先日、新潟の書店の郷土本コーナーで買った『地方紙と戦争 新潟日報第二代社長「坂口献吉日記」に見る』を読んだ。献吉は坂口安吾の兄に当たる人物だ。これを読んでいると、いろんな歯車が噛み合って戦争に突入してしまったのだということがよくわかる。

 日清戦争日露戦争のあいだに(特に写真)ジャーナリズムが飛躍的に発展し、人々は新聞や雑誌で戦果を読んで熱狂し、それが日比谷焼き討ち事件にも繋がる――という話は大学時代に学んだ。中央のメディアだけでなく、地方紙にも同様(ではないが)の変化がある。

 地方紙は、もともと「政党の機関紙」のような存在だったという。新潟毎日新聞は政友会系の、新潟新聞は民政党系の機関紙のような存在として、大正デモクラシーを支える役割を果たしていた。献吉も「新聞の事業は営利目的ではなく『社会的活動そのもの』」と記している。

 1930年代に入ると、地方紙のあり方が揺らぎ始める。「全国紙が本県に本格参入し、激しい競争の時代を迎え」る。その背景にあるのが、一つには「不況で都市部での広告収入や発行部数が減ったこと」があり、一つには交通網の発達(新潟の場合は上越線の全通)がある。交通網が発達することで、全国紙の地方への販路が拡大される。さらに、「ニュース合戦」も起こる。特に1931年に満州事変が起こると、「全国紙は新潟版を設け、県人兵士の戦死などをきめ細かく報じ」、資本力で劣る地方紙は競り負けていく。

 苦しい状況下で、献吉は日記に「新潟新聞は果して存在の理由有りや」と記す。当時、五・一五事件政党政治は瓦解し始めており、そんな時節に新聞の存在意義はあるのか――悩んだ献吉が見出した存在理由は『「郷土新潟及新潟港』の振興」だったという。新潟港の先にあるのが満州だ。

 苦戦する地方紙と同様に、満州事変以降苦境に立たされていたのが日本政府だ。「厳しい国際世論にさらされ」、「対外宣伝を強化し、国論を統一するには、強力な国家代表通信社が必要だと政府は考えた」。当初、地方紙は反発したが、1936年に同盟通信社が発足する。

 4年後には、海軍穏健派の米内内閣が「輿論機関(言論機関)の一致団結」を有力新聞社に呼びかけている。これは戦局の不拡大のための呼びかけだったが、これを受けて、ある新聞社の人間は「政府が求めるなら我ら敢て盲従も辞さぬ」と謝辞を述べている。その背景にあったのも「全国紙への対抗心」だ。「有力地方紙のグループは、国家と結びつきを深めることで全国紙の進出を抑制し、生き残りを図ろうとしていた」。だが、ほどなくして米内内閣が倒れ、第二次近衛内閣となり、大政翼賛会が発足する。こうなるともう、歯止めの効きようがないだろう。

 この『地方紙と戦争 新潟日報第二代社長「坂口献吉日記」に見る』という本を読んでいると、どこかで突然おかしな道に入り込んだというよりも、少しずつ首が絞まっているのがよくわかる。ただ、気になるのは、五・一五事件が起きた頃の献吉に関する記述だ。当時の献吉の日記の表紙には、「汝の声は風に吹き去られん。されど、一度は声をあげよ。」と書かれていたというが、ここから終戦に至るまで、言論が統制されていく状況に対して献吉が「声をあげ」たという記述は、少なくとも本書の中には登場しない。

 これは別に、声を挙げなかった献吉を非難したくて言っているわけではない。一つには、「自分がその立場だとして声をあげられるだろうか?」と想像してみたときに、いまひとつ自信が持てないからだ。

 もう一つには、たとえば、本書の中にも登場する斎藤隆夫の「反軍演説」のことがある。その演説はとても立派だと思うけれど、でも、それによって軍部が猛然と反発し、翼賛体制が近づいたのも事実だろう(もちろん斉藤隆夫に非はない)。同じような例はもう一つ登場する。それは、第二次近衛内閣による大政翼賛会を批判した大竹貫一による「怪文書」だ。「近衛の祖、藤原家は鎌足以来、皇室への不敬反逆を繰り返した。近衛は天皇親政の原則に反し、『幕府』をつくろうとしている。平安朝・藤原家の横暴の再現を見るようだ」――そうした内容の怪文書が出回ると、「右翼側からの批判に敏感になっていた近衛は(略)この事件後、急に復古的になり、右翼陣営に非常な配慮を示すようになったという」。こうして、声を挙げることが、さらに首を絞めてしまうこともある(繰り返すが、「だから声を挙げてはならない」だなんて言いたいわけではない)。

 謙吉が声を挙げた記述がないことが気になるのには、もう一点理由がある。それは、満州事変が起きた当時の日記のことがあるからだ。そこで献吉は、「軍の体質を厳しく批判しながらも、次のような論を展開」しているという。その内容は、以下の通りだ。

私有財産制度の存する以上戦争は永久にやまぬのである。而して日本が資本主義経済組織の上に立ち重工業を重要視する以上、満蒙に勢力を延ばさんとし、これが為め戦争も辞せざるはもとより当然である」

 この記述を受けて、本の著者は「献吉が日記で戦争やむなしとの考え方を示すのは、これが初めてだ」と論じる。リベラルだった献吉が、「満州事変を機に、『経済のための戦争』を肯定するわけだ」「わずかな期間に、時代の空気が急速に変わっていったことが分かる」と。はたして、献吉は「『経済のための戦争』を肯定」したのだろうか? 僕が読める日記は本に引用された限られた箇所だから何とも言いようがないけれど、「私有財産制度の存する以上戦争は永久にやまぬのである」という言葉に感じるのは、「肯定」というよりも「諦め」だ。

 言論が統制され戦況が悪化していく時代にあって、そこには何か諦めのようなものがあったのではないかと、この本を読んでいて僕は思った。そうでなければ、長岡が空襲され、焼け野原となった市街地で配られたビラに「長岡市民よ起て 戦列復帰が復旧の道」とは到底書けないのではないか。いや、諦めというと言葉が悪いかもしれない。でも、少なくとも、そのタイミングで「声をあげる」ことが状況を改善しないということは悟っていたのではないか――。

 そんな感想を抱きつつ読み進めていくと、「敗北からの出発」と題した章に出くわした。玉音放送に触れた献吉は、短歌を5首詠んでいる。その1首がこれだ。

「迷ひなく みことのまゝに うけなひて 新らしき世の 光かゝげむ」

 この短歌に触れて、本の著者はこう記す。

 献吉は、敗戦を迎える前から「戦後」を考えていたのではないか。地方紙トップとして、絶望的な戦況を知り得る立場にあった。

 戦争末期。安吾の友人、若園清太郎は、献吉が強い調子でこう言うのを聞いている。「ともかく、生き永らえることが大切だ」(『坂口献吉追悼録』)。

 「ともかく、生き永らえることが大切だ」。新しい時代を見据えていたからこそ、彼は声をあげずに耐え忍び、戦後を待っていたのではないか。そう思うと、この本の帯に「兄と弟の『堕落論』」と書かれていることに合点が行った。ともかく、生き永らえることが大切だ――そのことを、今年の夏は何度も繰り返し考えている。

地方紙と戦争

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