9月6日

 8時に起きて、昨日コーヒーをこぼしてしまったトートバッグを洗っておく(横浜まで出かけるとき、魔法瓶にコーヒーを入れて出かけていたのだが、蓋が緩んでいたのか少しこぼれていた)。昨日演奏されたなかには「車窓より」といううたがあって、「新幹線から見える/過ぎてく景色好きなんだ」という歌詞があり、本当は青春18きっぷで出かけるつもりでいたけれど、それを耳にした瞬間から「明日は新幹線に乗ろう」と決めていた。なので、ゆっくりと身支度をして、11時過ぎにアパートを出る。

 千代田線で二重橋前に出て、東京駅まで地下通路を歩き、自由席の切符を購入する。シウマイ弁当を買おうと、いつもの売店――山陽新幹線の改札の近く――に行く。レジが3台あり、店員さんはふたりいて、ひとりがレジで対応を、もうひとりは商品を整理しているところだ。会計をしているほうのレジに並んでいると、別のお客さんがやってきて、商品を整理していた店員さんはそのお客さんに対応している。僕の前にいたお客さんはクレジットカードで決済していたので、時間がかかり、僕よりあとにやってきたお客さんのほうが先に会計を済ませ、去ってゆく。店員さんが「お待ちのお客様、こちらのレジにどうぞ」と言ってきたけれど、さっきの客より先に待ってたけどな、という小さな気持ちが消えず、移動せずに順番がやってくるのを待つ。

 無事にE席に座ることができたので、車窓の景色を眺めながらシウマイ弁当を平らげ、缶ビールを2本飲み、RKSP社の原稿に取り掛かる。名古屋に到着する頃には書き上がり、満員の地下鉄に乗り換え、愛知芸術文化センターにたどり着き、あいちトリエンナーレを観る。展示を眺めているあいだ、ほーん、という気持ち。「人間の認識能力はこのように働く」という理論があり、それを「やってみた」という感じのものが多く、ほーん、という気持ちで留まってしまう。それと同時に、やっぱりテレビはすごいメディアだなと思う。言語や文化の翻訳をテーマにしたという映像作品があったのだが、境界線を越えて移動するとき、わたしたちは言語の壁と食べ物の壁を感じ、つまりまずは舌でその摩擦に触れると説明がなされる。そして、自分たちのコミュニティで食べていた料理を作るために、現地の食材で代用し、置き換えると説明がなされるのだが、数年前に放送された『妄想ニホン料理』がそれに近いコンセプトのことをエンターテイメントとして実現させていたことを思うと、テレビはすごいという気持ちになる。

 ほーん、ではなく、ほー!となれた作品もいくつかあるが、気になる作品は展示が中止となっていた。また足を運ぶことはあるだろうか。名護駅まで引き返し、鈍行に乗って京都へ。Suicaで改札を出ようとするとエラーになり、一体何事かと思っていると、名古屋はJR東海で、京都はJR西日本であるので、そのまま出られないのだという。いつまでこんなことが続くのだろう。前にインターネットから新幹線の切符を手配したときも、「この窓口だと発券できません」と言われたことを思い出す。地下鉄で四条に出て、ザ・ポケットホテルにチェックイン。昨年オープンしたばかりの格安ホテルだ。これまで京都で何軒かこういった宿に泊まってきたけれど、どこもチェックインに時間がかかりストレスを感じていたけれど、ここは手続きもスムーズで、エントランスも開放感がある。シャワールームとトイレは共同だけれども、部屋は個室になっている。ベッドが部屋を埋め尽くしており、スーツケースを広げるともう余白なないけれど、寝るだけならこれで十分だ。安く泊まれるといえばドヤ街の簡易宿泊所が古くからあり、そこから70年代に都市生活者の――そしてサラリーマンの――簡易宿泊所としてカプセルホテルが新たに登場したのだろうけれど、一つ前の時代に戻りつつあるのだろうか。ドヤ街の安宿に外国人のバックパッカーがやってくるようになったというところから着想を得ているのかもしれないけれど、今後カプセルホテルはどうなっていくのだろう。

 ケータイを充電しながら、原稿を読み返し、推敲を加え、メールで送信。20時にホテルを出て、缶ビール片手に街を歩く。鴨川沿いはすごい人出で、川べりに腰掛ける人がずうっと連なっており、団体客のように見えてくる。「赤垣屋」をのぞくと、ちょうど席が開いたところで入ることができた。初めて一番奥のカウンターに案内される。瓶ビールとしめさば、それにイワシ煮を注文。お店のお父さんの姿は見えず、前にきたときは若手のひとりという感じだった人がカウンターの中に立っていて、若い店員さんたちに指示を飛ばしている。その、飛ばしているというところに若々しさを感じる。ロールキャベツは品切れになってしまっていたけれど、おでんも何品かつまんで会計を済ませ、「大砲ラーメン」。お腹はほとんど満腹だけれども、京都にきたからには食べておかなければならない。そうやっていつまでも記憶を食べている。