朝6時に起きる。7時過ぎにジョギングに出る。昨日と同じように、不忍池をぐるり。シャワーを浴びて味噌汁を飲んだ。昨日、「今年の花粉症は終わった!」と思っていたけれど、まだ鼻水が出るので薬を飲んでおく。午前中、『月刊ドライブイン』の原稿を書く。昼、スパゲティを茹で、キューピーの明太子ソースをかけて食す。物足りないので鯖缶も。午後も引き続き原稿を書く。もう一息だ。15時、出かける前に洗い物。鯖缶を洗っていると縁で指を切ってしまい、止血しながら駅まで急ぐ。

 新宿御苑駅で電車を降りて、ギャラリー「p」。まだ血が止まっておらず、「絆創膏ありますけど、大丈夫ですか?」と心配される。近くのヴェローチェに移動し、打ち合わせ。一件は具体的に進めることになり、もう一件は見送りに。見送りになった案件については、すぐに荻窪にある「T」に電話で相談し、来週お店に伺って相談させてもらうことにする。紀伊國屋書店をしばらく物色したが、何も買わず。17時50分、友人のA.Iさんと待ち合わせて、紀伊國屋ホールで『火花 −Ghost of the Novelist−』観る。前情報を入れずに観にきたのだが、又吉さんは「本人役」という役で登場する。冒頭、ひとりで舞台に姿をあらわし、「本人役」という役であり、今しゃべっていることもすべて台詞だと説明する。一体何年遅れの舞台だろう。のっけから不安になる。

 そこに観月ありさが登場する。観月は「結婚して」と言い、「そのかわり、『火花』は私が書いたことにしてほしい」「自分は小説家になりたかった」と言い出す。ただ、観月は『火花』を読んだことがなく、「今から聞くから」と言うと、『火花』の物語が始まる。観月ありさは登場人物にもなるが、ところどころで物語は中断され、「本人役」のふたりが語り合う。そこで観月が「これは私が体験したことじゃないから、『私が書きました』と言えない」と言い出すのだが、本当に、この脚本を書いた人は小説を舐めているのだろうか。又吉直樹が小説を書いたということに対しても、あいかわらずの「芸人か小説家か」という二元論が透けて見える。『火花』を舞台化する上で、なぜこんな脚本になってしまったのか。

 それにしても、どうしてこのキャスティングなのだろう。小説の中で、徳永はネクストブレイクの若手として多少注目を浴び始めた芸人であり、神谷は世間に迎合しない天才タイプの芸人ということになっている。その神谷に、努力の人であるノンスタイル石田をあてるというのは、一体どういうことだろう。小説を読んでいると、徳永も神谷もあれこれ考えを巡らせており、「どうしてこの人が売れなかったのか」と感じてしまうけれど(そして「どうしてこの人が」というケースは星の数ほどあることもわかっているけれど)、このキャスティングだと、徳永も、神谷も、世間の分厚い壁に跳ね返されそうな気配が冒頭から漂っている。

 舞台の終盤、スパークスが解散して最後の漫才をするシーンがある。そこでいかにも泣けるシーンっぽく演出されるのだが、ただ白々しい気持ちになる。『火花』で描かれているのは、何者かになろうと苦闘し、それでも敗れてゆくものたちの姿だ。徳永と神谷は漫才とは何か、お笑いとは何か、表現とは何かについて何度となく語り合う。そのあいまに季節の描写があり、彼らがそこに費やしてきた時間が透けて見える。だからこそ最後の漫才が輝いて見えるのだが、この舞台ではその歳月をナレーションで処理してしまっており、その蓄積を感じさせないまま最後の漫才を見せられても、白けた気持ちになるだけだ――と思っていたのだが、客席のあちこちから鼻をすする音が聞こえて驚く。

 それにしても、「お笑い芸人になりたいと願い、苛烈な競争に晒され、何度となく舞台に立ちながらも、埋もれてしまった多くの人々」を描いておきながら、この舞台は何より芸人を侮辱しているのではないかとさえ思う。彼らの時間をたっぷり描くのではなく、女優による語りをベースに物語が展開し、芸人の姿はダイジェストとなり、感動的な部分だけ抜粋される。これでよいのか。しかも、「小説家になりたいと思ってたけど、やっぱり私には無理ね」と、観月ありさ役の観月ありさは小説家になることを諦め、それが『火花』の物語と重ね合わせられてもいるのだが、そんな簡単に「小説家になりたいな」と言いだした話を、挫折した芸人たちに重ね合わせるなんて、冒涜しているとしか思えない。本人役で舞台に立たされている原作者の胸中を思うと、心配になるほど。

 挙げ句の果てに、芸人の物語を描いたふうに見せながらも、なぜかラストは徳永が最後に真樹を見かけた場面で締めくくられる。「真樹さんの人生は美しい。あの頃、満身創痍で泥だらけだった僕達に対して、やっぱり満身創痍で、全力で微笑んでくれた。そんな真樹さんから美しさを剥がせる者は絶対にいない」と語られてゆくが、この台詞を本当に胸に響かせるためには、「絶対にいない」と言う言葉を観客が思えるだけの時間が事前に描かれていなければ駄目だ。だが、そんな時間はほとんど積み重ねられていなかった。

 どうしてこんなことになるのだろう。神谷の持論は「美しい世界を、鮮やかな世界をいかに台なしにするかが肝心なんや」である。だから『火花』という小説も、解散漫才で美しく終わるのではく、変わってしまった神谷の姿で締めくくられる。どうしてそれを、真樹の美しい姿というラストに変えたのだろう。もちろんそれは脚本家の自由だ。それは、神谷に対する「あの風景を台なしにする方法を僕は知らない」という脚本家からの応答であるのかもしれない。でも、エンディングで唐突に持ち出される真樹のシーンに、「あの風景を台なしにする方法を僕は知らない」と言えるほどの説得力があるはずもなかった。ひょっとしたら、『火花』という小説をこんなふうに舞台にすることが、「美しい世界を台なしにする」ということなのだろうか。そんなことさえ考えた2時間10分だった。