4月29日

 7時半に目を覚ます。今日は祝日らしいので、早めの時間帯にと、8時にジョギングに出た。さんさき坂を上がり、上野桜木から上野公園に出る。東京藝術大学には日の丸が掲げられていた。彰義隊の墓と、西郷隆盛銅像とを少し立ち止まって眺める。動物園に「5月6日まで休園します」と書かれているのを見て、あれ、もう1週間後か。池之端の、なんでもない普通の民家にも、それから根津のアパートにも日の丸が掲げられていた。昭和2年生まれの祖母は、元気だった頃は日の丸を掲げていた。祖母の家に限らず、どこでも掲げていたように思う。それが消えたのは、平成に入った頃だったかもしれない。このあたりにはまだ昔の習慣を保ったまま暮らしている人がいるのだなと、不思議な感じがする。

 アパートに戻ると、シャワーを浴びる前にバリカンで頭を刈る。昨日も刈っていたのだが、途中で電池が切れてしまっていたので、きれいに刈る。何かの拍子にアタッチメントがずれてしまって、3ミリに仕上がってしまう。目を覚ました知人が、リビングで独り言のように何かを言っている。「放送できるもんがないけ、テレビがTikTok流しよるで。つまらんけ消す。プライドはないんか」と、ひとりでぼやいている。

 昼はキャベツともやし、それに豚コマ肉を入れて焼きそばを作る。知人とふたりぶんなので、なかなかのボリュームになる。フライパンのまま卓袱台に置き、小皿に取り分けて食べる。テレビでは『ヒルナンデス』が流れている。久しぶりにこの番組を観た。オードリーと三四郎小宮、それに若手俳優(『俺の話は長い』でバーテンダー役をやっていた人)が、「女子に人気」のスポットに潜入するロケをやっている。「3月6日に収録しました」とテロップで表示されている。ひとつのスポットを紹介し終えるごとに、「思い切り外出できるようになったら、ぜひ行ってみては?!」といったナレーションで締めくくられる。番組としてひとつ振り切った態度だ。週に一度のオンエアの『王様のブランチ』は、「おうち時間を充実させよう!」みたいなノリに舵を切っているけれど、毎日放送のある『ヒルナンデス』は、まずはストックのあるVTRで画面を埋めていかないことには、放送できなくなってしまうのだろう。

 次から次へと郵便が届く。月曜日はクレジットカードの支払日で、それによって利用可能枠があいたぶん、すぐに通販で本を注文していた。その大半は古本だったが、どこも対応が早く、あっという間に届く。ありがとう古本屋さんたちよ。本がなければ、書くことができない。チャイムが鳴り、「日本郵便です」と言われ、そこに置いておいてくださいと伝える。あとで玄関まで行ってみると、郵便受けには入らない分厚さの郵便物がふたつ置かれていた。実家に送ってしまった『「敗者」の精神史』と『「挫折」の昭和史』を注文していたので、きっとそれだろうと思っていたが、開けてみるとひとつは『「敗者」の精神史』で、もうひとつは出版社から贈られた献本だった。開封してみても、ただ本が入っているだけで、何も書き添えられてはいなかった。どういうつもりなんだろうと腹立たしくなってくる。前にもプルーフと呼ばれる見本が送られてきたことがあったが、そのときも特に書き添えられた言葉はなかった。きっと読書委員だからと送ってきたのだろう。余計に腹立たしくなる。

 午後は企画「R」の原稿を書く。15時過ぎ、ツイッターで「路上」という企画の告知が出る。東京の「路上」をモチーフに、ぼくはドキュメントを、藤田さんはフィクションを描き、最終的にはひとつの作品として上演することを目指す。ドキュメントというより、同じ「路上」をモチーフとしながら、ぼくは散文を書き、藤田さんはシーンを、戯曲を見出すといったほうが正確だろう。ぼくが書くことばのほうはウェブで読みやすいボリュームにはならないだろうけれど、手渡しておきたい言葉を手紙のように書いていく。普段は自分が思っていることを(こういう日記をのぞけば)あまり書かないようにしているけれど、この企画について話し合っているときに『kocorono』の話が出たことを考えると、いろいろ言葉にしていかなければと思う。

http://mum-gypsy.com/wp-mum/archives/news/street

 告知文を事前に確認させてもらった段階では、「インタビューや密着取材を通じて、普段から親交のある二人が」という一文があった。友情ってなんて悩ましいんだろう、というのは『てんとてんを、むすぶせん。からなる、立体。 そのなかに、つまっている、いくつもの。 ことなった、世界。および、ひかりについて。』という作品に登場する台詞だが、悩ましい言葉がある。「親交」という言葉にどうしても引っかかってしまう。たしかに、ここ数年、誰より言葉を交わしてきた相手ではある。ただ、普段から「今日空いてますか?」と飲みにいくわけではなく、世間で言うところの「親交」とは違う関係であるはずだ。それに、親交ではなく、大事なときに大事な言葉を交わしてきたという(きっと他の人からすればどうだっていいとしか思えないであろう)感覚もあり、まわりくどい表現に直してしまった。

 構成を練り直したり、引用する資料を読み返したりしていたこともあり、原稿はあまり捗らなかった。原稿を考えていると、頭をリセットしたくなるので、夜はちゃんと酒を飲んでバラエティを観て過ごす。冷蔵庫には豚バラ肉があり、クックドゥの「素」を使って回鍋肉を作るつもりだったが、知人に「豚バラ肉があるから回鍋肉のつもりだったけど、別のものを作ってもいいんだけど」と伝えると、豚キムチ炒めを作ってくれる。それをツマミに、『ロンドンハーツ』を観た。この番組が“複雑ドッキリ”と呼ぶ企画の第二弾だ。

 そのドッキリの内容はこうだ。偽の取材がセッティングされ、芸人が喫茶店にやってくる。ライターが「カメラマンさんが道に迷ってるみたいで、ちょっと迎えに行ってきます」と、ターゲットをひとり残す。そこに、店に居合わせた客(を装った仕掛け人)が「ファンなんです」と近寄って、握手を求める。その客がターゲットに耳打ちする。「ぼく、1時間ぐらい前からこの店にいるんですけど、さっきテレビ局のスタッフみたいな人がきて、そこの植え込みにカメラみたいなのをセッティングしてて。今日は撮影なんですか?」と。そうして、一般人(を装った仕掛け人)からドッキリであることを知らされてしまった上で、ドッキリが始まる。しかし、その仕掛け人たちがあまりにポンコツで、ドッキリはぐだぐだになる。そこで芸人はどう立ち回るのか――という内容だ。

 ネタバラシのときに、やたらと「今、ロンハーのドッキリはここまで入り組んだことになってるのよ」と、誇らしげに言うことに、ずっと引っかかっている。別に入り組んでいれば面白いわけではないだろう。それに、引っかかった芸人たちが一様に「複雑すぎてわかんないっす」と、それを強調するように語るのも違和感がある。ただ、思わず「さすが」と思わされた場面があった。それは、とろサーモン久保田がターゲットになったときのことだ。

 ターゲットが久保田となった回では、「カメラの存在を知らされてしまって、『何かドッキリの仕掛けがあるのだろう』と身構えていたのに、特に何も起こらない」というドッキリが行われた。ごく普通に飲み物が運ばれてきて、ごく普通にライターとカメラマンがやってきて、ごく普通に取材が進んでゆく。滞りなく取材が終わると、ライターが「ごめんなさい、わたしたちすぐに次の現場に行かなきゃいけなくて」と告げる。「お会計は済ませておくので、ゆっくり過ごされていってください」と、久保田は何も起こらないことに少し動揺しながら、ひとり席に残される。ここからが「さすが」と思わされたところだ。

 久保田の様子をモニタリングしていた淳が、「もう出てきちゃって、撤収を始めてください」とスタッフに指示を出す。すると、店の奥の壁裏に隠れていた撮影クルーが、久保田の前を素通りし、店の外へと撤収していく。「え、え?」と久保田はますます動揺する。スタッフのひとりは、久保田の席の前方に設置された隠しカメラを――「あそこにカメラがあります」と一般人(を装った仕掛け人)からバラされていたカメラを――撤収し始める。「え、何?」と動揺し続ける久保田の様子を見て、淳がスタッフに「帰るとき、ちょっとだけ会釈して」と指示を出す。言われた通り、隠しカメラを撤収したスタッフが、久保田に小さく会釈して店を出てゆく。久保田の動揺はピークに達し、思わず立ち上がる――こうして書き出しても伝わりづらいけれど、そこで「ちょっとだけ会釈して」と指示を出す反射神経が、さすがだと思わされた。一緒に観ていた知人も「ガサ入れのときから思いよったけど、やっぱ淳、さすがやな」と感心している。

 今日もプロ野球チップスを食べた。菅野智之と太田健吾が入っていた。説明書きをしげしげ読んでいると、「え、何、カード集めるつもりなん?」と知人が不思議そうな顔をする。ここ10年はほとんど野球に関心を抱いてこず、たまに知人と球場に出かけるとしてもビールが目当てになっていたから、不思議に思うのも当然である。ツマミとしてちょうどいい量だからということもあるけれど、なにか毎日の楽しみが欲しくなっているのだろう。ルーティンが多いと、今朝知人に言われたことばを思い出す。それと同時に、ずっと昔の記憶もよみがえってくる。小さい頃はビックリマンシールを集めていた。あの当時、父は箱ごとビックリマンを買ってきてくれていて、1日1個ずつ開けて食べていた。父は頭が固く、「こんな番組、くだらん」とバラエティはほとんど見せてもらえず、こどもの楽しみに理解がないと思っていたけれど、そういえばビックリマンは箱買いしてくれていたんだよなと、プロ野球チップスを食べながら思い出した。もしも自分にこどもがいれば、もっと別のアプローチで、父親として父を思い浮かべていたのだろう。そんなことは僕の人生には起こらないのだなとあらためて思いながら、チューハイのおかわりを作る。