沖縄滞在5日目

 朝7時に起きて、入稿したデータの修正作業を行う。10時にホテルをチェックアウトして、那覇行きのバスに乗車する。県庁前でバスを降りて、県庁に沿って歩き、ハーパービュー通りに出る。上泉から出る40番大里線のバスに乗って、目指すは南風原文化センターだ。ここは南風原の人々の暮らしや沖縄戦に関する資料が展示されており、すぐ近くには沖縄陸軍病院壕が残っている。ひめゆり学徒隊が最初に動員された場所だ。

 沖縄陸軍病院が組織されたのは1944年5月のことだ。しかし、その年の10月10日にいわゆる「十十空襲」があり、病院は南風原の学校校舎に移転する。戦局の悪化を見越して、軍は南風原の丘に約30個の壕を掘る。3月下旬、いよいよ米軍の艦砲射撃が始まると、陸軍病院は壕の中に移る。ひめゆり学徒隊と引率教師240名が沖縄陸軍病院に動員されてきたのは3月23日のことだから、まさに壕に入る頃のことだ。


この写真は今回撮影したものではなく、2013年、初めて見学したときのもの。

 4月1日に米軍が上陸すると、次々と負傷兵が運び込まれてくる。狭い壕には両脇に二段ベッドが置かれ、壕の中で手術も行われた。壕はすぐに一杯になり、ひめゆりの子たちは立ったまま眠ることもあったという。また、食事や水の確保も彼女たちの仕事なのだが、病院壕のそばで米を炊くと、煙で場所がばれてしまう。そこで彼女たちは銃弾の飛び交う「めしあげの道」を通って近くの集落まで行き、そこから食事を運んでいた。

 さきほども書いた通り、病院壕があるのは南風原の丘だ。平和の鐘や石碑がある場所には芝生が生えているのだが、いつきてもよく手入れされている。ちょうどお昼休みの時間なのか、芝刈り機が丘の端に残されている。赤とんぼがたくさん飛んでいる。セミがたくさん鳴いている。リュウキュウアブラゼミの鳴き声だ。このセミの声を聴くたびに、『cocoon』のことを思い出してしまう。あの舞台で、開演前の会場で流れていたのは、このセミの声だ。

 12時半に南風原文化センターを出ると、歩いて糸数アブチラガマを目指す。今日は一日、ひめゆり学徒隊にまつわる場所を歩いて辿ってみようと決めている。別に歩いたところで何がどうなるわけでもないことはわかっているが、とにかく一度歩いてみようと決めていた。炎天下を歩いているとさっそくくじけそうになるが、1時間半ほどかかってようやく、糸数アブチラガマが見えてくる。ガマの入り口には黄色いヘルメットをかぶった修学旅行生がいて、見学に先立って説明を受けているところだ。

 糸数アブチラガマは全長270メートルにも及ぶ自然洞穴(=ガマ)だ。このガマは日本軍の陣地として整備されていたが、米軍の攻撃が始まると糸数地区の住民の避難場所としても使用された。このガマに沖縄陸軍病院糸数分室が設けられることになり、ひめゆりの子たち14名が教師に引率されてやってきたのは5月1日のことだ。戦況は悪化し、次々重傷の患者が運び込まれてくる。患者の傷は悪化し、膿と蛆だらけになり、破傷風や脳症を発症する患者も少なくなかったという。

 沖縄戦で米軍が侵攻した地図を見ると、米軍はスピーディーに北進し、上陸から1ヶ月以内にはやんばるを制圧している。南部についても途中まではすんなり進軍しているが、司令部のある首里の手前で日本軍の激しい抵抗に遭う。40日間にわたって、わずか4キロの範囲で激しい戦闘が繰り広げられるが、次第に米軍は中部戦線を制圧していく。熾烈を極めたシュガーローフの戦いに日本軍が敗れたのは5月18日のことだ。シュガーローフ、つまり安里高地を突破されたということは、那覇市街を米軍に制圧されたということになる。つまり、首里にある司令部は米軍に包囲されることになってしまう。

 シュガーローフの戦いに敗れたあと、今後の動向については3つの案が提出されたという。そのうちの2つは南部への撤退という案であり、1つは首里に残って徹底抗戦するというものだ。島田沖縄県知事は「住民を道連れにするのは愚策である」として南部撤退に反対していたというが、軍が最終的に選択したのは南部撤退であり、5月25日、南風原陸軍病院や糸数アブチラガマにも南部撤退命令が下されることになる。

 僕も南部を目指して歩く。南部といっても、ここはすでに南部であり、アブチラガマから数分歩くと海が見えてくる。あれはたぶん、奥武島のあたりだろう。彼女たちが目指したのはあの海ではなかったのだなと思う。おそらくあの海には米軍の艦隊が並んでいて、そこから艦砲射撃が行われていたはずだ。飛行機の音が聞こえる。よく晴れているが機影は見えない。陽射しは強いが風が吹いていて心地いいくらいだ。選挙カーが通りかかり、ウグイス嬢が手を振る。肥料の匂いが漂ってくる。サトウキビ畑が両側に広がっている。30分ほど歩いたところで、三線と太鼓の音が聴こえてくる。音のするほうに近づいていくと、獅子舞が披露されているのが見えた。そこは「おきなわワールド」だ。

 おきなわワールドといえば、かつてハブ対マングースのショーが開催されていたテーマパークだ。せっかくなので入園して、少しだけエイサーを見物する。今日は平日だが、園内は観光客で賑わっている。修学旅行生が大勢いる。家族連れや団体客もいる。中国人や白人の姿もある。結構なことだと感じる。70年も経てば、これだけ風景は変わるのだ。問題はそのときをどう凌ぐかだ。

 おきなわワールドのすぐ隣にはガンガラーの谷がある。亜熱帯の森が広がるこの場所は、約1万8000年前に生きていた港川人の居住区である可能性もあり、発掘調査も進められている。予約をしておけば1時間ほどのネイチャーツアーも可能で、2013年にはこのツアーに参加したことがある。谷の入り口には大きな鍾乳洞があり、普段はカフェになっている。2013年の秋にはここでクラムボンのライブを観たことがあるし、2015年の夏にはリーディングライブ「cocoon no koe cocoon no oto」を観たこともある。

 これだけの森が広がっているにもかかわらず、戦争中にここに避難していた人はいなかったと聞く。これだけ身をひそめられそうな場所があるのに、ここに隠れる人はいなかったのだ。ひめゆりの子たちがどんなルートで移動したのか、僕は知らないけれど、彼女たちもまたここに避難することはなかった。南部撤退命令が出たあと、沖縄陸軍病院が移転したのはひめゆりの塔のある、糸満市伊原のあたりだった。軍の司令部が移転する摩文仁の丘から4キロほど西にある場所だ。

 あらためて、昨日名護博物館で観た展示を思い出す。あの展示では、沖縄陸軍病院が南部撤退を始めた5月25日の記述として、「大本営、沖縄作戦に見切りをつける」と書かれていた。この「見切りをつける」というのが何を指すのかはわからない。しかし、陸軍病院に撤退命令が出された日付と「沖縄戦に見切りをつける」日付が同じ日であることに、どうしても考えてしまう。ただ大本営内部の判断として「見切りをつける」のではなく、「これ以上沖縄で戦闘を続けても無駄だ」という判断を届けていれば、沖縄戦はここまで悲惨なものにはなっていなかっただろう。

 戦争が終わったあとに日本が復興するためには、当然人の力が必要だ。でも、3万人の日本兵と10万人の住民が南部の狭いエリアに押し込められ、多くの命が失われてしまった。戦争が終わったあとのことまで、未来のことまで考えている人がいなかったのは本当に悲劇だ。もし5月下旬の段階でひめゆり学徒隊に解散命令が出ていれば、このガンガラーの谷に身を潜めてやり過ごせた人もいるかもしれない。かもしれない、ということを考えたって仕方がないのだけれど、涼しい風の吹き抜ける鍾乳洞の下でアイスコーヒーを飲んでいると、どうしてもそんなことを考えてしまう。

 ガンガラーの谷を出て、伊原方面を目指して歩く。それにしても、このあたりは見晴らしが良過ぎる。ところどころに丘はあるけれど、基本的には平原だ。そこを歩けば、移動しているのがすぐに見つかってしまう。最短ルートではなく、丘を抜けるルートを選んで進んでゆく。途中から舗装された道ではなく、轍が続く山道になる。平地は平地で“鉄の暴風”が吹き荒れていたのだろうけれど、山の中を歩けば敵と遭遇するかもしれず、恐ろしかっただろう。

 一つ山を越えると、また山だ。足はすでにパンパンだ。本当に歩ききれるだろうかと不安になりながら、うつむきがちに坂をあがると、少し開けた場所に出た。そこは八重瀬公園といって、「白梅の塔」という看板が出ている。ひめゆり学徒隊は沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の教師と生徒によって構成されていたが、学徒隊はこの一つだけでは当然なく、沖縄県立第二高等学校の教師と生徒は「白梅学徒隊」として動員され、この場所で看護活動にあたっていた。

 公園の中には自動販売機があった。そこでペプシ・コーラを飲んで、また山道を歩く。重そうな雲が空を覆い始める。影ができると、少しは歩くのが楽になる。しばらく進むと飼料と糞の匂いが漂ってくる。家畜小屋が見えるが、中には何の動物がいるのだろう。ただ、立ち止まって眺める余裕もなく、そのまま歩く。しばらく経って、後ろから「モオー!」という鳴き声が2度聴こえてくる。あれは牛舎だったのだな。レーダーのような装置が向こうに見える。ただ、あたりの風景はただただのどかで、畑が続く。ラジオの音があちこちで聴こえる。人影は見えなくても、ラジオの声だけは聴こえている。

 2つめの山を越えると、右手にはゴルフ場、左には自衛隊の基地が広がる道になる。正面にまた海が見えてきた。水平線がずいぶん高い場所に見えて不思議だ。このあたりになるともう、頭に言葉は浮かんでこなくなって、ただひたすら歩く。金髪の前髪をたなびかせた馬がいた。思わず立ち止まって眺めていると、一歩だけこちらに近づいてきて、僕のほうをじっと眺めていた。白梅の塔からおよそ1時間歩いたところで集落に出た。真栄平という地区だ。真栄平ストアーという店で久しぶりに自動販売機を見つけて、さんぴん茶を買って飲んだ。500ミリを一気に飲み干してしまう。

 足の裏にマメができたのか、ずっと痛んでいる。このあたりからはまた風景が変わってきて平原が広がっている。しばらく歩くとまた小さな山が正面に見えてくる。勘弁してくれよもう。ヒーコラ峠を越えると、こどもたちの声が聴こえてくる。そこは米須団地という場所で、中学生くらいのこどもたちが野球をして遊んでいた。こんな狭い公園で野球なんて。そう思ってよく見ると、公園の隣に広がる駐車場を外野に見立てているらしく、駐車場には野手が3人立っている。オコエ瑠偉を彷彿とさせるすらっとした男の子がヒットを放った。

 この団地を抜けると、ひめゆりの塔に出た。ひめゆり平和祈念資料館はもう閉館してしまっており、見学客の姿は見かけないが、そのかわりに作業員の人たちがいる。ひめゆりの塔の前にはテントが張られ、パイプ椅子が並べられているところだ。明日の慰霊の日には、ここでも式典が開催されるのだろう。ここにあった伊原第三外科壕に撤退してきたひめゆり学徒隊は、6月18日の夜、解散命令を下される。「今日からは自らの判断で行動するように」と言い渡されたのである。

 動揺する生徒たちに、教師は「安全な場所を探して、ひとりでも多く生き延びなさい」と伝える。しかし、安全な場所と言われても、壕の外は砲弾が飛び交っている。なかなか外に出ることができずにいるうちに朝となり、第三外科壕が米軍の攻撃を受ける。その結果、壕にいた96名のうち86名がここで亡くなってしまう。他の壕にいた人たちも、突然の解散命令に戸惑っていたという。ひめゆり平和祈念資料館の図録には、伊原第一外科壕にいた上原当美子さんの証言が収録されている。数日前にひめゆり平和祈念資料館を見学したときの日記に、「当美ちゃん、脚がないよ」と言ってなくなった方のことが印象に残ったと書いた。この上原当美子さんこそ、その女性が語りかけていた相手だ。

 軍の解散は皆がしーんとしてから先生が伝えました。信じられず、ぼーっとしていました。今までは先生も友達も一緒だし、それに軍とも一緒ですから、まだ心強かったのです。解散といきなり言われ、力の抜けたこと。理由を聞く人もいません。皆ただ丸くしゃがみこんで、声にこそ出しませんでしたが、涙をぼろぼろ流していました。

 「これからは個別で、また小さなグループで行動し安全な所を探して行きなさい」と言っていますが、いまさらすぐ出て行けと言われても、壕は的に囲まれているのです。一刻を争う非常に危険な状態になっています。

 結局、南の方以外に行くところはありませんでした。蜘蛛の子を散らすように壕を脱出し、みんな山城方向に向かって走りました。

 時刻はもう18時になろうとしていた。このあと宿に移動するバスの時間が迫っていることもあり、走って海を目指す。ここまで5時間近く歩いてきたのに、まだ走る体力があったことに自分でも驚く。ひめゆりの塔を越えると再び風景が変わり、サトウキビ畑が広がる。空をパラグライダーが飛んでいる。途中で電球に囲まれた畑が見えた。真夜中に喜屋武岬を目指したとき、何度となく目にした電球だ。あの電球の灯りで何を育てているのか、今まではクルマで通り過ぎていたからわからなかったが、ちょうど農家の男性がいたので聞くことができた。そこで育てられているのは菊だった。夜に電球で照らすことで、開花時期を調整するのだという。

 ダンプ出入り口と書かれた場所に入り、草原に出る。そこを走り抜けると、荒崎海岸の入り口の前に出た。荒崎海岸はゴツゴツした岩で覆われている。波の音が絶え間なく聴こえている。岩の突端を感じながらよろよろ歩くと、ひめゆり学徒隊散華の跡が見えてきた。病院壕を出発して6時間、ようやくたどり着く。碑の前には杖をついた壮年の男性がひとり、手を合わせていた。金と銀の紙で折られた千羽鶴が捧げられているが、これはこの男性が置いたものではなく、もう少し前に置かれたものだろう。


 敵はアダン林を火炎放射器で焼き、隠れた人たちをいぶり出していました。私たちは平良松四郎先生にとりすがって海岸を逃げ回っていました。グループはもう12名になっていました。敵艦はすぐ近くまで寄って来て、マイクで「米軍が保護する。早く船に乗りなさい。泳げない者は昼間のうちに港川の方向に歩きなさい。夜は歩くな」と言っていました。顔も見えるんです。恐怖で震えました。火炎放射の火は迫るし、生きた心地もしません。

 それから後は喜屋武岬の海岸を潮が引いたら歩き、満ちたら蟹のように岸壁にへばりついて逃げていたんです。岸壁の下はすごい波しぶきでした。怖かったですよ。精も根もつき果てた私たちは、もう皆で自決しようと話し合っていました。特に3年生は、「平良先生、今のうちに死にましょう」と苛立っていました。「早くやりましょう。先生」と先生を追い詰めているんですね。

 ひめゆり平和祈念資料館の図録に収録されたこの証言は、第32軍司令部経理部に勤務していた宮城喜久子さんのものだ。手榴弾を手に歩く彼女たちは、「もう最期だから、歌を歌おうよ」といって、海に向かって「ふるさと」を歌ったのだという。そうして6月21日を迎える。その朝は砲撃がぱったり途絶えていたが、米軍の艦船は海に並んでおり、不気味な静かさに包まれていたという。宮城さんを含む12名は岩穴に隠れていたが、宮城さんと比嘉初枝さん、それに平良先生は入りきれず、岩にもたれかかって休んでいた。

 その時です。突然私の所に血だらけの兵隊が転がり込んできたんです。米兵に手榴弾を投げつけたため、逆にやられてこちらに逃げ込んできたのです。「敵だ」と言う叫び声が起こると同時に、平良先生が反射的に9名いる穴の方へ飛び込んでしまったんですよ。私と比嘉初枝さん2人は、すぐ隣の穴に倒れるように逃げ込んだのです。与那嶺松助先生のグループがそこにいました。ほとんど同時でした。

 米兵が駆け込んできたことを知った瞬間に、穴で休んでいた9名は手榴弾のピンを抜いていた。平良先生はそこへ飛び込み、9名と一緒に亡くなってしまった。反射的に反対方向へ飛んだ宮城さんと比嘉さんの二人は生き延びた。そうして10名が自決したのが、このひめゆり学徒隊散華の跡の碑が立つ場所だ。

 歩き始める前からわかっていたことだけれども、歩いたところで何がわかるというわけでもなかった。別に彼女たちとまったく同じルートを歩いたわけでもなければ、同じルートであってもまったく状況は違っている。想像することはできるのだけれども、それはすべて想像に過ぎない。ただ、一つだけわかったことがある。伊原の壕から荒崎海岸までは、歩いても30分ほどの距離だ。こんなにも狭い範囲で、大勢の人が逃げ惑い、命を落としたのだ。3月23日に動員されてから解散命令を受けるまでのあいだに亡くなったひめゆり学徒隊は19名だが、解散命令後のわずか数日で100名を超す人が亡くなっている。波の音と、パラグライダーのプロペラの音を聴きながら、しばらく海を眺めていた。

 ひめゆりの塔の近くまで引き返して玉泉洞糸満線のバスに乗り、向陽高校前で下車する。ここでバスを乗り換えだ。しばらく時間があるので、すぐ近くにあるファミリーマートオリオンビールを買って2本飲んだ。コンビニを見かけるのはずいぶん久しぶりだ。ここから東風平経由百名線に乗って、終点の百名バスターミナルに到着する頃にはとっぷりと日が暮れている。バスターミナルといっても、ちょっとした営業所があるだけだ。街灯がないわけではないけれど、道路はかなり暗くなっている。ここから宿まで、20分歩かなければならなかった。

 クルマも通らず、ずいぶん心細い気持ちになるが、歩かなければいつまで経っても宿にはたどり着けない。おそるおそる歩いて行くと、新原の集落が見えてくる。みーばるビーチのすぐそばにある小さな集落だ。家の中には灯りがついているが、何も音は聴こえてこない。窓は網戸になっており、家の中の様子がうかがえるのだが、テレビをつけるでもなく、椅子に座ってただ佇んでいる人の姿が見えた。この集落の端に、僕が今晩宿泊するペンションがある。先に料金の支払いを済ませて、部屋に案内してもらう。今日は僕以外に宿泊客はいないという。

 シャワーを浴びて、自動販売機で買ったビールを手にビーチに出てみる。時刻はもう22時を過ぎており、ビーチには誰の姿も見えなかった。夜にこのビーチを訪れるのは3度目だ。最初に訪れたときはひとりではなかったから、そこまで怖いと感じることはなかった。しかし、今年の3月に一人で再訪したときは、新月だったということもあって真っ暗で、おそろしく、すぐにクルマに戻ってビーチをあとにしたのを覚えている。今日は新月ではないけれど、それでも暗く感じる。ただ、不思議と恐怖を感じることはなかった。歩いてここまでやってきたからだろうか。小さなボリュームで音楽を流しながら、30分ほど海を眺めていた。


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『まえのひを再訪する』
著・橋本倫史 発行・HB編集部
四六判 210頁 2016年7月1日発行
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