1月8日

 8時過ぎにジョギングに出る。今日はネットで注文しておいたアンダーアーマーのスポーツマスクをつけて走る。たしかにズレることがなくて快適だけど、鼻とマスクの合間に少し隙間があって気がかりだ。いつものコースであるS坂はまだ凍っているようだったので、東大前を経由し、言問通りを下って不忍通りに出る。不忍池を見て引き返し、「ベーカリーミウラ」に寄ってコーンチーズのパンとオリーブのパンを買う。店主のTさんも店頭にいて、ちょっと橋本さん、半ズボンじゃないっすかと声をかけられる。コーヒーを淹れて、パンを食す。午前中は本のチラシを作る。橋本さんにご自分で作っていただいたほうが、イメージに合ったものになるのではと言われていたので、ああでもない、こうでもないと思案する。

 米を炊き、レトルトカレーを温めて昼食にする。知人はたまごかけごはんで済ませていた。食後、頭痛がし始めて、しばらく横になっていた。知人は録画したままになっていた『恋です!〜ヤンキー君と白杖ガール〜』を観ている。知人はその回のクライマックスが訪れるたびに号泣し、目とメガネのあいだにティッシュを挟んでいる。その様子を写真に収めておく。少し頭痛が治まったところで、原稿を書く。仕事をしながらも、台詞が棒読みの俳優が気にかかり、その俳優が登場するたびにモノマネをする。「こっちに構ってないと死ぬんか」と知人は笑っている。17時過ぎに散歩に出て、よみせ通りを歩く。今日は人出が多く感じる。「E本店」に行ってみると、お客さんで溢れ返っている。マスクなしで過ごしている人が多いので、生ビールを買うだけ買って、夕焼けだんだんまで散策する。かつてプロフィール写真を撮った場所にある建物はすっかり解体されていた。

 帰宅後、どうも体が痒いなと思って服をめくってみると、蕁麻疹が出ている。あれは何年前だったか、イタリアに出かけていたとき以来だ。滞在中、リアルタイムでドキュメントを描いて過ごしていたら、あるときから夜になると蕁麻疹が出るようになって、数日酒を控えたらどうにか治まったという経験がある。何が原因で出ているのだろう。夜は寄せ鍋。比内地鶏スープというのを買って鍋にしてみたのだけれども、安い割に大変うまく、今度から寄せ鍋はこれでやろうと知人と話し合う。

 鍋を食べ終えたところで、『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』を観た。いつもバラエティばかり観てしまうけれど、そこまで面白いと思っていないのにだらだら観ていることも多々ある。今年は、面白くないバラエティは途中で再生を止めて、映画やドキュメンタリーを観ようと、Netflixで気になる作品リストを作っておいた。そのなかから、知人が「これ」と選んだのが『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』だった。三島にこれまでほとんど関心を抱いてこなかったけれど、全共闘側が混ぜ返すように言葉を用いているのに比べて、真摯に語る三島の姿が印象に残る。言葉で作品を構築することと、世界に関わろうとすることが、大きなテーマとしてある。映画を観ながら、数日前に岸壁で話したことを思い出す。

1月7日

 7時過ぎに目を覚ます。雪がまだまだ残っている。昨日買い物に出かけたとき、七草を買っておいたので、ネットのレシピを頼りに七草粥を作ってみる(実家ではお雑煮を食べる習慣もなければ七草粥を食べる習慣もなかった)。2人前のレシピで、ごはんは150グラムと書かれていたけれど、いやーそれじゃ足りないでしょうと冷凍してあったごはんを2パック解凍し、調理する。出来上がった七草粥はかなりのボリュームで、知人と二人がかりでも半分しか食べられなかった。つまり、レシピは正しかった。

 コーヒーを淹れようとしたところで、豆を切らしていることに気づく。今日は文芸誌の発売日ということもあり、買い物に出る。まだ雪が残っているところもあり、つるつるしたところを避けて、がりがりした場所を選び、よたよたと歩く。雪かきをしている人を見かける。個人の家でも、雪かき用の道具を(それも年に一度降るかどうかという東京で)常備している家があることに驚く。『往来堂書店』に立ち寄り、『新潮』と『文學界』を買って、コーヒー豆を買って帰る。不忍通りはすっかり雪が溶けている。団子坂も、ほとんど雪が消えていた。ただ、一部に残っている場所もある。日光で溶けたのではなく、雪かきをしたところはもう雪が消えていて、雪かきをしていないところは残っているのだろう。電線から水滴が落ちてくるのに(それによって雑誌が濡れることに)警戒しながら、家にたどり着く。

 お昼ごはんの前に、まずは『文學界』に掲載されている平民金子「めしとまち」を読む。文章の底に流れるかわいた境地にしびれる。「私はそんなことで喜ぶのはおそろしいことだと思った」という言葉を読んだ余韻にしばらく浸り、次に『新潮』を開く。こちらは岡田利規ブロッコリー・レボリューション」をめあてに買ったのだけれども、それはすぐには読み切れそうにないので、「特別原稿」という不思議な言葉とともに掲載されている村田沙耶香「平凡な殺意」を読む。その言葉を綴るまでの時間と感情の渦が漏れ伝わってくるようで、何度か雑誌を閉じて、しばらくぼんやりして、また読み進める。殺意ということについて、それが自身に向かうものであれ他人に向かうものであれ、この文章を前にすると、ほとんど考えたことがなかったと思い知らされる。

 昼は七草粥の残りと、昨日の鍋の残りを平らげる。15時、K社の担当編集者・Hさんと電話。プロモーションに向けた相談をする。刊行記念でトークイベントをあちこちで開催したいと思っていたけれど、やはりこの状況下では難しいだろうという話になる。小一時間ほどあれこれ話したあと、そういえば『東京の古本屋』に反応してくださっていた書店をリストにまとめておこうと思い立ち、Twitterを遡る。僕の中では『東京の古本屋』と『水納島再訪』は、取材している土地は東京と沖縄で違っているけれど、やっていることはそんなに遠いという感覚がなく、だから2冊とも同じ方に装丁をお願いしている。この2冊を合わせて読んでもらうと、自分の書いている文章をノンフィクションとして受け取ってもらえるのではないかと期待している(これまではノンフィクションの棚に並べてもらえないことも少なくなかった)。

 夕方頃になって、沖縄の新規感染者数が1414人だと知る。あまりの数字にぼんやりしてしまって、いよいよ、と思う。岩国基地がある山口県と、岩国と隣接する広島県でも感染者数が激増している。日本は敗戦国なのだということを、戦後77年目を迎えた今でも感じさせられる(もちろん、コロナがなくたって、沖縄の人たちは毎日のようにそれを感じざるを得ない状況に置かれているのだけれど)。TBSの夕方の情報番組では、出演する医師に対し、「コロナを五類に引き下げるというのはどうか?」とキャスターが尋ねている。「今は感染者数を減らす必要がある、もし五類に落とせばあっという間に感染が拡大する」と、一蹴されている。この番組は、ここ最近ずっと、16時45分に東京の新規感染者数を発表するたびに、警戒すべき感染症はコロナだけではない、感染者数がゼロになることはないのだから冷静に経済活動を再開していかなければと、毎日のように語っていた。その立場で発信してきたのに、今日はその言葉を繰り返さなかった。

1月6日

 7時過ぎに目を覚ます。ストレッチをして、久しぶりにシューズを引っ張り出して、ジョギングに出る。ほぼ一年振りのジョギングだ。年末年始に飲み食いしすぎて体重が増えているので、今日からまた走ることにした。ユニクロの布マスクをつけて走っていると、あっという間にメガネが曇る。メガネを外して出ればよかった。不忍池に出たところで引き返す。あちこちに燃えるゴミが出されている。正月明けだけに、どの集積場もかなりのボリュームだ。新年会でも開催されたのか、紙コップがたくさん入ったゴミ袋。大掃除をしたのか、小さなおもちゃがたくさん詰まったゴミ袋。ビニール袋の上に、松飾りがのっけられているところもあった。

 今日は雪の予報が出ている。溜まっていた原稿を書いていると、今日は在宅で仕事をしていた知人が、「雪が降り出したで!」と嬉しそうに報告にくる。思いのほか粒が大きく、家の向かいにある広場の土のうえに、あっという間に雪が積もりだす。お昼が近づいたあたりで、今日の新規感染者数は過去最多の980人前後になりそうだと速報が流れる。しばらくして、ムトーさんからLINEが届く。ボエーズの忘年会のとき、タイミングを合わせて沖縄に行こうと話していたのだけれども、昨日今日の感染者数を見ていると行けそうにないやと、書かれてある。自分は取材を大義名分のように移動しているけれど、この数字が続くと、なかなかシビアなものがある。

 スーパーに買い物に出かけて、お昼はベーコンとキャベツのパスタを作って平らげる。知人はサッポロ一番塩らーめんを作っていた。しばらくすると、「私がやりたかったのに」と、知人が苦情を言いにくる。一体何のことかと思ったら、広場に積もったまっさらな雪の上を、ちびっこたちが踏み荒らしてまわっていた降り積もる雪を眺めていると、「今日は鍋を食べるべきでは」という気持ちが募り、もう一度買い出しに出る。近所のお年寄りが、雪かきをしている。歩道に積もった雪を車道に放り投げていて、それは……いろいろ大丈夫なのだろうかと心配になる。夜はとり野菜みそ鍋をつつきつつ、芋焼酎のお湯割りを飲んだ。

1月5日

 6時過ぎに目を覚ます。ズボンの下にヒートテックを2枚履いておいたおかげか、特に風邪を引いている感じもなくてホッとする。マフラーと首のあいまにホッカイロを入れておいたのもよかったのかもしれない。ベランダの向こうに目をやると、BE KOBEのモニュメントの前を、観光バスがのろのろと走っている。そのまわりを囲むように、黒っぽい服を着た人たちが走っている。今日は兵庫県警の視閲式が開催されるようで、しばらくすると鼓笛隊が予行演習する音が聞こえてくる。チェックアウトはしないまま、9時近くにホテルを出て、ホテルオークラ前のポートでレンタサイクルを借りる。交差点にはカメラを抱えた人たちが待機している。きっと視閲式にやってくる警察車両を撮影したくて待機しているのだろう。

 小さな子どもを後ろに乗せた自転車が何台も行き交っている。大通りを走っていると、湊川神社の前に出る。まだ正月の雰囲気が残っていて、表にリンゴ飴の屋台が出ている。フリフリポテトに、あげもち。「屋台の定番 玉子せんべい」という看板も見える(玉子せんべいって何だろう)。揃いのジャンバーを着た人たちが参道を引き返してくる。手には破魔矢がある。他にも破魔矢を手にしている参拝客はたくさんいる。若い三人組が境内を散策している。「あれ、そういえば××って、こういうとこきて大丈夫なん?」とひとりが言う。「ああ、くるだけならだいじょうぶ」と答えている。

 風邪をひきかけている予感はないものの、温かいものを食べて体を温めておこうと、朝8時から営業している新開地の「ふく井」を目指す。アーケード街を進んでいくと、立ち食いうどん/そば屋を見かけないまま公園が近づいてきて、あれ、通り過ぎたかとGoogleマップを確認する。この時点でなんとなく予感はあったけれど、今日は定休日らしかった。とぼとぼと引き返していると、「松屋」というお店が目に留まる。ああ、ここも名前を見たことがあると思い出し、天ぷらそばに山菜をトッピングしたものを注文。どんぶりを持ち上げてそばを啜る。「細いうどんあります」の文字。お客さんが次から次へとやってくる。汁を飲み干して、お店をあとにする。あたりにはパチンコ屋さんがたくさんあって、行列を作るでもなく、開店待ちのお客さんがゆるゆると点在している。

f:id:hashimototomofumi:20220109143809j:plain

 10時近くにホテルに引き返し、シャワーを浴びて荷物をまとめて、チェックアウト。昨日受けたPCR検査の結果も届いていて、無事陰性だとわかる。レンタルしっぱなしだった自転車をこいで「KIITO」に行き、『わたしは思い出す』展を観る。展覧会のチラシには、「この試みは、仙台の沿岸部に暮らすかおりさん(仮名)の育児の記録と記憶を通して、その問いに応えようとするもの」だと、展覧会の趣旨が記されている。かおりさんは「初めて出産を経験した2010年6月11日から育児日記をつけ始め」ていて、「日記の再読をとおして彼女が語った言葉をたよりに2021年3月11日までの歳月をたどり直します」と。会場には、毎月11日のエピソードを拾い出し、「わたしは思い出す、涙は意外と出なかったことを。」、「わたしは思い出す、100ccの目盛りを。」といった文字が展示されている。日記の中に毎回「わたしは思い出す」というフレーズが使われてきたのかなと思いつつ、展示を見ていくと、会場の一角にフルバージョンの日記が印刷されたペーパーが置かれている。それを読んでみると、そこには「わたしは思い出す」というフレーズが出てきていなくて、ちょっとびっくりしてしまう。あらためてチラシを確認すると、こう書かれてある。

壁面の《わたしは思い出す》の冒頭の数字は、かおりさんの出産日を[1]とした経過日数です。かおりさんが語った内容のうち、毎月11日のエピソードに特にフォーカスし、「わたしは思い出す」という短いフレーズのリフレインは、個人的で断片的な回想を羅列したジョー・ブレイナード『ぼくは覚えている』(白水社、2012)や、ジョルジュ・ぺレック『ぼくは思い出す』(水声社、2015)が用いた詩的表現に想を得ています。

 

 誰かの生活の記録に、このように「詩的表現」をまぶして編集するというのは、ちょっと、というかかなり、おそろしいことに感じる。

 自転車を走らせ、三宮に出る。市役所の近くに王子動物園の看板(?)が出ていて、「70年ありがとう」「これからもよろしくね」「ずーっといっしょ。」と書かれている。少し前に触れたニュースは勘違いだったのだろうかと、時空が歪んだような感じがする。駅前でレンタサイクルを返却し、JR三ノ宮駅西口近くのコインロッカーに荷物を預けたのち、灘駅に出る。古本屋さんはまだ今年の営業が始まっていなかった。水道筋から灘中央市場に入ってみると、まだどこも正月休みの最中で、シャッターが降りたままだ。これはお寿司屋さんもまだ休業中かもしれないなあ。

中央市場を抜け、畑原市場だった道に入ると、幟が立っているのが見える。そこに魚屋さんがオープンしていたようで、軒先で誰かが買い物をしている。よく見るとそれはUさんだ。ここでUさんに会うのはほとんど必然だろうと、後ろから「こんにちは」と声をかけて通り過ぎる。Uさんは訝しそうに「こんにちは」と言っていた。通り過ぎたあとになって、お互いマスクをつけていたし、突然挨拶しただけでは誰だかわからなかったかもなと気づく。

 お寿司屋さんは営業していた。カウンターの端っこに座り、上にぎりと菊正宗の大きい徳利を頼んだ。メニューに「松前寿司」と貼り出されている。こちらではよくあるメニューなのだろうか。テイクアウトでお寿司を買いにきたお客さんとお店の方が、あけましておめでとうございますと新年の挨拶を交わしている。どこか行ってたんですか? いえいえ。じゃあ、家で。家が一番ゆっくりできますねえ。新年の気分をお裾分けしてもらいながら、寿司を頬張る。たこってうまいなあと思いながら、熱燗を飲んだ。食後に畑原市場を引き返し、さきほどUさんが買い物していた魚屋さんの前で立ち止まる。そうだ、今日の晩酌のツマミを買って帰ろうか。どうせ注文するやりとりで地元の人間じゃないのが伝わってしまうだろうからと、「すみません、このあと新幹線で移動するんですけど、常温で持ち歩いても大丈夫ですかね?」と尋ねる。このへんの焼いてあるやつなら、全然大丈夫よ。もう、しっかり焼いてあるから、2日でも大丈夫と店主が笑う。

 いくつか選んで買って、摩耶駅に出る。ホームで電車を待っていると貨物列車が通過し、コンテナがいくつも通り過ぎる。昨晩、Hさんとコンテナ弁当の話をしているとき、東京ではコンテナを見かけないという話になって、言われてみればたしかにとハッとさせられたばかりだったので、しみじみ見送った。

f:id:hashimototomofumi:20220109143746j:plain

f:id:hashimototomofumi:20220109143625j:plain

1月4日

 7時過ぎに目を覚ます。身支度をして、牡蠣ごはんと、鍋の残りを味噌汁にアレンジされたものを平らげる。9時過ぎに実家を出て、山陽本線で広島に出る。新幹線改札口をくぐり、少しだけお土産を買って、ドトールでアイスカフェラテのMサイズを購入し、ホームに上がる。僕が切符を買った新幹線が発車するまで、あと10分くらいはある。実家にあった、今年読み返したいと思うかもしれない本を何冊か持ち帰ったこともあり、ボストンバッグはすっかり重くなっている。かといってアスファルトに置くのはどうにも憚られて、左手にボストンバッグを提げたまま、右手でアイスカフェラテを飲んだ。博多駅で安全確認を行った影響で、広島駅到着が3分ほど遅れる見込みだとアナウンスが流れる。あたりを見渡しても時計がなく、腕時計は左につけているせいでうまく確認できず、一体あと何分で新幹線がやってくるのかと、しばらくもどかしい思いをする。

 5号車の最後列のE席を予約しておいたのだが、乗車してみると先客がいた。すみません、5号車のE席を予約されてますか?と声をかけると、先客はチケットを確認して、ああ、こっちでしたとD席に移動する。新幹線の車内では、コンテナ弁当のことを調べていた。神戸の駅弁屋「淡路屋」がコンテナ弁当というのを売り出したのだという。これがお土産にぴったりなんじゃないかと思い直し、小一時間ほどで新幹線は新神戸に到着すると、さっそく駅の売店に向かってみる。コンテナ弁当のところには当然のように「売り切れ」の札が出ていたので、店員さんに「何時頃に入荷されるか、決まっているんですか?」と尋ねてみる。1〜2時間待てば入荷があるようなら、しばらく時間を潰すつもりでいたけれど、「朝に1度入荷があるだけで、すぐに売り切れてしまうんです」と店員さんが言う。

 想像以上に人気なんだなと思いつつ、地下鉄に乗り換える。行き先の「西神中央」という文字にどこか見覚えがあり、あれ、何だったっけと少し考えたところで、コンテナ弁当が販売される「淡路屋」の店舗一覧にその名前があったのだと思い出す。地図で確認する限り、そんなに旅行客が訪れる場所とも思えず、だとすれば駅弁はそんなにたくさんは売れないのではないか。これも何かの縁だと思い、終点まで地下鉄に揺られる。電車は途中で地上に出る。Googleマップを開き、ああ、僕が中学2年生だったころに報道を通じて眺めていたニュータウンはこのあたりだったのかと思う。あのとき、ニュータウン、郊外という場所が事件を生み出したのだという言説を見聞きして、そんな特殊な場所が日本のどこかにあるのかと思っていた。自分が暮らしているのは、昔からある(といって特に名前が知られているわけでもない)農村だけれども、日本のどこかには、まったく新しく作り出されたニュータウンがあるのかと思っていた。もちろん、神戸には神戸ならではの土地開発がおこなわれた歴史は少し検索しただけでも知ることができるけど、山を切り拓いて住宅地が造成されたのは、うちの近所でも(規模の差はあるにしても)よくあることだ。妙法寺という駅名もあることだし、昔から続いているお寺もある。そう考えると、あの事件に関連して、しきりにニュータウン、郊外という言葉が語られていたのは一体何だったんだろう。

 西神中央駅で電車を降り、駅前のショッピングセンターにある「淡路屋」に行ってみる。が、ここでもコンテナ弁当は売り切れだった。ちょうどお昼時だったので、お昼ごはんにと「ひっぱりだこ飯」を自分用に買う。コンテナ弁当は売り切れなんですねと店員さんに尋ねてみると、そうなんです、ほんとに少ない数しか入ってこなくて、朝のうちに売り切れるんです、と店員さんが言う。駅の東側に広場があり、そこで弁当でもと思ったものの、広大な広場があるのにベンチはどこにも見当たらず、駅の西側、バス乗り場の端っこのほうのベンチに座り、ひっぱりだこ飯を平らげる。三ノ宮まで引き返し、少し街をぶらついたあと、14時過ぎにPCR検査センターへ。12 月28日、12月31日に受けた検査も陰性だったけれど、最近は移動が続いているので、東京に戻る前にも念のために検査を受けておく。ここでは感染が落ち着いているのか、他に検査を受けている人は誰もいなかった。

 14時半、メリケンパークの「オリエンタルホテル」へ。普通のビジネスホテルだと、ちょっと早くても清掃が終わっていればチェックインさせてもらえることもあるけれど、こういうかっちりしたホテルだとそうもいかないようだ。ロビーにあるベンチに座って休んでいると、バイキングをやっているレストランで食事を終えたお客さんが、スタッフに見送られている。きっと常連客なのだろう、「今度なんかご馳走したらんとな」とスタッフに語りかけていて、すごいなあ、そんな世界が存在するのだなあとぼんやり眺めていた。チェックイン時刻の15時になり、フロントに向かうと、長蛇の列ができている。10分ほど並んで手続きを終えて、部屋に向かう。

 岸壁でお酒を飲んでいるとき、いつもこのホテルが見えていた。今回、東京に戻りがてらに神戸に一泊しようかと思いついたとき、何気なくこのホテルの料金を調べてみると、あまりお客さんが宿泊しない時期だったのか思ったより安く、1泊1万円以下で宿泊できるようだった。ただし、じゃらんから予約すると、部屋の向きは選べず、どきどきしながら部屋の扉を開けると、ベランダの向こうには神戸の山々が見えた。普通は反対側(海向き)の部屋が人気なのだろうけれど、個人的にはこっち向きの部屋のほうが嬉しい。眼下にメリケンパークがあり、ポートタワーがあり、神戸の街並みが広がっている。岸壁の様子も、どうにか見える。しばらくベランダに佇んで、風景を眺めていた。

 16時過ぎにホテルを出て、ハーバーランドでレンタサイクルを借りる。スマートフォンで操作して借りられるレンタルサイクルだ。自転車をこいで、まずは松尾稲荷神社に行ってみる。賽銭箱に100円を投じ、境内をしばらく眺めたあと、マンションの工事が進んでいる様子を眺める。商店はまだどこもお休みだ。どこかで小腹を満たしておこうと、高速道路の下を走る国道2号線を越えて自転車をこぐ。すぐに新開地という地名が目に入ってくる。しばらくまっすぐ走ると、また大きな道路を超える。地元の人たちは自転車に乗ったまま移動しているけれど、ところどころで「自転車は降りて通行してください」と書かれた看板が目に入るので、押して歩いていると、たこ焼き屋さんが目に留まる。軒先に「新開地名物 だしソース」の文字が目に留まり、あ、日記で読んだのはここだったっけと思い出し、自転車をとめる。名物と書かれていることもあり、まずはここからと、だしソース6個入りをテイクアウト。そのまままっすぐ通りを進んでいくと、ああ、ここも名前に見覚えがある、「ふく井」という立ち食いの店があり、その先に広々とした公園が見えてくる。観光客として電車と徒歩で移動しているのでは掴みきれない距離感に少しだけ触れたような心地がする。

f:id:hashimototomofumi:20220109144129j:plain

 ここで自転車を止めて、ベンチに座り、パックを広げる。これは――どうやって食べるものなんだろう。たこ焼きにはソースがかかっている。それとは別に、だし汁が入った器がある。もちろんたこ焼きを出汁につけて食べるのだろうけれど、そうするとソースがとれてしまうのではないか。とりあえず、最初の2個はソースだけで頬張り、出汁は出汁だけで啜る。どちらもうまい。3個目からはたこ焼きを出汁につけて食べてみたけれど、その奥深さはまだ把握できていないように思う。もう暗くなり始めた公園で、ちびっこがお互いの名前を叫びながら駆け回っている。初めてこの公園を訪れたのは2年前、どんなふうに書評しようかとぐるぐる考えていたときだった。あのとき、どういう経路でここに辿り着いたのだろう。Googleで検索すると、さっきの神社までも20分くらいの距離だから、歩いてきたはずなのだと思うけれど、途中の商店街の風景はあまり記憶に残っていない。前日に坪内さんが亡くなったという知らせを受けたからだろうか? 記憶に残っているのは、新開地駅3番出入り口あたりの風景と、「丸萬」という酒場の佇まいと、行きあたったところにあるたこ焼き屋さんと、あとはここ湊川公園だ。公園以外の場所は、まっすぐ直線で繋がれているけれど、公園は少しそこから逸れている。どうしてあのとき、公園に立ち寄ったのだろう。その広々とした公園を歩いているときに、K社のSさんから電話がかかってきて、追悼文を書いてもらえないかと依頼があったのだった。その依頼をきっかけに何度かやりとりした経緯がなければ、水納島のことを原稿に書く機会は持てないままだったかもしれない。

 せっかくだから「ふく井」でも何か食べていこうかと思ったけれど、さすがに満腹になってしまうのでやめにする。同じ道を引き返すのではなく、大通りに出て自転車を走らせる。歩道を走り、車道にある横断歩道を渡り、また歩道に戻る――それを繰り返しているうちに、段差の大きさに気づく。自転車で走っていると、路面の状態が悪くてがたがたすることは割合よくあることだけれども、舗装の状態が悪いというのでもなく、横断歩道(車道)か歩道への継ぎ目のところが、くっと勾配が大きくなっていて、歩道にあがるたびにがくんとなる。他の街に比べると、歩道が高くて、勾配があるのだろうか。もしもカゴに荷物を入れて走っていたら、飛び出してしまいそうな気もする。

 国道2号線を海側に越えられず、ずっと東に進んでいるうちに、ホテルオークラの前にたどり着く。BE KOBEそばの駐輪場にレンタルサイクルを駐輪したあと、一度ホテルに戻り、お土産を持って再び出かける。自転車をピックアップしようとしたところで、駐輪場に「バイク専用」と書かれていることに気づく。ハーバーランドの駐輪場に自転車を返却し、umieで買い出し。一階の酒売り場で福壽の小瓶を買い、2階のカルディを覗いてみるも外で飲むときのツマミになりそうなものは見つけられず、1階のファミリーマート。レジに並ぶ時は「ここに並んでください」という印が床に描いてあるタイプのコンビニなのだが、高校生くらいの二人組が、微妙な位置に並んでいる。なんとなく、まあ、先に買い物を済ませてもらおうと、カゴを持ったまま微妙な距離感を保ち、「お待ちのお客様、どうぞ」と店員に呼ばれ、二人組がレジに向かったところで「ここに並んでください」という場所に立つ。レジに立つ店員さんは、僕の動きを把握していたようで、会計する前と会計したあとに二度、若者たちに「今度から並ぶときは所定の位置に並んでください」と注意していて、なんだかこちらが申し訳なくなる。

 岸壁でHさんと待ち合わせ。今の時点で2℃、このあと1℃になる予報だから覚悟はしていたけれど、さすがに冷える。ただ、それでも岸壁には散策する人たちがちらほらいる。コンチェルト号の近くに腰をかけてみると、まわりにゴミが散らばっているのが気にかかり、それを無視して座っているのもどうだろうかと、拾っておく。ほどなくしてHさんがやってきて、風が当たりづらい場所を案内してもらう。今度のトークイベントは観客ありなのかとHさんに尋ねられる。これからの時代、トークイベントをしながらどうやってお酒を飲むか。マスクをアゴにずらすのも微妙だし、いちど外して飲んで、またマスクをつけて、とやっているとモタモタする。そのひとつの解決策として、Hさんはストローを持ってきてくれていたので、お酒を飲みながら滞りなくトークイベントを開催できるようにと、マスクの下からストローを入れて、ちびちびビールを飲んだ。最初のうちはうまく距離感が掴めなくてもたついていたけれど、岸壁で数時間飲んでいるうちに、コツが掴めてくる。

 Hさんはお土産にお寿司を買っておいてくれた。巻き寿司と、あなご寿司。どちらもおいしい。それとは別に、松前寿司というのもあって、「これは一本食べるとくどいから」と、半分ずつ分けていただく。「松前」という名前から連想されるのは松前漬けで、何か漬け込んだお寿司なのか、あるいはちょっとなれ寿司っぽいものかと少し身構えていたけれど、おいしい鯖寿司だった。お店の名前を忘れないようにと、包み紙はトートバッグに閉まっておく。いろんなことを話したけれど、文章を書くということは、誰かにメッセージを発信するということでもなく、誰かとわかりあうということでもなく、ただひとりきりであることだと、改めて感じる。23時過ぎに立ち上がって、少し歩く。ホッカイロの中身が散乱していた。Hさんと別れてホテルに引き返し、夜景を眺めながら缶ビールを飲んだ。きっとスケートボードをしているのだろう、暗闇の中、小さな影が動いているのが見えた。

f:id:hashimototomofumi:20220109143918j:plain

1月3日

 夢の中で、自分はロシアでスパイ活動をしている。カフェのテラスでコーヒーを飲んでいると、ふとした瞬間に、どうやら自分が囲まれていることに気づく。もはやこれまでかと、観念するように手を上げて立ち上がると、一斉に銃撃されてしまう。あ、死んだ、と思ったところで目が覚めた。初夢として救いがないにもほどがある。時計を確認すると6時過ぎ。兄夫婦は午前中の飛行機で帰るらしく、もう荷造りをして朝食をとっている音が一階から聞こえてくる。そろそろ出発するのだろうなという気配を感じて、7時過ぎに一階に降りると、父のカメラと、兄のカメラとで、家族写真を今で撮影する流れになる。兄からは一度も話しかけられないままだった。一度部屋に戻り、8時過ぎに朝食をとる。父と母もまだ朝食をとっていなかったらしく、一緒に食べることになる。

 冷蔵庫にひきわり納豆が残っていた。両親ともあまり納豆を食べないほうだから、不思議に思っていると、甥っ子が納豆好きだから買っておいたぶんの残りだという。パックを開き、フィルムを剥がしたところで、あーちゃんはねえ、12月5日じゃったか、あの頃から調子がおかしゅうなったんよ、と母が話し始める。朝ごはんを食べながら聞く話だとは思っていなかったので、納豆をかき混ぜる前にタレを入れてしまう。昔はタレを入れてから混ぜていたのに、なにかの記事で「混ぜてからタレを入れたほうが美味しくなる」と読んでからというもの、混ぜてから入れるようになっていたのになと思う。

 あの日ねえ、あーちゃんが急に、あーとかうーとか言うようになってねえ。どうしたんかと思いよったら、訪問看護の人らがきちゃって、「ああ、橋本さん、これはせん妄です」と教えられて。母は話を続ける。医者にかかって点滴を打ってもらったところ、少し祖母の症状は落ち着いたものの、高齢者に何度も点滴を打つわけにもいかないらしかった。話を聞きながら、僕は俯きがちに納豆ごはんを平げ、にしめをツマんでいた。「あの日は今年最大級の寒波がくる日でねえ、雪も積もるゆう話になっとったんよ」。体調が急変した日のことを、母はそう語り始めた。普段はそんな物言いをする人でもないのに、ほとんど物語のように語られることが印象に残った。

 食事を食べ終えても、まだ話は続いていた。どういう姿勢で聞いていればいいのか、うまい落とし所がわからず、皿の上で箸をごろごろさせていた。母が葬儀場での様子を説明しているうちに、死化粧の話になり、みるみるうちにきれいになったと母が言うと、「ものすごい綺麗になった」と父が合いの手を挟む。喪主は父だったので、最後に父が挨拶をすることになり、「チーム橋本で頑張りますてゆうたけん」と、どこか誇らしげに言う。「××のおばちゃんも、あんまり普段涙を流すほうじゃないのに、それを聞いて泣いてくれてねえ」と母。「父さんも泣いた」と、父が言う。その言葉を、どこかぼんやりした気持ちで聞いていた。

「ともに知らせんかったことは、悪いと思うとる」。ひとしきり葬儀の日の話が終わったあとで、父が言う。「あーちゃんのDNAを一番継いどるのは――もちろん兄ちゃんもじゃけど――一番はともだと思うとる」。本を読んだり、文章を書いたり、そういったことに一番馴染んでいるのは祖母だった。DNAなんてあるのだろうかと思いながら、箸を転がす。こういうとき、話している相手が取材で知り合った誰かなら、相手の顔――は直視できないにしても、相手のほうを向いて、「私はあなたの話を真剣に聞いています」という態度を示そうとするだろう。ここではそんな振る舞いをしないということは、自分の中で、家族あるいは血が繋がっている存在に対して、何か思うところがあるのだろうかと、ぼんやり考える。

 昼前、実家のまわりを散策する。高台に行って、町を眺望する。うちの近くには「団地」がある。集合住宅のそれではなく、山を切り拓いて住宅地に造成した、戸建てが立ち並んだ「団地」だ。ずっと空き地が残っていたのに、気づけばもうほとんど余白はなくなっている。うちの田んぼを眺める。それはすべて祖母の名義になっていたもので、もう兄と僕の名義に変えようと思っているのだと母は言っていた。もうずっと何も育てられていなくて、ただ父が草刈りをし続けているだけの田んぼだ。この場所をどうするのかも、あと10年のうちに考えなければならないのだろう。お昼は牡蠣ごはんと、昨日の水炊きの残りを平らげる。

 午後、自宅にあったアウターを着て、車に乗って隣町に出かける。25年くらい前に買った、ユニクロのやつだ。中高生の頃に着ていた服の大半はユニクロだった(あの頃は今ほど全国チェーンという印象がなかった気もするけれど、どうだろう)。ユニクロの駐車場の入り口と出口には警備員がひとりずつ立っていて、かなり賑わっている様子。ゆめタウンに向かうと、こちらも駐車場はほとんど埋まっている。空きスペースを探して、駐車場をぐるぐる旋回している車が何台もいる。通路に車を停車して、空くのを待っている人もいる。どうにか車を駐車して、「啓文社」(西条店)へ。Twitter経由で知っていたけれど、『東京の古本屋』を並べてくださっている。地元の書店に並んでいるのだと思うと、不思議な感じがする。以前、呉店に『ドライブイン探訪』を並べてくださっているのに気づき、店長のMさんにご挨拶したことがあったのだけれども、そのMさんが西条店に異動されている。自分の本に限らず、「これは」という本がいくつも並んでいる。

 文庫を2冊購入したのち、食品売り場を覗く。明日はHさんと約束をしているので、せっかくだから何かお土産を買っておこうと、物色する。白牡丹の大吟醸が目に留まる。実家と隣町のあいだにある酒蔵の酒で、箱のパッケージはよいのだけれど、中の瓶がいかにも贈答品といった仰々しい佇まいになっているのと、一升瓶を渡されても邪魔くさいだろうなとやめにして、同じく隣町にある賀茂鶴の飲み比べセットにする。あまり贈答品めいてないものをと、広島ならではの駄菓子だとか、調味料だとかを探してみたけれど、これといったものは見つからず、ソースや調味料は以前にもましておたふくソースの天下になっていることを知るばかりだった。行きはバイパスを通ってびゅーんと走ったぶん、帰りは昔ながらの国道を走る。隣町と実家のある町のあいだに、5年近く前に新しい駅が開業したのだけれど、その駅周辺に次々とマンションが建設されている。

 15時に帰宅して、もう一度三校を見返す。チェックを終えたところで、PDFに赤字を入れ、担当のHさんに戻す。これでもう、ぼくの手からは離れた。18時に夕食。引き続き鍋の残りと、牡蠣ごはんと、煮しめをつまむ。ニュースでは沖縄の新規感染者数が130人となったと報じられている。僕が滞在していた2週間前は3人だった。いよいよまた感染拡大期に入りつつあるのだろう。「これでまた大変じゃ」と僕が言うと、「まあでも、日本人はやっぱり、マナーを守るけん」と父が言う。ルールとは別に、マナーがあって、日本人はそれを守っているから感染者数が低く抑えられているのだと、そういうことを言いたいらしかった。

 特に何も言い返す気にならないまま鍋を平げ、1時間ほどで自分の部屋に戻る。今回はパソコンを持って帰るのを忘れるという致命的なミスをしてしまったので、何も作業を進められず、なんとなく『仁義なき戦い』と『仁義な戦い 広島死闘篇』を見返す。第一作のラスト、葬式にやってきた広能が祭壇に銃を撃ち、「まだ弾は残っとるがよ」と語るシーンは相変わらず格好良いなと思う一方で、この美しさというのは、現実において破れる側の美しさだと思ってしまって、しばらく考え込んでしまう。

1月2日

 8時過ぎに起きる。昨日の鍋の残りを火にかけて、コンロのグリルで餅を焼く。餅が膨らまないうちに鍋が温まってしまう。今日の予定を考えると、早いうちに食べ始めてしまいたくって、餅が焼けるのを待たずに鍋の残りをうつわによそい、知人と一緒に朝ごはん。大学生の頃、正月に帰郷した日のことを思い出す。1階から「朝ごはんできたよ」と呼ばれ、降りてみるとまだほとんど料理は並んでいなくて、「別に早く食べたいわけでもないのだから、全部準備が整ってから呼んでくれればいいのに」と、いつも思っていた。支度を任せきりにしていたのだから、呑気なものだ。知人と鍋の残りを食べていると、遠くから「ピピッ」と音が鳴り、ああ餅焼いてたんだと思い出して台所に急ぐと、膨らんだところが焦げてしまっていた。

 洗い物を片づけたあと、知人と散歩に出る。根津神社は思ったほど混み合っていなかった。参拝客が30人ぐらい並んでいたので、そこに並ぶ。後ろには家族連れがいて、小学校高学年くらいの子が「お賽銭、111円がいい」と親にねだっている。どうして111円なのだろう。1並びで縁起が良さそうだと思ったのだろうか。僕は家を出たときから5円玉を握りしめているけれど、よく考えたらこれだってただのダジャレだ。もうすぐ自分の番というところで、お年寄りが脇から入り込んでお賽銭を投げ入れ、手を合わせる。正月早々順番を抜かして、利益があると思えるだろうか。5円玉を投げ入れて、今年は穏やかでありますようにと、パパッと手を合わせる。100円払っておみくじを引いてみると末吉だった。

 お参りを終えて、表側の参道に抜ける。屋台はほとんど並んでおらず、ジンジャーシロップかなにかを販売する屋台だけが営業していた。谷中銀座に出て、「E本店」に立ち寄る。「あけましておめでとうございます」と新年の挨拶を交わし、お年賀でタオルをいただく。金色の放送紙に包まれた、メダルみたいなチョコも2個もらった。お正月とはいえ、昼間から飲んでいるお客さんは少なくて、正月限定の甘酒を注文する人がほとんどだ。僕と知人は熱燗をふたりで飲んだ。営業しているお店はまだ少なくて、通りを行き交う人もまばらだ。熱燗を飲み干したところで店を出て、いろんな家に飾られている松飾りを眺めて歩く。よく見ると、ガムテープで松飾りを貼り付けている家も多かった。新しく家を建てるときに、松飾りをくくりつける依り代(?)となる場所のことまで考えて設計する人が少ないのだろうか。実家にいた頃は、しめ飾りはあっても松飾りは一度も目にしたことがなかったから、ガムテープで貼り付けてまで松を飾るというのが、少し不思議なことに思える。

 帰宅後、録画しておいた『あたらしいテレビ』を観る。同時代のコンテンツを語る番組で、テレビ番組をたくさん観ている人も登場するのだけれども、「録画して観ている」という話がほとんど出てこなくて愕然とする。テレビが生き残るには、今のように配信サイトが乱立している状況を改善して、民放各社の番組をすべて網羅しているサイトを立ち上げるしかないと思う。それを観終えたところで、台所から煮しめ重を持ってきて、日本酒を飲みながら録画した『ばちくるオードリー』を観た。煮しめ重は一品3個ずつ入っているので、知人と僕とで1個ずつ食べたあとは、ドラフト方式で選んでゆく。何個かは取り合いになるだろうと思っていたのに、ひとつもかぶらなかった。

 13時半に家を出て、東京駅へ。混雑するなかをスーツケースを引いて歩くのは大変そうだからと、ボストンバッグに荷物を詰めてきたのだけれど、新幹線改札口の出口側は混雑しているけれど、入り口側はわりと空いている。15号車の最後列E席に座り、来月出す本の三校を読み返す。隣のD席、最初は空いていたのだけれども、品川駅で乗客がやってくる。小さいこどもを二人連れた女性が、二人を抱えて座る。さすがに手狭に感じたのか、新横浜を出たあとにやってきた車掌さんに相談し、チケットを手配し直し、別の車両に移動していった。18時3分に広島駅に到着する。到着する5分前には「まもなく広島です」というアナウンスが流れ、そうすると広島駅で降りる乗客が身支度を始めて通路が塞がってしまうので、それより早く席を立ち、11号車前側の扉にまで移動しておく。ここで降りればすぐに階段があり、それを駆け降りれば在来線の乗り換え口がある。ダッシュで乗り換えて、18時6分発の山陽本線に乗り換える。

 八本松で電車を降りて、駅前のファミリーマートアサヒスーパードライの6缶セットとカップ酒を買い、実家まで歩く。事前に到着時刻を電話で知らせたときに、母は「車で迎えにいく」と言っていたのだけれども、服のどこかにウイルスが付着している可能性は捨てきれないので、断っていた。駅前のバイク屋が更地になっていた。驚いたのは、維新の看板が出ていたこと。このあたりで政治家のポスターというと、自民党のものしかほとんど見たことがなかった気がする。18時50分に実家の扉を開けると、待ち構えていたかのように甥っ子がこちらを見ている。顔を合わせるのは今日が初めてなのだけれども、表情は嬉しそうだ。「叔父」という関係性を理解できる年齢ではまだない気がするのだけれど、あれは一体どういう感情なんだろうなあと思いながら荷物を置きに2階に上がり、服を着替えて1階に戻る。

「先に少し晩御飯を食べよくよ」とは言われていたけれど、皆、ほとんど食事を終えつつある。甥っ子の席があるぶん、普段と配置が違っている。父のそばに箱入りの酒が置かれている。「これ、飲みんさいや」と父が言う。友人に勧められるならともかく、誰かに飲む酒を決められるのもなあという感覚があるのと、電車の中ではマスクを外さず(つまり水分を摂らずに)過ごしていたせいで喉が渇いていることもあり、「ビールにするわ」と答える。その後もしきりに日本酒を勧められるなあと思っていたら、その日本酒というのは、正月に家族が揃ったところで飲もうと、父が買っておいた酒であるらしかった(それを飲むために、父はビールを1本だけで切り上げていたようだ)。

「その日本酒の他にもねえ、知り合いから送られてきた一升瓶のお酒も何本かあるんよ」と母が言う。「そんなにあるんじゃったら、明日飲み切れるかねえ」と返すと、「いやいや、そんなに飲んだら駄目で」と父も母も言う。冗談が伝わらなかった。少し経ったところで、母親が祖母の家に行き、鞄を手に帰ってくる。そこから通帳を2つ取り出し、兄と僕にそれぞれ手渡す。それは祖母の通帳らしかった。母は記憶が少しおぼつかなくなり始めているから、もしものときに備えて、その通帳があることを伝えておきたかったようだ。通帳を渡し返すときに、母の手に視線がいく。肌がすっかり乾燥している。母はここ10年、ずっと祖母の介護をしてきた。「今度、東京に遊びに行って、お兄ちゃんとこに行こうかねえ。そんときはともくん、あんたも一緒にきんさいよ」と母が言う。僕は兄の家に一度も出かけたことがない。「まあでも、死んでから10日も経たんうちにこんとな話をしよったら、あーちゃんに怒られるねえ」と母は笑う。ここ10年のあいだに、母が泊まりがけでどこかに出かけたのは、たしか兄の結婚式のときくらいだ。

 食卓についたとき、「まあ、ゆっくり食べんさい」と父が言っていたのを真に受けて、おちょこに3杯目の日本酒を注ぐと、「もう、それぐらいにしとかんとつまらんで」と父が言う。もう眠くなったようだ。そういうことを言われたのは今年が初めてではなく、数年前の大晦日に同じようなことを言われ、年末年始に居間で酒を飲みながら紅白を観ていて文句を言われるぐらいなら、これからはもう東京で歳を越そうと決めたのだった。20時過ぎには自分の部屋に戻り、カップ酒を飲みながら2001年の『M-1グランプリ』の映像を見返す。