9月25日

 7時過ぎ、知人が身支度する気配で目を覚ます。茹で玉子を6個茹でて、2個食べる。コーヒーを淹れて、U.Tさんと那覇で話したことの構成に取りかかる。Uさんとは6月15日にトークイベントを開催したのだが、その1週間後に、飲みながらあれこれ話をした。トークイベントは市場が一時閉場を迎える前に開催されたものだったので、最終営業日を迎えたあとにも話しておきたいと思って、飲みながら話をしたのだ。4時間ぶんの話を、構成していく。

 昼、納豆オクラ豆腐そばを食す。午後も構成を進める。知人は今日は早上がりだったらしく、夕方に帰ってうたた寝している。18時、知人を起こしてアパートを出る。寿司が食べたいと知人が言っていたので、「ちよだ鮨」でえんがわの握り(4貫入り)を買って、「越後屋本店」でアサヒスーパードライを飲みながらツマむ。2杯飲んだところで席を立ち、山手線で池袋に出て、東京芸術劇場シアターイーストで贅沢貧乏『ミクスチュア』観る。自分はこれに4千円払ったのか、と思いながら観る。

 劇の冒頭で、登場人物たちは薄暗い中を、なにかの生物が出没したことを噂し合っており、「入ってきたらたまったもんじゃないわ」と語っている。素直に聞けば猪か猿か熊といった野生生物だが、そのコミニュニティにとって異質な存在を示しているのだろうなと思う。舞台が明るくなってみると、舞台上を俳優たちが行き交っているのだが、俳優が突然猿のような動きになり、まわりがそれを騒ぎ立て、しばらくして俳優はまた人間のような動きに戻る。やはりこれは、同一の価値観で構成されているコミュニティ/その価値観の外側にいる人間を示しているのだろうなと思って観ていたのだが、それは本当に野生動物として物語が進んでゆく。

 舞台では二つの軸が描かれる。一つは、その野生動物に対する態度だ。「姉」として登場する元モデルの女性は、「ザージバル」――と聞こえたが表記が正しいかはわからない――という思想にハマっている。それはほぼヴィーガンと重なる思想だが、動物性のものを摂取しないだけでなく、手も洗わずに菌と共生し、私とその外側とに境界線を引かない生き方をするのだと語る。その思想を説く女性に、もうひとり登場する女性――近所のおばちゃんといった佇まいだ――は共感する。だが、それに共感しながらも、彼女は動物を飼っている。その動物というのが、街に登場した野生動物で、彼女も他の人たちと同じように最初は怯えていたのに、動物たちを手懐け、飼い始めたのである。そうして動物を飼っていることを、ザージバルの女性は「人間のエゴだ」と言い、おばちゃんは「でも、懐いてるもの」と反論する。だが、野生動物がひとたび暴れ始めると、両者とも、他の人たちと同様に、野生動物を排除しようとする。そうして動物は、誰かに撃たれて死んでしまう。

 まず、この「誰かに撃たれて」というところが謎である。まず「撃つ」と語られながらも、銃は小道具としても言葉としても登場していない。それに、いかにパニックに陥っていたとはいえ、さほど広くもない空間で、「誰が撃ったかわからない」なんてことが起こりうるだろうか。だからといって、撃ったという事実をもみ消すために――それこそ「関東大震災における朝鮮人虐殺などなかった」と言い張る人々のように――強弁している、といったふうにも見えない。その殺害をどう見るかと考えれば、「普段はザージバルだの、動物が可愛いだの言っているのに、一皮剥げばそんなものでしかない人間」というものを描いて見せた、ということは考えうる。野生動物に怯え、大立ち回りをしていた人たちは、自分たちの責任を放棄し、「後片付け」をジムの清掃員に――この舞台の主役ともいうべき男女に――すべて押しつけてしまう。

 そこから現代に対する風刺を見出すことは不可能ではないけれど、その風刺はとても浅いという感じを免れない。「皆、口ではそれらしいことを言っていても、化けの皮を剥いでしまえばそんなものだ」と指摘することが今の時代に響く風刺だとも思えないし、それに説得力を持たせるだけの演出も感じられなかった。もしそうしたものを観客に感じさせたかったのだとすれば、という仮定の話になってしまうけれど、そこですべてを押しつけられる清掃員をどう描くかが舞台の肝となるはずだ。でも、その存在はいかにも書き割りといった感じだった。僕は読んでいないので、講評からだけの印象になってしまうけれど、先日、芥川賞候補作に登場する窓の清掃員をめぐる話も思い出された。そうしてすべてを押しつけられながら暮らしている清掃員をいかに描くかが肝であるはずなのに、細部を描く、という質感はまったく感じられなかった。たとえば、一緒に暮らすふたりの清掃員がコンビニエンスストアで買ってきたのだとおぼしきパスタを食べているシーンが登場する。それはミートソースのスパゲティなのだが、なぜミートソースを選んだのか、特に必然性は感じられなかった。強いて言えば、その食事のシーンに姉が乱入して、動物性のものを食べていることを咎めるためにだけ、そのミートソースは舞台に置かれているように感じた。その登場人物たちに、ミートソースを食べそうだという質感というのか、生活の影のようなものはまったく感じられなかった(そして、これは間近で見たわけではないので正しくない批判かもしれないが、コンビニのパスタの容器というのは、商品によって微妙に色が違っているけれど、その容器はミートソースのパスタの容器には見えなかった)。

 ただ、この作品が何かしたら「多様性」というテーマに言及したかったのであろうことはわかる。舞台上では、二度、ヨガのシーンが描かれる。このヨガ教室では、先生が生徒の前に立ってポーズを示すのではなく、ラジオ体操のように、音声だけでポーズが伝達される。その言葉から連想する動きを、生徒たちはそれぞれに想像し、実践する。ただ、一度目のシーンでは、途中までバラバラのポーズを取っていた生徒たちが、「ダウンドッグのポーズ」と言われたときだけは同じポーズをとる。だが、舞台のラストでリフレインされるヨガ教室では、もはやダウンドッグで同じポーズをとることもなく、それぞれに勝手なポーズをとり続ける。これは一体、何を意味するのだろう。建前ではさまざまな主張をしながらも、二体の野生動物を殺し、それをなかったことのように処理した登場人物たちが、より多様なポーズをとる。そこに何の必然性があるのか、僕にはまったくわからなかった。

 多様性ということでいえば、清掃員である男性は、恋愛というものに関心を持てずにいる体質であるという。だから彼は、一緒に清掃員として働く女性を家に居候させながら、普通に暮らしている。女性のほうは、男性に対する恐怖症なのか嫌悪感なのか、を抱いているように見える場面もある(あるいは、ジムに通う大学院生の二人組がいるのだが、そのうちのひとりは同性が恋愛対象であるようだ)。そうして多様な意識が描かれるのだが、舞台の終盤で、清掃員の女性は男性に対して、やはり自分は特別な感情をあなたに抱いてしまっている、と語る。そして、男性を自分に抱きつかせる。その暴力は、一体なぜ描かれたのだろう。そうして多様性を描こうとした(のであろう)作品で、当事者でもある人が、そんな「ふつう」の状態に事態を収斂させようとしたのだろう。一方で、抱きついてみたらと提案された男性は、何度も躊躇いながら、ぎこちなく、相手を抱きつく。その描写にもどこか違和感をおぼえる。それは恋愛や性的なことに「興味を持たない/優先順位が優位にない」のではなく、「恐怖心がある」状態だろう。そのふたつの意味からも、どうしてそのシーンが描かれたのか、僕にはわからなかった。

 そういったことはすべて頭で考えたことだが、舞台を通して、「このような世界を舞台上に出現させたい」という作り手の何かを受け取ることがほとんどなかったという気がする。たとえば、街を歩くように俳優たちが舞台上を行き交うシーンがあるのだが、「他のどの動きでもなく、この動きを私は舞台上に配置したいんだ」という感じをほとんど受け取ることがなかった。それが何より、決定的なことであるように思う。劇場を出て、「ふくろ」に入り、ビールで乾杯する。知人もまた、「『あれ』とか『それ』で全部話が進んでる感じがして、マジで何の話をされてるのかわからんかった」と言いながら、知人はハムカツにかじりつく。