5月17日

 8時にテレビをつける。知人に『サンデーモーニング』を睡眠視聴させながら、たまごかけごはん納豆のせを平らげ、昨日のテープ起こしをする。10時には起こし終わり、設計図を書く。途中でホテルの値段を調べたり、航空券の値段を調べたり、沖縄への渡航が現在どう位置付けられているのか検索したり。昼は知人にサッポロ一番味噌ラーメンを作ってもらう。具は豚挽肉とニラともやし。知人は通販で服やら何やらを買おうとしているようで、ときどきメジャーを引き出す音がする。寸法を測っている様子が面白く、そのたびに様子を伺いにいき、仕事しいよと注意される。夕方には原稿をいったん書き終わり、やすりがけ。寝転がってクロノトリガー(2周目)をやって、思い出したかのようにパソコンを広げて原稿を推敲し、またクロノトリガーをやる。別の作業をしないと頭を切り替えられないから、仕方がない。

 原稿を読み返しながら、ここまでの連載とは原稿の内容が違っているなと気づく。『市場界隈』でUさんに話を聞き、原稿を確認してもらったときにも、「他の皆さんは、これまでこの場所で働いてきた話をされているのに、私だけぐずぐずした話をしてしまっている気がする」と言われていた。RK新報の連載も、ここまで取材したお店は店主の方の来歴やお店のこと自体を伺ってきたけれど、Uさんには今この状況で感じていることを聞かせてもらって、それを原稿にまとめている。でも、100年後の誰かが「コロナ騒動があったとき、市場にはどんな空気が流れていたんだろう?」と知りたいと思ったときに書き残しておきたいのは、そういうささやかな言葉だ。そうやって自分を納得させながら、Uさんに原稿を送る。

 マスクをつけ、皿を手にして「たこ忠」へ。今日は水だことアジの刺身を注文する。ぼくの一人前に並んでいた老人――散歩の途中に店に気づき、立ち寄る姿を50メートル手前からぼくは眺めていた――がたこめしを注文していた。たこめしには何種類かあるのだが、注文する時から「え、どれが何なの?」「いや、辛いのは要らない、辛くないやつ」と、少し横柄な口ぶりが気にかかっていた。しばらく経って、注文したたこめしが運ばれてくると、おれは入れ歯だけど、入れ歯でも食えるのかと老人が言い出す。生じゃないから、ある程度は硬いですよ、ちょっとマスターに聞いてみたほうがと店員が言うと、いいやもう別に、だってもう金払っちゃったんだから、と老人は言い残し、立ち去ってゆく。そんなやりとりを眺めながら、老人が履いていた靴がぼくが先日注文したばかりのジョギングシューズとまったく同じであることばかり気になってしまう。

 夜は『さんまのお笑い向上委員会』を観たあと、昨日に続けて『ゴッドファーザー2』を観る。ただ、酒を飲みながらだと整理が追いつかず、知人が「くたびれる」というので『古畑任三郎』に切り替える。先日、最終回が再放送されているのを眺めて、もう一度観てみようという気になったのだ。シーズン1の第1話は中森明菜がゲスト。この当時はまだ29歳だったのかと驚く。三谷幸喜もまだ34歳だったのか。ぼくはリアルタイムで『古畑任三郎』を観ていたわけではなく(実家のテレビでドラマにチャンネルが合うことはほとんど皆無だった)、一人暮らしを始めた頃になって再放送で観たのが最初だと思う。その頃には『古畑任三郎』に対する評価も定まっていたし、三谷幸喜も大御所だという認識でしかなかったけれど、まだ若かったのだなと思う。そして、これは当たり前のようにすでに指摘されているのだろうけれど、とても演劇的なドラマだ。第1話は、ひとつの部屋の中で話が進んでいく。それはいかにも演劇的である。大学生の頃に再放送で『古畑任三郎』を観たときは、ぼくは演劇というものに触れたことがなく、それを「演劇的だ」と受け取る感覚が存在しなかった。そういう感覚を増やしていかないといけないし、だとしたらぼんやりしていないで、いろんなものに触れなければと思う。

 今の感覚だけで過ごしていると、受け取れないものがあり、手渡せないものがある。そのことは『さんまのお笑い向上委員会』を観ていたときにも感じたことだ。先週と今週は通常の収録が不可能となり、普通であれば総集編を流すところだが、明石家さんまがスタジオでひとり、これまでの放送を振り返り、「この芸人のここが面白い」というポイントを「解説」しながら賞を贈るという内容だった。そして、次回は「通常回」が放送されるようだが、ただいつも通りに収録するわけではなく、三密を避けなければならない状況を逆手にとって何かやろうとしているらしかった。その次週予告に興奮をおぼえた。それとは対照的だったのが先週金曜に放送された『ネタパレ』で、こちらは芸人たちがグリーンバックでネタを披露し、それを合成していつも通りのセットでネタを披露しているようにオンエアしていた。この状況が覆い隠され、平常通りであるかのように放送される姿は、どこか痛ましかった。合成で近づけてしまうと、やっぱりおかしいのだ。数メートル先に向けて発語する姿を合成で近づけてしまうと、やはり不自然さが残る。かが屋というコンビだけは、そう見えるであろうことを逆手にとったネタを作り上げていてさすがだと思ったけれど、テレビというものが現在を記録し続けるメディアなのだとすれば、平常通りであるかのように覆い隠すのではなく、わたしたちがいるこの世界と地続きの場所であって欲しい。漫才なら漫才を披露するのも大変な状況なのだと、観ている側だって当然わかっているのだから、そのことを逆手にとってネタをする姿を観ていたいと思う。今度の土曜日に『ENGEIグランドスラム』がオンエアされると、テレビで予告が流れ始めている。一体どんな放送になるだろう。