3月18日

 冷麺が食べたいと言ったのは未映子さんだった。冷麺でも平気か、辛いものは大丈夫か、というかそもそもお昼を食べていく時間はあるのかを、未映子さんは一人一人に尋ねていた。肉を頬張り、一口目のビールの流し込むことを想像しながら、僕も皆に随いて行く。

 目当ての店は休みであった。以前はランチ営業をしていて、今日は定休日でもないはずなのに、扉は閉ざされていた。

「ここの冷麺が美味しかったのに」。未映子さんが残念そうにこぼすのが少し不思議に思えた。というのも、目当ての店の目の前にも焼き肉屋があったからである。しかし、どうやらその店は冷麺が美味しくないらしかった。

 近くに評判の良い焼き肉屋があるというので、今度はその店を目指して歩き出す。焼き肉、焼き肉、ビール、焼き肉、と頭の中で念じながら歩いているせいか、焼き肉の匂いが漂っているような気さえしてくる。

 不運は続くもので、この店も定休日だった。未映子さんの体から、何かが立ちのぼっているように感じられた。あれは一体何だったのだろうと、これを書いている今もずっと考えている。その姿から目を離すことができなかった。

 怒り、というのとは違うのだ。それなら別に凝視することもなかったし、「あれは何だったのだろう?」と考えるまでもない。それに、怒りというものには対象が伴う。この場合で言うならば、営業していない店に対して怒る、ということになるのだが、そういうこととも違うのだ。無理やり言葉に当てはめるとすれば、美味しい冷麺が食べられないという現実に納得がいかない、ということになるだろうか。「不可、不可不可」という、「先端で、さすわ さされるわ そらええわ」に登場する短いフレーズが思い浮かんだ。

 先日の文芸フェスティバルで、未映子さんは「まえのひ」という作品についてこんな話をしていた。日常を生きるということは何かしらの反復性を生きている、でも、今というものには常に一回性がある、その反復性と一回性を意識して書いたのがあの作品だ、と。あの湯気は、そうした反復性と一回性に「納得がいかない」と抗うものが、あの湯気だったのではないか。

 たかだか冷麺で何をおおげさな、と思われるかもしれない。僕自身も、そしておそらく僕以外の皆も、冷麺じゃなくても何でもいい、と思っていたはずだ。しかし、「たかだか冷麺」と言ってしまうと、「日常の一回性」なんてことは語れなくなってしまうのだ。

 3軒目の店で、ようやく冷麺にありついた。