9月14日

 7時半に起きる。最近のビジネスホテルはインスタントではなく簡易ドリップ式のコーヒーが置いてあることが多く、知人から「コーヒー屋さん」とコーヒーをねだられる。湯を沸かして、コーヒーを淹れる。テレビでは『サタデープラス』が放送されていて、ウド鈴木周防大島を旅している。「山口のおばちゃんって、ほんと、山口って感じよね」と山口出身の知人が言う。9時半にチェックアウトして、知人と別れ、ブルーラインで新横浜に出る。 JR東日本のウェブサイトから切符を予約しておいたのだが、窓口はJR東海で、発見できなかった。駅員に尋ねると、この改札口にある機会だと発見できないので、入場券を発行するから反対側の改札口まで行くようにと指示される。ああ、もう!

 なんとか発見し終えて、新幹線の改札をくぐる。新横浜から新幹線に乗るのは初めてだが、あちこちに崎陽軒があって落ち着く。売っている場所を探して歩く必要がここではまったくないのだ。今日は10時10分東京発のぞみ23号を予約していて、それが新横浜にやってきたところで乗るつもりでいた。その新幹線は10時29分に新横浜を出るはずだから、ホームで待っていたのだが、電光掲示板を見ると「23号」とは違う数字が書かれている。もしかしたら新横浜には停車しないのぞみだったのか――いや、のぞみはすべて新横浜に停まるはず――と混乱し、一本見送り、次にやってきたのぞみの自由席に座る。3連休の初日とあってかなり混んでいたけれど、無事に通路側に座れてホッとする。ほどなくして車掌さんが改札にやってきて、「こちらの指定は取り消してもよろしいですか?」と言われる。きっと名古屋か京都あたりで誰か別の人が座るのだろう。それにしても、僕が乗るはずだったのぞみはどこに消えたのだろう?

 しばらくテープ起こしをして、名古屋に到着したあたりで車内販売のビールを買い、シウマイ弁当を食べる。なにか違和感をおぼえ、一体何だろうと思ってみると、いつも東京駅で売っているものとは蓋が違っていて、東京で買えるものはビニールの包装で封がされているのに、横浜で買えるものは紐で封をしてあるのだった。思い返してみると、桜木町の急な坂スタジオに行くとき、あるいは先日羽田空港シウマイ弁当を買ったときも、横浜バージョンの弁当だったが、違いに気づいていなかった。こうして、いつものと同じように新幹線の車内で広げてみて、初めてその違いに気づく。

 13時半に岡山に到着して、倉敷に出る。人生で初めて「途中下車」する。これまで100回どころではなく新幹線に乗ってきたのに、「100キロ以上の区間の切符であれば、何度でも途中下車できる」というルールを知らなかった……。荷物をコインロッカーに預け、街を歩く。ずいぶん店が増えたなと思う。僕が帰省の途中に倉敷に立ち寄るようになって10年が経ち、そのあいだに少しずつ店は増えていたけれど、この半年のあいだにグンと増えた感じがする。それは、いかにも「新しい日本の伝統」といった感じのする、明るい店が増えたせいだろう。前よりもずっと先まで商店が続いていて、「ひょっとしたらもう通り過ぎてしまったのでは」と不安に思い始めたところに、「蟲文庫」の看板が見えてくる。

 表には骨折のため不定休の貼り紙があるけれど、今日は営業していてホッとする。「ほんとは1日ごとに休みたいんですけど、今週と来週は3連休だから、頑張ってあけてるんです」と蟲さんが言う。今年の初夏頃に骨折されて、お店を営業できるまでには回復されているけれど、毎日だとまだくたびれてしまうのだろう。そんなに大変な骨折だったのかと伺いたいけれど、怪我のことをそんなにあれこれ聞いてもよいものかわからず、聞かずに過ごす。お店が増えましたねと言うと、ここ最近ですごく増えましたと蟲さんも同意してくれる。昔は病院に入院していて、外出許可をもらった人が本を買いにきてくれることもあったけど、ずいぶん少なくなったのだ、と。昔から美観地区は観光地ではあったのだろうけれど、観光客が歩く範囲が広がり、にぎわいも増したことで、入院している人には明る過ぎるのだろう。

 今回の旅にはスーツケースを持ってきていないので、買うのは文庫本だけにするつもりで棚を眺める。中上健次の『熊野集』(講談社文芸文庫)と、吉田健一『東京の昔』(ちくま学芸文庫)を手に取る。倉敷にくるたび、危口さんは中上健次が好きだったなと思い出して、いつか読まなければと思いながらも、まだほとんど読んでいない。そして吉田健一も、これまで何度か読もうとしながらも、あの文体にうまく身を委ねられなかった。でも、2020年の東京を眺める前に、この本は読んでおくべきな気がすると思って、買い求める。書棚の中には、最初に「蟲文庫」を訪れた頃からずっとそこにある本もある。三田誠広『僕って何』や加藤典洋敗戦後論』を眺めながら、ここで最初に見かけたときにはまだ著者が生きていたのに、今はもう死んでしまっているということを、不思議に思う。

 日本文学の棚に池澤夏樹責任編集の日本文学全集がいくつか並んでおり、そこに吉田健一の巻があるのを見つけた。月報に書かれた柴崎友香の文章を眺めているうちに、荷物に入りからなくなるかもしれないけど、やっぱりこれは買っておこうと、一緒に買い求める。ジュースを1杯ご馳走になって、お礼を言って店を出る。ローソンでアサヒスーパードライを買って、お墓に行く。お墓へと続く道に、空き缶やペットボトルが散乱していて、いやなにおいがする。前来たときはこうではなかったのに、どうしたのだろう。お墓にたどり着き、手を合わせる。缶コーヒーが何本かお供えされている。墓を眺めながら、缶ビールを飲み干す。快快の『ルイ・ルイ』、危口さんが観ていたらどんな感想を言っていただろう。それを聞くことができないというのは、なんとも不思議な心地がする。

 倉敷駅から再び電車に乗って、18時43分、実家のある駅にたどり着く。母に駅まで迎えにきてもらうように頼んでいたのだが、改札を出て歩道橋を降りていくと、その裏に母親が立って上を見上げていてぎょっとする。ぼけてしまったのか。一瞬ほんとうにそう思ったけれど、そうではなく、今日はロータリーに停車できなかったから別の場所に車を停めており、エレベーターで降りてくるか階段で降りてくるかわからないので、そうして待っていたらしかった。とりあえずはホッとしたけれど、母親ももうすぐ70歳になる。実家に帰るまでの道すがら、ブレーキをかけるタイミングが少し遅くなっていて、反対にウィンカーはずいぶん前から上げていることに気づく。