見物にきや人たちで溢れている感じがする。千代田線で国会議事堂前に出て、16時過ぎに国会図書館に入館したものの、土曜日だから閉館時間も早く、請求が必要な資料はもう閲覧できない時間になってしまっていた。すぐに退館し、飯田橋で木村和平の写真展「石と桃」を観る。和平さんも在廊されていて、さっきまでかなり混んでたんですけど、ゆっくり見てもらえてよかったです、と声をかけてくれる。

 有楽町線で池袋に出て、「古書往来座」へ。先日買取をお願いしたぶんの代金を受け取る。棚を眺めていると、あー、なんで消えちゃうんだろう、と、奥で作業をしているセトさんの声が聴こえてくる。帳場にいるのむみちさんと少し立ち話をしていると、「全然話は変わるんだけどさ、東大、ほんと残念だよね」とセトさんが言う。時間が経っても、残念だという気持ちが薄らぐことがない。

 池袋駅まで歩き、無印良品を冷やかす――くらいのつもりだったのに、ふとスーツケースが目にとまり、ああ、もう、今日買ってしまおうと思い立つ。ずっと使っていた無印良品のスーツケース、少し前からチャックが壊れかけていたのだけれども、明日からの沖縄行きに向けて確認したところ、まったくチャックが閉まらなくなっていた。無印良品のスーツケースは3万円近くするから、ちょっと今月のところは購入を見送って、明日はボストンバッグにしようかと考えていたのだが、なんにせよいつか購入しなければならなくなる。だったらもう、今日買ってしまおうと、スーツケースを買い求めた。

 スーツケースを引きながら、三省堂書店に立ち寄り、『サーカスの子』を買う。大学生ぐらいの若い男子二人組が、小説の棚の前に立ち、本を手に取っている。「あー、思ったより(ページ数が)多いな」と、ひとりがつぶやく。「たしかに。本読んでみたいと思うんだけどさ、読むのが疲れるよね」「俺も、本読んだほうがいいんだろうなと思うんだけど、通学の時間は結局、韓ドラばっか観てるわ」。ちょっと絵に描いたような会話だなと思いながら、聞き耳を立てる。今の大学生ぐらいでも「韓ドラ」って言うのか、と不思議に感じる。そして、きょうび「本を読まなければ」と思っている若者は珍しいのではないか。山手線で西日暮里に出て、千代田線に乗り換えて千駄木まで帰ってくる。駅周辺ではいろんな候補が「最後のお願い」をマイクで叫んでいる。この人たちは普段どこにいるんだろうか。こんなふうに選挙戦のときだけでなく、日頃から辻に立っている人がいれば、悩むことなくその人に投票するのになと思いつつ、団子坂を上がる。