5月13日

 8時過ぎに起きる。コーヒーを淹れ、昨日ジョギング帰りに買っておいた「ベーカリーミウラ」の食パンを焼き、ゆで玉子を3個茹でて朝ごはん。食パン、前にも増して密度が増している気がする。ここ数日の日記をまとめて書く。昼、豆腐納豆オクラそば。午後はメールの返信をしたり、必要な連絡を済ませたりしているうちに時間が過ぎる。先日資料を貸してくださった貴社の方からメールがあり、「県外の方が、関心を持たれるとは意外な気もしておりますが、引き続き、沖縄に関心をお寄せいただけたらうれしいです」と締めくくられている。何がそんなふうに言わせてしまっているのだろうかと考え込んでしまう。そして、沖縄に目を向けるのと同じように、ありとあらゆる場所に目を向けなければと改めて思う。ありとあらゆる場所にだなんて、無理だとわかっているけれど。

 メールの返信をしているところに、原稿依頼が届く。すぐにでも書けそうだけれども、思い浮かんだ原稿はどこで、何日に書いたのかが重要なものだったので、締め切りである6月14日にお送りしますと返信する。18時過ぎにアパートを出て、「越後屋本店」でアサヒスーパードライ。1杯だけで引き返し、ドラッグストアで清掃用品を購入する。帰りに図書館に寄り、毎日新聞の夕刊をコピーして帰途につく(デジタル毎日に加入していたはずなのに、どういうわけか閲覧できなくなった)。19時、大和芋マヨネーズとこんにゃくの醤油炒めで晩酌。大和芋、加熱時間が長かったのか、ホクホクが勝ち過ぎてしまっている。

 録画したデータをブルーレイに焼いているところなので、テレビではなくパソコンで『キャプテン・アメリカ』観る。『アイアンマン』を観たときにうっすら感じていたけれど、やはり第二次世界大戦にまで話が遡る。第二次世界大戦中に実際に戦意高揚のプロパガンダの役割を果たしたのであろうキャプテン・アメリカが、実際にその役回りを演じている。だからだろうか、戦闘シーンがややコミカルなほどあっさり片づいていく。印象に残るのは、キャプテン・アメリカになる青年が、その任務を背負うことになった理由が「弱さ」にあるところ。博士は「弱者は力の価値を知っている。そして憐れみも」と語る。そして、枢軸国側(から逸脱して、さらなるファッショを目指す男)が「ヒドラ」を名乗り、「頭を1つ切り落とされても、次は2つの頭が生える」と言っていたことも印象に残る。

 その流れで『アベンジャーズ』も観る。これまで観てきた登場人物たちが一堂に会して駆け回るのは痛快ではあるけれど、一体ここまで描かれてきた問題意識は何だったのだろうと立ち止まらざるを得ない。こうなってくると、『マイティ・ソー』で神話の世界が持ち込まれたことが何より(僕にとっては)蛇足だったと思えてくる。ここまでのシリーズで描かれてきたのは、自分が誰かに向けた刃が、再び自分に突きつけられるということだ。そこで正義とは、善とはという問題意識が描かれていたはずだ。現代はもう、第二次世界大戦や東西冷戦の時代のように、「向こう側とこちら側は大きく隔てられていて、向こう側の陣営が悪巧みをしているのだ」という形で自分たちの正義を掲げられる時代ではない。

 911以降、つまりビンラディンのような経歴を持つ人間によって――アメリカ資金とテクノロジーによって――アメリカ自身が傷つくという悲劇があったからこそ、『アイアンマン』と『アイアンマン2』は描かれたのではないか。それが、圧倒的な力を持つ「神」の世界の住人達が地球に襲来したことで、力を持つ者達は緊急事態の中で手を結び、力を振るい、敵をなぎ倒す。もちろん倒さなければ地球が滅びて終わってしまうとはいえ、圧倒的な脅威に対抗するために団結するというのでは、過去から何一つ進展していないとうことになってしまう。私たちが団結するためには「仮想敵」が必要であり、それは圧倒的で、わかりあうことができない相手である必要がある(だからこそ次々になぎ倒すことができる)。このシリーズを描く理由は、一体どこにあるのだろう。

 映画を観ている途中に、メールが届く。そういったメールを送るべきかどうか、朝から迷っていたけれど、背中を押すような言葉を返す。