7月14日

 朝、コンサートの遠征で札幌に出かける知人を見送る。10時過ぎにアパートを出て、セブンイレブンできのこのピザパンを買って、駅のホームで齧りつく。具がこぼれないように、むさぼるように食べる。我ながらみっともないなと思う。そんなところに人が通りかかり、その距離が近かったというだけでムッとしてしまう。千代田線はガラ空きだ。御茶ノ水から乗り換えた中央線もがらんとしていて、席がまったく埋まらないまま吉祥寺駅にたどり着く。駅の北口に出て、ロータリーの端、アーケード街の入り口に停められた街宣車の前に立つ。今日は一日、街頭演説を眺めて回ることにした。まずは日本共産党から立候補している吉良よし子を見ようと、吉祥寺にやってきたのだ。

  候補者の前に、応援演説がある。年金組合の男性だ。当然、年金の話をしている。先日、2000万の貯蓄が必要だという話題があったけれど、「皆さん、2000万も貯蓄できますか、厳しいですよね」と語っている。その男性自身は63歳から受給しているのだという。それを聞くと、率直な感情としては、その年齢からもらっておいてよく言うな、と思ってしまう。男性は台本を読みながら語っている、候補者ではないから仕方がないとはいえ、それでは響かないだろう。そして、党の主な政策にかかわるフレーズだから仕方ないとはいえ、なんの前置きもなく「マクロ経済スライド」という言葉が語られることに違和感をおぼえる。道ゆく人、普段政治に関心を抱いてもいなかった有権者には届かないだろう。続けて、候補者本人が語り始める。さきほどとは対照的に、道ゆく人ひとりひとりに語りかけるように、ゆっくり演説をしている。手を大きくかざしながらにこやかに語る姿は、子供を相手に語りかけるヒーローショーみたいにも見える。私自身も就職氷河期世代だと切り出し、国会議員になって最初に訴えたのはブラック企業の問題で、それによってブラック企業のリストが公開されるようになった、「あなたの声を政治に届ける」と訴える。それに続けて、「この参議院選挙、希望を語りましょう」との言葉があり、それがとても意外に感じられた。希望か。街頭演説という場所で「希望」という言葉を聞くことが意外に感じられるのはなぜだろう。

 具体的な「希望」として、いくつかの政策が語られる。減らない年金を作る。給料の引き上げ。お金の心配なく子供を教育できるように。改憲阻止。この四つが主な軸として語られる。しかし、その中で、「月収20万、当たり前の世界を」と語られて、ほんとうにびっくりしてしまった。知識としてはわかっていたけれど、日本は貧しい国になったのだなあ。僕はこんな仕事をして、こんなふうにぷらぷらしているから、裕福に暮らせないのは仕方がないけれど、世の中はもう少しなんとかなっているのだろうと、どこかで思っていた。月収20万だと、ボーナスがなければ240万だ。15年くらい前に、『SPA!』が年収300万で暮らしていくライフハックを紹介する特集をよく組んでいた記憶があるけれど、それどころでもなく、しかもそれを「当たり前の世界に!」と訴えなければならない時代になっているのだなあ。演説の途中、あちこちから「そうだ!」と声があがる。演説を聞く聴衆はさほど多くもなかったが、雨が降っているせいもあり、近くの商店の軒先で、陳列棚をふさぐように立っている人がいたのが気にかかる。

 吉良よし子の演説を聴き終えて、思い出の「ハモニカキッチン」で一杯ひっかけるつもりだったがまだ空いておらず、井の頭線の鈍行に乗る。『夏物語』を開く。

 

「夏子、元気にしてる? っていうか、おめでとうやで」

 原稿がどうにも進まず、なんとなく本の整理をしているところに巻子から電話がかかってきた。

「え、なんやったっけ」

奨学金」巻子は明るい声で言った。「朝きてたわ、お知らせが。じゃじゃん——夏子はん、めでたく奨学金、払い終わったみたいやでどうも」

 

 下北沢で小田急線に乗り換えて、経堂駅で降りる。植草甚一の日記を読んで足を運んで以来だ、もう10年以上前だ。少し時間があるので、富士そばでちくわ紅生姜天そばという謎のメニューを食す。ちくわの中に刻んだ紅生姜を詰めて揚げてある。平らげて、12時20分、駅前に戻る。12時半からここで、丸川珠代の街頭演説がある。まだ街宣車の姿はないけれど、顔見知りらしいお年寄りが「こんにちは」「雨でいやあね」と挨拶を交わしている。党員なのだろう、ポロシャツ姿の若い青年がやってきて、「どうもご無沙汰してます、雨の中ありがとうございます」と溌剌とした調子で挨拶してまわっている。しばらくすると、今度はスーツ姿の男性——こちらは先ほどの若者よりは年上だが、こちらもまだ若く、僕と同世代ぐらいに見える——がやってきて、「どうもありがとうございます」と握手をしてまわっている。こういうところだろうなと思う。こうして、「自分が大事に扱われている」と思えることが、このお年寄りたちを動員に駆り立てているのだろう。12時半になる頃には街宣車がやってきたものの、予定表だと近くの商店街を練り歩いている本人はなかなかあらわれなかったが、若者がお年寄りたちに「スマホを用意しておいていただければ、ふたりで写真を撮りますので」と声をかけてまわっている。12時40分になってようやく演説会が始まる。最初に区議会議員の演説があり、そのあいだ、候補者は駅前を行き交う人に握手をしてまわっている。僕の近くにもやってきたけれど、ただそこで待ち合わせをしている人のふりをして、そっと断ってしまった。別に「俺はお前を支持しない」という意思表示がしたかったわけではなく、触れるということが躊躇われた。潔癖を理由に触れたくないということではなく、触れる、ということが躊躇われた。うちわみたいになっているチラシを配っている若者もいる。「丸川珠代です、本人です」と言っているけれど、それは日本語が不正確だ。区議会議員が3人、さらに衆議院議員がひとり挨拶をして、12時52分、ようやく丸川珠代の演説が始まる。誰も街宣車の上にあがらず、地面に立って演説をしている。元オリンピック・パラリンピック担当大臣として尽力してきたこと、すぐ近くの馬事公苑馬術競技を開催することになったことを語る。ああ、だから経堂だったのだなあ。オリンピックを快適に楽しんでいただけるように交通の整備など最大限努力する、やはりお住いのみなさんが一番——と語っているあたりで、次の予定のためにその場を離れる。丸川珠代の演説は2分くらいしか聞けなかった。

 

 小田急線に乗り、再び『夏物語』を開く。さきほど感じた触れる問題を思い出しながら、読み進める。

 

 

 手にさわりたいとか、そばにいてほしいとか、そういう気持ちはわたしにもあった。本当に大切な話ができたと思ったとき、一緒にいるとき、相手のことを好きだと強く思ったときには胸のあたりが温かくなり、それをふたりで分けあいたいというような、そんな気持ちになることはあった、でもそこからそういう雰囲気になると肩にぎゅっと力が入って、体はいつも硬く縮こまった。いつまでたってもそんな気持ちとセックスとは、わたしのなかで結びつくことのない、まったくべつのことだったのだ。

 

 新宿駅から埼京線に乗り、赤羽に出る。ララガーデンというアーケード街の入り口で、13時半から立憲民主党の塩村あやかの演説会がある予定だ。時間ギリギリにたどり着いたけれど、まだ始まる気配はなかった。街頭演説というのはわりと遅れるものなのか。候補者本人はいないけれど、チラシを配っているスタッフはいる。ボランティアなのだろう、高齢者が多くいる。自民党の溌剌さを目の当たりにしたばかりなので、その差が目につく。15分ほど遅れて、候補者が到着する。演説の準備が整うまでのあいだ、アーケード街の入り口に立っている。吉祥寺で見たヒーローショーのような振る舞いと、経堂で見た、ひとりでも多くをと、さらうように握手をしていた姿との差を感じる。候補者はただアーケード街の入り口に立っている。マイクのスタンバイが整うと、スクランブル交差点の方向に手を振っているけれど、ひとりひとりに対してではなく、交差点全体に向かって漫然と手を振り、通行人はすぐ脇をなんの興味も持たずに通り過ぎてしまう。ビラを配っているスタッフも、あまりにも素人で、何度も道を塞いでしまう。あきらかに受けとらなそうな態度な人を追いかけて、進路を変えさせてしまって、誰かとぶつかりそうになっている。国政選挙でこんなことでよいのだろうか。街頭演説が始まっても、聴衆はせいぜい2、30人ほどだ。お年寄りだけでなく、ベージュのスーツを着た若い女性もビラを配っている。他の人が同じ場所に陣取って配っているのに対し、彼女はあちこち走り回りながら配っている。信号が青になり、人の塊が流れてくればそこへ駆け寄り、しゃっとビラを差し出す。そんなふうにしゃっと突きつけるように差し出して、受け取る人はいないだろう。自分が信じる正しさを、誰かに伝えることは難しいことだ。「私たちは正しい主張をしているのに」と思ってしまわずに、どうすれば興味のない人の目を向けられるかを考えて欲しいと、傍目に思う。

 最初は区議会議員の演説から始まる。何人かの区議会議員が続いたあと、比例から立候補している候補者の演説があり、塩村あやかの演説が始まる頃には14時24分になろうとしている。冒頭、「まずは一週間後が投開票日だと知って欲しい」と切り出す。現状では低投票率が予想されており、それでは政治が変わらず、だからまずは知って欲しいのだと。たしかに、ここまで見てきた街頭演説は、ターミナル駅ではないにせよ、あまりに人が集まっておらず、偶然通りかかった人が立ち止まるという姿もほとんど見かけなかった。これは本当に国政選挙なのだろうか。さきほどまでの会場と異なり、ここにはマスコミの姿もなかった。演説は具体的な政策の話題に移る。待機児童や働き方改革に触れつつ、「今の政治のまま、安定してしまってもよいですか?」と語る。今の政治は身近なところにお金を回したり、あるいは戦闘機にお金を使ってしまっているけれど、私たちが必要とする分野にお金が足りておらず、そこに再分配がなされないままでよいのか、と。

 「再分配、ちゃんとしようじゃないか――こんな当たり前の話を参院選の最中に語らなければならないということに、今の政治に、思うところがある」と彼女は言う。そんな状況を招いているのはバランスの悪さにある、議員の男女比も、与野党の比率もバランスが悪く、「私は国会の景色を変えたいと思っています」と語る。どこかつるつるした言葉に感じられる。しばらくすると、自身が政治家を志したきっかけについて語り出す。一つは女性議員があまりにも少ないことと、もう一つは動物愛護がきっかけである、と。動物愛護団体で働いていた頃に、政治家のところへ陳情に行くと、協力してくれるようなことを言ってくれて、記念撮影をして「こんな団体の方とお会いしました」と写真を載せてくれたりする、でも、それ以降、その政治家が何か動いてくれた様子は見られず、「やっぱり自分がやったほうがいいな」と気づいて立候補したのだ、と。わからなくはないけれど、そんなふうに言ってしまうと、政治家に何かを託すということ自体が不可能になってしまう。

 演説を聴き終えて、飲み屋街に出る。赤羽は今日も昼から賑わっている。こういう場所を練り歩いたりはしないのだなあと思う。酔っ払いに絡まれるのは面倒だからだろうか。少し前に、女性の政治家に対して「票を投じてやるから」とセクハラまがいのことをする連中がいると報じられていたことを思い出す。でも、「よし、こんなふうに語りかけてくれるなら、お前に投票する!」と言ってくれる人もいるのでは――そう考えるのは夢を見過ぎだろうか。赤羽にくるたび、どこか素敵な酒場があるのではと思うのだけれども、ほとんど観光地のようになっていて、結局入る店を見つけられない。結局どこにも入らず西口に出て、ファミリーマートアサヒスーパードライを2本とチーかまを購入する。ロータリーには日本維新の会選挙カーが停まっていて、録音された松井一郎の挨拶がリピートされている。このあと15時から音喜多駿による街頭演説がある。こちらも予定通りには始まらなかったけれど、オレンジ色をしたお揃いのポロシャツを身にまとったスタッフが少しずつ増えてきて、ビラを配り始める。後ろには「I❤東京」とプリントされている。寒気がする。ただ、そのひとりが、缶ビールを飲んでいる僕のところにもソロリと近づいてきて、「お休みのところお騒がせしてすみません」と断りながら、ビラを下から差し出す。さきほどの現場とは対照的だ。こういうことがきちんとしているところは手強いなと思う。少しずつスタッフが増えてきたと思っていると、いつのまにか候補者本人もいて握手をしてまわっており、駅の構内に消えてゆく。オレンジのポロシャツがかなり増えている。そのセンスは嫌いだけれど、スタッフが全員同じポロシャツを着ていることで、塊として可視化され、それによって通行人に訴えかけるものはある。

 15時22分、街宣車の上に音喜多駿と比例区の候補が立ち、演説が始まる。演説というよりもネットの動画を配信しているかのようなノリだ。漫才師のよう、と言ってしまうと漫才師に失礼になってしまうけれど、ふたりが掛け合いをしながら、ところどころ同じフレーズを声を揃えて語っている。新しい本音主義のようでもあるけれど、その語り口にはどこまでいっても馴染むことができず、白々しい気持ちになる。最初に訴えたのは「消費税増税の凍結」だ。それを掲げると、一緒に演説をしている候補者が、そんなこと言って、じゃあそのぶんはどこから財源を確保するんですか、それじゃあ無責任な野党と一緒ですよ、といった調子で合いの手を打ち、次の話を促しているところも、どうしても耐えられない気持ちになる。わたしたちは増税に頼らず、経済成長を目指す、野党はバラマキ政策ばかり掲げるけれど、そうではなく、規制緩和によって新しい産業を興し、日本を再び成長させるのだ、と。「それは安倍さんも同じこと言ってるじゃないですか!」ともうひとりが合いの手を入れる、たしかに安倍さんもそう言っているけれど、向こうは献金を受けていてしがらみがある、既存の政党とわたしたちは何が違うのか、それはしがらみが「あるのか、ないのか」と再びふたりが声を揃える。やはり白々しい気持ちになる。

 埼京線で池袋に出て、15時55分、高田馬場にたどり着く。16時からロータリーで国民民主党の候補が街頭演説をおこなう予定だ。到着してほどなくして、国民民主党選挙カーがやってくる。おや、ここは定刻通りかと思っていると、ロータリーの脇の通りを抜けて、大久保方面に去ってゆく。そうか、もう少し選挙カーでこのあたりを巡り、そのあとで街頭演説をするのだろう。ロータリーでそのまま待つ。今日は休日で学生も少なく、がらんとしている。周りにいるのは外国人の方が多いようだ。『夏物語』を読み進め、ふと顔を上げると、少し離れたところで外国人の方がインタビューを受けている。『月曜から夜ふかし』だ。行く先々で――といっても大半は沖縄でだけれど――撮影クルーを見かけている。待てど暮らせど選挙カーが戻ってくる気配はなく、気づけば16時40分だ。さすがにおかしい、とツイッターを開いて確認すると、15時20分頃に「新大久保駅前に変更します」と書かれている。急遽変更するのであれば、さきほど通りかかったときにアナウンスしてくれたらよかったのに。僕以外にも、わざわざ足を運んでいた人がいたらどうするのだろう。結局話を聴きにきてくれる人のことなんて何も考えていない陣営なのだなと判断して、次の場所に移動する。

 17時20分、少し遅れて北千住駅に出る。17時15分から北千住駅東口で立憲民主党の候補・山岸一生による街頭演説がある。千代田線でたどり着いたのは西口で、どうすれば東口に出られるのかわからず、迷う。千駄木からすぐ近くなのに、全然違う場所のように感じられる。駅前には大きなショッピングビルがあり、ベビーカーを押している人もたくさん見かける。大手町まで乗り換えなしですぐに出られる場所で、若い夫婦にも暮らしやすいのだろう。でも、僕はこの街に暮らすことはないだろうなと思う。今読んでいる『夏物語』も、生む、ということをめぐる話であり、反出生主義の立場をとる登場人物もいて、さまざまな角度から生む、生まれることを考えてある。僕は、生む、ということを微塵も想像していない。これは知人も同じだ。そんな僕からすると、政治ということは、これからの未来を設計するということは、とても考えづらいことだ。どんな野党も、「年金をきちんと支払えるように」とは言うけれど、「年金なんてやめてしまおう」とは言わない。僕は、どこかで、もう全部やめてしまおうと思ってしまっている。このまま消えていくということについてぼんやり考える。ようやく東口へのルートを見つけ、歩いてゆくと、ネットの動画で聴いたことのある声が聴こえてくる。ここは定刻通りに始まっていたようで、ようやく候補者の姿が目に見えたかと思うと、そのタイミングで演説は終わってしまった。間に合わなかった。通行人に手を振ったり握手をしたりする候補者の姿を、少し離れた場所から眺める。新聞記者から政治家に転身した同世代というプロフィールを見たときは、本当に信頼に足る人物だろうかと訝しく思っていたけれど、道ゆく人の邪魔にならないように、なおかつひとりひとりにしっかり接しようとする姿を見ると、少し印象は変わる。

 西日暮里と赤羽で電車を乗り換えて、18時20分、大宮に出る。18時半から大宮駅西口デッキでれいわ新撰組による演説会が開催されることになっている。アサヒスーパードライを2本買って、デッキに出ると、もうすでに人だかりが出来ている。時間帯と場所の問題があるとはいえ、ここまででは一番多い数だ(爆発的に多いというわけではないけれど)。まだ演説が始まっているわけでもなければ、さほどぎゅうぎゅうでもないのに、植え込みの端やベンチの上に立っている聴衆がたくさんおり、行儀悪いなあと思ってしまう。そこに座る人のことを考えず、土足であがるような人が聴衆にいることは、傍目に見てマイナスの要素だ。演説会の前に、説明のアナウンスが繰り返されている。配っているビラに、「お友達を紹介してください」というハガキがある。そのハガキは公職選挙法的に直接投函できないので、お友達の住所と名前をハガキに書いて、スタッフに渡してほしいとアナウンスしている。僕が友人からそのように住所と名前を政党に伝えられて、うちにハガキが届いたとして、それで「よし、支持しよう」と思うのか、それとも「なぜ勝手に自分の住所と氏名を」と思うかは際どいところだけれど、さすがに小沢一郎と近い位置にいた期間があるだけあって、とにかくなりふりかまわず票を取りに行かないとという気概が感じられる。

 18時35分、山本太郎の街頭演説が始まる。まずは参議院議員として過ごした6年を振り返り、「この国に生きる人々の生活は考えていない、どちらかというと、自分たちのお友達が得になるということで進んでいく6年間だった」と語り、「ごりっごりに戦う野党」を目指し、「本気で政権取りに行く」「政治家めざすならトップを」と語り出す。そして、東京選挙区の話題に触れ、「今年の夏の選挙、東京選挙区、ムチャクチャ熱いことになってるの、皆さんご存知でしょうか」と聴衆に語りかける。候補者の野原よしまさは沖縄の創価学会壮年部の方であり、現在の公明党の変わり過ぎた姿に怒っている方だと紹介する。

「なぜ東京選挙区から立候補するのか、それは、公明党の代表・山口那津男さん、東京選挙区から立候補してるんですねえ。だから、直接、喧嘩を売りに行くっていう選挙になっているんです、面白くないですか。ワクワクしていただきたいんですよ、真面目に政治を考えて、そして、最大限に選挙を楽しむ、そのような夏にしていただきたいと思います、ガチンコの、大人の喧嘩が東京選挙区で繰り広げられている、魂を売った公明党vs.本物の創価学会員の戦いが東京選挙区で繰り広げられております」 

 その場に集まった聴衆にきちんと語りかけ、対話ができる候補者として演説するのは上手だなと思う。それに、とにかく勝ちにいくのだという気概も感じられる。それに、21世紀に入ってから劇場型の政治に一歩踏み入れてしまったあとでは、それを覆すためにも劇場型である必要はあるのだとは思う。でも、やっぱり僕は、政治をあまり「ワクワクする」「面白い」という勝ち基準で判断することを受け入れることができずにいる。そんなことを思っているうちに、候補者の演説が始まる。その冒頭で、自分は二つのテーマを持って立候補したのだと切り出す。一つは辺野古の問題で、もう一つは「今の公明党はおかしい」と訴えるためだ、と。辺野古の基地は一部のゼネコンを儲けさせるために建設されようとしている、公明党の沖縄本部は平和福祉を掲げ、新基地反対と言いながらも基地建設容認の候補を応援している、これはおかしなことだと訴えかける。

 どうして公明党はそんなおかしなことになったのか――それは池田先生がおやめになられたあとに、裏切り者の弟子たちによって創価学会がハイジャックされたせいだと候補者は言う。「私、公明党をつぶせとかね、物騒なことばっかし言ってきたんですけど、これ、私が勝手に言っていることではないんです、池田先生がそうおっしゃっているんです。公明党の前身である公明政治連盟を立ち上げた時に、池田先生がいみじくもおっしゃいました。公明党が将来、権力、政権になびいて、本来の立党の精神である平和福祉を忘れて、国民をいじめるようになったときは、何の遠慮もいらない、つぶしてくれって、本当にそう言われたんです」。そして最後に、「ようするに、創価の改革なんです、それを変えれば日本の政治はよくなります、辺野古も一発で止まるんです」と語気を強めて語ると、聴衆から拍手が起こる。僕はやはりそこに同意できなかった。やはり僕は、「池田先生がいみじくも」と語られる演説に、拍手をして賛同することはできないし、「これさえすればすべてがよくなる」という安直な考えを支持することはできないなと思う。

 

 演説を聴き終えると、埼京線に乗って引き返す。さあ、誰に投票しよう。ぼんやり考えながら渋谷に出て、三軒茶屋に向かった。今日は知人もおらず、かといって僕がよく行く酒場は日曜定休が多いので、小説に出てくる三軒茶屋で飲んでみようと思ったのだ。埼京線で読んでいた箇所に、こんな描写がある。

 

(…)そのまま部屋に帰る気持ちになれなくて、食材を入れたビニル袋を手にさげたまま、三軒茶屋の駅のあたりをうろうろとした。通りから一本なかに入ると細い路地がつながっていて、スナックや居酒屋や古着屋やなんかの看板があちこちで目についた。

 そんなふうにあてもなく歩いていると、どこからともなくコインランドリーの、あの洗濯物を大きな乾燥機で乾かすときの熱気の混じった独特の匂いがしはじめた。顔をあげると前方に銭湯らしき建物が見えた。小さなコインランドリーを通りすぎて少し先に銭湯を見つけると、わたしは入り口のまえに立ってみた。アパートからそんなに遠いわけでもないのに、こんなところに銭湯があるなんて知らなかった。三ノ輪にいた頃はときどき銭湯にいくこともあったけれど、こっちに越してきてからは一度も出かけたことはなく、そういえば銭湯に行こうと思いつくこともなくなってしまっていた。

 

 三軒茶屋にたどり着き、どこで飲もうかと三角州のあたりを歩いていると、そこにはまさにコインランドリーの匂いがあり、とても古びた――というよりもほとんど崩れかかった――入り口が見えて、そこがコインランドリーと銭湯への入り口であるらしかった。そろりと歩き、入り口の戸を開けてみると、番台でおばあさんが居眠りしているところで、そっと戸を閉める。どこでお酒を飲もう。三角州をいくら歩いても、昔ながらの酒場は見つけられず、どこも若い人が営んでいるニューウェイブな店だ。どうしようかと立ち尽くして、そうだ、三軒茶屋なら「味とめ」があるではないかと思い出す。少し前にリニューアルオープンしたはずで、そこに足を運んでみると、カウンターに1席だけスペースが残されており、そこに座る。ホッピーセットとポテトサラダ、それにあじなめろうを注文する。小一時間ほど飲んでいると、「味とめ」のお母さんがやってきて、「あら、おはようございます」と挨拶をしてくれる。最初は坪内さんに連れてきてもらって、何度か再訪したことがあるけれど、最後にきたのも数年前だ。「すっかり綺麗になったでしょう」と言われたけれど、驚いていたので「そうですね」としか答えられなかった。小説を読み進めると、おそらくは三角州の中の路地で、喫煙スペースにしゃがみこんでいる男が登場する。その場面があまりにも印象的で、「味とめ」を出たあとで再び三角州に足を運んで、路地から路地へと歩き続ける。そんなことをしたって何に遭遇するわけでもないけれど、そこにいたかもしれない誰かを、いるかもしれない誰かを、この先やってくるかもしれない誰かのことを想像する。