7時に起きる。広末涼子からメールをもらう夢を見た。朝、CHAGE and ASKAの歌詞を調べて眺める。今度CDを借りてこよう。日記を書いて、ジョギングに出る。「ナインティナイン岡村隆史オールナイトニッポン」聴く。アメリカ大統領選挙に対する”ある視点部門”の見解として、放送作家の小西さんから聞いた話を紹介している。トランプはWWEで殿堂入りも果たしており、数年前からスーパースターだったのだ、と(殿堂入りしているからスーパースターだったというよりも、人を引き付けるための重要なテクニックを身につけたということだろう)。つい数日前にも、フジテレビのお昼の番組で水道橋博士が「トランプはWWEに出ていた」という話を披露すると、他の出演者はとても驚いていた。かくいう僕も当時から知っていたわけではなく、大統領選挙に関する報道の中で知った気がするのだけれども、意外と知られていなかったのかと驚く。

 僕はプロレスを観ていた期間はごく数年なので、プロレスについて語ることはできない。プロレス会場で見知らぬ人に話しかけられ、「誰のラリアットが最強だと思うか」と問われたのだが、僕の答えは「わかってない」と一蹴されて嫌になったことを思い出すが、それはまた別の話だ。自宅がスカイパーフェクTVに加入していたこともあり、高校生の頃はよくアメリカンプロレスを観ていたけれど、WWEではなくWCWだった。ゴールドバーグが登場した頃だ。ギターで相手を叩きのめすジェフ・ジャレットのことがなぜか記憶に残っている。WCWが崩壊する頃にはプロレスを観なくなってしまった。

 昨日、『CB』誌のMさんから急遽コラムの依頼があり、ぼんやり考えていたものを文字にして送信する。最後の一行、テーマに沿うようにとってつけた感じがしたので、蛇足であれば削ってくださいとつけくわえて送信する。すぐに返事があり、このまま行きましょうとのこと。14時過ぎ、冷凍しておいたごはんを解凍し、麻婆豆腐丼にして食べた。

 16時過ぎにアパートを出て、今日も草月ホールへ。前野健太9周年記念ライブ「歌手だ」第二夜である。近くのセブンイレブンで買ったスタイルフリーをぐいっと飲み干し、会場へ。今日は下手側の席で、昨日よりも前の席だ。開演時刻を8分ほど過ぎたところで、上手側の舞台袖でチカチカと明かりが点滅すると、舞台が暗転する。まずはバンドメンバーが登場する。フォーマルな装いだ。楽しませてくれるじゃないかとライブが始まる前からワクワクする。

 ステージに登場した前野健太は、客席に深々と頭を下げ、「100年後」の演奏が始まる。2曲目の「あたらしい朝」が終わる頃にはもう汗だくで、「……飛ばし過ぎだよね?」と自分で笑っている。昨日とはモードが違っていて、テンションも高く、演奏中にも客席から歓声が上がっている。7曲ほど演奏したところで、「チークタイム」と前野さんが言う。コーラスのアマゾンズとバンドのメンバーを一旦下がらせて、サックスのあだち麗三郎さんだけを残らせた。そうして「23歳ぐらいの女の人のの照明を」と語り、続けて「26歳ぐらいの男の人のリバーブを」と言い、「世田谷区のサックスをお願いします」とリクエストして、「友達じゃがまんできない」が始まる。

 ここ最近の印象として、僕は「友達じゃがまんできない」は今の前野健太のモードに合わなくなってきてるんじゃないかと思っていた。昨日の日記にも書いたように、最近の前野健太は自身の歌を捉え直しているように思えるところがある。シンガーソングライターは私から歌を生み出す存在である。でも、今の前野健太のライブを観ていると、私が消えて歌だけが残る――そんな印象を受ける。人間が生きるとか、死ぬとかってことを超越したところに歌が存在する。昨日のライブは、そうした次元にある歌というものに前野健太が寄り添っているように見えた。

 昨日も「友達じゃがまんできない」は演奏されていたけれど、やはり少し浮いているように感じた。と書くと、演奏が良くなかったと言っているように感じられるかもしれないが、演奏自体は素晴らしかったし、良い曲だとも思っている。でも、この曲はどこまでも人間の情念の歌であり、前野さんもいつも魂を込めるように歌っている(これまで観たライブでも、何度か演奏を中断して歌い直していたことがある)。その曲というのは、今のモードに合わないのではと昨晩思っていた。でも、今日の演奏を聴いていると、それは勝手な思い違いだったという気持ちになる。

 時間が進むにつれ、第一夜と第二夜の違いを強く感じる。第一夜の終盤、いつものように客席に「リクエストありますか?」と振ったとき、客席からの声に「それは明日やるんで」と答えた曲がいくつかあった。でも、第一夜でやった曲は第二夜ではやらなかったかというとそんなことはなく、あえて二日とも演奏した曲もあっただろう。二日とも演奏した曲の一つに「天気予報」がある。昨日、前野健太がひとりで演奏するこの曲を聴いていると、いつか人間は滅びてしまうのだということを強く感じた。肉まんを買って一緒に食べよう、その歌詞がとても印象的で、そんなふうに小さな――しかしとても大事な――感情を持っている人間というものの儚さというのか、ささやかさを感じたのである。でも、今日は「生きていかなきゃね」という言葉が深く刺さってくる。

 あるいは、これも二日とも歌われた「人生って」に登場する「人生ってあがき」というフレーズも、まったく印象が違っていた。昨日のコンサートでは、人生というものをどこか俯瞰していたけれど、今日のコンサートはあがく人間の生き様がステージで披露されているようでもあった。そして、第一夜が“デビューから9年経って到達しつつある境地”が感じられるものだとすれば、第二夜は“デビューから9年の道程”を感じさせるものでもあった。ライブの序盤で、前野健太はファーストアルバム『ロマンスカー』を出した頃のことを語り始めた。そこで「さっきやった『LOVE』のオリジナルのドラムはあだち麗三郎だ」と語り、また別のタイミングでは三輪二郎が「この曲には自分のギターが足りない」と言ってきたエピソードを語り、あるタイミングではベースのシゲとの関わりを語る――そんなふうに随所で9年を振り返っている。

 だからこそ印象的な出来事があった。それは「今の時代がいちばんいいよ」を演奏し終えたときのことだ。演奏が終わって拍手が止むと、「もう一回やっていい?」と前野さんは他のメンバーに語りかける。今のは全然気持ちが入ってなかった、今の時代がいちばんいいって思えてなかった、と。やはり振り返るモードに寄ってしまっていたのだろうか。再び「今の時代がいちばんいいよ」のイントロを弾き始めると、全員のメンバーを紹介する。バンドのメンバーやコーラスのアマゾンズだけでなく、照明チーム、音響チーム、舞台監督まで紹介する。そうしてさっきよりも全身全霊を込めるようにして「今の時代がいちばんいいよ」を歌い始める。

 バンドのサウンドというものは、どこまでも“今”という瞬間の上に成り立っているものだ。この日の「今の時代がいちばんいいよ」を聴いていると、そんなことを思う。当たり前のことではあるけれど、同じ時間に同じステージに立って、いっせーのーせで鳴らしている。その瞬間にしか存在しない時間を生きている彼らは、とてもきらきらしているし、何より楽しそうだった。前野さんはいつにも増して人懐っこそうに見えた。こんなに最高の瞬間があると、日常生活で楽しく感じることってあるのだろうかと勝手に心配になる。そして、自分にはあんなに最高の瞬間はあるだろうかと考える。最後、客席の真ん中に立って弾き語りで歌う前野さんの姿を観ていると、観客である「私」もこの“今”に立ち会っている一人だということに思い至る。

 終演後、ロビーの片隅でに佇んで、しばらくライブの感想をメモする。昨日はさっさと帰ってしまったけれど(昨日は誰とも話さずに感想を抱えたまま帰りたかった)、今日は少し残りたい気持ちだった。だからといって何か話したいというわけではなく、前野さんと握手をして帰りたかった。でも、どうしても終演後のロビーに残り続けるということができなくて、ひとしきりメモを書き終えたところで草月ホールをあとにしてしまった。

 半蔵門線副都心線を乗り継いで新宿三丁目に出る。ちょうど知人も京都から帰ってきたところなので、ワインバーで待ち合わせることにする。僕が入店して5分ほど経ったところで知人がやってきたけれど、先に頼んでおいたワインのボトルはまだ運ばれてきていなかった。二人揃うまで待っていたのかとも思ったけれど、少し待っても運ばれてこないので店員を呼んでその旨を伝える。

 店員は特に申し訳そうにするでもなく、当たり前のような顔をしてワインのボトルを運んできた。いや、この店ってすごいですね、ワインのボトルを探すのに5分以上もかかるんですねと僕が店員に言っていると、知人が「いいじゃんもう」と諌める。何でこんなに腹立たしく感じるのだろう。さっきまで過ごしていた時間が完璧過ぎて、ちょっとしたことで物足りなく感じるのだろうか。ボトルを飲み干してアパートに帰ると、楽しみにしていたバラエティ番組を観た。とても楽しみにしている番組なのに、それすら退屈に感じてしまって、ふてくされるように眠りについた。

 7時に起きる。広末涼子からメールをもらう夢を見た。朝、CHAGE and ASKAの歌詞を調べて眺める。今度CDを借りてこよう。日記を書いて、ジョギングに出る。「ナインティナイン岡村隆史オールナイトニッポン」聴く。アメリカ大統領選挙に対する”ある視点部門”の見解として、放送作家の小西さんから聞いた話を紹介している。トランプはWWEで殿堂入りも果たしており、数年前からスーパースターだったのだ、と(殿堂入りしているからスーパースターだったというよりも、人を引き付けるための重要なテクニックを身につけたということだろう)。つい数日前にも、フジテレビのお昼の番組で水道橋博士が「トランプはWWEに出ていた」という話を披露すると、他の出演者はとても驚いていた。かくいう僕も当時から知っていたわけではなく、大統領選挙に関する報道の中で知った気がするのだけれども、意外と知られていなかったのかと驚く。

 僕はプロレスを観ていた期間はごく数年なので、プロレスについて語ることはできない。プロレス会場で見知らぬ人に話しかけられ、「誰のラリアットが最強だと思うか」と問われたのだが、僕の答えは「わかってない」と一蹴されて嫌になったことを思い出すが、それはまた別の話だ。自宅がスカイパーフェクTVに加入していたこともあり、高校生の頃はよくアメリカンプロレスを観ていたけれど、WWEではなくWCWだった。ゴールドバーグが登場した頃だ。ギターで相手を叩きのめすジェフ・ジャレットのことがなぜか記憶に残っている。WCWが崩壊する頃にはプロレスを観なくなってしまった。

 昨日、『CB』誌のMさんから急遽コラムの依頼があり、ぼんやり考えていたものを文字にして送信する。最後の一行、テーマに沿うようにとってつけた感じがしたので、蛇足であれば削ってくださいとつけくわえて送信する。すぐに返事があり、このまま行きましょうとのこと。14時過ぎ、冷凍しておいたごはんを解凍し、麻婆豆腐丼にして食べた。

 16時過ぎにアパートを出て、今日も草月ホールへ。前野健太9周年記念ライブ「歌手だ」第二夜である。近くのセブンイレブンで買ったスタイルフリーをぐいっと飲み干し、会場へ。今日は下手側の席で、昨日よりも前の席だ。開演時刻を8分ほど過ぎたところで、上手側の舞台袖でチカチカと明かりが点滅すると、舞台が暗転する。まずはバンドメンバーが登場する。フォーマルな装いだ。楽しませてくれるじゃないかとライブが始まる前からワクワクする。

 ステージに登場した前野健太は、客席に深々と頭を下げ、「100年後」の演奏が始まる。2曲目の「あたらしい朝」が終わる頃にはもう汗だくで、「……飛ばし過ぎだよね?」と自分で笑っている。昨日とはモードが違っていて、テンションも高く、演奏中にも客席から歓声が上がっている。7曲ほど演奏したところで、「チークタイム」と前野さんが言う。コーラスのアマゾンズとバンドのメンバーを一旦下がらせて、サックスのあだち麗三郎さんだけを残らせた。そうして「23歳ぐらいの女の人のの照明を」と語り、続けて「26歳ぐらいの男の人のリバーブを」と言い、「世田谷区のサックスをお願いします」とリクエストして、「友達じゃがまんできない」が始まる。

 ここ最近の印象として、僕は「友達じゃがまんできない」は今の前野健太のモードに合わなくなってきてるんじゃないかと思っていた。昨日の日記にも書いたように、最近の前野健太は自身の歌を捉え直しているように思えるところがある。シンガーソングライターは私から歌を生み出す存在である。でも、今の前野健太のライブを観ていると、私が消えて歌だけが残る――そんな印象を受ける。人間が生きるとか、死ぬとかってことを超越したところに歌が存在する。昨日のライブは、そうした次元にある歌というものに前野健太が寄り添っているように見えた。

 昨日も「友達じゃがまんできない」は演奏されていたけれど、やはり少し浮いているように感じた。と書くと、演奏が良くなかったと言っているように感じられるかもしれないが、演奏自体は素晴らしかったし、良い曲だとも思っている。でも、この曲はどこまでも人間の情念の歌であり、前野さんもいつも魂を込めるように歌っている(これまで観たライブでも、何度か演奏を中断して歌い直していたことがある)。その曲というのは、今のモードに合わないのではと昨晩思っていた。でも、今日の演奏を聴いていると、それは勝手な思い違いだったという気持ちになる。

 時間が進むにつれ、第一夜と第二夜の違いを強く感じる。第一夜の終盤、いつものように客席に「リクエストありますか?」と振ったとき、客席からの声に「それは明日やるんで」と答えた曲がいくつかあった。でも、第一夜でやった曲は第二夜ではやらなかったかというとそんなことはなく、あえて二日とも演奏した曲もあっただろう。二日とも演奏した曲の一つに「天気予報」がある。昨日、前野健太がひとりで演奏するこの曲を聴いていると、いつか人間は滅びてしまうのだということを強く感じた。肉まんを買って一緒に食べよう、その歌詞がとても印象的で、そんなふうに小さな――しかしとても大事な――感情を持っている人間というものの儚さというのか、ささやかさを感じたのである。でも、今日は「生きていかなきゃね」という言葉が深く刺さってくる。

 あるいは、これも二日とも歌われた「人生って」に登場する「人生ってあがき」というフレーズも、まったく印象が違っていた。昨日のコンサートでは、人生というものをどこか俯瞰していたけれど、今日のコンサートはあがく人間の生き様がステージで披露されているようでもあった。そして、第一夜が“デビューから9年経って到達しつつある境地”が感じられるものだとすれば、第二夜は“デビューから9年の道程”を感じさせるものでもあった。ライブの序盤で、前野健太はファーストアルバム『ロマンスカー』を出した頃のことを語り始めた。そこで「さっきやった『LOVE』のオリジナルのドラムはあだち麗三郎だ」と語り、また別のタイミングでは三輪二郎が「この曲には自分のギターが足りない」と言ってきたエピソードを語り、あるタイミングではベースのシゲとの関わりを語る――そんなふうに随所で9年を振り返っている。

 だからこそ印象的な出来事があった。それは「今の時代がいちばんいいよ」を演奏し終えたときのことだ。演奏が終わって拍手が止むと、「もう一回やっていい?」と前野さんは他のメンバーに語りかける。今のは全然気持ちが入ってなかった、今の時代がいちばんいいって思えてなかった、と。やはり振り返るモードに寄ってしまっていたのだろうか。再び「今の時代がいちばんいいよ」のイントロを弾き始めると、全員のメンバーを紹介する。バンドのメンバーやコーラスのアマゾンズだけでなく、照明チーム、音響チーム、舞台監督まで紹介する。そうしてさっきよりも全身全霊を込めるようにして「今の時代がいちばんいいよ」を歌い始める。

 バンドのサウンドというものは、どこまでも“今”という瞬間の上に成り立っているものだ。この日の「今の時代がいちばんいいよ」を聴いていると、そんなことを思う。当たり前のことではあるけれど、同じ時間に同じステージに立って、いっせーのーせで鳴らしている。その瞬間にしか存在しない時間を生きている彼らは、とてもきらきらしているし、何より楽しそうだった。前野さんはいつにも増して人懐っこそうに見えた。こんなに最高の瞬間があると、日常生活で楽しく感じることってあるのだろうかと勝手に心配になる。そして、自分にはあんなに最高の瞬間はあるだろうかと考える。最後、客席の真ん中に立って弾き語りで歌う前野さんの姿を観ていると、観客である「私」もこの“今”に立ち会っている一人だということに思い至る。

 終演後、ロビーの片隅でに佇んで、しばらくライブの感想をメモする。昨日はさっさと帰ってしまったけれど(昨日は誰とも話さずに感想を抱えたまま帰りたかった)、今日は少し残りたい気持ちだった。だからといって何か話したいというわけではなく、前野さんと握手をして帰りたかった。でも、どうしても終演後のロビーに残り続けるということができなくて、ひとしきりメモを書き終えたところで草月ホールをあとにしてしまった。

 半蔵門線副都心線を乗り継いで新宿三丁目に出る。ちょうど知人も京都から帰ってきたところなので、ワインバーで待ち合わせることにする。僕が入店して5分ほど経ったところで知人がやってきたけれど、先に頼んでおいたワインのボトルはまだ運ばれてきていなかった。二人揃うまで待っていたのかとも思ったけれど、少し待っても運ばれてこないので店員を呼んでその旨を伝える。

 店員は特に申し訳そうにするでもなく、当たり前のような顔をしてワインのボトルを運んできた。いや、この店ってすごいですね、ワインのボトルを探すのに5分以上もかかるんですねと僕が店員に言っていると、知人が「いいじゃんもう」と諌める。何でこんなに腹立たしく感じるのだろう。さっきまで過ごしていた時間が完璧過ぎて、ちょっとしたことで物足りなく感じるのだろうか。ボトルを飲み干してアパートに帰ると、楽しみにしていたバラエティ番組を観た。とても楽しみにしている番組なのに、それすら退屈に感じてしまって、ふてくされるように眠りについた。