3月18日

 朝、セブンイレブンで必要な書類を出力し、昨日のうちに赤を入れたゲラをスキャンする。ほとんど沖縄のオフィスだ。今日から友人たちが那覇にやってくる。そのふたりが「到着したらまず、ブランチしたいね」と言っていると、ふたりと同行しているJさんづてに連絡があったので、ヘルシーに「金壺食堂」か、街場の食堂か、それかFさん念願のステーキハウスですかねと返す。「Fくんがステーキハウス一択だと言っている」と返信があったので、今日は朝ごはんは食べず、お腹を空かせておく。今日から明日の夜遅くまでは友人たちに同行取材するので、その前に送っておかなければならないメールをひとしきり送信する。

 昨日書きそびれたことがふたつある。ひとつめ。ひめゆり学徒隊の子たちが動員されたわずか3ヶ月の日々は、一体どんな天気だったのだろうと調べてみた。気象庁のウェブサイトでは、この100年間の気象情報が閲覧できるようになっている。当時は天気予報も軍事機密扱いで、戦争が始まると天気予報も消えたのだと何かで読んだ。しかし、統計は残っている。たとえば僕の出身地である広島は、1945年8月6日でさえ気象情報が記録されている。でも、沖縄は、1945年の春を迎えてから、1950年代に入るまで、すべての欄が「×」とだけ記載されている。

 10時過ぎ、皆がこれからチェックインする宿に向かう。すぐ近くがステーキハウスの入り口だったので、そこで待っていると、向こうから3人が歩いてくる。

 

 ここから先は別の形で書く。

 

 書きそびれていたもうひとつのこと。昨日の夕方に、週刊文春のスクープ記事に触れた。こういう記事は感情を拝して冷静に受け取るべきだとわかっているのに、ゲストハウスのキッチンで、涙を流してしまう。この件だけを特権化するために言うわけではなく、どこの誰だって、人にそんな思いをさせていいはずがないのだ。どうして世界はこんなふうにあるのだろう。涙が出る。こんな言葉を人に書かせてしまった人間は、組織は、そのことを抱えて生きていくべきだ。そして、そのことを何とも思わない人間は政治家なんてやめるべきだ。そう思うと余計に涙が出た。夕暮れ時、宜野湾トロピカルビーチに響くこどもの声を聴いているうちに、昨日の感情が思い起こされる。