2月10日

 9時過ぎに起きる。さすがに疲れが溜まっている。11時過ぎ、知人と一緒にアパートを出て、白山にある「CoCo壱」。36歳にして、初めて「CoCo壱」に入店した。知人はカツカレーを、僕は海の幸カレーを注文する。知人が3辛を選んだので、僕は2辛にしたのだが、これが思いのほか辛かった。そしてイカだと思っていた具材がイカリングフライで面食らう。内臓が疲れているところにスパイスと揚げ物を摂取したせいで、最後のほうにはぐったりしてしまい、イカリングフライを一個知人に食べてもらう。スパイスで汗だくになって、知人は楽しそうである。

 知人と別れ、「古書信天翁」へ。お店は昨日で閉店してしまったが、今日はBOEESの皆で閉店作業を手伝うことになったのだ。到着してみると、もうすでにセトさんは本をビニル紐で縛り始めているところだ。市場に出せそうな本は縛り、市場に出せそうにない本は1階に並べて販売する。その品出しを手伝って、ムトーさんと一緒に店番。日が当たらないこともあって、なかなかの寒さだ。ほどなくして「丸三文庫」のヨーゾーさんもやってきて、二階での作業に加わる。僕はひたすら一階で過ごす。人が通りかかるたび、ムトーさんは「2冊で100円でーす」と声をかける。僕はぼんやり座ったまま、道ゆく人をひたすら観察して過ごす。

 今日は三連休の中日だ。そして、昨日と違って晴天だということもあり、谷中ぎんざはかなりの人出だ。だが、古本に目を留める人はせいぜい5パーセントだ。足を止める人ではなく、目を留める人がその割合なのだ。これはなかなかショッキングだった。古本というものはこんなにも目を留められないものになりつつあるのか。どこかドライブインに近いものを感じる。かつては皆が利用していたのに、いつのまにか時代が移り変わり、目が向けられない存在になってゆく。「そうなんだよなー、時代が変わるのはあっという間なんだよなー」とムトーさんが言う。もちろん、そこに並べてある本はセレクトの効いた本ではなく、市場に出さないと判断された雑多な本だということもある。でも、昔はそうした本を読んで過ごす時間というものがあったはずだ。

 ドライブインを取材しているなかで印象的な時間はいくつもあったけれど、その一つは、「二本松バイパスドライブイン」を訪れたときのことだ。ドライブインには古い漫画が並んでいるお店が多いが、そこにもいくつか漫画が並んでいた。トラック運転手の男性は、ふらりとお店に入ってくると、そのうちの一冊を手に取り読み始めた。その漫画は1巻などではなく、何巻目かの単行本だった。その本がすごく読みたくて読んでいるというより、ひまつぶしになんとなく手に取ったといった感じだった。今は皆、何かを読むとすれば、自分が読みたい本を選んで読むだろう。でも、トラック運転手の方は、興味があるというわけではなく、何でもいいからとりあえず読むといった感じで本を手に取っていた。昔はそのように本が読まれていて、その時代であれば、こんなふうに軒先に古本を並べていれば、もっと盛況だったのだろう。

 そんなことをぽつぽつ話していると、若い女性の二人組が足を止めた。おしゃれな二人組だ。古本に興味があるのだなあと思っていると、ひとりが棚から離れ、カメラを構えている。もうひとりは棚の前で止まっている、ポーズを取っているのだろう。写真を撮るということに対する距離感がゼロだ。これは僕より一回り下の世代に感じる強い壁だ。何かにカメラを向ける、それをアップするということに対する抵抗がほとんどないように感じる。二人組はひとしきり撮影を終えると、満足したのかどこかへ去ってゆく。

 向かいの酒屋には、軒先で飲んでいる人たちがいる。「自分がああいう店の2代目に生まれたらさ、もしかしたら小綺麗な今時の酒屋に変えちゃうのかもなって思うんだよなー」とムトーさんがつぶやく。そこにある“普通”な風景に惹かれるのは、それを外側の視点から見ているからだ。そこに生まれ育った側からすると、それは惹かれる対象ではなく、ただそうあるというものに過ぎない。「ここで何か店をやるとしたら、何をやる?」とムトーさんが尋ねる。何がいいだろう。僕ならオリジナルの型を使った人形焼的なものか、あるいは印象的な印を押した大判焼きにします、と答える。カラフルな色――できれば夕焼け色――を一部にでもあしらったものにする。夕やけだんだんの上では、多くの人が記念写真を撮ってゆく。でも、基本的に皆、手ぶらでただ写真を撮っている。でも、そこに名物があれば、それを手に写真を撮りたいと思うだろう。素材にしょうがを用いれば、「もともとこのあたりは生姜の産地として有名で」と蘊蓄も取り上げられるし、『ヒルナンデス!』みたいな番組でも取り上げやすいはずだ。そんな話をひとしきりしたあとで、ムトーさんは何をやるんですかと尋ねると、「おいらは立ち飲み屋かな」と言う。それ、自分が飲みたいだけでしょうと笑う。

 途中でおもちゃや雑貨なども追加で並べると、前より少しお客さんが足を止めるようになった。「でも、やっぱり皆、本じゃなくておもちゃなんだよなー」と武藤さんが苦笑する。ほとんどの観光客は通り過ぎてしまうけれど、ここを目指して歩いてくるお客さんもいる。閉店の情報はインターネット上でしか告知されておらず、そのまま二階へ上がっていこうとするお客さんもいる。そんなお客さんが訪れるたび、「昨日で閉店したんです。二階は閉店作業をやっていて、そこからこぼれた本をここで売ってるんです」とムトーさんが説明する。え、知らなかった。ときどき買いに来てたのに。寂しくなりますね。皆さん閉店を惜しんでいる。この界隈に引っ越してくるまではそんなに足を運んだことがあるわけでもなく、引っ越してからもときどきしか訪れていなくて、『不忍界隈』が爆発的に売れることもなく、売り上げに協力できなかった僕は、残念とか、寂しいとか、そういったことを口にできずにいる。それはすべてのお店や場所に対してそう思ってしまう。

 16時頃から近藤十四郎さんのライブが始まる。古本を並べている場所はずっと日陰になっていたけれど、ようやく日が射してくる。Kさんが二階から缶ビールを持ってきてくれて、ビールを飲みながら過ごす。17時になったところで、一階から古本を撤収する。店内に戻ると、ヨーゾーさんが窓の外を眺めている。「ここからの景色、ものすごくいいんですよ」と言う。その窓からは、日暮里駅のほうから夕やけだんだんを目指して歩いてくる人たちや、近くの酒屋の軒先で過ごす人たち、ベーゴマに興じるちびっこたちが見渡せた。まだ作業は続くようだけれど、僕に手伝える作業がないこともあり、17時半においとまする。

 17時55分、代々木駅北口に到着すると、友人のA.Iさんはもう待っていた。「ひつじや」というお店に出かけるつもりでいたのだけれども、予約で一杯だという。サザンテラスを目指して歩き、新作のDMを手にした写真撮影のアシスタントを務めたのち、「銅鑼」へ。僕はチューハイ、Aさんはハイボールを注文して乾杯。何かのきっかけで髪型の話題となり、「私もパーマをかけたりカラーを入れたりしてみたいけど、それを美容師の人に話したら、『次の公演もあるし、やめましょう』と言われた」とAさんが言う。Aさんがそんなふうに思うのかと意外に思ったけれど、それを「意外」と伝えるのは失礼であるような気がして、言葉を飲み込んだ。「キムタクのように、『どの作品に出てもキムタク』であるような存在感の人もいて、それはつまり、その人らしくあるだけで作品が成立するということですけど、でも、Aさんがやっていることは、それとは対極のことですよね」と答える。

 じゃが芋シャキシャキ炒めとポテトサラダを注文し、2杯目からは白ワインのボトルに切り替える。今月中旬から同行する予定の取材について話す。やっぱり、僕がM&Gを取材することについてはためらいもある、「また橋本さんが取材してるのね」という印象を与えてしまうと、それはM&Gに対してプラスのことにならないのではないか――そんなことを話すと、「もうそういう時代は終わりました」とAさんが言う。そのきっぱりした言い方に戸惑っていると、「そんな、『また橋本さんか』みたいなことを気にしなきゃいけない時代は、もう終わったんです」とAさんは続ける。「橋本さんにしか書けないことがあるし、少なくとも私は橋本さんにもっと取材してもらいたいと思っているから、そんなこと気にせんと、もっと橋本さんが書いておきたいと思うこと書いてや」。

 21時半に店を出る。二軒目は「イーグル」かなと思っていたけれど満席だ。いつだか訪れた沖縄料理店「かちゃーしー」に入り、残波の白をカラカラで注文。どうしてそんな話になったのか、どちらが先に死ぬかという話になり、「絶対に橋本さんより私のほうが先に死ぬ」とAさんが言う。「でも、私が死んだあとで、私のことなんか絶対に思い出さんといてや。もう、私に関することは全部記憶から消去して。思い出されるなんて絶対嫌や」。そう言いながらAさんはぽろぽろ涙をこぼす。そんなこと言ったって、作品を観た人はその姿を思い出すことがあるだろうし、僕がやっている仕事もその姿を書き残す作業ですよ。そう反論すると、「それは作品だからええねん」とAさんは言う。誰かの作品の一部として私が記憶されるのはいいけど、私自身が記憶されるのは嫌やねん、と。そう言われれば言われるほど、その言葉が記憶に残ってしまう。