今週末に観た2つの作品

 
 2日続けて、舞台の小道具でプロテインを観るとは思わなかった。その1つは、2月8日から2月16日まで浮間ベースで上演されていた「俺の歴史」だ。脚本・演出は快快の野上絹代、企画・出演はロロのイタバティこと板橋駿谷による一人芝居である。

 この企画、当初は演出家を立てず、完全に“自作自演”による作品として、1日限りの公演として上演される予定だったという。ただ、企画を知った絹代さんは「それ、演出やりたいんだけど」と買って出た。イタバティとしても、絹代さんの演出による作品「インコは黒猫を探す」に出演した際に相性の良さを感じていたこともあり、また昔から快快にあこがれていたということもあり、二人で作品制作をすることになった。

 絹代さんが「演出やりたい」と思った背景には、今回の企画の趣旨が大きく影響している。

 劇中でも語られているように、「俺の歴史」という作品は、イタバティのお母さんがガンで病床に臥せっていたことから始まっている。病気で苦しんでいるお母さんを少しでも笑わせてやりたい――そう思ったイタバティは作品を企画し、それを病室にユーストリーム中継で届けるつもりでいた。一児の母でもある絹代さんは、「お母さんが何を見たいかってことを考えたい」ということで、母親目線から演出を引き受けたところもある。

 ところが、現実はままならない。「俺の歴史」の稽古が始まるよりも先に、お母さんは亡くなってしまった。つまり、当初の企画の目的は失ってしまった。それでも作品を製作しようと思った背景には、お母さんが亡くなった翌朝、海まで一緒に散歩に出かけた父親に言われたことばが大きかったのではないか。

「いいか、駿谷。これからはお母さんがいると思え。そこにいると思ったら次元なんか超えるんだから。そこにいるんだよ!」

 いつもはぶっきらぼうで、涙なんて見せない父親から発せられたロマンチックで優しいことばに背中を押される形で、イタバティは改めて作品をつくろうと決意したのではないだろうか?

 終演後に話を聞いてみると、イタバティはこんなふうに話をしていた。自分がお客さんを笑わせたり、エネルギー込めて芝居やってるのを母ちゃんがどっかで見てくれたら、「ああ、駿谷は大丈夫だな」って思ってくれるんじゃないかと思う――と。

 イタバティが作品のテーマに選んだのは、タイトルにもある通り、自分自身の歴史だった。自分自身の歴史は、自分に関わってきた歴史でもある。具体的に言えば、小学校のときの先生や、中学のときに自分を守ってくれたMr.オクレ似の同級生に始まって、母の死や、その翌朝に父が言った言葉なども、作品の中に描かれている。作中のエピソードは1つを除けばすべて事実だったという。つまり、現実を舞台作品という物語で描いたということになる。

 演出を務めた絹代さんが所属する劇団・快快の作品でも、しばしば現実が作品化される。「りんご」という作品では、「俺の歴史」と同様に母の死が描かれていたし、「アントン、猫、クリ」という作品も、「Y時のはなし」という作品も、彼らが現実として経験した日常の風景を起点として制作されたものだ。

 彼らはなぜ、現実を作品化するのだろうか?(より正確に言えば、どうして作品化せずにはいられないのだろうか?)

 現実を作品化するということは、現実を作品のネタにしているという言い方だってできなくはない。1ステージ限りの舞台ならともかく、「俺の歴史」は12ステージも上演された作品だ。母の死にまつわる自分の感情を、繰り返し反復することに抵抗はなかったのだろうか?

 舞台の終盤、「今から母ちゃんからもらったエール、皆に返していくから。俺に関わってくれた人皆に、母ちゃんからのエール届けるから!」とイタバティは叫ぶ。そうして、ばあちゃんの膝、昔乗っていたチャリンコ、勿来の浜、自分の親父、そして全世界に向けて全身全霊でエールを送ってゆく。

「俺、ずっと溜め込んできたものがあって。『母ちゃんが死んで超悲しいわ』っていうのはダセえから言えないし、母ちゃんに何かやってあげたいけど何もできないし――そう思ってたんですけど、俺、母ちゃんからもらったエールをずっと繰り返し言えたんですよ。最初は『この作品を長くやんのはしんどいな』と思ってたけど、やってるうちに、ほんとに『俺は幸せだ』って母ちゃんに言えると思ったんですよね。それを家で一人でやってても何にもならないけど、目の前に人がいて、その人に母ちゃんのエールをちゃんと届けられてる。俺が一人でやってても世界は動かせないけど、舞台上なら、それがネタだろうが何だろうが、世界を動かせる可能性を全然秘めてるってことが嬉しいですね」

 何か大きな現実を目の当たりにしたときに、人は物語を作ろうとし、また物語を必要とするのかもしれない。

 舞台上の小道具としてプロテインが使われていたもう一つの作品は、マームとジプシー「Rと無重力のうねりで」だ。マームとしては初(?)となる男優メインの同作品は、ボクシング芝居だ。

 この作品の中で二つ不思議なことがあった。一つは、どうしてわざわざ役者たちを本当にボクシングジムに通わせたのかということだ。実に半年間にわたってジムに通った4人の男優たちは、すっかり体つきがシャープになっている。舞台上ではスパーリングが繰り広げられたりもするのだが、それらしい動きにも見える。特に前のほうの席で観劇していると、グローブが相手の肉を撃つ音が強く耳に響いてくる。

 では、この作品がボクシングに携わる人間の身体性や、それが喚起する感情――それこそボクシングを観戦したときに感じる興奮や狂気、感動を伝えるための作品かと言えば、そんなことはないだろう。舞台の後半、“はさっち”(波佐谷聡)と“なかじ”(中島広隆)の二人が思いきりスパーリングを繰り広げるシーンがある。音楽もひと際大きく流れている。波佐谷さんはまだ20代だけれども、“ナカジ”さんは今年で40歳だ。そのナカジさんが息を切らせてダウンする――客席からその様子を眺めていると、思わず涙がこぼれそうになる。その感動は、テレビでもたまに味わえるタイプの感動だ。実際、遅咲きのボクサーを追ったドキュメントというのを見かけたことがある。しかし、思わず涙がこぼれそうになったところで音楽は途切れ、まったく別のシーン――それぞれが抱える呼び名をめぐる会話が、台詞というよりも普通のおしゃべりのように繰り広げられるシーン――に切り替わる。観客席にいる僕は、スポーツドキュメント的な感動に浸ることはできないまま次のシーンに進んでいく。

 もちろん、別に感動なんてする必要はない。でも、このシーンは、実際にジムに通っていたという事実によって引き起こされる感情を、するりと交わすように作られているように感じられた。だとすれば、別にジムに通って身体を鍛え、ボクシングのシーンがボクシングらしく見えるようにする必要はなかったのではないか、という疑問が浮かぶ。

 ところで、スパーリングのあとに続いた呼び名をめぐる会話は、ある女優の名前の話題に行き着く。彼女の名前は“洋子”(長谷川洋子)だ。この名前は、素直に読めば「ようこ」になる。親は「ようこ」という読み方の名前をつけたくて、そこに「洋子」という字を当てたのか。あるいは「洋」という字をつけたくて、それを「ひろこ」と読ませることにしたのか。どっちもってことはないと思うんだけど――と彼女は語る。

 そこへ彼女の兄が現われ、名前の由来を語り始める。「父さんは海のそばで育ったらしいから、だからじゃない?」と。「あそこまで普通に行くとしたら結構かかるよね。でも、一瞬だったんだろうな」と“洋子”は語る。それを聞いていた“さとこ”(吉田聡子)は「波に飲まれたらってこと?」と答える。後ろに流れている音楽に混じって、ボクシンググローブが何かを打つような音が断続的に響いている。舞台の後ろにあるスクリーンには海が映し出されている。僕は、そこに映し出されている海がいわきの海であることを知っている(つまり、「俺の歴史」と「Rと無重力のうねりで」に共通して登場するのはプロテインだけでなく、いわきの海もまた両方の作品に登場しているということになる)。そして僕は、長谷川洋子という役者がいわき出身であり、「洋子」という名前をつけた人――つまり彼女のお父さんは釣りが好きな人で、それで太平洋の「洋」から取って名前をつけたというエピソードを知っている。

 別に「知っているから作品をより深く理解できている」なんてことを言いたいわけでは当然ない。そんなことは作品理解には関係のないことだ。僕が引っ掛かるのは、どうして“現実に”ボクシングジムに通った役者をボクサーの役として舞台に乗せ、どうして“現実に”そこで津波に飲まれた人がいる場所の映像を映し出す必要があったのかということだ。

 「でも、一瞬だったんだろうな」。その言葉に「波に飲まれたらってこと?」と答えた“さとこ”の台詞はこう続いていく。「波の中で人たちは、そのうねりの中で人たちは、無重力状態に陥って――」。彼女は想像をめぐらせていく。そしてこう締めくくられる、「でも、私は、経験したことがない、経験したことがないから、きっとすぐに――」。

 マームとジプシーの藤田さんは、2012年、いわき総合高校の高校生たちと「ハロースクール、バイバイ」という作品を上演した。そのとき、ある生徒が「(地震があってからは)海に行きたくない」と言うのを聞いたという。それは藤田さんにとって、どこか遠くに感じていた地震津波が引き起こした大きな現実というものを痛烈に感じさせたのではないか。だからこそ、その1年後の2013年2月、マームとジプシーはいわきで「あ、ストレンジャー」という作品を上演した。この作品は、海へと向かう作品だった。

 それから1年が経った今、彼らは「Rと真夜中のうねりで」という作品を作った。この作品は来月――つまり3月に、いわきで上演される。藤田さんにとっては3年目となるいわきでの作品発表のなかで、「経験したことがない」けれど「どこか知っている」現実とどう向き合うためにも、“現実”の要素というものが必要だったのではないか。作品に説得力を持たせるためにではなく、そのことについて考え(続け)るために必要だったのではないか。

 そんなことをぼんやり考えているうちに、ステージには暗闇が訪れていた。