4月14日

 12時45分、急な坂スタジオに向かうと、ソファのところで青柳さんがスープを食べていた。

「あ、おはようございます。まだ誰も来てません」

 青柳さんは箱を広げて、オモチャを組み立てている。小道具で使うのだという。こういうの苦手なんだよ、と青柳さんはこぼした。ふと、廊下に誰かの足音が響いた。その音を聴いただけで、青柳さんは「実子?」と言った。音のするほうから歩いてきたのは、本当に、実子さんだった。ほどなくして石井さんもやってきた。ずいぶんスッキリした髪型になっている。

 「おはよう。……あれ、いしりょうだよね? 何でそんな髪型にしたの?」
 「え、風呂なし対策だよ」

 聞けば、ツアーの宿泊場所のなかで松本の宿だけはお風呂がついていないという(ただし、劇場に行けばシャワーがある)。さきほど組み立てていたオモチャは、青柳さんの代わりに実子さんが完成させた。実子さんはそのオモチャを集めていたそうである。

 ところで、ハイエースに積み込む機材は相当な量になっていた。

 「当パン(当日パンフレット)の道具も積み込まなきゃいけないよね。かさばるものを増やしちゃったけど、いけるかな」

「俺はもう、『それが入る容積があるならいいよ』としか言えない。気軽に『いいよ』と言える状況じゃなくなってきてるから」と石井さんが言う。石井さんは、今回のツアーの運転手だ。

 稽古が始まるまでもう少し時間があるので、皆で旅先の予定について話をする。主な議題は、滞在日数の長い京都での過ごし方だ。

 「京都、どうする?」と実子さん。
 「まず、アナを観て――」と青柳さん。
 「ああ、そっか。アナか」
 「観るよ、アナ。吹き替え版でね」

 女子二人の会話に、石井さんが「神社仏閣めぐりをする時間、ある?」と割って入る。

 「え、神社仏閣巡り、したい?」

 「皆で行くなら、嵐山でレンタサイクルを借りて、竹林のほうからぐるーっと走ると気分がいいんだけど」。確かに、そんな時間を皆で過ごせたら楽しいだろうなあ。その風景を夢想していると、石井さんが自ら釘を刺す。「でも、それが本番前にやるべきことなのかどうか、わからない」。

 実子さんも「私は、作業をするつもりでいたよ」と口を揃える。「アナは、いいよ。ランチもしたい。でも、あとはやるべきことをやったほうがいいんじゃない?」

 稽古が始まる様子はなかった。というよりも、肝心の藤田さんがまだスタジオにやってきていなかった。

 「今日は、全部のスケジュールが30分遅れる感じだよね、きっと」と石井さん。
 「そう見積もってたよ、私は」と実子さん。「時の流れに……」
 「そう、『時の流れに身をまかせ』よ」と青柳さんが相槌を打つと、皆がテレサ・テンを口ずさみ始めた。少しだけ替え歌をして。

 時の流れに 身をまかせ
 藤田の色に 染められ
 一度の人生それさえ 捨てることもかまわない

 一緒に口ずさんでいた石井さんが、「かまう、かまう。かまうわ」とツッコミを入れる。

 藤田さんがスタジオにやってくると、稽古が始まった。予定のある僕はそこで皆と別れて、夜になって、江戸川橋にある「新雅」で中華そばを啜りつつ皆がやってくるのを待った。待っているあいだ、ユーストリーム岸田國士戯曲賞授賞式の中継を観た。「ブルーシート」をしっかり観ることができて、贅沢な気持ちになる。画面の中にはマームとジプシーの皆もちらりと映っていた。皆、お祝いに駆けつけていたのだ。

 何本目かのビールを注文したところで、お店の暖簾は仕舞われた。「これを飲んだら帰りますから」と店主に告げて、一緒になって「月曜から夜ふかし」を眺めて笑っていたところに、一台のハイエースが止まった。

 「こんばんは。全然間に合わなかった」と、青柳さんがお店の扉を開けた。閉店時間の21時半に間に合えば皆でラーメンを食べるつもりだったけれど、タッチの差で厨房の火は落とされてしまっていた。

 写っているのは、“こうじにいちゃん”。

 「ごめんね、もう料理作れなくなっちゃって。ああそうだ、こないだは本、ありがとうございます」とお店のお父さんは言った。「お店のお父さん」というのは、穂村さんとジプシーのときに聞いた呼び名で言えば、“たぬきのおじちゃん”だ。現在発売中の『POPEYE』の「My Best 3 Dishes!」というページで、藤田さんはこの「新雅」のことを紹介している。

 「でも、あのページ、おじちゃんだけ写ってなかったね」と青柳さん。たしかに、そのページに“まさこおばちゃん”と“こうじにいちゃん”は写真入りで紹介されているのに、どういうわけだか“たぬきのおじちゃん”だけは写っていなかった。

 「おじちゃんはね、たぬきだから、一ヵ所にいないんだよ」と、“たぬきのおじちゃん”は笑う。

 お礼を言って店を出て、すぐ近くに停められたハイエースをのぞくと、「これ以上は無理」というくらいに荷物が積み込まれていた。一分の隙もないと言っても過言ではないくらいに積み込まれている。座席には収まりきらず、座席にもはみ出して積み込まれている。このクルマに、5人乗っているというのが信じられないくらいだ。

ミラーボールが、荷台で密かに輝いている。

 ほどなくして、忘れ物を取りに帰っていた青柳さんが戻ってくる。手には、おばあちゃんからもらったというお菓子と、「サービスエリアに寄ったとき、これでご飯でも食べなさい」ともらったお小遣いを手にしていた。クルマの前で記念撮影をして、慎重にトランクを閉める。

 「じゃあ、また明日」

 そう挨拶をすると、皆は荷物を避けるようにしてクルマに乗り込んで行った。何度かハザードランプを点滅させて、ハイエースは松本に向けて走り出した。いよいよ、半月に及ぶツアーが始まる。