3月15日

 6時過ぎに目を覚ます。よく晴れている。春雨ヌードルを買ってきて朝食をとり、『E』の原稿に取りかかる。11時に宿を出て、県庁前まで歩き、バスを待つ。砂辺のあたりに行き、「浜屋そば」か「ゴーディーズ」でお昼を食べてから、13時から海辺でカネコアヤノのライブ配信を観るつもりでいた。でも、そのあたりにはコンビニが少なく、ビールを飲みながら配信を観るのは難しそうだ。それならばと予定を変更し、バスを乗り継ぎ、新原ビーチに出る。

 13時ちょうどに「食堂かりか」に到着し、カレーと生ビールを注文していると、ライブ配信が始まる。向こうに海と砂浜を見やりながら、小さい画面を通じて、東京のどこかのライブハウスで演奏されている姿と音に触れる。「食堂かりか」は思っていたより賑わっていた。ビールを2杯、それに赤ワインを1杯飲んだ。本当は赤ワインをお代わりしたいところだけど、今日はまだ書かねばならない原稿がある。

 バスを乗り継ぎ、ひめゆり平和祈念資料館に行く。バスの中でも原稿を書く。ちょくちょく観にきているけれど、今日は日付のことをじっくり見る。

1942年3月6日、女師・一高女、心身鍛錬のため十七里行軍を実施。午前2時に学校を出発し、勝連城趾まで往復約68キロを歩く。

1944年3月22日、第32軍(沖縄守備軍)が創設され、女師・一高女の校舎の一部が兵舎となる。

1944年6月、小禄飛行場建設工事に動員される。

1944年9月、女師・一高女は隔日もしくは週2日、陣地構築に駆り出されるようになり、授業は週3日になる。

1944年10月10日、十十空襲。

1945年2月15日、女師・一高女生徒が沖縄陸軍病院で看護訓練を始める。

1945年2月22日、校舎が空襲に遭う。

1945年3月23日、米軍による艦砲射撃が始まる。米軍が沖縄上陸作戦に向けて動き出したこの日の深夜、222名の生徒と18名の引率教師は学校の敷地内にあった校長住宅前に集まり、訓示を受け、南東に向かって5キロ歩き、南風原の沖縄陸軍病院に動員される。いつも夜の道だったのだなと、展示を見ながら思った。

 バスがくるまで時間があるので、隣の土産物館に入り、ホットコーヒーを飲んだ。お茶請けにサーターアンダギーがついてきた。土産物の売店のかたが、これ、よかったらと佃煮かなにかを置いて行ってくれる。資料館にはそれなりに人がいたけれど、やはり観光客は激減しているのだろう。バス停にはバスを待っている若者が何人かいた。みんなひとりでやってきた観光客のようだ。17時半に那覇バスターミナルまで引き返し、せっかくだからとバスターミナル上の県立図書館に行ってみると、コロナの影響で17日まで閉館しているらしかった。

 オリオンビールのロング缶を3本買って宿に帰る。冷蔵庫を開けると、「はしもと」と書かれた焼きそばパンがある。昨日、「明日の晩ご飯に」と買っておいたのを忘れていた。レンジでチンして、それにかぶりつきながらビールを飲んで、原稿を書く。20時過ぎになってようやく完成する。坪内さんの追悼文はきっとこれが最後だろう。今回の追悼文を書くために、あらためて『ストリートワイズ』を読み返して、最初に収録されている「一九七九年の福田恆存」は福田恆存の追悼文として書かれたものだったことを思い出す。「あとがき」にこうある。

 

 さらに同じ年一九九四年十一月二十日、私が最も尊敬していた思想家福田恆存が亡くなった。一週間後の土曜の夜、『文學界』編集長寺田英視さんから電話があった。福田さんの追悼文を書かないかというのである。私は驚いた。なぜなら私はそれまで寺田さんに一面識もなかったのだから。どうやら細井さんが私と福田さんの関係を寺田さんに話してくれたらしい。

 この突然の原稿依頼は、私をひどく緊張させた。しかし私は、この原稿、「一九七九年の福田恆存」を書くことで、文筆家としての自分に対して自覚的になっていった。つまり自分の頭で物を考え、それを筆に移し変えて行くこと、移し変えて行くうちにまた新たな発見があること、文字通り文章が一つの行動であることを。(…)

 

 「QJ Web」、『群像』、『本の雑誌』、それに今日書き上げた『E』と、追悼文を4本書いた。坪内さんの追悼文を書くのは、とても緊張することだ。同じような追悼文を、いろんなところに書くわけにはいかない。それぞれ違ったアプローチで、その時期に応じて、原稿を書かなければ許されないだろう(なにより坪内さんに)。「追悼文を」とだけ原稿依頼を受けたところから、何をどう書こうかと考えて、それを言葉にしていく時間は、僕にとってかけがえのない時間だったような気がする。坪内さんがいなくなってしまった今、これから何を書いていこう。教え子のなかでも僕より優秀な人はたくさんいるし、衣鉢を継げるほどの器ではないと自分がいちばんわかっているけれど、言葉を書いて生きていこうと強く思ったのがこの2ヶ月だ。