5月9日

 8時過ぎに起きて、ゆで玉子で朝ごはん。午前中から、本が出来上がったあとのことを考え始める。名刺の束を繰り、『月刊ドライブイン』や『ドライブイン探訪』で出演させてもらった番組の担当者や著者インタビューをしてくれた方をリストアップする。昼、マルちゃん正麺(醤油)に豚ひき肉ともやしとニラの炒め物をのっけて食す。ケータイにメールが届き、一体誰だろうと手に取ると友人のA.Iさんからだ。新作が千秋楽を迎える頃まで――ということは6月に入る頃まで――は言葉を交わすことがないだろうと思っていたので、動揺しながら返信する。

 午後、『ドライブイン探訪』の書評や著者インタビューが掲載された媒体をまとめておく。先日、坪内さんから電話があり、「はっちゃん、すごいね。こんなに新聞や週刊誌で書評が出揃うって、なかなか珍しいよね。これは何か、ノンフィクション賞の候補になるんじゃない? いや、これだけ書評が出てるってことに対して、編集者は時代の空気を読むからね」と言ってくださって、せっかくならその流れを自分でかしかしておこうと思ったのだ。こうして並べてみると、週刊誌にはほぼ書評が掲載されていて、日曜には読売新聞にも書評が出る予告がウェブに出ているので、全国紙の五紙すべてに書評が掲載されたことになる。しかし、それで1万部に届かないというのは、なかなか世知辛いという感じがする。

 18時過ぎ、『インクレディブル・ハルク』を観ながら晩酌を始める。ツマミは大和芋マヨネーズと、こんにゃくのめんつゆ炒め。大和芋マヨネーズは、よく訪れる思い出横丁「T」にある山芋バターが好きで、それを真似て作ってみる。近所のスーパーで売っていた大和芋を買ってきて、ジップロックのコンテナに水を張ってレンジで5分ほど加熱し、ここから「T」では切り分けた山芋を焼き台に載せるのだが、当然焼き台はないので、バターで炒めることに――と冷蔵庫をみると、バターを切らしている。賞味期限に不安の残るマヨネーズを鉄板に出し、それを油がわりにして、「大和芋マヨネーズ」を作る。味は別物だけれども、これはこれでイケる。

 22時過ぎ、池袋駅西口にある「ひもの屋」で友人のF.TさんA.Iさんと待ち合わせ。昨晩インスタグラムで、「飲みに誘える人も思い浮かばず、自宅で晩酌」と『アイアンマン』を観ている写真をのっけたのを目にしたFさんが、稽古場でAさんに「え、誘ってくれたら飲みに行くのに」「アイアンマン観てるし」と、Aさんづてに誘ってくれて、飲むことになったのだ。一緒に飲みに行って言葉を交わせる相手というのは限られていて、今では真っ先に浮かぶのはこのふたりだけれども、二人とも新作に向けた稽古が佳境を迎えているので、とても今は飲めないだろうと思っていたのだけれども、僕はホッピーセット、Fさんは生ビール、Aさんは白ワインで乾杯。

 『市場界隈』が校了したことを祝ってくれて、先日出演したバラエティ番組の話題になる。「あれを観てるとさ、映像で動いてる姿が観れてじーんときちゃった」とAさんが言う。「あ、橋本さんが動いてる姿を観てってことじゃないよ?」と、言われなくてもわかっているのに、わざわざAさんが言い添える。「わかってますよ、モノクロの写真と、書き記された言葉でしか知らなかった店主の人達の動いている姿を目にして、ってことでしょう?」と返すと、「そう、そうやって動いてる姿を観てるとさ、橋本さんがじゃないよ、橋本さんがじゃなくて」とAさんが言う。そうやって言わなくていいことを繰り返すところがAさんらしくもある。

 昨日と今日観た『アイアンマン』と『インクレディブル・ハルク』の話を少しする。『アイアンマン』に出てくる「レガシー」という言葉が象徴的だったと話す。東西冷戦が下敷きにあり、その冷戦下で開発された技術があり、しかしの技術が自分たちの喉元に突きつけられている。そうした「レガシー」と直面しながら生きている――というのが、このシリーズの出発点にあるのだろう。そして、それは東西冷戦や特定の状況に限らず、誰もが過去の「レガシー」を引き継ぐ形で(あるいは、先日Fさんをゲストに迎えて開催した熊本のトークイベントでたどり着いた言葉を使えば、「過去の余韻」の中を)生きている。そんな話をしていると、いや、橋本さん鋭いっすねと言われ、嬉しくなる。

 初日が近づいている新作の話を聞いていると、稽古は順調に進んでいるようだったけれど、かなり疲れが蓄積しているように感じられる。体制的にも総動員に近く、かなり限界に近いことを舞台上に配置しようとしていることがわかる。その流れで、衣装のことも話す。昨年の春にツアーした作品でも、テーマのひとつは「ひかり」だった。そのときの衣装には、ひかりを当てることで発光して見える衣装と、ひかりを蓄えることで発光する衣装とがあった。さきほど話していた話が思い出され、「そういう意味で言うと、ひかりっていうのも「過去の余韻」の中にしかないことですね、とFさんに伝える。「ひかり」というのはここ数年の作品の中で軸となってきた言葉であり、そこに関する言葉を少し返すことができたような気がする。

 飲んでいるうちに、来年とその先に向けた話を教えてもらう。それを聞いた瞬間に、『市場界隈』のあとがきに記した言葉を伝えたい衝動に駆られたけれど、それは書かれた言葉として伝わるべきものだと思って、黙っておく。話して伝えられることには限界がある。発語される言葉を信じていないわけではないけれど(信じていなければ演劇を観ることはないだろう)、書かれた言葉だからこそ伝えられることもある。閉店時刻の0時が近づいたところで店を出る。これは「新作」と位置づける作品の初日が近づいているときはいつもそうなのかもしれないけれど、Fさんはとても不安そうに見えた。池袋駅まで歩きながら、少し話す。僕はこれからもドキュメントしか書き記すつもりはないし、ドキュメントだから書き記せる言葉はあると思っているけれど、でも、残念ながらそれでは触れることができない人たちや物事はあって、それは何によって可能かというと、フィクションだけが触れられるものだと思います、と伝える。これは書かれた言葉では伝えられなくて、今ここで言わなければ伝わらないと思って、Fさんにそう伝えておく。