9月27日

 7時過ぎ、身支度をする知人の音で目を覚ます。朝、琉球新報デジタル版の購読手続きをする。今日から僕の連載「まちぐゎーひと巡り」が掲載されている。当面のあいだは月1回、第4金曜に掲載される。タイトルは僕が考えるよりも、記者の方に考えてもらったほうが紙面にふさわしいタイトルになると思ってお任せした。『市場界隈』を出版したあとで、「この地域を指し表す言葉として『まちぐゎー』があるのに、それを使わずあえて『市場界隈』としたのはなぜか」と尋ねられて、「まちぐゎー」というのは地域の方の言葉で、1年取材したくらいの僕が使うのは憚れると答えたことも思い出されるけれど、紙面に掲載されるタイトルとしてはやはりこちらのほうがよいと思う)。紙で手にしていないから実感が湧きづらいけれど、考えてみれば自分の書いた言葉が新聞に掲載されるのは初めてのことで、嬉しくなる。

 アイフォーンから琉球新報を読む。「観光業 外国人従業員が増/県調査18年度 賃金、日本人より低く」という記事。2016年度には、観光業のうち外国人が在籍している企業は2割程度だったのに、2018年度にはほぼ半数にまで急増している。しかし、日本人の賃金が21万3千円であるのに、外国人は16万4千円である(しかも、日本人労働者は8千円増であるのに、外国人労働者は4千円減)。また、紙面には神里雄大の新作を紹介する記事があり、書き手を見るとルーシーこと鳥井さんだ。その新作は京都で世界初演されることになっていて、京都には観に行けなそうだと残念に思っていたけれど、那覇公演があるなら取材に絡めて観に行けそうだ(それにしても、時期次第では京都より沖縄のほうが安く行けるのがやっぱり不思議だ)。「島豆腐 レトルトで長持ち/常温で90日 海外 出荷目指す」という記事。今帰仁の北山商店と本部の山城とうふ店がレトルトの島豆腐、その名も「れとるとうふ」を開発したとある。自宅で晩酌しようと思うと、たまにゴーヤチャンプルを作りたくなるが、島豆腐が手に入らないのが難点だなといつも思っていた。10月2日の「豆腐の日」から販売するとある。

 アイフォーンで読んだせいか、読み終えると目がぐるぐるする。セブンイレブンに出かけ、麻婆豆腐丼を買ってきてお昼ごはん。今日は音源がメールで届き次第、大急ぎでテープ起こしと構成しなければならない案件があるので、それまでリラックスして待つ。気合いを入れるべく、18時、セブンイレブンで喜多方チャーシューメンを買ってきて食す。黒ラベルのロング缶も1本飲んだところで、メールが届く。「なるはやで」と依頼をいただいていたのだが、実際にどれぐらい特急なのかと、どれくらいの文字数にまとめる必要があるのかを返信したのち、テープ起こしに取りかかる。21時、テープ起こしを終えてメールを確認すると、火曜にレイアウトが出たあとでよいとのことで、チューハイを飲み始める。

9月26日

 昨日は飲み過ぎてしまったのか、具合が悪く、布団から出られず。身体が重くなるのは久しぶりだ。文化庁があいちトリエンナーレへの助成金を取り消したとのニュースが流れてくる。いよいよここまできてしまったんだなと感じる。政権は「せいぜいこれぐらいしか反発がないだろう」という流れを常に読んで、さまざまな選択をしているのだろうけれど、こんなことが罷り通ってしまうとすべての文化事業は潰れてしまう。

 しかし、公的資金が文化事業に対して支払われることに対して、世間から厳しい目が向けられる日がくるのではと思っていたけれど、思ったより早くその時代がやってきたのだなと思う。今回の問題に対しても、「どうしてお前らの活動に対して税金が使われるんだ」と反発する人たちがかなりの数いるだろう。俺だって必死に生活しているのに、どうしてお前らのように文化や芸術に携わってのうのうと過ごしているやつが存在できるんだ、と。こうなってくると、いかに文化が大事なものかを説得しようとしても無意味だろう。いつからこんな空気になったのかと思ってみると、生活保護受給者に対する批判が起こり始めた頃から生まれてきた気分なのだろうなと思う。

 午後は10月前半の予定を立てる。RKSPの連載に向けて、取材の依頼をメールで送る。すぐにご快諾いただき、日程を調整し、航空券を手配する。オフシーズンに入ったこともあり、ジェットスターが片道5000円代でチケットを売り出しているので、久しぶりにジェットスターで手配する。夜、「越後屋本店」でアサヒスーパードライを1杯だけ飲んだ。22時、知人の帰宅時間にあわせて、豆腐入りのつくねを作り、晩酌。レシピ通りに作ってみたのだが、片栗粉が多かったらしく、かなりかっちりしている。「文化庁は『あいちトリエンナーレ2019』に対する補助金交付中止を撤回してください。」という署名サイトができていると知り、すぐに署名するも、まだ数千人しか集まっていないことに驚く。今日の出来事につながっていることだと思って、知人にも見せようと、ETV特集辺野古 基地に翻弄された戦後』を再生しながらチューハイを飲んだ。

9月25日

 7時過ぎ、知人が身支度する気配で目を覚ます。茹で玉子を6個茹でて、2個食べる。コーヒーを淹れて、U.Tさんと那覇で話したことの構成に取りかかる。Uさんとは6月15日にトークイベントを開催したのだが、その1週間後に、飲みながらあれこれ話をした。トークイベントは市場が一時閉場を迎える前に開催されたものだったので、最終営業日を迎えたあとにも話しておきたいと思って、飲みながら話をしたのだ。4時間ぶんの話を、構成していく。

 昼、納豆オクラ豆腐そばを食す。午後も構成を進める。知人は今日は早上がりだったらしく、夕方に帰ってうたた寝している。18時、知人を起こしてアパートを出る。寿司が食べたいと知人が言っていたので、「ちよだ鮨」でえんがわの握り(4貫入り)を買って、「越後屋本店」でアサヒスーパードライを飲みながらツマむ。2杯飲んだところで席を立ち、山手線で池袋に出て、東京芸術劇場シアターイーストで贅沢貧乏『ミクスチュア』観る。自分はこれに4千円払ったのか、と思いながら観る。

 劇の冒頭で、登場人物たちは薄暗い中を、なにかの生物が出没したことを噂し合っており、「入ってきたらたまったもんじゃないわ」と語っている。素直に聞けば猪か猿か熊といった野生生物だが、そのコミニュニティにとって異質な存在を示しているのだろうなと思う。舞台が明るくなってみると、舞台上を俳優たちが行き交っているのだが、俳優が突然猿のような動きになり、まわりがそれを騒ぎ立て、しばらくして俳優はまた人間のような動きに戻る。やはりこれは、同一の価値観で構成されているコミュニティ/その価値観の外側にいる人間を示しているのだろうなと思って観ていたのだが、それは本当に野生動物として物語が進んでゆく。

 舞台では二つの軸が描かれる。一つは、その野生動物に対する態度だ。「姉」として登場する元モデルの女性は、「ザージバル」――と聞こえたが表記が正しいかはわからない――という思想にハマっている。それはほぼヴィーガンと重なる思想だが、動物性のものを摂取しないだけでなく、手も洗わずに菌と共生し、私とその外側とに境界線を引かない生き方をするのだと語る。その思想を説く女性に、もうひとり登場する女性――近所のおばちゃんといった佇まいだ――は共感する。だが、それに共感しながらも、彼女は動物を飼っている。その動物というのが、街に登場した野生動物で、彼女も他の人たちと同じように最初は怯えていたのに、動物たちを手懐け、飼い始めたのである。そうして動物を飼っていることを、ザージバルの女性は「人間のエゴだ」と言い、おばちゃんは「でも、懐いてるもの」と反論する。だが、野生動物がひとたび暴れ始めると、両者とも、他の人たちと同様に、野生動物を排除しようとする。そうして動物は、誰かに撃たれて死んでしまう。

 まず、この「誰かに撃たれて」というところが謎である。まず「撃つ」と語られながらも、銃は小道具としても言葉としても登場していない。それに、いかにパニックに陥っていたとはいえ、さほど広くもない空間で、「誰が撃ったかわからない」なんてことが起こりうるだろうか。だからといって、撃ったという事実をもみ消すために――それこそ「関東大震災における朝鮮人虐殺などなかった」と言い張る人々のように――強弁している、といったふうにも見えない。その殺害をどう見るかと考えれば、「普段はザージバルだの、動物が可愛いだの言っているのに、一皮剥げばそんなものでしかない人間」というものを描いて見せた、ということは考えうる。野生動物に怯え、大立ち回りをしていた人たちは、自分たちの責任を放棄し、「後片付け」をジムの清掃員に――この舞台の主役ともいうべき男女に――すべて押しつけてしまう。

 そこから現代に対する風刺を見出すことは不可能ではないけれど、その風刺はとても浅いという感じを免れない。「皆、口ではそれらしいことを言っていても、化けの皮を剥いでしまえばそんなものだ」と指摘することが今の時代に響く風刺だとも思えないし、それに説得力を持たせるだけの演出も感じられなかった。もしそうしたものを観客に感じさせたかったのだとすれば、という仮定の話になってしまうけれど、そこですべてを押しつけられる清掃員をどう描くかが舞台の肝となるはずだ。でも、その存在はいかにも書き割りといった感じだった。僕は読んでいないので、講評からだけの印象になってしまうけれど、先日、芥川賞候補作に登場する窓の清掃員をめぐる話も思い出された。そうしてすべてを押しつけられながら暮らしている清掃員をいかに描くかが肝であるはずなのに、細部を描く、という質感はまったく感じられなかった。たとえば、一緒に暮らすふたりの清掃員がコンビニエンスストアで買ってきたのだとおぼしきパスタを食べているシーンが登場する。それはミートソースのスパゲティなのだが、なぜミートソースを選んだのか、特に必然性は感じられなかった。強いて言えば、その食事のシーンに姉が乱入して、動物性のものを食べていることを咎めるためにだけ、そのミートソースは舞台に置かれているように感じた。その登場人物たちに、ミートソースを食べそうだという質感というのか、生活の影のようなものはまったく感じられなかった(そして、これは間近で見たわけではないので正しくない批判かもしれないが、コンビニのパスタの容器というのは、商品によって微妙に色が違っているけれど、その容器はミートソースのパスタの容器には見えなかった)。

 ただ、この作品が何かしたら「多様性」というテーマに言及したかったのであろうことはわかる。舞台上では、二度、ヨガのシーンが描かれる。このヨガ教室では、先生が生徒の前に立ってポーズを示すのではなく、ラジオ体操のように、音声だけでポーズが伝達される。その言葉から連想する動きを、生徒たちはそれぞれに想像し、実践する。ただ、一度目のシーンでは、途中までバラバラのポーズを取っていた生徒たちが、「ダウンドッグのポーズ」と言われたときだけは同じポーズをとる。だが、舞台のラストでリフレインされるヨガ教室では、もはやダウンドッグで同じポーズをとることもなく、それぞれに勝手なポーズをとり続ける。これは一体、何を意味するのだろう。建前ではさまざまな主張をしながらも、二体の野生動物を殺し、それをなかったことのように処理した登場人物たちが、より多様なポーズをとる。そこに何の必然性があるのか、僕にはまったくわからなかった。

 多様性ということでいえば、清掃員である男性は、恋愛というものに関心を持てずにいる体質であるという。だから彼は、一緒に清掃員として働く女性を家に居候させながら、普通に暮らしている。女性のほうは、男性に対する恐怖症なのか嫌悪感なのか、を抱いているように見える場面もある(あるいは、ジムに通う大学院生の二人組がいるのだが、そのうちのひとりは同性が恋愛対象であるようだ)。そうして多様な意識が描かれるのだが、舞台の終盤で、清掃員の女性は男性に対して、やはり自分は特別な感情をあなたに抱いてしまっている、と語る。そして、男性を自分に抱きつかせる。その暴力は、一体なぜ描かれたのだろう。そうして多様性を描こうとした(のであろう)作品で、当事者でもある人が、そんな「ふつう」の状態に事態を収斂させようとしたのだろう。一方で、抱きついてみたらと提案された男性は、何度も躊躇いながら、ぎこちなく、相手を抱きつく。その描写にもどこか違和感をおぼえる。それは恋愛や性的なことに「興味を持たない/優先順位が優位にない」のではなく、「恐怖心がある」状態だろう。そのふたつの意味からも、どうしてそのシーンが描かれたのか、僕にはわからなかった。

 そういったことはすべて頭で考えたことだが、舞台を通して、「このような世界を舞台上に出現させたい」という作り手の何かを受け取ることがほとんどなかったという気がする。たとえば、街を歩くように俳優たちが舞台上を行き交うシーンがあるのだが、「他のどの動きでもなく、この動きを私は舞台上に配置したいんだ」という感じをほとんど受け取ることがなかった。それが何より、決定的なことであるように思う。劇場を出て、「ふくろ」に入り、ビールで乾杯する。知人もまた、「『あれ』とか『それ』で全部話が進んでる感じがして、マジで何の話をされてるのかわからんかった」と言いながら、知人はハムカツにかじりつく。

9月24日

 7時過ぎ、知人が身支度する気配で目を覚ます。茹で玉子を茹でて食し、布団に腹ばいになったまま、M.Nさんとのトークイベントの構成を進める。昼、納豆オクラ豆腐そば。郵便受けを覗くと、『テレビブロス』が届いている。又吉直樹さんの新作『人間』の小特集が組まれており、そこで著者インタビューの聞き手を務め、「又吉直樹と『人間』」というお題で文章を寄稿した。写真がよく、しばらく眺める。午後も構成を進め、夕方頃に完成。このテキストを掲載してもらえないかと、RKSP社の方にメールを送っていたのだが、返信がないままになっていたので、ツイッターのDMで相談し直す。すぐに返信があり、メールを見逃してしまっていたとある。すぐに検討するけれど、「ニュース」ではなく、開催から時間が経ってしまったので難しいかもしれないとのこと。掲載媒体がどこになるかはともかく、M.Nさんの新刊が刊行されるタイミングに合わせてどこかに掲載できないかと、その新刊の担当編集であるUさんにもDMをお送りする。送信ボタンを押すと、ひゅん、と長文が青い吹き出しで表示され、こんな相談はDMではなく、もっと別の方法で送るべきだったのではと思ったが、送ってしまったあとではもう遅い。知人の帰りを待って、昨日の残りのカレーをツマミに晩酌。

9月23日

 7時半、身支度する知人の気配で目を覚ます。知人を見送り、シャワーを浴び、洗濯機をまわす。洗濯物を干したあと、昨日茹でておいた茹で玉子を2個食べて、M.Nさんとのトークイベントの構成を進める。昼、納豆オクラ豆腐そばを作って食す。ベランダに出てみると、台風が近づいていて風が非常に強いこともあり、洗濯物はもう乾いている。再び洗濯機を回し、干す。しばらくして様子を見に行くと、物干し竿の穴に通しておいたハンガーは無事だが、物干し竿に洗濯バサミで留めておいたハンガーは飛ばされている。結局この日は洗濯機を3回転した。

 夕方になってアパートを出て、「越後屋本店」に行き、アサヒスーパードライを飲んだ。風は強いけど、三連休は雨の予報だったので、今日は雨が降らなかっただけありがたいですとお店の方が言う。ひとりでぼんやり飲んでいると、ここで時折顔をあわせる女性が声をかけてくれる。前に飲んだとき、『待ち遠しい』を紹介したのだが、さっそく「往来堂書店」で買い求めて読んでくれたという。「『不忍界隈』の隣に並んでました」と言われて、もしかしたらトークイベントをやった縁でそんな配置にしてくださったのかなと嬉しくなると同時に、そんなに細やかに棚を動かされているのだなと、改めて感じ入る。

 21時過ぎ、『キングオブコント2019』を見返しながら、スパイスカレーを作り始める。久しぶりに友人からメッセージが届き、どこかでキングオブコントについて話したいですと書かれてあった。最初はお酒を飲みながらみたので、話すべきことを考えながら、見返していく。知人が帰ってきて、少し遅れてカレーが完成し、録画を消化しながら晩酌。

9月22日

 7時半、身支度をする知人の気配で目を覚ます。知人が出かけたあとに起き、茹で玉子を作って朝食をとる。10時にアパートを出て、千代田線と山手線を乗り継ぎ、代々木へ。この連休にはF.Yさんのアトリエでオーダー会が開催れている。今日は取材として、オーダー会の様子を見学させてもらうことになっている。10時50分にアトリエに到着すると、壁に新作のニットがかけられており、棚や机にもたくさんニットが並んでいる。11時半、最初のお客さんがやってくる。邪魔にならないようにしながら、選ぶところを眺めて過ごす。その風景を眺めていると、胸が一杯になる。

 ヴィンテージのニットに染めと箔を施しているので、値段も決してお手頃ではなく、価格は8万円くらいになる。もちろんそれだけ素晴らしいニットだとわかっているけれど、普段の自分の生活を考えると、5万円を超える洋服となると、コートを何度か買ったくらいだ。8万円の買い物となると、おそらくきっと、大きな買い物だろう。ただ生きていくことだけを考えると、もっと廉価に済ませることだってできるのに、この服を着ると「選ぶ」姿を目の当たりにして、なんだか胸が一杯になってしまう。

 ニットを手に取り、まずは自分が着ている姿を想像している。そして、それを試着して、鏡の中に映る姿を見ながら、今度は自分の日々のなかでそれを着ている姿を想像する。しかも、今日のオーダー会では、自分の好きな場所に好きな色の箔を入れてもらえるので、まだ箔の押されていないニットを見つめながら、そこに箔が入ったところを想像している。そうやって未来の自分の姿を想像している姿にも、胸が一杯になる。それと同時に、僕は自分というものに目を向けなさすぎているのかもしれないなと思う。普段の生活でもあまり鏡を見ないし、服屋に入っても、あんまり鏡を見ることなく買ってしまう。

 どこに箔を入れてもらうか、ずっと迷っていた女性は、袖口にも箔を入れることを選んだ。そのニットは袖が長く、折り返して着るとぴったりのサイズだ。普段は袖を折り返して着て過ごして、たまに「今日は袖に箔が欲しいな」と思う日には袖を折り返さず、だぼっとしたサイズで箔を見せながら過ごしたい、と。ただ続いてく日々に、そうして「選ぶ」という行為を入れることで、その日々を自分のものにしていくのだなと思う。

 ひと組目のお客さんをお見送りしたところで、アトリエの外にテーブルを出して、Yさんとアシスタントの女性と3人で昼食をとる。僕は買っておいたおにぎりを食べた。13時半に次のお客さんがいらっしゃる予定だったが、何か急な出来事があったのか、ふた組目のお客さんはいらっしゃらなかった。Yさんはニットの穴を見つけては補修する作業を続けている。気の遠くなる作業だ。作業をしているYさんに、次の次の回に向けて、少し話を聞いておいて、14時45分にアトリエをあとにする。

 歩いて新宿に出て、「富士そば」(新宿店)へ。明日葉天そばをすすっていると、ばりっとした身なりをしたお客さんが次々やってくる。ちょうど休憩時間に入ったところなのだろう、伊勢丹で働いているとおぼしき人たちだ。この狭い富士そばには何度か立ち寄ったことがあるけれど、こんな風景があったのだな。そばを食べ終えると、バスで南池袋「古書往来座」へ。少し前にお願いした企画の相談にと思っていたのだが、やるべきことが山積みらしく、「今、スイッチがかちっ、かちって切り替わってて、『何をやろうとしてたんだっけ?』みたいになっちゃう」とセトさんが話してくれる。2冊ほど買って、また今度飲みに行きましょうと挨拶して店を出ようとすると、ちょうどムトーさんがやってくる。「あれ? はっちは今、日本にいるんだっけ?」とムトーさんが言う。

 池袋に出て、無印良品で必要なものを買い揃える。昨日、久しぶりに掛け布団を引っ張り出したのだが、カバーが見当たらなかった。まずは布団カバーを物色してみると掛け布団のカバーだけで7千円とある。今使っている掛け布団は4980円で買ったものだから、中身より外側のほうが高くなるのか……。とりあえず購入は見送り、靴用の防水スプレーや、小さな靴下干し、シャンプーとリンスを機内持ち込みの荷物にするためのミニ容器などを買い揃える。前に住んでいた環境に比べると、無印良品が少し遠くなり、旅先で立ち寄る機会の方が多くなっている。前に那覇を訪れたときも、「このタイミングで買い物しておこう」と思ってカゴに入れていき、会計をしようとしたところで「ああ、飛行機に乗るんだから、防水スプレーは運べないな」と気づき、商品を棚に戻したこともある。

 外に出ると、雨が降り始めている。ビックカメラに行き、7階の生活家電のフロアで炭酸メーカーのボンベを交換する。三連休とはいえ、ずいぶん混雑しているなと思っていたけれど、そうか、増税前の駆け込み消費だったのかとあとになって気づく。池袋までバスで出たことはあるけれど、バスでアパートに戻ったことがないなと思い、バスのりばを探し、浅草寿町行きのバスに乗る。スーパーマーケットに寄り、帰宅する頃には18時を過ぎている。

9月21日

 7時半、知人が身支度する気配で起きる。朝、セブンイレブンでハムサンドを買う――つもりが品切れで、代わりにホットドッグを購入する。サンドイッチは250円くらいするのに、ホットドッグは138円とあり、少し驚く。ソーセージをパンで挟んだだけとはいえ、手頃だ。コーヒーを淹れて、朝食。午前中、またしてもブルーレイレコーダーのことを調べてしまう。今のレコーダーは2016年に買ったもので、wi-fi経由でケータイからも宅外視聴が可能なのだけど、どうしても再生が不安定なのだ。僕が買った次のモデルからは「番組持ち出し」という機能があり、ケータイにダウンロードして、オフライン再生が可能になっている。テレビを観るのも仕事なので、もっとさくさく観るために、新しいブルーレイレコーダーが欲しいと、ずっと思っている。

 現在のレコーダーは6番組を同時に録画できるモデルだ。知人も僕もあれこれ録画するので、特に年末年始となると、せめて4番組くらいは録画できなければ困る。今のレコーダーを買った頃には「全録」も登場し、たくさんの番組を同時録画できる方向に向かっていた気がするのだけれど、現在は2番組もしくは3番組のレコーダーのほうが多く、6番組同時に録画できるのは高価なモデルだけだ。たしかに、今の需要を考えると、「4番組以上を同時に録画したい」なんて、ごく一部の限られた層になってしまっているのだろう。物色しながら、現在のレコーダーを使い続けつつ、廉価なレコーダーを買い足して、僕が旅先で視聴したいドキュメンタリーをそちらで録画するというのがベストかもしれないなと考える。

 昼、納豆オクラ豆腐そばを作って食す。午後は6月末に沖縄で開催したトークイベントの構成に手をつける。17時過ぎ、半袖に半パンで買い物に出ると、肌寒くてびっくりする。暑さ寒さも彼岸までとは言うけれど、ほんとうに夏が終わってしまったのだなと思う。気分はまだ8月下旬くらいで留まっている。食材と一緒に、キンミヤと黒霧島の1升パックを買っておく。アルバイトから帰ってきた知人が、先日の公演に関する事務作業を終えるのを待ち、『キングオブコント2019』を観ながら晩酌。塩サバを焼き、黒霧島のお湯割を飲んだ。今年初のお湯割である。準決勝に残ったメンツを見て、競馬で言うなら、かが屋空気階段馬連を買ったような気持ちで観始めたのだが、二組とも決勝に残っており、嬉しくなりながらも、二組ともが馬群に沈んでゆく。

 優勝したどぶろっくのネタは、知人も僕も、大笑いしながら観た。ああして芸人を続けてきたコンビが優勝してよかったなと思う。それと同時に、昨年のM-1後に、ラジオで中川家が語っていたことを思い出す。そこではジャルジャルのネタがYouTubeみたいで、和牛のネタがお芝居みたいであるのに対して、霜降り明星だけが心の底から自分が言いたいこと、魂の叫びのようなものを感じさせるネタだったと語られていた。今回のどぶろっくのネタも、そこで語られていた「魂の叫び」に近いものだろう。彼はずっと、下ネタと言われるような歌ネタを続けてきた。それをブレずにやり続けてきた。それを観客のほとんどは知っており、その生き様を含めて「待ってました」という心地で笑ってしまう。

 もちろんお笑いは常に属人的な側面があって、たとえば大喜利にしても、同じ回答をAさんが出すのとBさんが出すのとでは笑いの量は違ってくるだろう。単純にネタとしての面白さというものは存在し得ず、常に「それを誰がやっているのか」が重要にはなってくる。ただ、キングオブコントという大会で今回どぶろっくが優勝したことを考えると、よりそのネタをやっている本人、「私」という要素が強くなってきているようにも思う。コントとはフィクションでもあり、「私」から遠く離れたネタというものは、今後どういう観られ方をすることになるのだろう。そもそもフィクションが今後どのように求められていくのかと、お湯割でとろけながら思いを巡らせる。