8月3日

 5時過ぎには目が覚める。つけっぱなしになっていたテレビで、『ズームイン!!サタデー』が始まる。うたた寝しながら時々眺めていると、スナック風のセットの中、松崎しげるをゲストにトークしている。眼鏡をかけていないからぼんやりしか見えないけれど、何か違和感があるなと思っていたのだが、背景にある酒瓶が実物ではなくイラスト、つまり書き割りなのだった。調べてみると5年以上やっている長寿コーナーらしく、結構豪華なゲストがこれまでに出演しているらしかった。それでいて背景を書き割りで済ませていることに驚く。真っ先に思い出されたのは、『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』における、べろべろになるまで酔っ払いながらトークする企画だ。あの企画では実際にお酒を飲んでいたけれど、後ろの棚には本物の酒瓶がたくさん並べられていた。中身が入っているか否かはさておき、それぐらいのものは小道具としてテレビ局に常備されているものだと思っていた。同じく日テレの番組でありながら、酒瓶が書き割りで表現されていることに驚く。毎回酒瓶を運んできて並べるのは面倒だし、割れてしまう危険性もあるから、書き割りのほうが楽なのはわかるけれど、そこで手を抜くようになったのだなと感じる。同じく日テレのニュース番組『news every.』でも、似たようなことを感じたことがある。あるニュースが報じられたとき、ジャーナリストを名乗る男性のコメントVTRが短く差し込まれたのだが、その男性の背景には百科事典風のものがあった。それは百科事典ではなく、百科事典を印刷した書き割りだった。ジャーナリストを名乗りながら、そんな書き割りを事務所に並べているなんて――最初はそう訝しがっていたのだけれど、それからしばらく経ったある日、映画の番宣で出演したゲストが、同じ書き割りを背にしてコメントしている姿を見かけた。そのときようやく、それが日テレの中で撮影されたものだと気づいた。百科事典や文学全集が売り上げを伸ばしたのは、戦後の高度成長の中で住環境が整い、応接間のある暮らしができるようになったとき、見栄えをよくするために百科事典や文学全集が買われたのだという。そのときから見栄えのための「記号」ではあるけれど、ついに実際のブツを置くのではなく、ただの「記号」として書き割りを置くようになったのかと驚いた。しかもニュース番組が、だ。そして、テレビ局の中に、百科事典や文学全集が置かれた部屋が存在しないのだということにも、ちょっとびっくりしてしまった。

 9時過ぎ、買ったばかりのユニクロシャツでジョギングに出る。最近はあまり走っていなかったこともあるけれど、吸い込む空気が熱く、身体が思うように動かず、不忍池を見ずに引き返す。シャワーを浴びて、いくつかメールを返信する。12時55分にアパートを出て、「砺波」へ。今日は時間がないので、ラーメンとビールだけ注文し、すぐに完食して店を出る。あと何回来られるだろう。小走りで横断歩道を渡り、千代田線に乗って大手町に出る。13時半に「丸善」(丸の内本店)にたどり着き、3階の日経セミナールームへ。今日は川上未映子さんと永井均さんによるトークイベント「反出生主義は可能か~シオラン、ベネター、善百合子」がある。おそらく友人も聴きにくるのだろうけれど、今はうまく言葉を交わせない気がするので、開場時刻の13時半を目指してやってきたのだ。すでに20人くらいお客さんが入っているけれど、皆、前のほうから順に座っている。僕は現時点で椅子が並べられている最後列の端っこに荷物を置いて、文庫本と整理券を手に外へ出て、喫茶スペースで読書して過ごす。

 14時になる頃に会場まで引き返し、トークを聴く。近いうちに活字としてまとめられるというので、細かいことは書かずにおくけど、メモしたことを書き記しておく(ノートを持参するのを忘れてしまって、当日配られたプリントの裏にメモしたので、そのうちどこかに紛れてしまいそうなこともあり)。これはあくまで僕がメモしたことであり、ただ純粋に語られたことのメモではなく、僕が聞きながら思い浮かんだことも含まれている。

 

・ベネターの特殊さとは

消極的功利主義(不快をなるべく生み出さない)は昔からある

しかし、それはすでに存在している人間における話

ベネターの反出生主義はそれを「人間を生むか、生まないか」という軸と結びつける

つまり、自分の人生が快である場合と快でない場合があるとして、それを選ぶか否かではなく、

快である場合と快でない場合がある誰かの人生を存在させるか否かを、他人が選択する

他者の生を別の誰かが決定するというのは、越権行為である

 

・なぜ私たちは楽観的なほうに賭けることができるのか

私たちの人生は、つねに「まえのひ」に置かれている

外に出れば、自動車が突っ込んでくるかもしれないし、

電車に乗れば事故に巻き込まれることだってあるし、

火事や地震が起こるかもしれないし、突然通り魔に遭うかもしれない。

それなのに、ここ(会場)にいる私たちは、外に出てここにくる、という選択をした

それは、どんな目が出るかわからないのに、常に楽観的なほうに賭けているから

 

自分とは異なる存在を生み出そうとするというのも、楽観的なほうに賭けているから

ただ、自分の人生に関して楽観的なほうに賭けるのは個人の勝手だが、

他者の存在を生み出すということに関して楽観的なほうに賭けることは許されないのでは

(『夏物語』の)夏子は美辞麗句を並べるけれど、最後に生むことを選ぶのは、基本的には無責任とも言える

ベネターの議論(を援用した善百合子の主張)に基づけば、生むは選べないはず

でも、私たちは、生むことの理由を作り、それに納得できるだけの印象を持ち、生む

 

・開闢創造行為の問題

功利主義者は、幸か不幸かを客観的に判断可能と考える

しかし、幸/不幸という価値は人間が勝手に作り出したもの

だから、功利主義の立場からは「不幸」に振り分けられる人生でも、本陣は幸と感じることもできる

そう考えると、消極的功利主義を乗り越えることは可能である

ただ、それはやはり、すでに存在している人の生に関する話

勝手に生んでおいて、「あとはあなたの価値判断次第」というのは無責任すぎる

 

そもそも人間という存在は、神の世界創造(ビッグバン)によって生み出されたもの

その、ビッグバンというものが存在するのがよかったのかどうか

哲学者たちは基本的に、存在するほうが否かというと、存在するほうがよいと考える

それは神の存在証明(ないとなるなら、あるほうがいいに決まっている、だから神は存在する)と同じ

 

 


  印象的だったのは、未映子さんが「ビッグバン」という言葉を繰り返し使っていたこと。反出生主義が、自分とは異なる人間を世界に存在させることは正しいことであるのか、という疑問を持っている思想であり、未映子さん自身もその問いについて考え続けているなかで、そもそも最初にこんな連鎖を始めてしまったことに対する根源的な疑問を抱いているようで、それを「ビッグバン」という言葉とともに考えているようだった。『夏物語』を読んでいるとき、それまで揺れていた夏子が「生む」を選ぶとなったとき、それは自然なことであるようにも思えるのだけれども、彼女がそれを選択したのは明確な論理に基づくものではなく、気分や印象によるもので、未映子さんが語っていたように「どうして楽観的なほうに賭けることができるのか」という印象は残った。それは夏子に限らず、一度関係を遮断されたにもかかわらず、逢沢が夏子に会えることに賭けてわざわざ大阪までやってくるという選択をしたことにも感じたことだ。これは「そんな展開は納得がいかなかった」ということではなく、わたしたちは往々にしてそのように楽観的なほうに賭け続けているのだけれども、どうしてそれを選ぶことができるのかという疑問で、それについて考えたとき、未映子さんがあるインタビューで自作は宗教について書きたいといっていたことはとても納得のいくことであるように感じられる。

 もう一つ、トークの途中で未映子さんがベン図をホワイトボードに描き、「生んだ側」と「生まれさせられた側」と、それぞれの円に描かれた。その上で、私はこの生まれさせられた側のことは肯定したいけど、生んだ側のことは一体どうであるのか、という疑問をしばらく語っていたのだけれど、途中ではたと気づいたように「生んだ側」のところにもう一つの円を重ね、そうか、生んだ側というのも生まれさせられた側でもあって、その存在もまた生まれさせられた側で、これがいくつも重なっているのかと、未映子さんはいくつも円を描いていった。そうやって生むと生まれさせられるということが何十代にもわたって繰り返されてきたことは、言葉で考えるぶんにはごくわかりきったことではあるけれど、そのことをまじまじと見つめるように円を描き続ける姿は、この日、なにより印象に残った。

 トークが終わるとすぐに会場を出て、コンビニでロング缶を2本買って皇居前広場を目指す。東京駅から皇居まで続く広場のような場所で、スケボーをやっている人たちがいる。上裸でタバコを吸っている。どうしてそのスタイルで過ごすのにこの場所を選ぶのだろう。松林のあたりに出て、日陰になっているベンチに座り、缶ビールを飲みながら読書。セミの鳴き声が響いている。向こうのほうで音もなくクルマが通り過ぎていくのが見えている。近くにバスの駐車場があり、団体客が騒がしく通り過ぎてゆく。騒がしく過ごすのであれば、もっと別な場所に出かければいいのにと思う。まあでも、その人たちは騒がしく過ごしたくて騒がしく過ごしていて、僕はこうして佇んでいたくて佇んでいて、つまるところ同じようなものだ。蝉が鳴いているのと同じようなものだ。ただ、蟻を踏み潰して歩いている子供だけは許せず、舌打ちをする。