朝6時に起きてシャワーを浴びる。本当は7時過ぎの電車で出かけるつもりだったのだが、そんなに早くから出かける気力が湧いてこず、シャワーを浴びると再び布団にもぐり込んだ。糖が不足してしまっているのか、力が出ない。ヨーグルトを食べて、10時過ぎになんとかアパートを出る。

  10時52分、上野から常磐線に乗車する。土浦まではガラガラだったのだが、そこで車両が切り離されてしまうと、それなりに混雑し始める。2時間ほど経ったところで電車は水戸駅に到着した。すっかり腹が減ったので、売店で食べ物を物色するとゆで玉子が目に留まる。卵はいくつ食べても平気だと先生が言っていたのを思い出し、2個入りを購入する。

 それにしても、駅の売店でゆで玉子が売っているって、よくよく考えたらちょっと変ではないか。思い返してみれば、コンビニでもどこでもゆで玉子が並んでいる。生卵ではなくゆで玉子である。他の国でこんなことってあるだろうか。糖質制限に挑んでいる身としては大変助かるが、外出先や旅先でふいに「あ、ゆで玉子食べたい」と思うことって、そんなにあるだろうか。僕はこれまで一度もなかった。殻を剥く手間だってかかるし、ツマミにせよ空腹を満たすにせよ、もっとふさわしそうなメニューがいくつもある中で、ゆで玉子を欲する人がそんなに大勢いるのか。

 水戸駅を出発した時点ではそれなりに乗客がいたけれど、日立を過ぎると再びガラガラになる。僕が乗っている車両には6人ほどが座っている。一人はプレミアムモルツを、一人は氷結ストロングを飲んでいる。一体何をしている人たちなのだろうと思いながら、僕は手すりのパイプに玉子を打ち付け、ゆで玉子を食す。僕は僕で一体何をしている人なのだろう。ゆで玉子に味が付いていてビックリした。どういう仕組みで味がつくのだろう。最初から人間がおいしいと感じる味のついた卵が産まれてくるのだろうか。そんなわけないか。

 14時41分にいわき駅に到着した。今日は平日だが、同じ電車には大勢若者が乗っていて――いわきが近づいてくると混み始めたのである――駅前で顔を合わせた女の子と女の子があちこちで歓声をあげてはしゃいでいる。男子のグループは気になる様子でそちらを振り返ったりする。とりあえず空腹を満たすべく、僕は駅前にある商業ビル「ラトブ」へと向かった。ここの1階に回転寿司屋が入っているのだ。

 「ラトブ」に入ると、向こうに人だかりが見えた。近づいてみるとそこは吹き抜けになっているスペースで、皆、下の階を覗き込んでいる。僕も覗いてみると、フロアに畳が敷かれている。釜も見える。鎮魂と復興の願いを込めて、旧磐城平藩主・安藤対馬守伝来御家流の献茶が行われるのだという。僕はフィルムカメラを取り出して、何度もピントを確かめてからシャッターを切る。ファインダーから目を離してみると、周りの人は全員黙祷していた。ピントを合わせているうちに14時46分になっていたのだ。僕と同じように1階を覗き込んでいた人たちも、警備員も皆、黙祷している。近くにいた女子高生が涙をぬぐうのが見えた。僕は黙祷が終わるまでその姿を見ていた。

 14時47分になったところで1階へ降りて、回転寿司屋へと向かった。さて、何を頼むかが問題だ。糖質制限中の身としては、寿司は3皿が限度だ。まずは日本酒を注文したいところだがグッとこらえ、焼酎の水割りを注文する。それを一口飲んで、蜜柑ブリとシメサバをツマミとして頼んだ。熟考に熟考を重ね、まずはどんこの肝のせを食す。ウマイ。続けて、ウニ。ウマイ。水割りをお代わりして、最後にメヒカリを注文した。いわきと言えばメヒカリである。震災後数年は操業されていなかったが、2013年秋から試験操業が始まり、今ではこうして食べることができるようになった。

 コンビニでハイボールを買って、ホテルへと向かった。少しくつろいでいるうちに17時になり、再び街に出る。夜になると随分寒く、手袋をしていても少し冷えるほどだ。15分ほど歩いて、いわき芸術文化交流館「アリオス」に到着する。ここ劇場であり、耐震構造の建物であることもあり、震災後には避難所として機能していた場所でもある(そのため、僕が観るつもりでいた公演は中止となり、代わりにいわき総合高校で上演されることになった)。

 到着してみるとテントが見えた。何やらマイクで挨拶をする声が聴こえてくる。どうやら「東日本大震災の慰霊と復興祈願 第5回3.11祈りのつどい」という行事が開催されているようだ。そこを通り抜けてアリオスの中に入り、めあての場所を探す。今日は18時からアリオス小音楽ホールで、「あの日から5年、3.11の夕べ」というイベントがあると聞いて、いわきにやってきたのである。

 このイベントを知ったきっかけは、寺尾紗穂さんのウェブサイトだ。先週、「新世界」で行われたライブを観て以来、「寺尾さんの歌をもっと聴きたい!」という気持ちになっていた。ライブスケジュールを調べてみると、近場で開催されているものとして以下の公演が見つかった。

3月11日いわき

●あの日から5年、3.11の夕べ
3.11の夕べ@福島いわきアリオス小ホール
3月11日(金)18時 17:30開場
入場無料

 一体どんなイベントなのだろうと思って、イベント名で検索してみる。が、出てくるのはPDFファイルくらいのもので、ほとんど情報は見つからなかった。本当にイベントはあるのだろうかと半信半疑で、とりあえずアリオスの施設案内から「小ホール」を探す。が、大ホールや中劇場、小劇場といった施設はあるのだが、「小ホール」が見つからなかった。

 よくよく確認すると、離れのような場所に「音楽小ホール」という文字がある。廊下を歩いて「音楽小ホール」に行ってみると、入り口の前で物販用の書籍を並べている人たちが見えた。やはりここが会場のようだ。しかし、「開場17時30分」と書かれていたのに、まだ開場している様子はなかった。スタッフの人に訊ねてみると、「その情報は古い情報らしくて、実際には18時開場になるみたいです」とのこと。僕が話を聞いたスタッフの人は、ホールを貸している側のアリオスの職員で、詳細は主催者に確認してほしいとのことだった。

 まだあと30分あるのか――。何をして時間を潰そうかとアリオスの中をふらついていると、掲示板が見えた。そこにはリハーサル室やホールの利用者の一覧が貼り出されている。音楽小ホールは、午後(13:00〜117:00)から夜間(18:00〜22:00)までブチ抜きで一つの団体が書き込まれている。そこにはこう記されている。

 サーッと血の気が引いていく。一体どういうことなのだろう。僕が聞いていたイベントとはまったくタイトルが違っている。彼らの政治主張に対して異議を唱えるつもりはないが、それとこれとは別問題だ。僕は原発事故に関する演奏会を聴きにきたつもりはなく、5年前のあの日に、5年という歳月に、そしてこれからのことに想いを馳せるつもりでやってきたのだ。それが、どうしてこんなことになるのだろう。

 開場時間を迎え、中に入ってみると「あの日から5年、3.11の夕べ」という看板がちゃんと掲げられていた。だから、「アリオスに届け出るときに、そういう表記になっただけだ」と言われるかもしれない。だが、その「そういう表記になっただけ」というところに色んな問題が詰まっているのではないか。

 開場までの待ち時間にも、開場してからも、「ああ、××さん!」と声を掛け合う人を大勢見かけた。僕は一番後ろの席を選んで座ったが、20代から30代の聴衆はほとんど見かけず、50代以上の人が中心であるようだ。18時半、主催者の挨拶が始まる。「静かな曲を除けば写真は撮っていただいて構いませんが、録音・録画はご遠慮ください」と主催者からのアナウンスがあって、コンサートが始まる。

 寺尾さんは静かに登場してピアノの前に座り、演奏を始める。コンサートが始まってからも、僕は勝手に腹立たしい気持ちになっていた。眠っている人が多いのは――音の心地よさと年齢層を考えると――仕方がないとしても、演奏中に席を立って出入りする人が何人もいた。せめて曲間を選べばいいものを、一体どういうつもりなのだろう。

  事前の注意があったにもかかわらず、コッソリ録画している人も数人見かけた。一つ一つの振る舞いに自覚的でなければ、正義について語ることなんてできないはずだと僕は思っている。目の前の一粒の音を聴き過ごす人が、どうして誰かの生活について語ることができるだろう?

 僕のモヤモヤなんかとは関係なく、コンサートは素晴らしかった。歌は、ただそこにある。寺尾さんの歌は、人間の営みをじっと見つめているようだ。それも、10年や100年といった規模ではなく、1000年や2000年の規模で見つめているような不思議な歌だ。この日、一番印象的だったのは「私は知らない」という曲だった。

私は知らない 人を救う術を
私は知らない 何も知らない

私は知らない きれいな未来を
あるのは泥のように 続いてゆく日々
泥の上に花を 咲かすその術を
私は知らない

私は知りたい

 コンサートを聴き終えると、僕は会場を後にした。駅前から南にまっすぐ伸びる通りの街路樹には、ピンクのイルミネーションがくくりつけられていた。繁華街を歩いて「こけし」という店を探す。今日はお昼に、FJTさんから連絡をもらっていた。僕が回転寿司屋で食べた寿司の写真をインスタグラムにのせた直後、FJTさんから「その寿司屋、さっきぼくらいました!」と連絡があった。それで、せっかくだから夜一緒に飲みましょうと誘ってもらっていたのだ。

 「こけし」の個室に入ってみると、FJTさんが一人でビールを飲んでいた。まだ他の人は来ていないのだという。僕はハイボールを注文して乾杯する。しばらく飲んでいるうちに、INさん、NRTさん、JTKさんが三々五々にやってくる。INさんをのぞけば、ここ数年頻繁に顔を合わせているが、どこか雰囲気が違っている。少し経ったところで、「今日は橋本さんと荒縄ジャガーっていう不思議な組み合わせですね」と言われて、だから少し雰囲気が違っているのだと気づく。特にNRTさんは、いつもは長女のような存在に見えるのだが、今日はどこか違った佇まいだ。そんなふうに見えたのはこの5年で初めてのことだ。

 彼らは今、福島のこどもたちと一緒に作品を作っている。それは初めてのことではなく、今回で2度目だ。2011年末からいわき総合高校の子たちと一緒に稽古を進めて、2012年1月に作品を発表している。それから4年経った今、また別の子たちと作品を作っているわけだ。この1年だけで50日以上いわきに泊まっているのではないかとFJTさんは言う。

 印象的な話があった。4年前一緒に作品を発表した子たちは、震災の時点で既に高校生で、当然あの揺れを記憶している。あの揺れに怯えた記憶が残っている。だが、今一緒に稽古している子たちの中には、おぼろげにしかその記憶がない子もいるのだという。ただ、だからといって無傷なわけではなく、全員が引越しを経験している。彼らにとって印象的だったのは、揺れそのものではなく、うろたえている大人たちの姿だ――と。

 稽古を進める中で、ある子どもが「私は今の家に『ただいま』って言えないんです」と言ったそうだ。その話を聞いて、僕はあることを思う。いや、これは前々から思っていたことでもある。それは、「もし僕の実家に同じことが起こったとき、そんなふうに思えるだろうか?」という疑問である。僕は、自分の生まれ育った町に対して、それだけの想いを抱けないのではないかという気がする。

 僕は直接的にいわきの子どもたちと接したことはほとんどないが、2010年からいわきを訪れるようになった。快快がいわき総合高校で作品づくりをするのを見学させてもらったのをきっかけに、毎年いわきを訪れている。そのたびに感じるのは、いわきの子どもたちの明るさだ。もちろん、その明るさの後ろには様々な想いが詰まっているのはわかるが、それにしてもカラッとしている。だからこそ「『ただいま』って言えないんです」という言葉がでてくるのではないかという気がする。そんな話をすると、「そんなふうに考えてみたことはなかった」とNRTさんが言う。

 ひとしきり飲んだところで、FJTさんが「メッチャうまいジャージャー麺があるんです」と言う。糖質制限中の身としては〆の炭水化物は避けたいところだが、友人にそんなことを言い出したくはなかった。「糖質気にしてるんで、麺は食えないんです」なんて、何てつまらない人間だろう。腹を決めて、ジャージャー麺を出す店の前まで行ったのだが、果たして満席であった。