沖縄滞在6日目

 5時半に目をさます。のそのそと起き出して、みーばるビーチに出かける。ビーチの端にはテントがあった。そばには白人の中年夫婦が立っていて、黙々とバナナを食べているところだ。おそらくここに宿泊したのだろう。30分ほど散策して宿に戻り、シャワーを浴びて荷物をまとめ、「お世話になりました」と書き置きをして宿を出る。百名バスターミナルまで20分かけて歩いているだけで、もう腕からは汗が噴き出している。朝からくたびれるが、海の方を振り返るとびっくりするくらい綺麗な風景が広がっているので、なんとか時間までにバス停にたどり着くことができた。

 7時15分、53番のバス(船越経由百名線)に乗車する。ぼんやり景色を眺めていると、変わった形の黒いクルマが見えた。あれはもしかしてと思っていると、少し進んだ場所に黒いネクタイをした男性が立っており、「出棺 六月二十三日 〇八:〇〇」と看板が出ていた。最近の霊柩車は、派手な装飾のないものも増えているようだ。しばらくするとバスは奥武島を経由する。知人と一緒に、あそこで天ぷらを食べたなあ。数日前のことなのに、既に懐かしんでいる。

 まだ7時台だというのに、ちびっこたちが遊びに出かけてゆくのが見える。今日は6月23日だ。この日は沖縄戦における集団的な戦闘が集結した日であり、沖縄では「慰霊の日」として休日となっている。それでちびっこたちは遊びに出かけているのだろうが、バスに乗ってくる人たちを見ても、町の雰囲気も、普通に出勤している感じがする(もちろん、すべての仕事が休みになるのであれば、こうしてバスに乗ることだってできないのだけれども)。

 県庁から無料のシャトルバスが出ていると聞いたので、バス停に行ってみる。が、県庁北口のバス停にはそれらしき表示が出ていなかった。バス停の表記をまじまじ見つめていると、おじいさんがニコニコ近づいてくる。「どこに行くの? 美ら海水族館?」――たぶんこのおじいさんはタクシー運転手だろう。「いや、慰霊祭に行きたいんです。ここからバスが無料のシャトルバスが出てるって聞いたんですけど、ご存知ですか?」。そのおじいさんは、近くにいた別の男性にも聞いてみてくれたが、知らないらしかった。近くの店で聞いてみても知っている人がおらず、ネットで検索してみると、県庁北口のバス停からではなく、県庁舎の東側から出ているらしかった。

 9時、「11号車」と書かれたバスに乗って、平和祈念公園を目指す。僕の隣の席と前のふた席には、祖母、母、それに息子の家族連れが座っていた。母親はふとカバンから荷物を取り出し、前に座るふたりにそれを渡す。それは折り紙で、三人は鶴を折っていた。窓の外を眺める。信号に「真栄里」という地名が見える。昨日、白梅の塔で見た地名だ。解散命令後、白梅学徒の多くは真栄里に撤退し、そこで最期を迎えたのだと記されていた。

 バスがスピードを落とし始めたのはそのあたりだった。ひめゆりの塔の前や公園が近づいた場所で渋滞するならわかるけど、一体なぜこの場所で渋滞しているのだろう。何台か先にのろのろと進む大型バスが見えた。「救護車」と表示が出ている。歩道にはゼッケンをつけた人たちが歩いている。糸満市役所から平和祈念公園までの約8キロを歩く「平和行進」というのをやっているらしかった。沖縄県遺族会が主管のこの行進は、今年で55回を数えるという。僕が乗っているバスは、渋滞を避けるべく急遽ルートを変更した。

 9時50分、バスは平和祈念公園に到着した。今日はここで沖縄全戦没者追悼式が開催される。いわゆる慰霊祭だ。僕が初めて慰霊祭に足を運んだのは2013年のことだ。その翌年もまた、6月23日にこの場所にいた。去年は参加できなかったけれど、今年もまたここにいる。過去2回は当日に沖縄入りするスケジュールだったので、式典が始まる直前になって公園に到着していたけれど、今年はゆったり過ごせそうだ。式典が始まるのは11時50分だから、あと2時間もある。

 朝ごはんを食べていなかったので、まずは売店でお弁当を購入する。いつもはアイスやぜんざいがメインの店だが、今日はたくさんお弁当が並んでいる。ジューシーのおにぎりなんかも売っている。僕は豚肉の炒め物、ゴーヤチャンプル、ナポリタン、それに春巻きの入ったお弁当を選んだ。400円とお手頃価格だ。木陰を探して、さっそく食べる。木陰にはもうたくさんの人がいる。腰掛けられる場所は人気のようで、僕のすぐ隣にも若いカップルがやってくる。会場のスピーカーからは「さとうきび畑」がながれていて、女の子も一緒に鼻歌で歌っている。

 式典の会場入口には検査場があり、長い列ができている。ライター、刃物等持ち込み禁止と書かれており、金属探知機でチェックしているようだ。僕は別に、会場の外側から見守るだけでいいと思っていたのだが、中に入らないと冊子がもらえないので列に並んだ。その冊子には式次第の他、式典で読み上げられる予定の沖縄県議会議長の式辞や、沖縄県知事による平和宣言も掲載されている。それ以上に楽しみにしているのが、「児童・生徒の平和メッセージ」というコンクールの優秀作が掲載されているのだ。表紙には図画部門(高校生の部)最優秀賞が掲載されており、冊子の中には作文部門の最優秀賞と詩部門の最優秀賞も掲載されている。詩部門の最優秀賞は朗読されることになっており、こどもたちが予行演習を行っているところだ。

 冊子だけ受け取って外に出て、公園内を散策する。平和の礎の前にはもう、たくさんの人の姿がある。平和の礎というのは、沖縄戦で亡くなったすべての人の名前が刻まれた碑だ。20万を超す人々の名前がそこにある。礎の前にはピクニックシートが広げられたり、アウトドアチェアが置かれたりして、おじいさんやおばあさんがそこで時間を過ごしている。お弁当を広げて、いくつかコップを並べて、お茶を注ぐ。同じように過ごしている家族連れも多く見かける。亡くなった方に思いを馳せ、ピクニックのように時間を過ごす風景を慰霊祭のたびに見かける。広島に生まれ育った僕は、8月6日には親に連れられて原爆ドームを訪れていたが、広島と沖縄では弔い方が違っていることが印象的だ。

 当たり前だが報道陣の姿もよく見かける。若い記者たちがおじいさんやおばあさんに話を聞き、汗を流しながら熱心にメモをしている。平和の礎には英語で書かれたものもあり、その前には軍服を着た白人の姿があった。ここに刻まれているのは日本人だけでなく、沖縄戦で亡くなった外国人の名前もあるのだ。歩いていると、腰の曲がったおばあさんを見かけた。娘とおぼしき女性に支えられながら、そこに刻まれた名前を一つ一つさすっている。おばあさんは涙を流していた。彼女の中では、全然過去の出来事になっていたのだとハッとさせられる。公園の入り口にある売店まで引き返し、オリオンビールを買って飲んだ。僕より日陰をしている人はいるだろうと思って、ひなたでビールを飲んでいた。

 園内にアナウンスが流れると、平和行進の一団が公園に到着する。ほどなくして来賓も会場に姿をあらわす。安倍総理大臣が姿をあらわすと、会場の一部から拍手が起こった。その拍手に、なんだろう、かなしみをおぼえる。この総理大臣は沖縄に対する思いなんてさほど持っていないだろう。それでも総理大臣として、式典に毎年出席している。それは「沖縄に寄り添う」という姿勢を示すためだ。

 僕は別に、総理大臣を批判したいわけではない。政治家にとって大事なのは姿勢を示すことであり、内心は重要ではないのだ。たとえば、式典には民進党の枝野幹事長も出席しており、「沖縄の民意を受け止め、それを踏まえて外交や安全保障の問題を解決していくべきだが、都合が先になっている」と首相を批判するコメントを出している。しかし、現政権のトップであり、与党のトップである安倍晋三が来ているのに対して、それを批判する民進党はといえば式典に参列しているのは党のトップではない。この差は大きいだろう。だからこそ、毎年足を運ぶ総理大臣に拍手が起きたのではないかと感じる。そこにかなしみをおぼえる。

 ほどなくして式典が始まった。翁長知事が平和宣言を読み上げる。「私たちは、万国津梁の鐘に刻まれているように、かつて、アジアや日本との交易で活躍した先人たちの精神を受け継ぎ、アジア・太平洋地域と日本の架け橋となり、人的、文化的、経済的交流を積極的に行うよう、今後とも一層努めてまいります」――そう語っているときに、60代くらいの男性が「もっと受け継げ!」と野次を飛ばした。園内には背広姿の警察官が多数配備されており、その男性の近くにいた警察官がすぐに駆けつけ、静かにするよう注意している。

 平和宣言の次は、「平和の詩」の朗読だ。2013年、最初に慰霊祭を訪れたときに印象的だったのはこの「平和の詩」の朗読だ。その年に詩を朗読したのは与那国町立久部良小学校1年生の男の子だった。彼の「へいわってすてきだね」という詩の中には、「ちょうめいそうがたくさんはえ/よなぐにうまが、ヒヒーンとなく/みなとには、フェリーがとまっていて/うみには、かめやかじきがおよいでいる」という一節があり、行ったこともなければ見たこともない与那国ののどかな風景が浮かんでくるようだった。

 今年の詩は、金武町立金武小学校6年生の女の子による「平和ぬ世界どぅ大切」だ。

 「ミーンミーン」
 今年も蝉の鳴く季節が来た
 夏の鳴き声は
 戦没者たちの魂のように
 悲しみを訴えているということを
 耳にしたような気がする
 戦争で帰らぬ人となった人の魂が
 蝉にやどりついているのだろうか
 「ミーンミーン」
 今年も鳴き続けるだろう

 こう始まる詩に、少し違和感をおぼえる。沖縄にもミンミンゼミの鳴き声を聞かないではないけれど、「ミーンミーン」とは鳴かないセミの声のほうをよく聴く。それをいえば2013年の「へいわってすてきだね」にも共通するのだが、この「平和の詩」は擬音や鳴き声を含めるというルールでもあるのかと思ってしまう。詩の後半になると、それは「戦没者の悲しみを鳴き叫ぶ蝉の声ではな」く、「平和を願い続けている蝉の声だ」と語られる。ある意味では小学校6年生らしいともいえるが、あまりにも教科書的ではないかと思ってしまう。

 そんなことを考えているうちに安倍総理大臣による挨拶が始まる。「同時に、私たちは、戦後70年以上を経た今もなお、沖縄が大きな基地の負担を背負っている事実を、重く受け止めなければなりません」。そう語ったところで、会場の外から「本当にそう思ってるか!」という声があがった。野次を飛ばしたのはさきほどと同じ男性で、すぐにまた警察官が集まる。

 男性を囲んでいる警察官は3人で、男性をなだめる係の男性はへらへらした表情だ。「へらへら」と書くとネガティブかもしれないが、あえてそうした表情を浮かべることで場の緊張感をほぐし、男性を刺激してこれ以上騒ぎにならないようにしているのがわかる。彼が意図的にそうした表情を作っている一方で、一緒にその男性を囲む残りの2人は無表情で、男性の動向をじっと見据えている。へらへらした警官は「ちょっと向こうで話しましょうね」と、男性を公園の外のほうに誘導していく。「おとうさん、お酒飲んでるでしょう」なんて言っている。たしかに、男性は少し酔っているだった。

 安倍首相の挨拶は続いている。「そうした中で、今般、米軍の関係者による卑劣極まりない凶悪な事件が発生したことに、非常に強い憤りを覚えています」。そう語ったところでまた野次が上がる。「お前がやったんだろう」という謎の野次だ。僕に聞こえた範囲では、式典中の野次はこの3つだけで、多くの人は静かに式典を見守っていた。式典が終わったところで、また平和の礎を見に行こうと移動していると、途中で足止めされる。来賓たちのクルマが通るので、しばらく道の横断ができなくなっているのだ。近くにいたおばさんが「今年は記者会見の場所が変わったんだねえ」なんて話している。安倍首相を一目見ようとこの場所で待っていた人もいるようだ。ほどなくして9台の白バイに先導されて、総理大臣の乗ったクルマが通過していった。

 平和の礎の前では、三線を引いて歌をうたっている人の姿があった。「多良間ションカネ」という歌だという。木陰でギターをつま弾く人の姿もある。さて、この花をどうしよう。公園の入り口には喧嘩販売所があり、僕はそこで花を買っていたのだが、どこに献花したものかと迷っていた。ほとんどの人は、自分の親族や知り合いの名前の前に献花しているが、僕には沖縄戦で亡くなった知り合いがいないのだ。花は結局、平和の礎について説明が書かれた石碑の前に捧げた(そこにもいくつか花束や千羽鶴が置かれていた)。シャトルバスの列が短くなるまで、芝生に寝転んでオリオンビールを飲んだ。

 バスを降りるとホテルにチェックインする。テレビでは沖縄戦に関する特集が組まれている。座間味島の集団自決を目撃した男性は、火をつけた小屋にこどもを投げ入れ、大人はそうもいかないから棒で叩いていたのだと当時のことを語る。「僕というのは人ではなかったかなと思った」という言葉。シュガーローフの戦いの激戦の様子。ひめゆり学徒隊の女性の、「生きてしまった」という言葉。

 シャワーを浴びて飲みに出かけた。3軒目に選んだのは安里のおでん屋「東大」だ。数日前のボトルがまだ半分近く残っているから、それを飲み干しにきたのだ。今日は1人だからカウンターに座らせてくれた。ボトルには僕の名前が書かれている。自分で書いたのではなく、店員さんが書いてくれたのだが、「橋」の字が“きへん”ではなく“のぎへん”になっている。数日前に領収書を書いてもらったときも同じように“のぎへん”になっていたけれど、これはなぜだろう?

 焼きてびちを待ちながら葉野菜のおでんをツマんでいると、店の方に「また日に焼けたね」と言われる。そうですね、と答えていると、隣で飲んでいた常連客とおぼしき男性に「海に行ってきた?」と声をかけられた。いや、海じゃないんです。今日は慰霊祭に行ってきて、ずっと外にいたからまた焼けちゃったんです。そう答えると、男性は「それは――ありがとうね」と言った。

 「ありがとう」と言われるのは今回の沖縄滞在で二度目だった。でも、僕は「ありがとう」と言われるたびに複雑な気持ちになる。僕はただその場所にいたというだけだ。何度も沖縄を訪れているけれど、僕はただそこにいるだけだ。沖縄のことがわかったつもりにはなれないし、沖縄に寄り添っているという気持ちにもなれない。沖縄の人の気持ちがわかるなんてことは言えない。いや、そんなことを言えばそもそも誰かのことを「わかる」なんてことがあえりえないのだ。あなたのことだって、僕はわからない。それはあなたが沖縄の人だからではなく、当たり前に私とあなたは別の人で、別の人生を歩んできて、別の考えを持っている。それを「わかる」なんて言えるはずがないのだ。ただ、わからなくたって、一緒にいることはできる。わからないということがわかるからこそ、一緒にいることができる。そんなふうに考えているから、僕はただこうやって足を運んでいるのかもしれない。

 そんなふうに僕が話しているあいだ、男性はただ黙って聞いていてくれた。そして肩に手をおいて、「やっぱり、ありがとうって言わなきゃだね」と言ってくれた。「内地の人で、一緒に『基地反対』って言ってくれる人はいるけど、そこまで考えてくれてる人は初めて会ったよ」。話しているあいだ、僕は「こんなふうに話したら怒られるかもな」と思っていたけれど、そう言われて妙にホッとした。そのせいか、「東大」からの帰り道でアイフォーンを落としてしまって、画面がひび割れてしまった。沖縄にくるたび、アイフォーンをなくすか壊すかしている。

 しかし、「ありがとう」と言ってもらえたことをこうして日記に書いている僕は一体何だろう。そのことで自分の言葉を、ふるまいを、正当化しているだけではないか。わからない。わからないけれど、いやわからないからこそ、僕はきっとまた沖縄を再訪する。