4月30日

 朝8時に起きる。郵便受けから新聞を取ってきて、コーヒーを淹れる。一面に掲載されたNetflixの広告が印象的だ。Netflixをほとんど見ず、テレビばかり観ている僕は取り残されていくのだろうか。テレビの「過ぎ去っていく」という質感が、どうもぴったりきている。そして、それをレコーダーに記録し、ブルーレイに焼いて保存できるということも大きい気がする。午前中は『市場界隈』のまえがき、付記、それにキャプションを書く。12時半にようやく書き終えて、プリントアウトしてアパートを出る。

 打ち合わせ前にまずは「砺波」へ。いつもは500円のラーメンだけど、せっかくだからと700円のチャーシューメンを注文する。何が「せっかくだから」なのだろう。ビールもつける。テレビでは朝ドラが再放送されている。まだ今期の朝ドラを観始められていないどころか、前期の朝ドラも観終えていなくて、まだチキンラーメンを開発する前の段階で止まっている。後からやってきた老年の男女が隣に座り、ああ、私、これを毎朝観てるのよ、これと『やすらぎの刻』を観るのが毎日楽しみなのよ、だから朝8時から15分間は電話してきちゃ駄目よと話している。ふたりはビールを注文し、ビニール袋から何か取り出しツマんでいる。

 

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 急いでチャーシューメンを平らげ、「往来堂書店」。『市場界隈』の打ち合わせのとき、ここを待ち合わせ場所に使わせてもらっているだけでなく、ゲラを預かってもらっていることもある。めあての喫茶店が営業していなかったので、サンマルクカフェに入り、まえがきと付記とキャプションを手渡す。いくつか確認したのち、再校を連休明けに戻す約束をして店を出る。向かいにあるうどん屋にはまだ行列が続いている。編集者のTさんが「お蕎麦屋さんが増えましたね」と言っていたけれど、たしかに、この半年のあいだだけでも二、三軒は増えている。“谷根千散歩”に、とやってきた観光客の欲求を満たすのは、和を感じさせてくれる蕎麦屋さんなのだろう。

 一度アパートに戻り、少しだけテープ起こしを進める。夕方になり、ニュース番組が始まると、新宿からの中継が映し出される。駅前広場では天皇制反対のデモが行われており、新宿通りを挟んだ向かい側には右翼が陣取っている。50年前には一つの中心地であったとはいえ、2019年の今、なぜ新宿なのだろう。16時過ぎにアパートを出て、谷中ぎんざまで歩き、「越後屋本店」でアサヒスーパードライを飲んだ。今日みたいな日は暇疲れしちゃうと、三人は口を揃える。雨が降ったり止んだりで、そのたびに椅子をしまったり出したりしていてくたびれたという。そんな話をしているうちに、また雨が降り始める。

 一杯だけで切り上げて、根津まで歩く。なんとなく真心ブラザーズがカバーした「マイ・バック・ページ」を聴き、続けて1966年にロイヤル・アルバート・ホールで演奏された「Like A Rolling Stone」を聴く。洋楽なんてほとんど触れずに育った僕がボブ・ディランを聴くようになったのは坪内さんと出会ったことで、ちょうどその頃に『No Direction Home』が公開されて、その時期熱心に聴いていたことがふいに思い出される。あの頃の記憶も少し混濁しつつある。しばらく歩いて、バー「H」。口開けの客であればサンドウィッチを頼みやすいはずだと開店時刻を目指してやってきたのだが、既に先客がおり、諦める。Hさんはハイボールをすっと出してくれる。

 

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 あとからもう一人お客さんがやってきて、カウンターには一人客が三人並んだ格好になる。店内にはピアノの音が響いている。ふと、前にHさんが「営業中はオールディーズを流すことが多いですね」と言っていたことを思い出す。ジャズだとこだわりが強いお客さんも多いから、オールディーズだとちょうど良いのだと。でも、今日と今日の天気に合わせて、今日はジャズを流しているのだろうなと考える。いったい誰の演奏だろう。アプリで調べたい気持ちに駆られるも、ぐっと堪える。カウンターに並んだお客さんは皆ケータイを手にしている。せっかくバーにいるのだから、ただ空白を引き受けるようにして時間を過ごしたいと思い、古いニッカウィスキーを抱える木彫りの熊を眺めたり、文壇酒徒番付を眺めたり。自分も端っこくらいに名前が載れるようになるだろうかと少し考えてみたけれど、そもそも文壇なんてものが存在しないのだった。

  しんみりした気持ちになっていると、「三人なんだけど!」と声の大きい客がやってくる。あとからもう一人やってきて、子供が家を走りまわる話、最近買った車の話、25マンのキャンプセットの話を大声でしている。「最近引っ越したんだけどさ、ランチ難民になっちゃって」と男が言う。「サラリーマンが多いから、どこも一杯なんだよ。弁当屋もあるんだけどさ、売ってるのが500円の弁当でさ。そんな値段の弁当なんて、何入ってるかわかんなくて、怖くて買えねえよ」。お通してして提供されていた塩豆を投げてやろうかと思う。でも、これが平成という時代なんだよなあと感じる。どこにも大人がいなくなってしまった。その三人組に、あとから女性が一人合流する。何飲んでるの。カクテルだけど、ジュースみたいなもんだよ。「私も同じものくださーい」と注文すると、Hさんは丁寧に時間をかけてカクテルを作る。差し出されたカクテルを一口飲んだ女性は「お酒濃いじゃないの、これ」と言い、先に飲んでいた男性にグラスを渡す。男性は自分のグラスにそれを移し替える。その様子を、Hさんが一瞬だけちらりと見やる。あとからやってきた女性は、先に来ていたもう一人の女性—―彼女は酒ではなくジュースを飲んでいた―—に声をかけ、「ちょっと、今のうちにツツジを見ておきましょう」と席を立ち、男性二人を残して店を出ていく。Hさんは「ありがとうございました」と声をかけつつ、お通しの小皿を下げる。そこに男性客が声をかけ、ああ、それ、手をつけてませんからね、と告げる。Hさんはほんの一瞬止まり、何も言わずに皿を下げる。これが平成という時代なのだろう。

  ハイボールを2杯飲んだところで会計をお願いする。なんか、大晦日みたいな気持ちですと伝えると、「たしかに、年越し感はありますね」とHさんは笑う。さすがにやり過ぎだと思って口には出さなかったけれど、良いお年を、という言葉を思い浮かべながら頭を下げて、扉を閉める。まだ外は明るかった。セブンイレブンに立ち寄り、星印に惹かれて黒ラベルのロング缶と、しおむすびを一個買って、千代田線に乗る。やはり空いている。二重橋前で降りて、皇居前広場を目指す。いたるところに警察官が立っている。雨で大変そうだ。でも、もうピークは過ぎたのか、警察官と報道陣の数の割に人はおらず、こんなものかと思う。僕が言えた立場ではないけれど、その場にいる人たちも「どうしてもここに来ずにはいられなかった」といった雰囲気ではなく、ただなんとなくそこにいたり、動画の配信をしていたりする。缶ビールを開け、しおむすびを頬張る。しおむすびがぴったりだったなと思う。しばらく眺めて立ち去り、日比谷公園を目指す。

 

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 松本楼でテーブルクロスを広げている姿が見える。出かける前に磨いたばかりのスニーカーが少し泥で汚れる。買ったときは気づかなかったけれど、黒ラベルの間には熨斗のような印刷が施されている。音が聴こえるほうへと歩き、日比谷野音にたどり着く。まったく知らないバンドが演奏している。その音は皇居前広場にまで響いていた。知らないバンドだけど、悪くないなと思う。雨の中、10人くらいの人が漏れてくる音に耳を傾け、体を揺らしている。しばらく聴いていようかとも思ったけれど、いつもの焼きそばの屋台は出ておらず、ビールもなくなりそうなので移動する。方向感覚を失っていて、コリドー街を目指すつもりが、第一ホテルの前に出てしまう。さびれた地方都市のようにひっそりしている。ガード下の店も、コリドー街の店も、ことごとく閑古鳥が鳴いている。そんななかで「俺のイタリアン」と「俺のフレンチ」は満杯で、「美登利寿司」には行列ができている。それを横目に眺めつつ、階段を上がると、「ロックフィッシュ」がなくなっていて驚く。バー「H」の近くに引っ越したこともあり、ずいぶん足が遠のいてしまっていて、移転していたことを知らなかった。調べてみると、去年の夏に移転している。ずいぶん不義理をしてしまっているなあと思いつつ、数寄屋橋の交差点に出ると、明るい雰囲気がわっと戻ってくる。

 

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 小さな入り口から地下街に降りると、すれ違う人が「俺、号外もらうの初めてだわ」と言っているのが聞こえた。丸ノ内線から四谷で総武線に乗り継ぐ。普段ならこの時間帯に乗りたくない路線だが、今日は余裕で座れて快適だ。若いサラリーマンだろう、男性二人と女性一人が向かいに座っている。くしゃみをするたび、「ブレスユー」なんて言っている。高円寺で降りて、19時半に「C書房」にたどり着く。カウンターに座ると、店員さんが紙を差し出し、これにね、注文を書いてくださいねと言う。少し戸惑っていると、ああ、メニューがなかったですねと笑って、メニューを手渡してくれる。今日はたくさんが注文が入っているようで、店主のKさんも忙しそうだけれど、ハートランドと大正コロッケをお願いする。テーブル席を囲んでいる三人組の女性が、「このあとどうする?」と話しているのが聴こえる。「せっかくだから渋谷でも行ってみる?」「分かれるよね。ここで渋谷に行く人と、そこを避ける人とに」。ほどなくしてハートランドが運ばれてくる。すぐ近くに日めくりカレンダーがかけられている。何気なく目をやると、「退位の日」と書かれてある。

 

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 「中原中也

 「え?」

 「中原中也

 「え?」

 「中原中也

 

 カウンターの中でKさんと店員さんが何度もやりとりしている。一体何だろうと思っていると、季節のサワーに「中原中也サワー」というのがあるらしかった。ほどなくして運ばれてきた大正コロッケを平らげて、今日は早めに切り上げる。バタバタしててすみませんとKさんに謝られてしまったけれど、1杯しか注文しておらず、会計も850円と割安だったので、申し訳ない気持ち。小上がりにいたグループ客のひとりが「さようなら〜」と声をかけてくる。振り返ってみたけれどまったく見知らぬ人だったので、何も言わずに店を出てしまう。駅まで歩く。マクドナルドも日高屋もそれなりに混んでいる。自分はこういう節目の日に反応してしまうせいか、そんな日だからといって動じることなく、普段通りに過ごしている人を見ると動揺してしまう。

 

 駅に戻ると、花屋の前の黒板が目に留まる。5月1日はスズランの日で、「この日フランスでは数百メートルに1つ屋台が出るほどスズランが販売されます」と書かれている。どれがスズランですか、と間抜けな質問をしながらスズランを買って、改札を抜ける。ホームでは「ありがとう平成」というメッセージ入りの都区内パスを販売しているとの情報が繰り返しアナウンスされている。今日までは「ありがとう平成」で、明日からは「ようこそ令和」だそうだ。「皆様それぞれの平成を振り返りながら、電車で東京を巡られるのはいかがでしょうか」。そう提案する女性の声が繰り返される。電車はほとんど人が乗っていなかった。向かいに座るよれよれの老人が東スポを読んでいて、「王会長の真実」と一面の見出しが躍る。新宿駅で降りて、オンデーズでサングラスを受け取る。一週間前にここでサングラスを購入して、度入りのレンズで作ってもらっていたのだ。コンタクトを使う気になれないこともあり、サングラスと無縁に生きてきたけれど、今度の6月にはしばらく沖縄に滞在することもあり、思い切って購入していたのである。

 

 大ガードの近くで知人と待ち合わせ、思い出横丁を歩く。観光客でごった返していて、いつも以上に歩くのに苦労する。よく行く「T」は満席だったので、新宿三丁目まで歩き、「日本再生酒場」へ。ここも賑わっていたけれど、ちょうどお客さんが帰るところだったので入ることができた。片付けが済むのを待って入店すると、おしぼりとチューハイが置かれている。煮込みと五本盛り、それにハツ刺しを注文。お腹を満たしたところで新宿三丁目「F」の階段を降りると、他にひと組しかお客さんはいなかった。店内にはGO!GO!7188が流れている。店員のBさんは僕と同い年で、今日は懐かしい曲ばかり流しているのだという。いつもはお酒しか飲まないけれど、せっかくだからと玉子焼きも注文して―—楽しく過ごしているうちに酔っ払ってしまって、令和を迎える瞬間の新宿駅を見届けるつもりでいたのに、日付が変わる前には眠ってしまった。

 

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