7月3日

 9時、ジョギングに出る。せっかくだから少しだけでも海を見ようと、波上宮を目指す。海の近くを走っていると波の上ビーチに出た。名前は聞いていたけれど、ここだったか。泳いでいる人の姿もあるし、浮き輪などをレンタルする店もあって、文字通りビーチである。しかし、視界は橋桁で遮られているのに、わざわざここで泳いでいる人がいるのかと不思議な気持ち。波上宮を見学し、引き返す。セミがすごいヴォリュームで鳴いている様子を動画で撮影していると、それを覆うように飛行機の轟音が響く。那覇高校のあたりに出て、開南せせらぎ通りを走ってゆく。このルートで進んでみると、市場の一帯が窪地であることがはっきりわかる。この坂道のこともいつか書かなければ。「上原パーラー」でじゅーしーおにぎりを買って、ホテルに引き返す。

 午前中は日記を書き、質問リストを練る。14時にホテルを出て、取材。こうして話を聞くと、あまり意識してこなかった生活の姿が浮かび上がってきて、面白い。界隈を歩き、「上原パーラー」でイカ白身魚の天ぷらを買って、「市場の古本屋ウララ」に立ち寄る。今度こそしばらくこれなくなりそうだから、あれこれ話しておく。何か言っておきたいことはありますかと尋ねられ、ほんとは「飲みに行きませんか」と声をかけたかったのだけれど、突然そんなふうに誘われても困るだろうなと思って切り出せなかった。ただでさえ「飲みに行きませんか」と誘ったことがないのに、誰かを飲みに誘うことがとても難しい時代になってしまった。「ミヤギミート」でオリオンのロング缶を買って、パラソル通りで天ぷらを平らげる。あっという間に食べ終わってしまって、350ミリでよかったなと反省する。

 仮設市場を覗き、2階の「道頓堀」へ。生ビールと天ぷら盛り合わせを注文。前にきたとき、市場はまだ日没頃までの時短営業だったけれど、今は夜も営業するようになった。ただ、2階にはあまりお客さんの姿はなかった。「暇なときのほうがね、意外とやらなきゃいけないことが多くて大変なんですよ」と佐和美さんが言う。忙しいときは次から次に仕入れたものがさばけていくけれど、お客さんが少なくなると考えないといけないことも多くなる、と。ビールを2杯飲んで、ホテルに引き返し、『d・v』の原稿を書く。思ったよりさくさく書き進んで、8割程度まで仕上げておく。20時、缶ビール片手にホテルを出る。国際通りにある、路面店の居酒屋を通りかかる。ふと店内に視線を向けると、そこには誰もお客さんがいなかった。金曜日の夜にこれでは本当に大変だ。

 栄町市場はそれなりに賑わっていた。ほとんど満席になっている店もある(そのかわり、店内に1組しかお客さんがいない店もある)。20時45分に「うりずん」の扉を開けると、思ったより空いている。いつものように白百合をと思ったら、ちょうど在庫が切れたところらしく、かわりに暖流を飲んだ。今日はスタートが遅くなったので、1合だけで店をあとにし、「東大」に流れる。扉を開けると、カウンターに島らっきょうが並んでいた。今日はお客さんがこなくてひまだからと、らっきょうの皮むきをしていたのだという。らっきょうのかおりが香ばしく、今日はゴーヤの黒糖酢漬けではなく、らっきょうの漬け物と、ミミガーとマメの刺身を頼んだ。金曜日だというのに、どうしたことだろう。今日はたくさん天ぷらを食べたことだし、やっぱりおでんにしようかと思っていたところで、Mさんが焼きてびち用の肉をひと口食べさせてくれた。それはとてもあざやかな味だった。「焼きてびちに使う肉のことを、『どうせおでんの残りの肉を使ってるんだろう』と言う人もいるんだけど、とんでもない。おでん用のてびちは、出汁に付けてるから、その肉を焼いても美味しくならんわけさ。だから焼きてびち用の肉は、別に仕込む必要があるわけ。でも、こんなふうにお客さんが入らないと、仕込んでも、ね」。結局、今日は焼きてびちを頼んだ。

7月2日

 4時過ぎに目を覚ます。まだ眠いが、ここで眠ってしまうと寝坊してしまうので、ケータイをぽちぽちいじって過ごす。シャワーを浴びて、6時にアパートを出る。日暮里から6時24分発のスカイライナーに乗る。2号車にはぼくも含めて3組だけ。車内からジェットスターのサイトにアクセスし、座席を確認してみると、隣の席が選択できなくなっている。不安になりつつ成田空港にたどり着き、チェックインカウンターへ。確認してみると、ネットから選択できなくなっているだけで、現在のところ空いているらしかった。このまま埋まらないことを祈りつつ、荷物を預け、「ローソン」(成田国際空港第3旅客ターミナルビル店)でミックスサンドとアイスコーヒーを買い、保安検査場へと急ぐ。入り口で国土交通省厚生労働省が作成した案内が配られていた。「国土交通省からの要請」として、「ターミナルビルや航空機内では、旅客同士での会話はお控えいただくとともに、マスクの着用をお願い致します」とある。

 成田空港第3ターミナルの保安検査場はシステムが新しくなっていて、まだ戸惑ってしまう。今までは並んだ順に荷物をトレイに乗せて、検査場を通過していたけれど、今は荷物を準備できた人から検査場に向かう仕組みだ。この仕組みだと、支度に時間がかかる人がいても渋滞せずに済むけれど、なんだか急き立てられているようで落ち着かない。時間がかかっている人を追い抜かないといけないのも抵抗がある。検査場を通過し、出発ロビーに向かうと、人が溢れていて「おお……」と立ち止まってしまう。6月15日に羽田から那覇に向かったときに比べると、格段に旅行客が増えている――というよりもほとんど全員観光で沖縄に向かうのだろう。搭乗口の近くはあきらかに密なので、登場が始まるまで遠巻きに待つ。これはもう、東京から出発する便で沖縄に向かうにはぎりぎりのタイミングだったなと思う。ジェットスター303便に乗り、25Fに座る。隣には誰も座らないまま飛行機の扉が閉まり、ほっと胸を撫で下ろす。

 機内はずっとにぎやかだった。保安検査場の入り口で配られた紙を誰も読まなかったのだろうか。それとも皆、読んだ上で、アナキストとして「政府の要請なんかで口を塞がれてたまるか」と会話しているのだろうか。こどもの声が響く。さすがにまだ家族旅行は早いのでは――と、頭のどこかで考えていることに気づき、自分でぞっとする。9年前は世の中の自粛ムードに対して(個人的に)反発していたというのに(たとえば、「こんな大変な時期にお酒を飲むなんて不謹慎だ」という気配に対して、「じゃあいつになったら不謹慎じゃなくなるんだよ、お前らの中では時間が過ぎればもう気にかけなくていいことになっていくのかよ」と、誰に言われたわけでもないのに感じていて、頻繁に飲みに出かけていた)。家族旅行をしている人たちに対して「まだ早いのでは」なんていう筋合いは誰にもないのだと頭ではわかっているし、「じゃあ、家族連れは今年はどこにも出かけず、家に籠っていろと言うのか?」と、自分で自分に思う。しかし、この時期に旅行に出かけたとして、心から楽しめるのだろうかという疑問は残る。

 定刻より10分遅れて、那覇空港に到着し、バスでターミナルまで移動する。これだけ乗客がいるのだから、ゆいレールには乗らないほうがいいか――でもタクシー代にお金を使うよりも飲み食いにお金をかけたい――と悩みながら、「もし車内で密になるようだったら引き返そう」と、ゆいレールのりばに向かう。そこにはほとんど観光客の姿はなかった。県庁前駅でゆいレールを降りて、ホテル国際プラザに荷物を預け、界隈を散策する。「市場の古本屋ウララ」をのぞくと、「早かったですね」とUさんが言う。前にきたときには「次は8月とかになるかも」と伝えていたのに、10日と経たないうちにまた那覇にいる。飛行機はどうでしたかと言われ、かなり混んでましたと伝えると、Uさんがしばらく言葉を探すように考え込んだ。このあたりは前と全然変わらないので。Uさんにそう言われてみると、たしかに市場の界隈にはほとんど観光客の姿は見当たらなかった(国際通りも同様で、7月になってもまだ休業を継続しているお店も少なくなかった)。さっき乗ったゆいレールががらがらだったことを思い出す。ほとんどの旅行客は空港でレンタカーを借りてリゾート感のある場所に向かったのだろう。90年代までは、那覇には観光スポットが少なく、観光客は那覇を素通りしていた――そんな話を、昔話として聞いたことを思い出す。

 界隈をひとしきり歩き、「上原パーラー」でネパールカレーを買う。「こっちに住んでるんですか、泊まってるんですか?」とお兄さんに尋ねられ、今は国際通りに泊まってますと答える。パラソル通りでカレーを平らげたのち、明日取材させてもらう約束をしてあるお店にお邪魔して、器を買う(少し前にどんぶりを1個割ってしまっていた)。名刺を渡し、明日はよろしくお願いしますと挨拶。汗が噴き出てくるので、「喫茶スワン」でアイスコーヒーを注文し、涼む。ケータイを確認し、東京都の今日の新規感染者は100人を超えると知る。あー。これはまた、しばらく移動しづらい日々がやってくるだろう。しかし、感染者が増えつつあったのに、政治が何の対策も施さなかったのだから当たり前の話だ。

 「これ、前に見せたよね?」と、「喫茶スワン」のママが冊子を見せてくれる。それは大学のゼミが制作した冊子だ。それは観光学部のゼミで、フィールドワークとして沖縄を訪れたときの論文やエッセイが収録されており、「喫茶スワン」もそこに登場する。その論文の中で『市場界隈』も引用されており、ぼくにもその冊子を見せてくれたのだ。その冊子が一昨日からネットで波紋を呼んでいた。その中には小さな食堂を取材したエッセイがあることは知っていた。それを買いた学生は食堂に3日間通ったらしく、学生は「食べたり飲んだりして楽しく過ごし」、常連客がこの学生の「食べ物・飲み物のお金を払ってもらいとてもよくしてくれた」という。そしてエッセイの中で学生は、「いつでも立ち寄ってゆっくりとした時間を過ごすこのとのできる『休憩所』や『交流の場』、人によっては『居場所』として機能している」と「分析」する。前に読ませてもらったとき、ざっと目を通しながら、いかにも表層のイメージをなぞった文章だなとだけ思って、あまり気に留めることもなかった。

 数日前、「喫茶スワン」を訪れたお客さんがその食堂の名前を口にしたので、ママはこの冊子のことを思い出し、そのお客さんに見せたのだという。そのお客さんというのは、エッセイに書かれた食堂の常連さんであるらしく、やっとどこの学生だかわかった、と憤っていたのだそうだ。その学生は、大学のゼミのフィールドワークをしておきながらも、お店側にはその主旨を伝えず、数日間黙って居座り続けたのだという。そのお客さんによれば、学生が何も注文せずにずっと居座るので、せめて何か取りなさいと代わりに注文し、食事を食べさせたのだという。その通りだとすれば、ひどい話だと思う。ひどいというのは、その学生がというよりも、ゼミの教官が、だ。フィールドワークに出る前に、せめて最低限の指導をしないのだろうか。しかし、大学という場所で何かを学べた実感がぼくにはないので、そんなものなのだろうなとも思ってしまう(「だから指導教官には責任がない」という話ではもちろんなく)。

 ぼくが気にかかったのは、この食堂を知ったきっかけとして『食べログ』が挙げられていることだ。「そこでは『沖縄返還以前から』『大きい天ぷら』『入りづらいが温かい雰囲気』などの情報が書かれてい」て、「もともと個人経営の食堂に興味があった私は、1人でお店に行くことは東京でも滅多にないのに行ってみたいという好奇心にかられて、たずねることを決めた」という。ここに問題の核心があるように感じる。「個人経営の食堂」に興味があるのに、「1人でお店に行くことは」「滅多にない」のだ。こんなことを率直に書いてしまうことは、皮肉ではなく、少し尊敬する(ただ無意識なだけなのだろうけれど)。これは、今の大学生ぐらいの世代の率直なリアリティなのだろう。おばあさんが一人で切り盛りしている食堂に、一度も訪れずに育った人からすれば、それはほとんどテーマパークに見えるのだろう(だからそれを調べるのも、フィールドワークでありながら食べログを用いたのだろう)。そんな人たちに、どこから何を教えられるだろう。

 この学生は、食堂に居座る時間の中で、「前に授業で沖縄の父系のつながりである門中について学んだことを思いだし」、地元のお客さんに対して「沖縄には門中っていうのがあるんですよね?」と質問している。あるいはまた別のタイミングでは、「せっかくの機会なので沖縄について知ろうと思い」、「何日か前に知ったヘチマをよく食べるという情報をもとに」、「沖縄ではヘチマを食べるんですよね?東京ではほとんど食べないですよ」とお客さんに語りかけている。ほんとうに、とても率直に綴られたエッセイだ。門中のことなんて、いきなり切り出す話ではないだろう。あるいは、ヘチマの話にしても、どうしてわざわざ「東京ではほとんど食べないですよ」なんて付け加えたのだろう。その語りかけ方は、「東京の人間が食べないようなものをあなたたちは食べている」と言っているようなものだ。

 どうして「東京ではほとんど食べないですよ」なんて言わないほうがよいのか、どうすればこの学生に伝えられるだろう。

 その学生が研究者を志しているのであれば、研究に求められる倫理としてそれを伝えられるだろう。しかし、大学生の多くは別に研究を志しているわけでもなく、普通に就職してゆく。そこでは「東京ではほとんど食べないですよ」という物言いはさほど問題にされることもなく、温存されてゆくだろう。

 ドライブインの取材をしていたときに、ネットを検索していると、ドライブインを訪ね歩く動画を見かけた。カメラを構えながらお店に入り、テーブルにカメラを起き、店員とのやりとりを映し、店内の様子や料理のレポートをしていた。おそらく突然押しかけて、断りもなく撮影していたのだろう。そうやって無断でアップされた過去があるのか、「取材」という言葉を出した途端に嫌悪感をあらわにされたことも何度かある。動画を無断で撮影するのは、今の時代はまだ「それはひどいのでは」と感じる人のほうが多数派だと思うけれど(それだってそのうち変わってしまうだろう)、では食べログに、インスタグラムに、店員の写真を撮ってアップすることだとどうなるだろう。初めて行ったお店で無断で撮影する人は少ないかもしれないけれど、何度か行ったことのあるなじみの店であれば、相手に「この写真をアップしてもよいですか?」と逐一確認する人は少ないだろう。その感覚というのも、ぼくはこの学生とどこか通底しているように感じる。

 それとはまったく別の問題として、やはり「書く」ということはまったくもって余計なことだ。それをわかった上でも、どうしても書き残しておきたいと思ってしまう。

 また日記が長くなってきた。

 「喫茶スワン」では書評の原稿を書いていた(飛行機の中でもずっと考えていた)。ああでもない、こうでもないと考えながら一度書き上げたものの、なんだかうまいこと行っていない気がする。知人に送ってみるも、やはり「なんかよくわからん」と返ってきた。仕方がないことではあるけれど、気合いが入り過ぎている。14時半、「ローソン」(国際通り松尾店)で2リットルの水を買ってホテルにチェックイン。部屋ではずっと『D・V』の取材のテープ起こしをしていた。18時過ぎにそれが完成し、次は先週の竹富島のテープ起こしに取り掛かる。19時頃になるとお腹が減ってきたので、シャワーを浴びて外に出る。まずは「パーラー小やじ」で生ビール。ジョッキがキンキンに冷えていて、唸りながら飲んだ。

 20時、「東大」に電話をかけてみる。営業再開から日にちが経ち、お店のインスタグラムも始まったことで、6時半からの営業になったという情報が周知されてきたのでは――だとすれば早い時間からお客さんで一杯になるのでは――と気になって電話をかけてみたのだが、カウンターに空席があるというので、「15分後に伺います」と伝えて栄町に歩き出す。お店に入ると、カウンターにはもうボトルが置かれていた。まずはゴーヤの黒糖酢漬けと、ミミガーとマメの刺身を注文。「営業を再開してから、シャッターを開けても誰もお客さんがいない日が続いてたけど、今日は初めて2組並んでるお客さんがいた」と、店主のMさんは嬉しそうだ。21時半に長蛇の列ができていた頃が遠い昔のように感じられる。

7月1日

 7時に目を覚ます。昨日は酒を飲まなかったから、テレビがつけっぱなしではなかった。窓を開けて換気していると、風が音を立てて吹き込んできて、ストレッチポールや棚に立てかけてある卓袱台が倒れそうになる。その音で知人も目を覚ます。昨日から楽器を演奏する犬のアカウントに夢中になっていて、その子がベルを押すような格好でぼくの頭に手を乗せてくるので、それに応じて「ちーん」と返す。午前中はまだ締め切りの決まっていない書評を練る。普段はそこまでやらないけれど、付箋を貼った箇所を抜き書きして、プリントアウトし、原稿を考えた。

 10時半にアパートを出て、池袋へ。まずはユニクロに立ち寄る。今は黒い長ズボンが1着しかなく、それも洗濯を繰り返してかなり色あせてしまっているので、同じチノパンを買うことにする。試着室に入って裾上げをお願いしようと思ったのだが、試着室のところに店員さんはいなかった。まあとりあえず試着するかと試着室に入ると、クリップがいくつも積まれていた。接客を回避するべく、裾上げの位置を自分でセットするようだ。自分が履いてきたズボンと重ねて、同じ長さのところにクリップを留めておく。それとは別に、ゆったりしたフォルムのズボンも試着する。夏にチノパンを履いて出かけるとすぐに汗臭くなってしまうけれど、半ズボンだと失礼だと受け取られる場面もあるから、しゃらんとした素材の長ズボンを探し、これも買っておく。

 サンシャインのほうに歩いて行くと、スピーカーからジャズが流れてくる。昨晩のことを思い出し、マイルス・デイヴィスの『At Filmore』を聴く。2曲くらい聴いたところで事務所にたどり着く。12時から、『c』に向けた作業が立ち上がる場面に立ち会う。最後に少し今後の相談をして、事務所を出る。裾上げが終わったズボンを受け取り、山手線で新宿に出る。17時半、思い出横丁に入ってみると、まだ人通りは少なかった。久しぶりで「T」に入り、瓶ビールを注文。まぐろのづけと、つくねをツマミに、ぐびぐび飲んだ。ビールがなくなると、チューハイが一番儲かるのではないかと判断して、チューハイをカパカパ飲んだ。

 チューハイを3杯飲んだところで18時15分、お店をあとにして帰途につく。途中で御茶ノ水成城石井に立ち寄り、知人のリクエストに従ってシュリンプ&オリーブトマトマリネを買って帰り、『有吉の壁』を観た。それなりに酔っ払っていたこともあり、「これはもう、すぐ寝るやろ」と知人は言っていたけれど、この日は(外で飲んで帰ってきた日としては)めずらしく23時近くまで起きていた。録画しておいたテレビをあれこれ観れて楽しいけれど、明日ちゃんと早起きできるだろうかと不安になる。

6月30日

 6時過ぎに目を覚ます。疲れが溜まっている感じがあり、しばらく横になって過ごす。午前中は7月のスケジュールを練り直す。昼頃になってアパートを出て、銀行へ。ようやっと特別定額給付金が振り込まれているのを確認して、お金を下ろしておく。思うところがあって、落語の「舟徳」を探し、小三治の「舟徳」を聴く。他の人による「舟徳」もさわりだけ聴いてみたけれど、小三治のものが「退屈」ということが強調されている(のはなぜだろう)。

 昼、サッポロ一番塩ラーメン(具は昨日の焼きそばと同じく、豚コマとキャベツともやしとニラ)。午後は昼寝をして、身体を休める。15時、取材させてもらいたいお店に電話をかけ、アポイントをとる。無事に取材させてもらえることになったので、航空券とホテルを手配。ばたばたしないで済むように、スーツケースを広げて、ある程度まで荷造りを進めておく。

 郵便受けをのぞくと、文京区から封筒が届いていた。中を確認すると、しばらく前に支払った住民税について、支払いが遅れたぶんの延滞金を別途支払えとある。ここ最近、ガス料金とケータイ料金の催促が届いていて、いずれも「このたびの新型コロナウイルス感染症に罹患された皆さま、感染拡大により生活に影響を受けられた皆さまに、心よりお見舞い申し上げます」という言葉が最初に綴られていたことを思い出す。文京区からの封筒にはそんな文言はなく、シンプルだ。知人の帰りを待ち、20時に夕食。明日から楽しく飲むために、今日は酒を控えておく。Netflixで『マイルス・デイヴィス クールの誕生』を観た。

6月29日

 7時過ぎに目を覚ます。今日はよく晴れているので、まずは洗濯機をまわし、コーヒーを淹れる。アイスコーヒー用のローストだからか、それとも久しぶりにコーヒーを淹れて飲んだからか、くらくらする。企画「R」のことを朝から考えていると、明日予定していた散策は延期したいと連絡があった。体調が最優先なので、もちろん延期で大丈夫ですと返信しながら、今月のルートのこと、それに来月のルートのことを考える。知人が起きたところで枕カバーやシーツも剥がして、洗濯する。昼、焼きそばを作って平らげる。「麺を洗うとおいしくなる」とネットで見かけ、何度か洗って作っているのだけれども、一度洗った麺はすぐに焦げ付いてしまう。焦げ付かないようにと油をたっぷり引くことになるので、これなら洗わないほうがヘルシーなのではというのが、3回作ってみた今の感想だ。あるいは、なんとか加工が施してあるフライパンではあるけれど、そろそろ寿命が近づいているのかもしれない。

 午後は少しだけ読書。7月は少しだけ予定が立て込みそうなので、今のうちに企画「R」に向けた読書をしておかなければと思うのだけれども、気が急くばかりで捗らなかった。日記をなるべく簡潔に済ませなければ。14時、タオルケットも洗濯する。洗濯物を干すスペースが限られているので、小分けにして洗濯する必要がある15時、タオルケットを干したところでアパートを出た。企画「R」に向け、6月最後の月曜日、ひとりで街を散策する。アパートに帰ってくるころには22時をまわっていた。

6月28日

 8時過ぎに目を覚まし、『サンデーモーニング』にチャンネルを合わせる。疲れが溜まっているのか、午前中はほとんど何もできなかった。昼、知人に鯖缶とトマト缶のパスタを作ってもらって平らげる。ビールも飲んだ。午後は読書、宝塚記念をぼんやり眺める。17時過ぎ、知人と一緒に出かける。マスクなしで歩いている人が1割くらい増えたように感じる。越後屋本店でビールを買って、軒先は混雑しているので、少し離れた電柱の影で飲んだ。ビールをお代わりして、人通りの少ない路地を選んで歩きながら、ときどき立ち止まって飲む。こんな状況下で都知事が再選されるなんて世も末だと思うけれど、それをツイッターに投稿したところで世界が変わるはずがないことは明らかだ。同じ考えの人たちとそれを確かめ合うのではなく、身近な場所にいる、現職に投票しそうな人たちの考えが変わるように説得するしかないのだけれど、その言葉をぼくは持っていない。気づけば根津に出たので、半ズボンで出かけてしまったけれど、バー「H」をのぞく。先客はおらず、「こんな格好ですみません」と誤りながら店に入り、ハイボールを2杯飲んだ。

6月27日

 7時に目を覚ます。例によって布団にもぐりながら延々とケータイをいじって過ごしているうちに、2つ大事な情報を発見する。ひとつは、「マチグヮーストア」という通販サイトが立ち上がっていたこと。先日、組合長のAさんに取材したとき、「まちぐゎーで扱っている商品を、ネット通販で買ってもらえるようにする動きもある」という話を伺っていたのだが、この「マチグヮーストア」は6月20日の段階で――つまりこないだ滞在していたときに――立ち上がっていたのだ。どうして気づかなかったのかと悔やむ。思い返してみると、旧・公設市場の北側にある通りで、なにやら商品を路上で撮影している様子を見かけていた。あれもきっと、このサイトで出品するために撮影していたのだろう。

 次に沖縄に行けるとしたらいつだろう。昨日の石垣島の様子を見ていても、なるべく早めに行っておきたいところだ。調べてみると、最後まで中央席の販売を控えていたJALも、7月からは中央席の販売を再開するらしかった。この調子で観光客が戻り始めるとすれば、飛行機に乗るのはかなりおそろしくなる。どうにか7月の早いうちに再訪したい(今回の取材も「那覇に延泊したい」と伝えておけばすぐに取材に行けたのに)。早めに取材日程を決められるように、RKSP紙の担当者にメールを送っておく。

 ネットで見つけたもう一つの大事な情報は、「ごろごろ、神戸y」の次の号が発売になっていたこと。あわわわわ、もしかしたらもう売り切れになっているのではと調べてみるとまだ在庫があり、注文。最初の号は24日に届いていて、すぐに読んだのだが、沖縄で日記を書くエネルギーを使い果たしていたので、届いたことを日記に書かないままになってしまっていた。あの日は早めに郵便の配達があって、めずらしく午前中のうちに郵便受けに荷物が届いた。その日届いていたものは3個あり、一番薄い――しかしかなりかっちり梱包されている――のが「ごろごろ、神戸y」だろうと、いそいそと開封したことを思い出す。届いたものをいそいそと開けることって、今ではそんなに経験することもなくなってしまったなと思いながら、引き出しを開けてハサミを取り出したことをおぼえている。その日届いた郵便物の中には、「光文社」と書かれた封筒もあった。光文社から、何だろう。読書委員になったからと送られてきたのだろうか、だとしたら腹立たしいなと思いながら開けると、そこに入っていたのは亀和田さんの新刊だった。ああ――あれは何日だったか、これも日記には書かずに取っておいたけれど、ある日突然亀和田さんから電話がかかってきたことがあった。5月中ばのことだったと思う。コロナ禍の中でどう過ごしているかを話したり、「恋のドライブ・イン」という曲があったことを教えてもらったりしたあとで、亀和田さんはぼくが書いた追悼文を褒めてくれた。褒めてくれたというのは、原稿を書くときの距離感についてだったので、それはとても嬉しかった。もうちょっと状況がよくなったら、連絡を取りあえって会いましょうと言ってもらえたのに、そのままになってしまっていることを思い出す。もうひとつ届いていたのは『本の雑誌』で――これは透明な封筒で送られてきたのですぐにわかった――先日、うちで打ち合わせをしたときに、「そうだ、今度送りますね」と言われていた号だ(5月発売の号)。読者投稿欄の「三角窓口」に「橋本倫史氏のビールぐびぐびが衝撃だあ!」という投稿があり、塩屋でのトークを聞きにきてくださった方が、「興味深くあっという間の2時間弱でした」と感想を書いてくださったあとに、「それにしても、橋本氏が水のようにビール2本をぐびぐび飲んでも表情を変えず普通にトークしている姿にも衝撃でした」と締め括られている(それに対して、編集部から「橋本さんは下戸の人をあんまり驚かせないように」と綴られる)。あの日は朝ごはんを買いそびれたこともあり、腹を膨らせるためにとビールを飲んでいて、「この人、朝からビール飲んではるわ、、」と誰かを引かせる可能性はあるだろうなと思っていたけれど、そんなにぐびぐび飲んでいたっけなあと思い返してみるけれど、話していると喉が乾いてピッチは上がるので、下戸の人はびっくりするだろう。

 8時過ぎにジョギングに出る。10日ちょっとぶりなので、からだが思うように動かない。海辺を走れるかと思っていたけれど、ぼくが向かったのは漁港がある側であるらしく、あまり海の近くは走れなかった。ただ、途中で八重山平和祈念館の前を通りかかることができたのは収穫だった。そうか、そんな施設があるのか(取材後に時間があれば行ってみよう)と思いながら、30分ほど走る。シャワーを浴びて、ホテルの朝食会場にいく。朝食はバイキングだとあったけれど、どういう仕組みで営業しているのだろう。場合によっては踵を返し、コンビニに向かうつもりでいたけれど、会場に到着してみるとスタッフが出迎えてくれて、検温される(チェックインのときにも検温された、昨日は36.4℃で今日は36.3℃、うちの体温計ではかると大抵37℃くらいで、自分は平熱が高いのかと思い込んでいたけれど、うちの体温計がおかしいのだろう)。席に案内されて(座れないようにふさがされた席もある)、目玉焼きとオムレツとスクランブルエッグ、どれがよいかと尋ねられる。オムレツでお願いしますと答えて、料理を眺めに行くと、サラダ、パンケーキ、フルーツが小皿に取り分けてある。なるほど。ドリンクが並ぶコーナーには、消毒液が置かれた上、使い捨てのビニール手袋も置かれている。万全の体制だ。小皿をいくつか選んで、「ゲンキ」という石垣のドリンクをよそって、テーブルに戻り、水の張られていないプールを眺めながら平らげる。

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 11時から取材。この日の取材先で食べた味に心の底から驚く。食べ物を食べて「おいしいな」と思うことはあるけれど、衝撃を受けるということは滅多にないので、目が丸くなる。それが何であるのか早く書きたいけれど、掲載号が発売になるのは11月なので、ずいぶん先になってしまう。どうしてそんな味が生み出されたのかを聞いていると、大変だった時代に行きあたる。ぼくは家族を取材する機会が増えているけれど、たとえば今60歳くらいの人が「小さい頃から家の仕事を手伝うのは当たり前でしたね」と語る話を、「家族が支え合って過ごす、美しい風景」として切り取るのは雑な仕事だ。それは、そうしなければ生活が成り立たなかった時代がある、ということだ。今はもう、その時代は過ぎ去りつつある(もちろんテレビが大家族を「消費」するように、子沢山で、親は仕事に忙しいから、10歳くらいの子が下の子たちの世話をするというケースはいまだにあるけれど、それが当たり前だった時代は過ぎ去ったと言える)。そうして時代が移り変わりつつあるときに、「家族でやっている食堂」の雰囲気だけをテーマパークのように残そうとしても、それはもはやただのはりぼてだ。そうしたはりぼてが作られつつある気配を那覇でも少し感じるけれど、そこにはあまり幸せな未来はないのではないかと思う。今この時代から、半世紀先が過ぎたあとに「あじ」と感じられるようなものは、どこに、どんなふうに生まれてくるのだろう。

 取材後は八重山平和祈念館に足を運ぶことができた。かなりこぢんまりした展示で、正直物足りないところはあったけれど、これまで沖縄の(それも南部の)戦争ばかりに目を向けてきたなとあらためて気づかされる。石垣島では米軍の上陸はなかった。ただし、首里が陥落したあと、「次はいよいよ八重山に米軍が上陸してくるのでは」と警戒が高まり、日本軍は住民を強制疎開させる。疎開させられた先には蚊帳もなく、多くの人が密集させられ、衛生状況も悪く、さらにそこはマラリアの媒介となる蚊がいる地帯だった。当然ながらマラリア患者が急増し、多くの方が亡くなってしまう。状況の変化を受け、強制疎開は解除されたものの、連絡機能が機能していなかったため患者は増える一方だったという。米軍の上陸はなかったのに、多くの方が命を落とした。その展示を見ていて、「一体何だったんだ?」と思っただろうなと想像する。米軍が上陸してくるからと言われて強制疎開させられて、たくさんの命が奪われたのに、結局敵は上陸してこなかった。じゃあ一体何のためにと、多くの人が思っただろう。そして、戦時下にありながら、敵に素通りされたことは、また違った感情を生んだのではないかと想像する。

 17時のバスで空港に向かう。さすがに土曜の夜に帰る観光客は少ないのか、バスは空いていてほっとする。それでも飛行機はそれなりに混み合っていた、マスクをずらしたまま過ごす人がちらほらいて、神経症が出てしまう。離陸する飛行機から夕暮れの石垣島が見えた。石垣島の景色を眺めていると、土の匂いが煙ってくるようだ。観光として売り出しているのは海なのだろうけれど、耕され、家畜が放牧されていた土の匂いが現時点では強く印象に残っている。しばらくすると夕焼けが始まり、夕日と雲とがとても鮮やかに見渡せた。22時過ぎに東京に戻り、モノレールで浜松町に出て、山手線に乗り換える。金曜夜だからか、電車はそれなりに混み合っていて、マスクをずらしたまま話している人の姿も少なくなかった。そもそもマスクをしていない若者の姿もちらほら見かける。ここ数日の感染者数を見ると、ヤバイなという感想しか出てこなかったけれど、ここは東京とは別の街なのだろうか。なんだかもうすべてが過ぎ去ったことのようになっている。そうでなければ、ゆるやかに死に向かって進んでいるようにしか思えなかった。

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 ただ、ぼく自身の感覚も常に揺れ続けているのだと思う。こうして日記をつけていると、たとえば3月下旬に「いよいよロックダウンか」となったときには、ようやく政治が動くのかとほっとした気持ちになっていたけれど、その一方で、自分の移動について政治からとやかく言われる筋合いはないという気持ちが強いときもある。自分の感覚というのは一貫したものではないのだと再認識させられる日々だからこそ、その日々のばらばらな感覚を書き残しておかなければと思う。