3月28日

 7時過ぎに起きる。昨日の鳥野菜みそ鍋の残りに、冷凍うどんを2玉投入する。ひとりで朝食をとり、「昨日の残りのうどんあるけえの」と知人に伝えてアパートを出る。まだ雨は降っていなかった。家を出た瞬間に非難の目を向けられるかもしれないなという覚悟でもって外に出ると、いつも通りの世界が広がっている。近所の肉屋にはぎゅうぎゅうに人影が見える。家族5人で犬を散歩させている、あれは外に出る言い訳を作っているのだろうか。

 角を曲がると、歩道橋のある交差点が見えてくる。ああ、あそこを越えるのは少し時間がかかる。それならばと、ちょうど車が途切れたところだったので、片側2車線の道路を、横断歩道のないところで飛び越えようとする。足元ではなく、車がきてないかどうか左右を見ながら小走りで渡っていると、何かにつまずいてしまう。あ、つまづいてしまったと意識が働く。でも、つまづいたのとは反対の足で踏みとどまれるだろうと楽観的に思う。でも、からだはとどまる気配がなく、そのまま前のめりの体勢になる。あれ、こけるのか。たしか今、カメラを提げてるんだけどと思っているうちに手が地面につき、それでも勢いはとまらず、顔もアスファルトに擦り付けられる。急いでからだを起こして、路上に散らばった荷物を急いで集めて、対岸まで渡りきる。散歩していた老夫婦がこちらを見ている。心配するでもなく、ただ見ている。横断歩道ではないところを突っ切ったバチがあたったのだろう。勝手に転んだのはこっちなのに、あー、見てんじゃねえよと思いながら歩き去る。老夫婦は興味を失ったように地下鉄の入り口に進んでゆく。顔面がひりつく。マスクをずらしてみると、うっすら血がついている。左右の手にも少し擦り傷がある。左手は手のひらの側に。右手は甲の側に擦り傷がある。右肩にカメラを提げていたから、それをとっさに庇ったのだろう。歩きながら、もう一度マスクをずらしてみる。さっきより少し血の色が濃くなっている。もう一度マスクを押し付けてみると、もう少しだけ血の色が濃くなる。それを何度か繰り返しながら、傷の深さがどれくらいなのかを探る。まあ大した傷でもないだろうと思ったところで、こんな血のついたマスクで今日一日過ごすのかと我に返る。マスクではなく、ティッシュを使えばよかった。今日は夜まで取材だというのに、どうしよう。途中でセブンイレブンを見つけたけれど、マスクも消毒液も売っていなかった。知人に連絡して、取材先までもってきてもらえないかとお願いする。

 10時半、駒込にある「BOOKS青いカバ」にたどり着く。今日から30日まで、「半日店長」としてお店に滞在させてもらいながら、「東京の古本屋」の取材をさせていただく。イベントのほうは直前に告知しようと思っていたところに、25日に外出自粛要請が出た。迷ったけれど、お店は営業されるというので、特に「イベントを開催します」と告知は出さずに、3日間滞在させてもらうことになった。店内に張り出してくれた市場の風景に、キャプションを書き加える。

 開店時刻になるとHONの雑誌社のTさんがやってきて、お客さんに配布するためのリーフレットを渡してくれる。せっかくイベントを開催するなら、何か配布物をと提案されたのは3月24日のこと。「東京の古本屋」の第1回の原稿や、『市場界隈』刊行記念で開催したトークイベントの採録を印刷して配布してはどうかと提案してもらったのだけれども、せっかくのイベントなのにウェブで無料で読めるものを配るのもと気が引けて、「明日までに1600Wぐらいのテキストを書きます」と返信して、「貝殻」と題した文章を書いたのだった。「リーフレット」と言っても、ぺらんと出力しただけのものだろうと思っていたのだけれど、しっかりデザインされた仕上がりになっていて驚く。わざわざデザイナーさんに作ってもらったのだという。「使って欲しい」という意図もなく、沖縄の砂浜に貝殻を並べた写真も原稿と一緒に送っていたのだが、その写真もカラーで掲載されている。「デザイナーの方も、この写真に感じ入るものがあったと言ってましたよ」とTさんは言う。そこには何があったのだろう。僕の中ではほとんど無意識のことだから、自分では察知できずにいる。

 今日は短縮営業とのことで、19時にお店をあとにする。セブンイレブンに寄り、缶ビールを2本購入する。ウェットティッシュを取り出して、ひとしきり拭いてから飲んだ。飲まなければ済む話なのだけれども、こうして歩きながら缶ビールを飲むのが好きなのだ。今日は20時から高円寺の「円盤」で見汐麻衣さんのライブがある。本当はそこに行くつもりでいた。でも、昨晩のうちに更新された見汐さんの「続・寿司日記」にはこう書かれていた。

明日、ご来場をお考えの方がいらっしゃるとすれば(あなたも私もくれぐれも予防は怠らず)
いつものようにノントークで。(生活圏内以外からの移動はノンノン!)
いつものように、まんじりともせず1時間10分を感じてください。
そしていつものごとく、終了後には蜘蛛の子を散らすように皆様、気をつけて帰って下さいね。(生活圏外への移動はノンノン!)

 高円寺の「円盤」までは、電車を乗り継いで30分以上かかる。さすがに「生活圏内」とは言い張れないだろう。昨晩目にしたこの言葉を、今日はずっと反芻して過ごしていた。缶ビールが滲みる。上唇に擦り傷ができている。なんて不便なところに傷を作ってしまったのだろう。食事をするたびに、そこから雑菌が入り込むことを懸念して過ごさなければならなくなってしまった。風が強く、マフラーをしていても肌寒く感じる夜道を、20分かけて歩きながら、ビールを2缶飲み干した。