5月2日

 7時過ぎに目が覚める。自宅で晩酌していただけなのに、昨晩は飲み過ぎてしまった。8時過ぎに布団から這い出して、ゴミ出しを済ませる。今日は休日だからか、知人が早く起きてきて、「コーヒーは淹れんのん?」とせがんでくる。先にコーヒーを淹れて、セブンイレブンに出かけ、新商品のもっちり塩パン(チーズ)を買ってくる。コーヒーを飲みながら、久しぶりに新聞を熟読する。「私たちはこれまで、天皇に何でも期待しすぎだったのではないか」という皇室史研究者の言葉が目に留まる。そして、皇統を担えるのは「53歳の秋篠宮さま、83歳の常陸宮さま」、それに「12歳の悠仁さまを加えた3人しかいない」という記述に改めて驚く。一体どうしていくのだろう。

 昼、納豆オクラ豆腐そばを食す。午後は本棚の整理をして過ごす。15時過ぎにクロネコヤマトが宅急便の集荷に来てくれる。16時45分頃に再びチャイムが鳴り、おうらいざでーす、とインターホン越しに声がする。「古書信天翁」が閉店してしまって、「古書ほうろう」も移転して開店準備中である今、本を売りに行く先がなくなってしまっているので、セトさんに「別の用事で通りかかる時にでも」と出張買取をお願いしていたのだが、ムトーさんとふたりでさっそくやってきてくれる。二人は引越しも手伝ってくれて、引っ越したばかりの様子しか見たことがないせいか、中に入るなり「うわー、部屋だ」と口にする。段ボール2箱ぶんくらいだから、あっという間に運び出してくれて、車で走り去ってゆく。僕は鍵を忘れて出てしまって、しばらく待って大家さんに鍵をあけてもらう。

 17時過ぎ、散歩に出る。西日が強く射していたので、買ったばかりのサングラスをかけてみる。色が薄めのものにしたせいか、太陽が正面にあると眩しく、これで効果があるのだろうかと不安になる。よみせ通りも、谷中ぎんざも、すごい人出。「越後屋本店」でアサヒスーパードライを購入し、なんとか場所を見つけて腰を落ち着ける。お酒を買わずに座る人が後を絶たず、お父さんが「休憩所じゃないんで」と何度も断っている。観光客ばかりでなく、常連のお客さんも多くいる。あら、今日も仕事だったの。仕事だよ、なんだか知んねえけど祝日ってことになってるけど、今日は普通の日だよ。仕事帰りのお父さんが答えている。

 角の惣菜屋さんと焼鳥屋さんでツマミを買って帰り、19時から晩酌を始める。まずは4月30日に放送されたNHKスペシャル『日本人と天皇』観る。気合の入ったドキュメンタリーだ。ここ数日、テレビをつければ「こういうときって、こういう言葉遣いをしておけばいいんでしょう?」という意識が透けて見える言葉が溢れ返っているなかで、ナレーションの一言一言にまで意識が巡らされている。具体的に書き始めると大変だから省くけれど、「終戦」ではなく「敗戦」という言葉を使っていた。驚いたのは、ここ400年の天皇の中で、側室の子ではないのは明正天皇昭和天皇、それに(放送時点での)天皇陛下の3人だけだと語られていたこと。側室という文化が昔は普通のもので、「家を繋いでいく」ということが何より重要なことだった時代には「男系」というものを保つことができていたかもしれないけれど、それはもう、いくらなんでも無理だろう。印象的だったのは、女系天皇を認める議論が巻き起こったとき、強烈に反対した保守派が日本武道館で反対集会を行っていて、その中心人物だった平沼赳夫が出演していたこと。すっかり年老いた平沼に当時の映像を見せて、今でも考えは変わりませんかとスタッフが問いかける。「やっぱり、悠仁親王に男の子がたくさん将来お生まれになることが望ましい」と平沼が答える。一般のわれわれにしたって、女の子がずっと生まれるというのはありますし、天皇家だけ例外があるかと言いますと、とスタッフが返す。「誰にも結論は出ないでしょうけど、じっと待つしかないな。それを信じながら」。そう語り終えて、すこし目を逸らす平沼赳夫の姿が、妙に印象に残った。

 知人はコンサートに出かけているので、続けて『プロフェッショナル 仕事の流儀』観る。4月23日に放送されていた、カレーSP。荻窪で38年間変わらぬ作り方を続ける欧風カレーの店と、それとは対照的に、これまで手がけたレシピは1000種類を超え、「同じカレーは作らない」と語るスパイスカレーの店が取り上げられている。一見すると対置されているようでいて、二軒とも、ただ「今」を生き続けているという点では共通している。時折、少しずけっとした質問が挟まれる。そのたびに「ちょっとずけっとしてるなあ」と思うけれど、でも、だからこそ引き出されている答えがある。ドキュメントは、どういう言葉を切り取って届けられるかがすべてだ。多少ずけっとしていたとしても、言葉が引き出せるのであれば、質問は投げかけられるべきだ。そう考えると、僕は現場で「丁寧に接しよう」としているのではなく、「ずけっとしてるなあ」と思われないように予防線を張っているだけではないか。そんなことを自問自答する。

 21時になっても知人は返ってこないので、さらに遡り、録画したNHKスペシャルイチローの回を観る。まだヤンキースに在籍していた頃のイチローが、野球選手を引退するということは、死を迎えるのと同じだ、最後は笑って死にたいと語っている。そのVTRも含めて、涙をこらえるように語っている姿が随所にあり、印象が変わる(というほど、僕はイチローのことを知ろうとしてこなかったけれど)。自宅の中でも、滞在先のホテルでも、素振りを繰り返している。バッターボックスの中でしかわからないことがあるんですよ、とイチローは語る。それは、俳優が舞台に立つ、ということとも近いように感じる。「打率」や「ヒットの数」がどうという世界ではなく、打席に立ち、ひとスウィングひとスウィングが勝負なのだろう。途中で一緒に自主トレをする「仲間」――野球経験者ではない人も多く混じっている――と食事をする姿が映し出されるのだが、その「仲間」に入れる条件について、「後ろ向きな人たちは入れない」とイチローが語る。前を向いて生きていくしかない、と。過去にどんな偉大な功績を残していたとしても、評価されるのは今この瞬間の打席だけだ。野球選手に限らず、私たちはそのように生きているはずなのだけれども、日々を平準化してそれを直視せずに済ませている。でも、打席に立ち続けてきたイチローは、「今」という瞬間に直面せざるを得ない日々を生きてきたのだろう。番組の最後に、もう引退したイチローがジョギングをする姿を目に焼きつける。