「6畳間ソーキュート社会」のこと

 
 12月29日、「痛快!ビッグダディ」(テレ朝)の最終回が放送された。18時半から24時過ぎまでブチ抜きで放送していた。すごい編成だと思う。そして7年も放送していたということに驚きつつ、最終回を眺めた。最後は大きな事件やイベントがあって大団円というよりも、ビッグダディが一人立ちした子供たちの元を訪れ、子供たちからビッグダディへのビデオレターが終わりを迎えた。

 初期の放送はまったく観ていなかったから感慨深いということはないけれど、この番組については色々思うところがある。今回の放送で印象的だったのは、ビデオレターを観たビッグダディの言葉。

とにかく、その日、その時を愉快に暮らそうってところだけは大事にしてきたんで。子どもに対して、自分が知らないことが増えていくっていうのが、親 初期の頃「それでいいのかな」なんて思たりもしたんだけど、逆に今回は成長して頑張って、俺の知らない時間がどんどん増えていってるというのが、逆にね、同じ様なことなのにすごく安心に感じた。


 この「親 初期」という言葉もすごいなと思ったけれど、最初の「その日、その時を愉快に暮らそう」というのが、ビッグダディのすべてだろう。それを刹那的だとか無責任だと怒る人はいるだろうが……。

 そういえば今回の放送には何度も「元祖・元妻」こと佳美が何度も登場した。ビッグダディは美奈子とも離婚したため、美奈子が「元妻」、佳美が「元祖・元妻」になったのだ。今年僕が印象的だった番組の一つは、その「元妻」こと美奈子が登場した「全力教室」(フジ)だ。たしか第1回目の放送が美奈子の回だったように記憶している。

 この番組は「〜成功へのマジックワード〜」という副題がついているように、何らかの分野で成功した人が授業をするという設定になっている。「設定になっている」というのは、次第に“学級崩壊”していくからだ。美奈子の回は「型破り!『ほったらかし子育て法』」と題してシングルマザーたちを前に授業をしていたのだが、生徒たちが次第に美奈子に噛みつき始める。「子供に米を与えられなかった」「給食費も払えないときもあった。そういうときは子供に『ごめん』と謝る。別に踏み倒そうとしてるわけじゃないし、子供も家族だから、自分の状況をかっこつけずに伝えてきました」――そう話したあたりから、シングルマザーたちが反論を始める。

 「給食費を払わないのとカッコつけないのとは違う」
 「子供を産み過ぎですよね?」
 「計画性のない出産だと思う」

 次々と批判を浴びせられながらも、美奈子は授業を進めようとする。「子供を産むのは何人までって決めちゃう人もいるけど、何で決めちゃうのかなって思う」。美奈子がそう語り始めると、またすぐに批判が飛んでくる。「育てられる環境にあるなら(何人産んでも)いいけど」。「育ってるじゃない」と美奈子。「育ってないから」と生徒側のシングルマザー。

 「貧乏だったりキツい生活だったのは、無計画に子供をボンボン産んできたからでしょ」
 「計画を立てて産まないで、子供が100パーセント幸せになれるのか」
 「『痛快!ビッグダディ』に出てる美奈子はバカみたい」
 「子供が子供を産んだ感じ」

 集中砲火に遭った美奈子はついに泣いてしまう。マスカラが崩れて黒い涙が頬を伝う。その様子を眺めていると、この番組は、成功者としての美奈子から言葉を引き出すためではなく、この美奈子に対する批判の言葉を引き出すために作られているのではないかと思えた。美奈子の話は一つの例にしか過ぎないが、こうした言葉は、まさに2013年の日本の空気を掬い取ったものだと思う。

 僕は今年で31歳になった。一緒に暮らす知人も同級生だから、知人もまた31歳である。お互い将来への見通しが明るいとは決して言えない生活を送っているなかで、結婚であるだとか、子供のことであるだとか、話すのも厳しいという感覚がいつのまにか自分の中にインストールされてしまっている。誰に言われたわけでもないのに、 「計画を立てて産まないで、子供が100パーセント幸せになれるのか」「子供が子供を産んだ感じ」といった、その番組に登場した批判の言葉が内在化されてしまっている。

 この「全力教室」が放送された日付を調べてみると10月20日だ。その時期、僕は毎日「トーキョーワンダーサイト渋谷」に足を運んでいた。そこで上演されていたのは快快の新作公演「6畳間ソーキュート社会」で、10月20日はその楽日だった(だから「全力教室」は録画で観た)。

 この「6畳間ソーキュート社会」という作品には、30歳くらいの男と女が出てくる。出演者は基本的にその2人だ。2人は付き合っている。男は彼女にブーブークッションを仕掛けたり、iPhoneのアプリで遊んだり、くだらないことをしてばかりいる。女は自撮りした写真をインスタグラムにアップしたり、「もう私の居場所は青山しかないよね」(だったかな)と言ったり、こちらもまあくだらない感じだ(その「くだらない」というのは、部屋の壁がしゃべってツッコむという演出によって示されている)。

 ある日、女は男に「赤ちゃんができた」と報告をする。男はフリーズする。そしてまた、いつものようにくだらないことをやって話を逸らそうとする。女は「あー、くだらない!」とくたびれて眠ってしまう。そこに男が戻ってくる。男は女が寝ていることに気づくと、女の服をめくって(そこに生命が宿っている)腹を出し、そこにニコちゃんマークを描く。そうして自分の尻を出し、女の顔に近づけ、全力で尻を叩く。女は「うるさい」と目を覚ます。iPhoneのアラーム音が鳴り始める、また朝が来たのだ。いつのものように大変な一日が始まる、ああ、もう着替えなきゃ。そう思って服を脱ぎかけたところで腹の落書きに気づく。

 「ちょっとぉ」と、女は男のほうを見る。男は笑って、あいかわらず尻を叩いている。なぜかiPhoneのアラーム音(「マリンバ」という名前のついたその音)のリズムに合わせて尻を叩いている。女は思わず笑ってしまう。ここで「笑ってしまう」ということは、とても大きなことだ。そうして女は腹踊りでもするかのようにダンスを始める。音楽の向こうにニワトリが鳴く声が響く。さきほども書いた通り、今日もまた一日が始まる。問題は何一つ解決していない、男は子供っぽいままだし、女は子供を産んでもあいかわらず「私の居場所は〜」と語っているだろう、でも、そこで笑ってしまったからこそ、その2人は日々を何とか過ごせていけるはずだ。このラストシーンに、勇気をもらったというと大げさかもしれないけれど、前に進もうという気持ちになった。

 これほどまでに出生率が下がり、また「全力教室」でシングルマザーたちが放った言葉が内在化されてしまっている2013年の日本において、この「6畳間ソーキュート社会」は非常に社会的な演劇作品だったと僕は思っている。最後に、その会場で配布された『faifai ZINE』で、女を演じていた役者であり、一児の母でもある野上絹代さんの言葉を引用しておく。

――もう、その話(註――子育てをしている人の一日)を聞いてるだけでも大変そうだなと思うわけですよ。僕なんかはもう、自分がこどもみたいな人間だから、自分が親になるイメージがまったくできなくて。
 
野上…私もそういうイメージがまったくなくて。でも、初めて病院に行ってエコーで見たとき、イクラみたいな形の丸があって、その中にもう一個小っちゃい丸があって、それがダン! ダン! って脈打ってて。それを見たとき、「これ、ほんとに私の中で動いてるの?」ってときめいちゃって、それは今まで感じたことのないときめきだった。理科の教科書に載ってる皆既日食の写真、あのダイヤモンドリングみたいな感じに見えてきて、「ああ、私の中には宝石が眠ってる」「それに会ったら、私、どうなるんだろう」ってすごくワクワクしたし、怖くもあったけど、とにかくまず「会ってみたい」って気持ちが強くて、そのまま親になっちゃった(笑)。会ってみたらまたゴキゲンなやつで、面白くって。自分と同じだなって面白さもあるし、予想だにしなかったことをぶちかましてくる面白さもある。すごいムカついたりすることもあるけど、そのムカつきっていうのも初めての経験だから。めんどくささもあるし大変さもあるんだけど、どんどん面白いことになっていくんだろうなっていうワクワクもある。

――でも、そのやってらんなさが自分の生活の中にあるとして、それを笑う方向に向かえるか、それとも塞ぎ込んじゃうかって、結果としては大きな差ですけど、すごく紙一重ですよね。
 
野上…そうだねえ。笑えて泣けるみたいなのが一番良いんだろうけど。……何だろう、つらいのはつらいんだけどさ、本人たちが一番気にしてないっていうのがお母さんの強みじゃない?
 
――ああ、気にしてらんない?
 
野上…そうそう、そんなの気にしてるヒマがないっていう。私はもう、こどもが明るく育てばそれでいいから。三月が「生まれてきてよかった、しあわせだ!」って感じる瞬間が少しでも多くあれば、それでいいから。そう考えると、変な話、別にいつ死んでもいいと思ってる。責任とかの話になれば残せてないものはいっぱいあるけどね。
 
――思い悩んだりはしない?
 
野上…もちろんするけど、何だろう、自分の大変なこととかはもう小っちゃ過ぎて、「え、生まれたってことだけでもうよくないですか?』みたいなところはある。嫌なこともあるし、つまんないことで怒ったりもするけど、正直「どーでもいいな」っていう。「まあいっか」っていう。

――みつきは今3歳ですけど、こんな大人になって欲しいっていうのはありますか。
 
野上…「三月」って名前をつけたとき、他にもいろんな名前を考えてたんだよね。でも、「名前に思いを込める」みたいなのはうざったいなと思うようになって。「優しく美しく育つように」とかね。 だから、考えれば考えるほど「3月に生まれたってだけでもうよくないですか?」って気持ちになって。その事実だけでもう、私は一生笑って暮らせるわって気持ちだったから。