3月22日

 10時45分に待ち合わせて、総勢12名でいわきの海を目指す。目的の駅に着いてみても扉は開かず、北国でよく見かける開閉ボタンも見当たらない。まだ停車位置についていないのかと辺りを見渡してみると、別の扉から降りているお客さんがいた。どうやらこの路線は、車両中央のドアしか開かないらしかった。皆、慌てて電車を降りる。

 海は今日も荒ぶっていた。テトラポットに波がぶつかると、爆発でも起きたみたいに飛沫が上がっている。駅前には「きれいな海」「絶好の海水浴場」と看板が出ていたけれど、海岸線には無数のテトラポットが置かれているし、少し先には重機も並んでいるし、何より波の高さを見ているととても海水浴なんて楽しめないのではないかという気さえしてくる。

 海での過ごし方は人それぞれだ。ただただ海を眺めている人。テトラポットに登ってみる人。流木を探して歩く人。こうしてみると、僕は何かの痕跡を探してばかり歩いているのがよくわかる。

 昨日の海とさほど離れていないはずだけれども、今日の海は人の気配が残っていた。ペットボトルや空き缶がいくつも散らばっている。中でも目立つのはワンカップの空き瓶だ。同じ人が何度も飲んでいるのか、同じ銘柄――月桂冠のしぼりたてという、あまり見かけないカップ酒があちこちに転がっている。黒こげになった小さな流木も落ちている。無数に穴のあいた木もある。最初は虫にでも食われたのかと思ったけれど、近づいてみると穴の大きさが均一なことに気づく。ドリルか何かであけたかのように均一だ。一体誰が、何を思ってそんなことをしたのだろう。この場所には、何が蠢いていたのだろう。そのことを考えると、少し不気味になってくる。

 皆から少し離れたところで、長谷川さんと伊東さんの二人――若い女優の二人が、岩場に佇んでいる。流木を持って岩を叩いて音を鳴らして、音の違いを確かめている。その横で、青柳さんが何かをゴソゴソ準備をしている。見ると、ホールケーキがそこにあった。「あめやさん おたんじょうびおめでとう」と書かれている。どうも今日は飴屋さんの誕生日らしかった。しばらく経つと、青柳さんがそこに飴屋さんを連れてやってくる。

「飴屋さん、こんなものが流れ着いてたんですけど」

 ケーキを見た飴屋さんは固まっていた。こういうの、慣れてなくて。ちょっと動揺してる。そう言いながらケーキを拾い上げると、皆で飴屋さんの写真を撮影する。しばらく被写体になっていた飴屋さんは、1分ほど経ったあたりで「もう許して」と、捻り出すように言った。マームとジプシーは、こういうときにちゃんとお祝いをする(少し演出付きで)。そうした場面に出くわしたのは一度や二度ではない。

 1時間ほど海で過ごして、駅に向かって引き返す。歩いていると、臙脂色のシャツを着たお父さんとすれ違った。しばらく歩いたところで振り返ってみると、青柳さんがそのお父さんと何か話し込んでいた。数分経ってもまだ話し込んでいる。一体何をそんなに話しているのだろうと近づいてみると、きれいな流木の採取場所を教えてくれているのだった(僕たちは流木を2本持ち帰っていた)。それから、テトラポットには貝がくっついているから、それを採ってきて食べるのだとも教えてくれた。お父さんはすぐ近くに住んでいるようだ。海の近くには、土台だけが残った空き地も広がっているけれど、真新しい家がいくつか建ってもいる。


    *
 

「昨日の夜の記憶は、半分くらいしかないんですよね」。帰りの電車の中で、藤田さんはそう言った。昨晩は打ち上げがあり、大いに飲んだ。

「いや、僕もほとんど覚えてなくて」と答える。

「なんか、橋本さんと僕が尾野島さんのことを叩いてたのは覚えてるんですけど」――そう言われて頭が真っ白になった。尾野島さん、酔っ払っているなあと眺めていたことは覚えているけれど、一体、何がどうなれば尾野島さんのことを叩くことになるのだろう? そもそも、自分が、叩く?

 動揺しているうちに日が暮れて、マームとジプシー「Rと無重力のうねりで」の開演時刻を迎えた。先月横浜で上演されていた作品だ。

 この舞台はボクシング芝居で、4人の男優が登場する。その一人、尾野島さんがいじめられっことして、ぼろぼろに殴られるシーンがある。彼はのちに、ボクシングジムに通い始める。そんな尾野島さんに、吉田聡子さんが訊ねるシーンがある。ボクシングを始めて、何か変わったか、と。

「でもさ、殴ることを選んでいるわけでしょう? それと同時に、殴られることも選んでいるわけえしょう? ボクシングをしてるっていうことは、そういうことだよね。それが、わかるようで、全然わかんないんだよ」

 殴られ続ける尾野島さんの姿を見ていると、なんだかつらい気持ちになってくる。尾野島さんはもう、すっかりふらふらだ。真っ白に燃え尽きる直前の矢吹ジョーみたいになっている。別に酔っ払った僕が叩いたことでへろへろになっているわけではないことはわかっているけれど、どうして自分は尾野島さんを叩いてしまったのだろうと、考えずはいられない。酔っ払った僕は、どうしてそんなことをしてしまったのだろう?

 ふと、『星の王子さま』のことが思い浮かんだ。あの小説の中で、酒飲みという人物が登場する。何をしているのかと訊ねられた酒飲みは、酒を飲んでいると答える。なぜ酒を飲むのかと訊ねられると、忘れるためだと答える。恥ずかしいことを忘れるために、と。何が恥ずかしいのかと訊ねられた酒飲みは、「酒を飲むことが!」と言い放つ。王子さまはいよいよ困ってしまうが、僕は酒飲みの気持ちがよくわかる。酔っ払った日には――そう、今日みたいな日には――もう二度と酔っ払わないようにしようと心に決めているのに、結局またすぐに酔っ払ってしまうのだ(実際、この日もまた泥酔してしまった)。どうしてこんなふうに繰り返してしまうのだろう? マームとジプシーの舞台は、演出方法としてのリフレイン(反復)についてよく語られるが、こういう意味での反復というものも彼らの作品では描かれている。

 数時間前に訪れた海でも、そうした反復について僕は考えていた。昨年放送されていた「あまちゃん」では、震災後に北三陸に戻ったアキ(能年玲奈)が、祖母で先輩海女である夏ばっぱ(宮本信子)に訊ねるシーンがある。海に潜るのは怖くないのか、と。夏ばっぱの答えはこうだ。

「おまんま食わせてくれた海が、一度や二度へそを曲げたからと言ってヨソで暮らすなんて気持ちで生きてねえ」

 劇中の台詞として、その言葉は理解できる。でも、現実世界の言葉として、僕はそのことをまだ受け止めることができないでいる。だからこそ、朝に出かけた海でも、おそらくはまた同じ場所に建てられたのであろう家々のことを、じっと見つめてしまう。彼らはどんな気持ちで、そこにまた暮らすことにしたのだろう。

「想像はできるのだけど、でも、私は、経験したことがない。経験したことがないから、きっとすぐに、忘れる、忘れるのかもしれない」

 舞台のラストに登場する台詞が、この土地では違った響きを帯びてくる。違った響きを帯びてくるのは、違う土地で観ているということもあるだろうけれど、違う土地で上演することを前提として新たなシーンや台詞が追加されているということもある。

 新しい台詞は、冒頭から登場する。俯いていた伊東茄那さんが、ふいにつぶやく。

「蟻が、蟻が死んでいる」

 この台詞は、何度か繰り返される。あるときには、バスケットボールをダムダムとドリブルさせて、重低音を響かせながら発話される。そして、続けてこうも口にする。「皆、この街の3月のことを、忘れたわけではないはずなのに、あんまり口にしなくなった」と。

 ドリブルを続けながら、茄那さんは再び繰り返す。「蟻が、蟻が死んでいる」と。「上空からこの街を見下ろすと、私たちもこの蟻みたいにちっぽけに見えるのかもしれない。でも、だとしても、私たちは人間だ」――と。

 この、「でも、だとしても、私たちは人間だ」というのは、台詞として成熟されたものだとは言えないだろう。でも、それをわかった上で、ここで口にされているように僕には思えた。だからこそ、この台詞を口にしたのが、今回の舞台ではほぼ最年少の茄那さんだったのだろう。彼女の若く、甲高い声は、何かを痛烈に訴えるようにして空気を切り裂き響いてくる。その声の持ち主にこの台詞を語らせたのは明確な意志があるはずだし、逆に言えば、「cocoon」という舞台を通じてそんな声の持ち主に出会えたからこそ、こうした台詞が可能になったのではないかとも僕は思う。どんなに未熟であろうとも、何とか手を伸ばして言葉にする、ということが。

「想像はできるのだけど、でも、私は、経験したことがない。経験したことがないから、きっとすぐに、忘れる、忘れるのかもしれない」

「私」も、それを観ている僕も、“そのこと”を経験したことがない。経験したことがないから、想像してみたところですぐに忘れてしまうかもしれない。それでも、想像し続ける。手を伸ばし続ける――そのために、マームとジプシーは作品を作り続けているはずだし、僕はその舞台を眺め続けている。

 今日の舞台は、本当に素晴らしかった。すっかり放心状態になってしまって、帰り道、気がつくとどういうわけだかコジマ電気の家電売り場をさまよっていた。