夜、池袋へ。ロロの新作公演『あなたがいなかった頃の物語と、いなくなってからの物語』は今日が初日だ。タイトルからして興味深い公演だが、公演に向けて劇作家の三浦直之が発表したテキストもまた興味をそそる。

いなかったあなたは、いなくなった。

彼と彼女が出会わなかったことを誰も知らない。気づいてもいない。そもそも二人が出会うなんてこと、誰も考えたりしない。だって、彼が生きていたとき、彼女はまだ生まれていなかった。だって、彼女が生きていたとき、彼はこの世にいなかった。彼は、彼女をしらないまま生まれて死んでいった。彼女も、彼のことをしらないまま、生まれて死んでいった。だから、当然、二人は出会わなかった。出会う未来の中でしか、出会わないは生まれない。なんて信じない。この世界のほとんどの人たちは出会わなかった。出会ったかもしれない可能性なんかに想い を馳せず、そのたくさんのありふれた別々のバラバラをじっと眺める。そこには物語も奇跡もなくて、ただただ完膚なきまでに出会わなかったっていう事実だけ がある。なんの感傷も呼び起こさずに、ただ、ある。出会ってしまった奇跡より、出会わなかった当たり前を、比喩を用いるまでもないその平凡さを、私は愛し ている。いや、愛してなんかいない。愛するなんて、その平凡さに対して、なんて不誠実だろう。私は、出会わないを、愛さない。

 早めにチケットを予約したこともあり、最前列に座ることができた。森の中にいるような音が流れている。19時過ぎ、開演。役者が登場し、舞台に置かれていた靴を履く。つま先をトントンと打ちつけると、その音がマイクで拾われ(?)、会場に大きく響く。役者のモノローグが始まり、劇の幕が開く。

 モノローグが終わると、二人の役者によるダイアローグが始まる。どうやら母親と娘であるようだ。訛りの強い言葉で交わしながら、母親は娘の靴紐を結んでいる。この靴紐というのが、象徴的なものとして描かれてゆく。娘はその靴紐に「ムスビメ」と名前をつけており、舞台上にはムスビメを演じる役者も登場する(ムスビメは常にそっと見守っている)。

 最初に登場する母親の名前は「桜並木」であり、娘の名前は「花びら」であるようだ。また、「飛沫」と呼ばれる女の子も登場する。この女の子は、登場するたび高い場所にのぼっていく。どうやら人間とは違う位相にある存在であるようだ。登場人物の名前や、強い訛りもあいまって、どこか神話的な世界だが、ただファンタジーの世界を描いているわけではないのがこの作品の面白いところだ。

 舞台が進むにつれて、この作品にはいくつかの層があることが見えてくる。最初に登場する「桜並木」と「花びら」の母娘の物語とは別に、「みさき」と呼ばれる女の子が登場する。みさきはアイフォーンを手に、どこかを探して歩いているようだ。「みさき」の物語が進行するときには、花びらを演じていた女優が月のように寄り添って見守る。「花びら」の物語が進行するときには、「みさき」を演じる女優がそれを見守っている。

 舞台が終盤に差し掛かると、「桜並木」の娘が「花びら」であり、「花びら」の娘が「みさき」であることが見えてくる。「みさき」が生まれてまもなく、「花びら」は姿を消してしまった。彼女の手元に残された手がかりは、母親が祭りのときに歌ったといううたのテープだけだ。そのテープを手に、彼女は母親が生まれた町を辿り、自分が生まれる前、つまりいなかった頃の物語を辿ることになる。

 子どもだった花びらが成長し、いくつかの恋をして、花祭りで「緑唄」と呼ばれるうたを歌い、かつて出会った波打ち際という男性――このキャラクターは本当に素晴らしく、いつも何かを待ち続けている男性だ――と結ばれ、子どもを産むことになる。その出産シーンと、かつて「花びら」が緑唄を歌った十字路に「みさき」がたどり着き、母を知る人たちと出会い、細い横穴をくぐり抜けて自分の住んでいる世界に戻っていくシーンとが交差して、物語はクライマックスを迎える。

 と、物語の構造を抜粋すると説明的になり過ぎるのだが、驚いたのはその演出だ。舞台上には緑色に塗られたいくつものテーブルが置かれており、役者たちはその上を歩き、くぐり、語る。物語が進行しているあいだも、役者たちがその机を動かして配置を変える。机は様々に形を変え、道がつながっていく。また、赤い靴紐は時に長く伸びて、最後には舞台中に張り巡らされていく。あるいは、舞台上にはパイプを組み上げた柱が2本設置されており、それが舞台の天井、照明が吊られている層にまで突き抜けている。そこは「泡沫」の家でもあり、彼女は次第に高いところに上がっていく。人々が紡いできた物語の厚みが――厚みはありながらも、それが1本の頼りない靴紐であるという頼りなさもが――ビジュアルとしても伝わってくる。物語を書き、それを自分で舞台上に表現する劇作家の力に驚かされるし、三浦直之という作家は凄みを増しているとも感じる。

 ただ、この作品を観ているあいだ、僕はずっと違和感を感じていた。そこで描かれている物語も面白いし、舞台の使い方にも驚かされるけれど、目の前で繰り広げられている舞台に胸を打たれることはなかった。それは、役者のモノローグがどうしても引っかかったからだ。

 既に記したように、作品に登場する何人かのキャラクターは強い訛りで話す。「桜並木」も、その夫である「たけし」も、結町に暮らすブス爺さんと呼ばれる男性も方言で話す。「みさき」や「泡沫」、結町で出会う「緑」などは標準語であり、普通の口語で――つまり演劇的なトーンとしてではなく、日常生活とさほど変わらない言葉で会話がなされている。

 ときどき登場するモノローグも標準語で語られる。しかし、その台詞回しがあまりにも演劇的過ぎる。それ以外のシーンが口語で進行するぶん、その芝居がかったトーンがどうしても引っかかってしまう。そこだけ急に漂白された世界になる。それが狙いであるのかもしれないが、そうだとしても効果的だとは思えなかった。物語の構造や舞台上の演出で様々な更新があるのを見れば見るほど、モノローグがいかにも演劇的であることによって、それを聴いている僕の心は冷めてしまう。あの台詞を言うのに、役者はどれだけ体力を削っているのだろう。どうしてあのモノローグをよしとしてしまったのだろう。

 終演後にはアフタートークがあった。それを聞き終えてロビーに出ると、戯曲が販売されていたので購入する。コピーした紙をホッチキスで綴じたものが1000円で販売されているということに、どうしても引っかかる。そのテキストには1000円の価値が十分あるとは思うが、体裁があまりにも素っ気なく感じる。

 「ふくろ」でホッピーを飲みながら、さっそく戯曲を読み始める。僕は「みさき」というキャラクターを「岬」だと思っていた。それは父親の名前が「波打ち際」だということもあるが、最近読んでいる『古事記』の中に、オホクニヌシがスクナビコナと出会うシーンがある。オホクニヌシが出雲の美保の岬にいたところ、波の向こうからスクナビコナ(神)がやってくるのだが、「美保の岬」という箇所についた註釈に「島根半島先端の岬。ミサキは神の依りつく場所である」と書かれていた。しかし、戯曲を読んでみると、「桜並木」の孫であり、「花びら」の娘である彼女の名前は「未咲」であった。

 ハムカツとホタルイカの刺身を平らげて、アパートに帰る。月が煌々と輝いている。調べてみると満月の直前だ。布団を敷いて横になると、窓からちょうど月が見えた。あれ、何がいると思う?――そう知人に訊ねてみると、「カニ! カニと思う!」と返ってくる。満月といえば、最近読み進めている『沖縄の民話』(未來社)の中に「アカナーの話」というのがあった。ある山裾に、アカナーという少年と猿が暮らしていた。アカナーが育てた桃が実ったとき、猿が悪だくらみをする。「桃の実を売りに行って、早く売ったほうが負けたほうの首をちょん切ろう」と提案すると、猿は熟れた桃を手早くもぎ取り、出かけてしまう。

 アカナーも桃を買って売りに出かけたけれど、彼はまだ熟れていない桃しか手に入れられず、誰も買ってはくれなかった。アカナーが海岸で途方に暮れていると、「何が悲しくて泣いているのか」と声が聞こえた。声の主は月だった。話を聞いた月は、(月が手を下したという描写はないのだが)猿に自らの首を切り落とさせ、心優しいアカナーを月の世界に引き上げた。アカナーはその恩に報いるために水を汲んだりご飯を炊いたりしてせっせと働いた。それで沖縄の月の中には、ウサギが餅をつく姿ではなく、アカナーが桶をかつぐ姿が見えるのだ――と。この話を読んで聞かせていたのだが、半分も聞かないうちに知人は眠ってしまった。