8月21日

 朝から『新書 沖縄読本』を読み始めた。だが、どうしても途中で立ち止まってしまう。たとえば、「『イチャリバチョーデー』――鉄器の不足が築いた温和な沖縄人気質」というコラムがある。「イチャリバチョーデー」とは「出会えば兄弟」という意味だ。出会った相手を優しくもてなす沖縄人の気質はどこからきたのかを考察するなかで、司馬遼太郎の『街道をゆく7』が取り上げられる。司馬遼太郎は、沖縄人の温和さについて、「歴史的に鉄器が不足していたことに有力な原因があるのではないか」と推測する。鉄器によって生産能力は格段に向上し、余剰の富によって格差が生じ、覇権争いの世となる。だが、沖縄には砂鉄が不足しており、鉄器が普及するのが遅れ、争いを好まない気質が生まれたのではないか――と司馬遼太郎は推測する。僕は司馬遼太郎のこうした考え方をあまり受け入れられない。たしかに「その通り」という部分もあるのだろうけれど、「この時代のこの地域はこうした社会構造になっており、よってこのような気質となった」と推測する唯物史観に対しては、「そのようなことだけで気質が決められてたまるか」と思ってしまう。だから、司馬遼太郎を援用しつつ論じられるコラムも、読んでいると何度も中断してしまって、あまり読み進められなかった。

 21時過ぎ、帰ってきた知人と一緒に『戦争花嫁たちのアメリカ』というドキュメンタリーを観た。今年の夏もまた、太平洋戦争に関連したドキュメンタリーが数多く放送され、そのほとんどを録画して、少しずつ観ている。まだ半分くらいしか観ていないけれど、これは今年ナンバーワンといってよいほど印象深いドキュメンタリーで、「これについて何か書いておかなければ」と、たくさんメモを取りながら観た。