マーム同行記6日目

 日記を書いているうちにお昼になってしまった。午後1時、ホテルのロビーで尾野島さんと待ち合わせて街に出かける。

「午前中は何してたんですか?」と僕。
「洗濯とかしてました」と尾野島さん。
「ここ、コインランドリーみたいなのはあるんですか?」
「いや、ないです。手洗いして、干して、ちょっと寝てました」

 坂を下って広場に出て、適当なカフェを選び、オープンテラス席に腰掛ける。二人ともボスニア・コーヒーを注文した。

尾野島 昨日は何時ぐらいまで飲んでたんですか?

――ホテルに着いて1時間ぐらいだから、1時半とかですかね? 尾野島さんは帰ってすぐ寝たんですか?

尾野島 寝ましたね。ああでも、洗濯はしました。洗濯してすぐ寝ましたね。

――ボスニアに着いた日も、藤田さんから「尾野島さん飲みましょうよ」ってピンポイントで誘われてたけど、飲みにこなかったですよね。昨日も「あれ、尾野島さんはこないんですか」と言われてたのに、何で頑に飲まないんですか?

尾野島 いや、そんな頑ってこともないですけどね(笑)。普段もそんな感じですよ。今回は特に、ずっとベタベタしてたら疲れる気がするんですよね。そうするとギスギスしちゃうかもしれないから、ちょっと一定の距離を保ってるっていうか。

――今回は1ヶ月もあるわけですもんね。

尾野島 そうっすね。最初は楽しいとは思うんですけどね。

――去年は1都市で公演をして帰国する感じでしたけど、今年はずっと移動するわけですもんね。

尾野島 長丁場っていうのは今回が初めてだから、怖いですよん。日本なら空き時間に気分転換とかできるけど、こっちだと難しいですしね。

――日本でも、北九州にずっと皆で滞在する機会とかはあったと思うんですけど、それとはまた違う?

尾野島 なんか、緊張感が全然違いますね。「ヨソモノがいるぞ」みたいな目を向けられるときもあるし、治安も悪いっていうふうには書かれてたから、ちょっとびびっちゃって。

――ツアーは始まったばっかですけど、去年と違うなって感覚はありますか?

尾野島 去年はやっぱ、海外自体が初めてだったから、浮足だった感じでしたね。飛行機に長時間乗ったりとか、言葉が通じない人と一緒にやるってことに対してハイになってたっていうか。

――そうか、尾野島さんは海外に出かけること自体初めてだったんですよね。でも、去年に比べると、あんまり緊張してはないですか?

尾野島 でも、緊張はあるのかな。違う緊張感っすよね。

――海外だからっていう緊張ではないってことですか?

尾野島 そうっすね。前はもっと、広く「海外で講演する」っていうことでしたけど、今回は「ボスニアで公演する」「イタリアのこの都市で公演する」って感じはあるかもしれないですね。だから、ボスニアは紛争があってどうとかって話もあるし、そういう意識はもっと絞れてる感じはありますよね。

――これは、去年のツアーを見ていても思ったことですけど、まあ演劇の人からすると当たり前のことかもしれないですけど、稽古の時間とそれ以外の時間のテンションが全然違うのが不思議に見えて。しかも、かなりスパッと変わりますよね。それは、昔からそういう感じだったんですか?

尾野島 いや、昔はそこまでじゃなかったですね。向こうも先輩っていうのもあって気遣ってくれてたのかもしれないし、こっちもこっちで、あんまり出しゃばったらよくないと思って前に出なかったですけど――まあ今も出てないですけど――それがこう、公演を重ねるごとにシビアな関係を取ろうとして、普段とは分けるようになった気はしますけどね。

――それ、尾野島さんの感覚としてはどれぐらいの時期が転換期だったんですか?

尾野島 どうですかね。うーん、『あ、ストレンジャー』ぐらいですかね? 僕が初めて参加したのが、「たゆたう、もえる」っていう作品で、そのときはまだ、先輩/後輩っていうのがあった気がしてますね。向こうも言うことを気を使ってたし、どうやって接したらいいかはかってた部分もあったし。で、だんだん、向こうは向こうでやりたい表現が増えてって、それに対して僕も『それは面白い』と思ったし、で、藤田君は作品に対してすごいストイックだから、こっちもちゃんとそれについていこうとか、僕も藤田君のやりたいことをちゃんと表現しないとって気持ちにもなったし――それが『ストレンジャー』ぐらいで、今までの感じとはちょっと違う感じの表現になったときに、もっとストイックに作品に迎える距離感になったのかなって思いますけど。

――昨日なんかもそうですけど、ダメ出しの口調がめちゃくちゃ厳しいじゃないですか。

尾野島 厳しいですね。

――僕、あんなふうに言われたら泣いちゃうと思うんですけど、そこはもう皆慣れてるんですか?

尾野島 いや、泣いちゃいますね。泣いちゃいます、泣いちゃいます。

――もちろん、作品を作る上でシビアになるのは当たり前のことなのかもしれないですけど、「作品を作る時間だけを一緒に過ごす」ってことであればバランスが保ちやすい気がするんですよ。でも、いくら海外ツアーで一緒に移動するしかないとはいえ、そのシビアな時間が終わったらぱすっとモードが切り替わって、さっきまでぼろかすにダメ出しされた人から「飲みに行きましょうよ」って誘われたら――僕がそういう状況に身を置かれたとしたら、なんかちょっと、情緒不安定になりそうだな、と。尾野島さんはそのへん、どうバランス取ってるんですか?

尾野島 どうなんですかね。でも、僕はもともと切り替えがうまくできるタイプじゃないんですよ。波佐谷君とかはうまく切り替えられるんですけど、僕は不器用だから、そんなに飲みにも行かないし、自分の時間を優先することで保ってるのかもしれないですね。「飲みましょうよ」って誘われたときに、断ったら関係が悪くなるかもしれないから飲みに行くとかってことはなくて、稽古は稽古で、自分の時間は自分の時間にすることが精神安定というか笑

――なるほど。あと、これは今回のツアーに限った話じゃないですけど、役者って人たちがほんとに不思議なんですよね。何でそんなに台詞が頭に入ってるんだろう、と。

尾野島 いや、入ってないですよ。

――でも、稽古を見てると、すごいテンポが速いなと思うんですよね。藤田さんがバーッと話をして、そこから「はい、どうぞ」と稽古を再開させるまでのスピードが速いですよね。「どうぞ」と言われて皆パッとやれてるから、すごいな、と。

尾野島 そこらへんはでも、あっちゃんとか青柳さんとか、早いですよね。僕も一時期「早くなったかも」と思ったんですけど、そのときは場所で台詞を覚えてたんですよ。このアングルになったらこう話すとか、相手がこう来たらこう言うとかって覚え方をしたら若干早くなったんですけど、今度はアングルの変更がまた早くなっちゃって。そこは――僕はそれが遅くて。僕は特に小心者だから、会場が変わって景色が変わるとまた言えなくなっちゃったりとかするんで、そこはもっと考えないとと思ってますね。

――藤田さんはよく、パッケージされたものをただ回すだけのツアーにしたくはないって話をしますよね。たしかに、ツアーをするのであればそのほうが意味のあるものになるだろうなとは思うんですけど、実際に舞台に立つ役者さんは大変だろうなと思うんですよね。特に今回のボスニア公演は、位置関係や動きが会場にあわせて結構変わりましたよね。

尾野島 いや、必死ですよ。そこにとらわれ過ぎちゃうと、他のところが疎かになっちゃうから。

――昨日の稽古中、滑舌の話がありましたよね。あの話を聞いていて、そういえば役者の人の中にセリフはどうやって入ってるんだろうと気になったんです。たとえば、歌詞とかって文字で覚えるっていうよりも音として覚えてたりするじゃないですか。藤田さんの作品はテキストじゃなくて口伝で作られるってこともありますけど、どうやって頭の中に入ってるんですか?

尾野島 どうなんですかね? ……難しいですね。滑舌の話は前も言われたことがあるんですよ。「ちゃんと言葉を置く」と。相手に自分の言いたいことを伝えるときに、ちゃんと言葉を立てないと伝わらないってことなんですけど。

――そういう意識は、国内と海外とで変わるところはある?

尾野島 どうなんですかね。ほんとは変わらないと思うんですけどね。でも、僕が最初に藤田君の作品に参加したときは、子供の役をやったんです。そのときに、言葉をもっとクシャクシャに言ってくれって言われてたんですよ。でも、ここ最近は「言葉がちゃんと聴こえなきゃ駄目」っていうか、「言葉が伝わらなくてもいいやっていう意識でやるな」っことを強く言われるようになって。

――それがいつぐらいからですか?

尾野島 いつだろう? ここ2年ぐらいですかね? 「ちゃんと伝わるところは伝わらないと」って。別に、日本でやるときも「聴こえなくていい」とは思ってないですけど、海外だと字幕が出てるから、ちょっと逃げ道ができちゃうところはあると思うんですよね。そこはちゃんと、その逃げ道をなくすというか、会場にいる人にもちゃんと――自分たちは日本語でしゃべってるけど、字幕がなくてもどんなことを言いたいのかっていうことを伝えようってことなのかもしれないですね。

――この作品って、結構言葉のペースが速いですよね。そうすると字幕が切り替わるスピードも結構速くて、お客さんは字幕ばっか見てることにならないかなと思ってたんですよ。でも、昨日、僕は半分ぐらい客席の反応をうかがってたんですけど、結構役者さんたちのほうをしっかり見てるなと思ったんですよね。

尾野島 なんか、すごい見られてるって感じはありましたね。開場中はそんなこともなかったんですよ。「何やるんだろうな、こいつら」ぐらいの感じだったんですけど、始まってからはすごい集中力で見てくれてる感じはありました。なんか、見ようとしてくれてる感じがしたんですよ。北海道の伊達で公演したときもそんな感じがしたんですよね。初めて伊達に行ったとき、お客さんがすごい前のめりになってくれた感じがしたんです。その感覚に近いかもしれないですね。ちゃんと聞こうとしてくれてるというか。

 話をしているうちに、13時40分になっていた。今日は14時に「ホテル・ボスニア」に集合だから、そろそろ店を出ることにする。皆で昼食を取っていると、少し酔っ払った様子の男性が話しかけてくる。何事かと思ったら、彼は昨晩の公演を観てくれたらしく、「素晴らしかったよ!」「昨日は観ながら泣いちゃったよ!」と興奮した様子で感想を伝えてくれた。「友達にも『絶対に観に行くべきだ!』と伝えておいたから」と言って、彼は去っていった。

 今日は16時に小屋入りと伝えてある。まだまだ時間はあるので、タイダさんに旧市街地のカフェに案内してもらう。旧市街地と言われて、せいぜい100年とか200年前のことを想像していたけれど、ここはオスマン帝国時代の建物が残っているのだという。その隣にあるエリアがオーストリア=ハンガリー帝国時代の建物が残るエリアで、そのさらに西側――会場のあたりだろうか――は社会主義時代の建物が多い場所だ。

 今日は気候が良くて暑いぐらいだから、今日はジュースを飲む。でも、前回皆でボスニア・コーヒーを飲んだときに来られなかった南さんは、ボスニア・コーヒーを飲んでいる。タイダさんは飲み方をレクチャーしながら、「そうだ、ボスニア・コーヒーを使った占いがあります」と言った。「日本人は占い好きですよね?」とタイダさん。たしかに、朝のニュース番組がこぞって占いをやっている国というのもそう多くはないだろう。ボスニア・コーヒー占いの方法はわからなかった。

 ふと、タイダさんに聞いてみたいことがあるのを思い出した。こっちに来てから何度かタクシーに乗っているけれど、その音楽が気になるという話が皆のあいだで交わされていた。こっちで一番有名なグループは誰ですかと訊ねると、「DUBIOZA LOLEKTIV」というバンドを教えてくれた。カフェを出て街を歩いていると、ちょうどCDショップがあったので中に入ってみる。藤田さんはタイダさんが教えてくれたバンドのアルバムを2枚、それにボスニアの伝統的な音楽のアルバムを1枚購入した。

 1時間ほどかけて会場まで歩くと、藤田さんは買ったばかりのCDを開封している。

「ツノ、これ聴ける?」
「若干聴けます」
「じゃあ、ボスニアのヒップホップを聴いてみょうかな。どうしよう、すげえピースフルなやつだったら」

 DUBIOZA LOLEKTIVのファーストは中々に格好良く、僕も買っておけばよかったと少し後悔した。音楽を形容する言葉を僕は持ち合わせていないけれど、ボスニアDragonAshといった感じ。その音楽が流れる中、1時間しっかりとアップをして、18時に稽古が始まった。

「昨日は正直、満足できてないんだよね。今回のツアーは、カターニャとかはもっとじっくり公演ができるのかもしれないけど、ボスニアとかは2回しか公演ができなくて、その2回のうちの1回があれだったっていうのはマームとしてどうなんだろうっていうのがある。これがもし、今回限りのメンバーであれば『しょうがなかった』と言ってもいいのかもしれないけど、『しょうがなかった』という言葉で済ませるのは良くなくて。僕は今回、日本に1つ作品を置いてここに来てるわけだけど、ここで結果を出せないとしたら本当に申し訳ないんだよね。なので、しっかりした活動をして行かないといけないなと思いました。

 やっぱり、次の街での初日はこの街での初日よりも堅いものにしていきたいし、このツアーの中でスタッフさんもキャストも全員強くなっていかないといけないと思うんだよね。そのことを、昨日はほんとに思い知ったなっていう感じが、ある。たとえば、実子にウェイトが(映像スタッフでもありキャストでもあるから)重いっていうのは毎度のことなんだけど――昨日は映像のミスがあったわけだけど、そのことに対して怒るとかってことはなくて。ギリギリのタイミングで実子にやらせてることが多かったし、土壇場なことが多過ぎたよね。これは『健全じゃない』と思ったほうがいいんだよ。これを『しょうがない』ってことにしてしまうと、全部のことがしょうがなくなってしまうから。しょうがなくはないから。じゃあ何が問題だったのかてことをちゃんと分析して、次に繋げたいんだよね。

 今、この話は自分に言ってる部分が相当あるんだけど――才能的な部分も含めて、自分自身足りてないなっていうふうに思いました。一つ一つのキメが甘いし、空間の把握のしかたもそうだし、これぐらい海外公演はタイトなんだってこと込みで初日を迎えれなかったなっていうのがある。ただ、昨日の公演自体をそんなにネガティブにとらえてるわけじゃなくて、結構客席は集中してくれてたなっていうのはあったのね。昨日までは、日本人じゃない人たちに見せることが怖くて、去年のフィレンツェ公演の初日みたいに、ノリについてこさせようとし過ぎた感じがある。もうちょっと、普通に日本でやるときのクオリティってものがあるわけじゃん。それをやっても伝わるんじゃないかと思った。なんかね、上演が始まったときに、『あ、海外でやるのが怖かったんだな』ってことをガツンと思い知らされた。それがキツかったし、悔しかった。もっと自分たちがやってきたことを信じていいなと思ったし、お客さんが観てくれたり聴いてくれたりすることを信じていいなと思った」

 今日の稽古は、一つ一つのシーンに対して丁寧に修正が加えられていく。藤田さんはいろんな席に座って、どんなふうに届くのかを確かめていた。

 稽古は19時半に終わった。藤田さんは役者さんたちにマッサージを施している。外に出かけていたタイダさんが、角砂糖を何個か持ってきてくれた。舞台上には小道具としてボスニア・コーヒーの器が置かれているけれど、ボスニア・コーヒーと角砂糖はセットになっているのだ。

 会場の清掃作業が行われているあいだ、僕と藤田さんは近くのスーパーまでワインを買いに行った。終演後に皆で乾杯するためのワイン。一緒に行って選んでもらうことにする。藤田さんと僕は、こないだ教わった「ラキヤ」という強いお酒のことが気になっていたけれど、タイダさんが「それはやめたほうがいい」と言うので買わずにおいた。

 皆で記念撮影をして、21時45分、開演時刻を迎えた。昨日のようにほぼ満席とはいかず、昨日に比べると少し寂しい入りだったけれど、ボスニア公演――2ステージ目にして最後の公演は、かなり素晴らしい仕上がりになっていた。お客さんは身動き一つせず、1時間20分のあいだ、食い入るように舞台を見つめていた。藤田さんも、「いや、今までで一番良かったんじゃないですかこれは」と手応えを感じている様子だ。

 会場では、すぐに現地のスタッフによってバラシが始まった。役者さんの着替えを待っていると、タイダさんとスティーブンが1本の瓶をプレゼントしてくれた。それはラキヤだった。せっかくだからと、ラキヤで乾杯することになった。43度の強いお酒。透明な色をしていて、梅の香りがする。

ボスニア、ほんとに来れてよかったです。ありがとうございました、乾杯!」

 藤田さんが音頭をとって、皆で乾杯をした。少し舐めてみただけの人も、一気に飲み干した人も、皆一様に咳き込んでいる。

「すごいな、これ」
「でも、喉にいいかもね」
「あれ? あっちゃんも全部飲んだんだ?」
「飲んだ」
「珍しいね。まるはさすがに飲めない? 尾野島さんに飲んでもらえばいいんじゃない?」
「ちょっと、悪ノリはやめとこうか。このあと小道具片づけなきゃいけないからね」

 荻原さんのラキヤは、無言で僕のコップに注がれた。せっかくなので、それも一気に飲み干す。身体がかっと熱くなる。気付薬みたいな感じがした。それをやっつけたあとで、美味しいワインを飲み始める。皆が小道具を片づけているあいだ、僕はタイダさんとスティーブンに話を聞いた。

「本当に好きな作品です」とタイダさん。「リハーサルもあわせて3回観たけど、観るたびにすごく良く鳴ります。……うん、好きです。特に好きなのは――色々なシーンがあったけど、やっぱりハサタニさんのシーン。ハサタニさんがオオカミについて“発表”するシーン。ハサタニさんの言い方もすごく面白いし、言ってる内容も哲学的です。ハサタニ・イズ・パーフェクト!」

“発表”のシーンというのは、“しんたろう君”が「オオカミ、大変だからね」「絶滅しかけてるから」と口にしたことに対して説教するシーンだ。

「お前は何でオオカミの身になって考えてるわけ?」
「え」
「俺、そういうの嫌いなんだわ」
「しんたろう君!」
「お前、オオカミの何なわけ? 環境だの云々とか言ってる人とそれじゃ同じだからね。いや、知識はそうなんだろうけど、何でその身になって発言するかなって思うね。だって、しょせん人間じゃん。最初から最後まで人間は人間じゃん。オゾン層でもなければ絶滅危惧種でもないわけじゃん。さらに言えば、飢えたこととか、親に見放されたこととか、そういうことをお前は体験したことあるわけ?  俺はないね。だから悪いんだkど、エコとかチャリティーとか、そういうのピンとこないんだよね。リアルじゃないんだよね。いや、想像はできるよ。可哀想とか、危なそうとか。でも、ただ、わかんないんだよね、ほんとんとこ。そういったとこ」

 スティーブンにも感想を訊ねてみると、「アイ・エンジョイド!」と返ってくる。「この作品は本当に、心にタッチする作品だった。すべてのことが、振り返る、振り返る、振り返るという構造で作られていて、一つ一つのピースはばらばらなんだけど、それが最後に繋がるのが素晴らしかった。ベリー・ストロング・コネクション」

 僕が気になっていたのは、ボスニアに向けて作られたわけではないけれど、妙にボスニアの歴史や現状と重なるところがどう受け取られたちうことだった。

「一番ボスニアと関係があるのは、“あや”の話だね」とタイダさん。「“あや”が、先生から『被害者にもなれるし、加害者にもなれる』って先生に言われたというシーンがあるよね。それはすごいボスニアと関係がある。なぜと言うのは、紛争のとき、ほんとにお隣さんはお隣さんに殺された。そこはすごく――そうだね、ボスニアとのコネクション」

「もちろん、最後のシーンはダイレクトなコネクションがある――1914年という年と、1984年という年と、ボスニアサラエボという言葉が語られるからね」とスティーブンは言った。「1914年のコネクション――イッツ・オーケー。でも、作品の一つ一つのピースに、すごく強いコネクションを感じたよ。ディレクターがその土地とのコネクションを求めるのは当然だと思うけど、その言葉がなくても、すごく伝わってくる。この作品はすごくストロングな作品だと思うし、彼の描いているテーマはユニバーサルなものだと思うから」

 今は解体されてしまったけれど、ボスニアはかつてユーゴスラヴィア連邦の1つだった。ユーゴスラヴィアは、民族対立を克服しようと建国されたところで、ユーゴの人たちにとって「コスモポリタンである」ということは誇りだったという。今は解体されてまたいろんな問題が山積している現実はあるけれど、そのコスモポリタンの国で「ユニバーサルだ」という感想を言ってもらえたことは、とても意義深いことだ――そんなことを考えているうちに、さっきのラキヤが回り始めていた。