マーム・イン・京都(2)ごどめのであい

 「いろんなインタビューでも答えてることなんですけど、家を出るっていうこと自体がすごく難しい時代になってきてると僕は思っていて。でも、舞台っていうのは家を出てこないと観れないわけだし、こうやって人が集まらないと作れないものを僕は作っていると思っているので。暑い中、いろんな年齢の人たちが僕のいる場所に毎日きてくれて、ありがとうございます」

 藤田貴大さんが語る言葉を、皆じっと聞き入っていた。ここは京都芸術劇場・春秋座の「楽屋2」という部屋だ。『A-S』の公演が終わったあと、部屋で打ち上げが始まっていた。部屋の中には『A-S』に携わった出演者とプロジェクトメンバーがずらりと並んでいる。

 『A-S』という作品は、京都芸術劇場が実施する一般参加型企画の第3弾として制作されたものだ。5月にオーディションが開催され、6月にはワークショップを重ね、7月に入ってから本格的な稽古が始まった。いわゆる「滞在制作」ということになるが、藤田さんが滞在制作を行うのはこれが5度目だ。

 2012年01月 いわき『ハロースクール、バイバイ』
 2012年11月 北九州『LAND→SCAPE/海を眺望→街を展望』
 2015年09月 イタリア『IL MIO TEMPO』
 2016年03月 福島『タイムライン』

 これらの作品は少しずつ制作過程が異なっており、すべてを一括りに「滞在制作」と呼んでいいのかはわからないけれど、その土地に出かけ、出会った人たちと作品をつくってきたという点では共通している。

 2015年の夏、マームとジプシーは京都に滞在して作品を発表する――それを知ったとき、僕はあることを思い出していた。あれはたしか2014年の秋、『てんとてん、をむすぶせん。からなる、立体。そのなかに、つまっている、いくつもの。ことなった、世界。および、ひかりについて。』という作品を上演するためにボスニアを訪れていたときのことだ。皆でお昼ごはんを食べに出かけた帰り道、サラエボを流れる大きな川のほとりを歩いていたとき、藤田さんは「いつか京都で滞在制作したいんですよね」と語っていたのだ。

 「たしかに、言ってましたね」。『A-S』が千秋楽を迎えたあとの楽屋で、藤田さんはそう話してくれた。「京都は大学の頃からよく来てた街で、創作がしやすい場所だなと思ってたんです。コンパクトな街の感じとか、物がすぐ手に入る場所にある感じとか。滞在してみると、思っていた以上にコンパクトだなって思いました。『A-S』で使った映像も京都で撮ったものだし、京都で買ったものも配置してるんですけど、全部を把握できるように作品をつくるってことが結構納得いく形でできたんじゃないかと思ってますね」

 この企画が発表されたとき、参加者を募るチラシには「藤田貴大と演劇を一緒につくる方、募集」と書かれていた。そこには藤田さんのこんなコメントも掲載されている。

 思いついていることが、今後のマームとジプシーの作品に、おおきな影響を及ぼすことなので、京都でつくる『A-S』という作品、とても楽しみだ。出演者オーディションもするが、プロジェクトチームとして、ぼくといっしょに作品をかんがえるひとたちも集めたい。そこに集まるひとは、いわゆる演劇を目指すひとじゃなくていい。服をつくりたいひとがいてもいい。お店をしているひとがいてもいい。とにかく、ものをつくることをしていきたいひとたちが集まってくれたら、と。現在って時間のなかに、ぽかんと場所をつくるとき、いろんな角度でその作品を見つめなくちゃいけない時代がいよいよ本当にやってきたような気がする。そのことをこの夏、京都にて、出会ったひとたちとかんがえていきたい。

 ここに書かれているように、今回の企画は出演者を募集するだけでなく、「プロジェクトチーム」も募集されている。出演者オーディションはこれまでにも行われてきたが、これはマームとジプシーとしても新たな試みである。どんな経緯で、こうした募集をかけることになったのだろう。

 「この企画が決まったとき、林さん(マームとジプシー制作)は『南さんとかトミーさんとか角田を連れていく』っていうことを言ってたんだけど、ちょっと待てよって感じに僕がなってしまって、『あっちの人たちと全部つくるっていうんじゃダメなの?』って言ったのが発端なんです。それでラフに募集をかけてみたら思っていたよりたくさんの人が応募してくれて。プロジェクトチームのメンバーとして関わりたいってことで応募してくれた人はほぼ全員採りましたね」

 藤田さんが名前を挙げた南香織さん、トミーさんこと富山貴之さんの二人は照明家であり、角田里枝さんは音響家だ。いずれも長く藤田さんの作品に携わってきたスタッフであり、一緒に旅公演も経験してきたスタッフだ。彼らと関わりをやめるというわけではないのに――実際、この夏に京都で発表されているもう一つの作品『0123』には南さんや角田さんが携わっている――どうして『A-S』という作品では新しい人たちと出会おうとしたのだろう?

 「“この類の企画”っていう言い方を最近僕はするんだけど、こういう形で作品をつくるときの演出家に対するオーダーっていうのは『俳優とコミュニケーションをとってください』ってことになりがちなんですよね。でも、それはいつもマームとジプシーがやっていることとは違うんじゃないかなって思ったんです。たとえば南さんだと、照明のことだけ気にしてる人じゃなくて、作品のことを考えるってことをやってくれてる人ですよね。本当はそれがプロってことだと思うんだけど、そういう人たちとマームとジプシーはやっていて。僕が知っているスタッフを連れてきてやるっていうのは効率的でいいことなんだけど、この街に滞在して、ここの人たちと作品をつくるってことを考えたときに、全部をフラットにして考えないとってことを思ったんです。

 演出家っていうのはあたかも役者とだけ仕事をする作業だと思われてるかもしれないけど、それは違うと思ってるんですよね。こないだの『タイムライン』もそうだし、『LAND→SCAPE』もそうだし、『IL MIO TEMPO』もそうだけど、そこは反省点でもあったんです。僕の演劇論を伝えていくわけだから、僕のやりかたを押し付けていくってことにはある程度なるんだけど、もうちょっと面倒くさいことをやりたかったんです。募集をかけてみたら、音響をやれる子が誰も応募してこなかったから、『A-S』で使ったスピーカーは僕のスピーカー2個だけだったり、僕がCDJで音を出すことになって本番を観れなかったり、そういうリスクはあったんですよ。でも、それは全然補っていくよって思うんですよね。

 今回の作品は、演劇に興味があって関わってくれた人はもちろんいるんだけど、マームに興味があるってことで関わってくれた人もいるんです。そういう人が地方にもいてくれて、『何ができるかわかんないけどかかわりたい』ってことで参加してきてくれた人たちとやってみると、相当独特なものになったと思うんです。あと、7月8日に京都でやったトークイベントも、プロジェクトメンバーとして参加してくれた谷田あや子さんって人が発案してくれて。これまではそんなことってありえなかったけど、そういう関わりをここに集った人とやれたから、それは成功だったなって思います」

 そのトークイベントの中で、藤田さんは「滞在制作は大きな仕事の一つだと思っている」と語っていた。以前からきっと、藤田さんの中でそれは大きな仕事だったのだろうけれど、ここにきてその大きさの意味が変わってきたのではないか。

 「これは昨日くらいに考えてたことなんですけど、この滞在制作ってスキルが上がっていけば、マームとジプシーの作品でツアーをするのとは違う速度でツアーができるんじゃないかなって企んでるんです。その土地で誰かと出会って、その生活に僕が編集を加えて、演劇って角度を加えて作品にする。それを2週間くらいでできるようになっていくと、だいぶヤバいことになると思うんですよね。マームとジプシーの“ジプシー”っていうのが“旅”ってことだとすると、そこには“人と出会う”ってニュアンスもあるじゃないですか。もし人と出会って作品をつくるってことを含めた旅ができたら、演劇ってものの地盤が変わると思うんです。

 演劇の世界だと、自分の劇団の作品主義っていう考え方が強いと思うんですよね。もちろんマームとジプシーでも自分たちの作品をつくるってことはやっていくだろうけど、出会った人たちとつくるシステムができて、しかもその作品が面白いものになるのであれば、作品主義っていう考え方が変わっていく。それは10年後ぐらいのためにもすごく必要な気がしているんですよね。

 取材を受けるときに、『北海道にいた頃は富良野塾劇団四季しか観れなかった』ってことをネタみたいに話すことが多いんだけど、地方にいると旅公演に来てくれた人たちを観ることしかできなかったんですよね。それを観て『すげえ!』と思わせることも大事だとは思うけど、その関わりは本当に一時的なものなんです。でも、近所に住んでるおばちゃんが出てる作品が、バカみたいな言葉で言うと『めちゃくちゃモードだ!』ってことになると、まず地方の劇団が揺らぐと思うし、ツアーっていう概念が変わると思っているんです。だから、脚本を書くとかってことの重要性は僕の中で早々に終わっていて、こうやって人と出会って作品をつくるセンスを磨きたいんですよね。それは『こうすればプラモデルをつくるみたいに作品ができる』って説明書を作りたいってことではなくて、誰かと関わってつくるスキルを磨きたいっていうのはある。それを大きい仕事だって言いたいんだと思います」

 その「大きい仕事」に、どう挑むか。それを考える上で大きいのは、誰と一緒に旅に出るかということだ。

 今回の『A-S』は5度目の滞在制作だと冒頭で書いた。ただ、そこで挙げた1作目となる『ハロースクール、バイバイ』は、ゼロからのクリエイションではなく、マームとジプシーがかつて上演した作品を高校生たちと作り直すという作業であった。その土地に滞在して、そこで出会った人たちとゼロから作品を立ち上げる――その意味での滞在制作は、北九州での『LAND→SCAPE』が1作目と言える。この滞在には、マームとジプシーの作品によく出演する尾野島伸太朗さん、成田亜佑美さん、吉田聡子さんが出演した。これまでずっと作品を作ってきたメンバーと、初めて携わるメンバーが混在した状態で作品を作る。その難しさがあったという話は何度か聞いたことがある。

 今回の『A-S』は、出演者もスタッフも基本的にはこの街で出会った人たちだ。しかし、出演者の中には、ひとりだけマームとジプシーの作品に出演してきた人物が含まれている。それは川崎ゆり子さん(通称・ゆりり)だ。誰かひとりを連れていくというときに、今回彼女を選んだ理由は何だろう?

 「去年の直感として、『ゆりりと関わっていかなくちゃいけないな』っていうふうに思ったんです。20代の頃からワークショップはずっと続けてきて、そこではあっちゃん(成田さん)とか(召田)実子とか伊野(香織)とか、まあ青柳さんもそうなんだけど、そういう人を巻き込んでやってきたんですよね。でも、それとは違うやりかたをゆりりはできるんじゃないかって漠然と思ったんです。それが確信に変わったのは、去年の『書を捨てよ町へ出よう』だったんですよね。

 あのとき、ゆりりがお客さんをアテンドしていくっていうやり方を見出したわけですよね。それは寺山さんの作品世界をアテンドしていくってことだったわけですけど、滞在制作で作品をつくるときに、ゆりりが街をアテンドしていくっていうやりかたはかなり有効だなって思ったんですよね。それに、あっちゃんとか聡子とか青柳さんとかと作品をつくるときみたいに“エモーショナルなところで持っていく”ていうことではなくて、もっと別の時間のつくりかたができるんじゃないかと思って。それが他の誰とやるよりもシャープだったし、格好いいものだったんです」

 話を聞いていると、藤田さんが今挑もうとしていることは一つの“運動”だなということを思った。たとえば、短歌の世界では様々な運動が起こり、全国に様々な結社が生まれ、短歌を詠むという楽しみが広がっていった。あるいは、僕は仙台で開催されていた「ちいさな出版がっこう」という講座に少しだけ関わったことがある。「自分で本を作ってみる」ということを経験することで、参加者の皆の中に、自分の生活に対するあらたな眼差しが生まれていたように思う。藤田さんがやろうとしていることもそれに近いことで、一つの“運動”なのだろう。

 ところで、こうして藤田さんに話を聞いているあいだ、隣では川崎ゆり子さんが作業をしていた。公演パンフレットを折り、CDケースを作る。劇中で使用した楽曲をCD-Rに焼いてケースに入れ、『A-S』という作品に携わった皆にプレゼントするらしかった。インタビューが終わり、藤田さんが立ち去ったあとで、川崎ゆり子さんにも話を聞いた。彼女が滞在制作に携わるのはイタリアでの『IL MIO TEMPO』に続いて2度目だが、そのときは普段マームに出演するメンバーが4人もいた。今回は一人だけだという状況にプレッシャーはあったのだろうか?

 「北九州のときの話は聞いていたから、『どうやって関わっていけばいいんだろう?』ってことは私なりに気にしていて。マームのメンバーだと、普段から一緒にやっているからこその希薄さもあるし、厳しさもあるし、ある種の冷ややかさもあると思うんですよね。そこに初めて入っていくときのズレって、お互いにどうしたってあると思うんですけど。そういう意味では私も新参者だった時間が結構あるんです」

 川崎ゆり子さんが初めてマームに出演したのは2011年、『Kと真夜中のほとりで』という作品だ。マームとジプシーのメンバーは大学時代からの仲間が多いが、彼女はマームとジプシーが立ち上がったあとで関わるようになった。それに、たとえば藤田さんは1985年生まれだが、彼女は1991年生まれだ。年齢も少し離れていて、出演者の中で最年少だということも多々ある。

 「だから、マームとの関係はいつだって皆より遅れてるんですよね。だから、初めて関わる人の気持ちは結構わかる部分があるのかなっていうのがあって。あと、私は演劇自体も長くやってきたわけじゃないんですよね。そういう意味では、やれることはあるかもって思ってたかもしれないです。マームで作ってるときって、『リフレインって何だろう?』とかって話あったりしないじゃないですか。でも、『A-S』の稽古をやってるときにそれを聞かれたら私に言える範囲で説明してみたり、声の出し方ってどうすればいいのかって聞かれればマームの発声のニュアンスを伝えてみる。今回は自主稽古の時間が結構あったんですけど、そういうときは私主導で自主稽古をしなくちゃいけなくて。どこまで私が言っていいのかなっていう不安はあったんだけど、『藤田さんが前に、こういう言葉で説明してたな』っていうことを思い出しながら、伝える努力をしてみようと思ってました」

 『A-S』の中で川崎ゆり子さんが演じるキャラクターは、街の中を漂っているように見える。いろんな場所に彼女は存在して、他の登場人物たちの話に耳を傾ける。たとえば、ある女の子とはこんなふうに言葉を交わす。

 「この街の夏って、お祭りがあるからか騒がしくて」
 「ほう」
 「人ごみって苦手なんだけど、でも」
 「うんうん」
 「お祭りのあと、人がいなくなったあとの遅い時間、街を歩いたことある?」

 ここで相槌を打っているのが川崎ゆり子さんだ。また別のシーンでは、「やっぱり見つめていることしかできない」という台詞をモノローグとして語る。また、出演者の中でも、川崎ゆり子と他の18人とのあいだは「/」で区切られている。彼女は、18人のあいだを縫うように漂って、その言葉に耳を傾けている。

 僕は『A-S』という作品がどんなふうにして創作されたものなのかまったく知らないけれど、オーディションで選ばれた18人の出演者が舞台上で語る言葉の多くは、稽古の段階で彼らが実際に披露したエピソードだろう。イタリアでの滞在制作のときにも、いくつかのお題に対して出演者がエピソードを語り、それに編集を加えて『IL MIO TEMPO』という作品が立ち上がっていった。今回の『A-S』も、そんなふうにして作られた作品なのだと思う。作品の中でも、稽古のときにも、川崎ゆり子さんは“この街”の人たちの話に耳を傾けていたということになる。

 「人を見つめるっていうことでは、普段からやっていることでもあるんです」と彼女は言う。「ひとりひとりを見ていくことが、もともと好きなんだと思うんです。高校生のとき、ホームルームにきてる皆の顔を見たときに、『この人たち全員の朝があるんだ』と思ったことがあって。家で親とケンカしてきてる子もいるだろうし、月並みな話ですけど私が見てないところでも生きてきたんだなっていうことに気づいて、全員が愛おしくなったんです。そのあたりから、人を見てそこまでになにがあったのかってことに興味がつきなくて。そういう意味では、今回に限らずいつも見つめてはいるんですけど、今回このメンバーだったし、年齢も色々だったし、短期間に凝縮されてすごい密度で皆に出会えて、本当に面白かったです」

 話を藤田さんへのインタビューに戻す。

 『LAND→SCAPE』と今回の『A-S』という作品を比べてみると、彼らの滞在制作のスタンスが変容したことがよくわかる。北九州で滞在制作された『LAND→SCAPE』はとても好きな作品だし、それが悪かったということではないけれど、今振り返ってみると、北九州で出会った人たちにマームとジプシーのやりかたを当てはめていたところがあるように思う。

 そうした変化を考える上で大きいのは、昨年イタリアで制作した『IL MIO TEMPO』だ。この作品に出演したのは、これまでにもマームとジプシーの作品に出演してきた荻原綾さん、川崎ゆり子さん、成田亜佑美さん、波佐谷聡さんと、イタリアで出会ったアンドレア、カミッラ、サラ、ジャコモだ。イタリアの4人は、その前年に藤田さんのワークショップに参加してくれた面々だとはいえ、しっかりとクリエイションをするは初めてだった。にもかかわらず、『IL MIO TEMPO』のために与えられた時間はわずか2週間だった。

 その滞在制作で細心の注意が払われていたのは、「イタリアの皆と一緒に時間を過ごす」ということだ。彼らと一緒に街を歩き、一緒に料理をして一緒に食事をして、音楽を聞きながらお酒を飲んで、毎日を過ごした。短期間で作品を立ち上げるためには、日本から連れてきた“役者”というモーターを起動させれば、藤田さんの作品世界を立ち上げることは可能だっただろう。でも、その方法は選ばずに、丁寧に関わるということにこだわり、イタリアの皆の話を聞くということにかなりの体力と時間を割いていた。

 藤田さんはこれまでも、「参加者のエピソードを聞く」ということにエネルギーを注いできた。ワークショップを開催したときには、参加者の朝のエピソードを聞き、それを繋ぎ合わせて小さな作品にするという作業は続けてきた。ただ、今回の『A-S』を観ていると、出会った人たちの言葉を採用する感覚が変わってきたように思える。

 「やっぱり、『小指の思い出』、『書を捨てよ町へ出よう』とやってきたことで、違う人の言葉に慣れてきてるのはあるんだと思うんです。その言葉を解体して、僕なりの連想としての編集を加えてつなげるってことがすごく好きになってきてるんですよ。今の『言葉を採用する』って言葉は面白いなと思うけど、昔は人の言葉を採用する気がなかったと思うんですよね。でも、そうやって言葉を採用することの面白さに気づいてきてるんだと思います」

 『LAND→SCAPE』という作品と比較したときに、もう一つ印象的なことがある。それは、『A-S』という作品が、思ったほど京都テイストの作品にならなかったということだ。

 『A-S』で語られるのは、この街には川が流れていて、北に行けば海があり、夏には祭りがあるということだ。川は鴨川であり、北に行けばたしかに海があり、7月はずっと祇園祭だ。しかし、川があり、北に海が、夏に祭りがある街なんてどこにだってある。出演者が関西弁をしゃべっているということはあるけれど、どの街にでもあてはまる物語に仕上がったということが印象的だった。

 「そういうことでは肩透かしだって感じた人もいたかもしれないけど、それは僕が言わなくても、観にきた人の中にプリセットされてると思うんですよね。ここに住んでいる人からしてみれば、今更寺社仏閣のことを言われても『お前より知ってるよ』って言われて終わると思うんです。そこは諦めつつも、とはいえ、京都のことを調べてはきたんです。京都はやっぱり、都以外のところは畑だから、すごい田舎なんですよね」

 今回の京都滞在で印象的だったのは、海まで行ってみた日に目にした風景だと藤田さんは語る。

 「その日は夕立がすごくて帰ってこれなくなっちゃって、まわり道をして帰ってきたんだけど、そのときに見えた風景が真っ暗闇だったんですよね。そこで誰かが死んでも、地下室に隠しておいて『うちの長男、部屋から出てこないのよ』って言っておけばバレないだろうって思うくらいの真っ暗闇で。僕なんて北海道出身だから、暗闇とか田園とかって北海道にもあるんだけど、その風景は全然違ったんです。

 作品を描いていると、僕はどうしても北海道に行っちゃうんですよ。海っていうイメージも、北海道とかいわきとか沖縄とかになっちゃうんだけど、それをここの海にしようとしたってことが今回の滞在制作だったなと思っていて。僕らが行ったのは伊根湾ってところなんですけど、湖みたいな海だったんです。その湾には青島っていう島がぽつんとあって、その島があるから波が止まって静かなんです。今までだったら、たとえば高田と辻本っていう二人が海に辿り着くシーンでSEを流してたと思うんですよね。でも、そこがまったく停止したような時間だった。そこが楽しかったっていうか、街を描くときに変に京都に寄り添わないんだけど、自分の記憶に引っ張られる部分を京都仕様にしていく。その感じをちゃんと出すってことで葛藤できたのは楽しかったですね」

 これまで藤田さんが描いてきたのは、記憶の中にある街だった。滞在制作をすることで、記憶の街から離れ、どこかの街になっていく――その作業を重ねていったときに、藤田さん自身が描く世界も変わってくるのではないか。

 「いつだか橋本さんに言われた気がするけど、どんどん自分の生活がなくなっていく感覚はあるんですよね。自分の感覚がなくなっていく感じになってきて、『自分って、ほんとうに何なんだろうな』って思ってきちゃうんです。最近30代になったっていうことも大きいんだけど、たとえば今回出演してくれた高田は今18歳なんだけど、佐藤さんは40代なんですよね。そこらへんの幅みたいなことに興味がある。

 それってやっぱり、マームとジプシーで『あっこのはなし』をやったとしても、まだ甘いところかなと思っていて。それこそ台詞にもあったけど、偶然出会った人たちに切なさを見出していく作業に救われているところはあるんです。今、自分がどの街にいるのかとかもわからなくなってきてるんですよ。もちろん頭ではわかってるんですけど、体感としては自分がどこに位置付けられてるのかはわからなくて、物理的な実態としての自分っていうのは酒を飲みでもしない限り実感できないっていう(笑)。それは20代とはニュアンスが違って、そのキツさがあるんですよ」

 『A-S』の中で、登場人物はよくお酒を飲んでいる。これまでのマームとジプシーの作品でも酒を飲むシーンは登場していたが、それとも少しニュアンスが違っているように感じた。これまでの飲酒はどこかエモーショナルだったが、今回はやるせなさをかみしめるようにして酒を飲んでいる。

 7月31日、『A-S』が千秋楽を迎えた日、楽屋での1次会、店での2次会を終えると、皆で鴨川に出かけた。鴨川の川べりにたどり着くと、酒を飲んだり花火をしたりしながら夜を過ごしていた。僕はその風景をやや遠巻きに眺めながら、この作品に携わった皆の記憶が鴨川に洗い流されて、この作品のことを思い出さなくなる瞬間のことを考えていた。

 参加者の募集をかけたとき、藤田さんは「とにかく、ものをつくることをしていきたいひとたちが集まってくれたら」と書き記していた。僕なんかが言うまでもないことだとは思うけれど、次の「ものをつくること」に向かって走り始めた瞬間に、今は過去になる。この作品に携わったすべての人たちが、次の時間を生きることを想像する。こうして何か記録を残そうとする僕は過去にとらわれてしまうけれど、彼らは次の時間を、未来を生きることができる。