3月30日

「橋本さんのカメラ、動画は撮れないんですか?」

 青柳さんに尋ねられたのは、未映子さんと藤田さんの対談(http://www.cinra.net/interview/201404-mumgypsykawakami)を収録した日のことだった。そのとき僕が持っていた一眼レフは少し古く、動画は撮れないタイプだ。最新機種を買えば動画も撮影できるのだけれども――そう思っていたところに確定申告の還付金が振り込まれた。勢いだけで新しいカメラを購入した僕は、動画機能のテストも兼ねて、今日も撮影をさせてもらうことにした。頼まれてもいないのに。

 開演直前にVACANTに到着して、撮影機材を置きに楽屋に会場に向かうと、入口で青柳さんとすれ違った。お先にいただきます。そう言って出て行く青柳さんは、まるで銭湯にでも出かけるみたいだ。実際、お湯の入った風呂桶を小脇に抱えている。

 昨日の日記で、今回の舞台はほぼ名久井さんの言葉でてきていると書いたけれど、藤田さんの書いたテキストも要所要所で登場する。

「ここまでやってきましたが、皆さん、もうおわかりかと思いますが、名久井さんは、名久井直子さんは、自分の言葉を持っていません。誰かが書いたもの、描いたものに手を加えているだけで、言葉を持っていません。でも、名久井さんもそうだけれど、じゃあ、私は、私は、私も、そう、言葉を持っていません。誰かが書いたものをしゃべるだけの、女優、だからです。今話しているこれも、私の言葉では、ないわけです。はあ」

 今回の作品は、一人で舞台に立っている青柳さんにとっても特異な作品だったのではないか。いや、そんなことを言うのなら、誰かさんシリーズの前作「穂村弘さん(歌人)とジプシー」もまた、特異な作品だった。そのことは既に日記に書いているけれど、その作品では青柳さんの親戚が経営するラーメン屋のことが取り上げられて、青柳さんという存在自身も舞台に上げられているようなところがあった。今回は、こうして誰かの言葉をしゃべるだけの女優という存在について言及させられている。

 名久井さんは誰かが書いたエッセイや小説を読んで、自分の中で咀嚼し、本という一つの形にする仕事をしている。青柳さんは、誰かが書いた戯曲を読んで、それを自分の中にインストールし、発語を通じて舞台という作品にする仕事をしている。昨日、名久井さんと青柳さんが姉妹のように見えたのは、同じミナなんとかというブランドの服を着ているというだけではなく、何か共鳴するところがあったからではないだろうか。

「今話しているこれも、私の言葉では、ないわけです」

 青柳さんはそう発語させられている。たしかに、青柳さんの口を通じて発語される言葉の大半は、名久井直子さんの言葉だ。CMYKがどうとか、紙の加工がどうとかという専門的な話は、いつもの青柳さんの生活や仕事とは無縁の言葉だろう。それでも、そこで紹介される本に対する思いや、その本に携わった人について語るときの言葉は、誰かの言葉を言わされているというよりも、ほんとうに、自分の奥底から沸き上がってくる言葉として語っているように見えた。これは青柳さんに限らず、芝居を観ているときにそんなふうな感覚を抱いたことがなかった。ズームレンズ越しに観ていると、肉眼では確認できない表情まで微細に確認できるから、そんなふうに感じたのかもしれない――でも、終演後、今回の舞台の台詞は自分の言葉としてしゃべっているんじゃないですかと訊ねてみると、青柳さんは「そうだと思いますよ」と語っていた。

 舞台が終わる少し前に、同じような台詞が再び登場する。

 「言葉を持たない私たちは、でも、書かれた言葉を、描かれた言葉を、名久井さんはデザインします。私は、発語します。だから、言葉を持たない私たちは、言葉たちの出口でも、あるわけです。私たちという出口から、言葉たちは……。はあ」

 そうして最後に『夢袋』から2篇朗読がなされると、舞台は終わりを迎える。

 この日の3回目の公演、つまり最後の公演のときのことだ。上の台詞を口にしているとき、青柳さんの表情がかすかに揺らいでいるように見えた。今にも溢れ出しそうな自分の感情を必死で抑えるようにして、台詞を口にしているように見えた。はっとしてファインダーから目を外して舞台を確認しても、肉眼ではそんな様子は微塵も見てとることはできなかった。でも、ズームレンズを限界まで望遠にして確認すると、揺らぐ青柳さんの姿が映し出されていた。その姿のことが、妙に気にかかった。でも、舞台が終わってみると青柳さんはいつものようにケロリとした様子で、ダイイングメッセージを残して死んだ人のようにタイルの上に横たわり、「真上から写真撮ってくださいよ」なんて話をしていた。