マーム同行記10日目
朝8時に起きる。1階のロビーに降りてみると、朝食が並んでいる。クロワッサンと、甘そうなクッキー。僕はカフェ・アメリカーノだけ注文して、同じ方向ばかり見ていた。僕が泊まっているホテルには大きな白い犬がいる。名前はパブロ――パブロ・ピカソの「パブロ」だと、宿のおじいさんが昨晩教えてくれた。
僕がチェックインしているとき、パブロはゴミ箱を漁っていた。それを見つけたおじいさんは厳しく、しかし静かにパブロを叱った。
「おい、パブロ。もうそれをやるなって言っただろう。もう許さん、地下に戻れ」
イタリア語はまったくわからないので僕の想像しかないのだけれども、パブロはしゅんとした顔になり、とぼとぼと地下に消えて行った。ホテルに入った時点で犬の匂いがしていて、気になっていたのだけれども、その様子を見て「仲良くなりたい」と僕は思った。出来れば、パブロと一緒にメイナの町を散歩したい――そのためにもと、少しずつ近づいてみる。最近でこそ犬のことが好きになりつつあるけれど、僕は犬を一度も飼ったことがないし、小さい頃は犬に吠えられてばかりいたので、犬に近づくのは結構怖くもある。
1時間ほどかけて近づいて、頭を撫でてみる。特に吠えらもせず、パブロは靴の匂いを嗅いでいる。しばらくパブロの近くに佇んでいると、店の主人が「ドゥー・ユー・ワント?」と言ってくる。もうここで散歩のお願いをしてみようかと思ったけれど、さすがに急過ぎるかなと思って遠慮しておいた。
10時、2階からルイーサが降りてくる。イタリア人の男性2人も一緒だ。ルイーサが2人を紹介してくれる。イタリアの名前をうまく聴き取ることができなかったけれど、聞き返すのも失礼かなと妙な気を遣ってしまった。3人はこれからお昼ごはんを買いに出かけるところだという。「一緒に行く?」と誘ってくれたので、一緒に出かけることにした。
スーパーを目指して、のろのろと歩き出す。メイナを訪れるのは全員初めてのことらしく、石畳の細い路地をのろのろと走ってゆく。すると、散歩をしていた老婆が、すれ違い様に「どこに行きたいんだ?」と声をかけてくれた。3人が一斉に老婆の方向に身体を向け、老婆の言葉に声を揃えて「Si」(Yes)と答えて、老婆が「あっちだ」と指差すと全員同時に後ろを振り返る。テンポよく進む会話と揃った動きは、映画のワンシーンみたいだ。
スーパーはごくこじんまりした店だけれども、最低限のものはここで揃えられそうだし、惣菜も何種類か並んでいる。僕はズッキーニとトマト、それに鶏肉の入った惣菜と、それにミネラルウォーターを購入する。ホテルの前に戻ってみると、皆の姿があった。イタリア人らしき人もたくさんいる。彼らは、今日から4日間にわたって行われるワークショップに参加するメンバーなのだった。
11時、何台かのクルマに分かれてワークショップの会場を目指す。ワークショップは、ホテルのあるメイナではなく、北に数キロ離れた場所で行われるらしかった。僕が乗っているクルマには、先ほどの3人ともう1人、同じホテルに宿泊している5人が乗っている。彼らは皆、フィレンツェから来たメンバーだ。車内にはクラシックが流れている。バイオリンの音が静かに響く。その音を聴いていると、ボスニアを離れてまた違うところに来たのだなという気がしてくる。
車窓からはずっと湖が見えていた。この湖の名前はマッジョーレ湖、イタリア語で「大きな湖」という意味だという。この湖は本当に大きくて、ワークショップ会場のある町まで40分走っているあいだ、ずっと左手にマッジョーレ湖が見えていた。マジョーレ湖はスイスにもまたがる湖で、イタリア再北部に位置する湖だ。イタリアの避暑地のような場所なのか、途中には宮殿みたいなホテルがいくつも点在していた。湖畔の道を、犬を散歩させる人。本格的なウェアに身を包んで自転車を走らせている人。赤土のテニスコートでテニスを楽しむ人。暢気な気持ちで眺めていると、マシンガンみたいな銃を持った警察が見えてギョッとする。
ワークショップが行われるのは、ベルバニアという町にある美術館だった。
「めっちゃ良い会場じゃない?」
「うん、可愛いね。美術館で出来るの、めっちゃ嬉しい」
発表するのは美術館のギャラリースペースだけれども、今日はまず別のスペースでワークショップを始めることになる。実際にイタリアの人たちと作業を始める前に、マームの皆でミーティングをした。
「今日のワークショップでアピールして言いたいのは、『参加者の皆と仲良くなりたい』ってこと」と藤田さんは言った。「ごはんを一緒に食べたり、一緒に散歩に出かけたりするぐらいの時間はある気がするから――とにかく仲良くなろう。今日はそういう時間だと思ってる」
12時50分、マームの皆と参加者が車座になって、ワークショップが始まった。
「こんにちは、藤田です。今日から4日間、よろしくお願いします。結構長い期間だから、皆さんと仲良くなってやっていきたいなと思っているので、ほんとよろしくお願いします。時間はたっぷりあるので、ゆっくりお互いのことを知って行きましょう。このワークショップで、僕は皆さんにインタビューをしていきます。4日後の19日に、僕らがやったことがそのまま一つの作品になって発表会をするってことがこのワークショップの目標なので、そこに向けて頑張っていきましょう」
ワークショップの初日は、7つの行程から構成されていた。
① 自己紹介
「まずは自己紹介をしていこうかな。ここでまず聞きたいことは一つで、名前だけ教えて欲しい」
まずはマームとジプシーのメンバーが自己紹介をして、それに続けて、ワークショップに参加する10人が自己紹介をする。自己紹介と言っても名前を答えるだけなので、あっという間に次の行程に移る。
② 私あなたゲーム
2番目に行うのは「私あなたゲーム」。このゲームのルールは簡単で、Aさんは「私」といって自分を指し、「あなた」と言って誰かを指す。Aさんに指名されたBさんは、「私」と自分を指し、まだ誰か他の人を指して「あなた」と言う。Bさんに指名されたCさんは……と、どんどん繰り返していく。演劇のワークショップではよく行われるゲームだと、あとで波佐谷さんが教えてくれた。ただ、ここはイタリアなので、「私」は「イオ」、「あなた」は「トゥ」と言うことになる。
「このゲームで重要なのは、相手の目を見るってこと」――そう説明をされて、最初は皆気恥ずかしそうにやっていたけれど、少しずつテンポが速くなってくる。と、そこで少し変更が加えられる。「私」と言っていたところを自分の名前にして、「あなた」と言っていたところは指名する相手の名前を呼ぶ――そんなふうにルールが変更された。
最初のうちはお互いの名前を覚えられてなくて、違う人の名前を呼んでしまったり、名前が出てこなくて詰まってしまったりもする。でも、そのたびに指さされた人は自分の名前を教えてあげている。それを繰り返すたび、少しずつ名前が頭に入っていく。ふと、朝の出来事を思い出した。僕は名前を聞き返すのも申し訳ないなんて妙な気後れをしてしまったけれど、その気後れのせいで、ここベルバニアに来るまでの車中では、結局誰とも会話ができなかった。でも、ワークショップの参加者同士は、この私あなたゲームを通じてすぐに打ち解けていく。僕がクルマで一緒にきたのはアンドレアとジャコモという名前なのだと、ワークショップを見学している僕の中にもインストールされていく。
③ 名前鬼
10分ほど私あなたゲームを繰り返すと、次の行程に移っていく。
「じゃあ、これで全員の名前は覚えたね。ここからちょっと難しくなるよ。じゃあ、次は『名前鬼』っていうのをやるんだけど――まずは普通の鬼ごっこをやってみようか」
藤田さんはそう言ったものの、イタリア語の通訳を担当してくれている佐川さんは、何と訳したものか困った様子でいる。イタリアに鬼ごっこという遊びはないのだ。鬼、というのは、イタリア語で「プレーゾ」と言うらしい。
鬼ごっこのルールを何とか説明すると、まずは普通の鬼ごっこをやってみる。狭いスペースだから、走らずにやってみることに決めた。皆が鬼ごっこのルールを把握したところで、ようやく「名前鬼」に移る。鬼ごっこと名前鬼の違いは、Aさんが鬼のBさんに追いかけられているとき、Cさんの名前を言うと、鬼がBさんからCさんに切り替わるのだ。このルールでしばらくやらせてみてから、藤田さんがアドバイスをする。
「このゲームのコツなんだけど、今は追われてることに焦って、当てずっぽうに誰かの名前を言ってるじゃん。でも、このゲームで重要なのは、誰の名前を言うかってことで。当てずっぽうに誰かの名前を言っちゃうと、その人もすぐ近くにいるかもしれないじゃん。そうじゃなくて、一番遠くにいる人を言えば、自分は逃げれるわけだよね」
そうアドバイスをされると、皆、きちんと全体を把握しながら名前を呼ぶようになる。名前を知って仲良くなるということから、少しずつ「空間を把握する」ということにテーマが移り変わりつつある。
④ 椅子取りゲーム
ワークショップの参加者は、思っていたよりも上達が早かった。「もう、この調子で椅子取りゲーム行っちゃおう」と藤田さんが言う。
「今までの時間は『広く空間を見る』ってことをやってきたよね。次はその応用編。僕が思う良い俳優っていうのは、自分の立ち位置だけで空間を把握してなくて、全部の空間を観てるのが良い俳優だと思う」
椅子取りゲームはまず、人数分の椅子を並べて、鬼をひとり決める。そうすると、1つだけ空いた椅子ができるから、鬼はその空いた椅子を目指して移動する(ここで走ってしまうとあっという間に終わってしまうから、鬼は膝と膝をくっつけて歩くことにする)。鬼以外の皆は、鬼を座らせないように席を移動する。ただし、一旦席離れた席に戻ることはできない。
「鬼に座らせないためには、なるべく空いてた席から遠くに座ってた人が移動したおうがよくて。あと、このゲームは立ち上がるタイミングが重要だから」
ゲームの様子を眺めていると、最初のうちはシンプルに進んでいくけれど、次第に複雑になっていく。実際に地面に立ちながら、空港の管制官みたいな視点を内在させておかないと、「隣の席が空いてしまっている!」と席を離れてしまって、まんまと鬼に席を譲り渡してしまうことになる。
1時間ほど経過したところで、「じゃあ、ここで一回休憩を入れよう」と藤田さんが言った。美術館の外にはテーブルと椅子がいくつも並んでいるので、そこに皆で座ってお昼ごはんを食べることになる。イタリア語と日本語、それぞれの数の数え方を教えあったりしながら、ゆるやかにお昼ごはんを済ませる。
⑤ ウォームアップ
14時25分にワークショップは再開された。
「ここからは身体を激しく動かすことをやってもらうので、ちょっとストレッチをしましょう」と藤田さんが言う。「聡子はマームとジプシーでも身体のケアを担当してるので、聡子に先生をやってもらいます」
こちらでは皆でアップをする習慣がないらしく、参加者は少し不思議そうにしている。BGMとして流れてきたのは青葉市子『0%』。「寂しくてダウンロードしちゃった」と聡子さん。一つ一つの動きを、細かく佐川さんに翻訳してもらいながらストレッチが進んでいく。40分ほどかけて身体をほぐしていく。
⑥ 地図を作る
ストレッチが終わると、5分ほど小休止を挟んで、藤田さんから短いインタビューが行われる。今回の質問は3つ――「普段は何をしてますか?」、「生まれた場所はどこですか?」、そして「今住んでいる場所はどこですか?」ということ。今回の参加者は、アートデザインを学ぶ学生や、パフォーミングアートをやっている人、演劇のディレクターといったメンバーだ。そして、大きく分けると、(メイナも含めて)ミラノ界隈に住んでいる人と、フィレンツェに住んでいる人に分けられる。
住んでいる場所を聞き終えたところで、いよいよ地図を作ってみることにする。
「ここはイタリアの北のほうなんですよね? じゃあ、ここが湖にしよう。ここがマッジョーレ湖。それで、こっちがスイスで、このあたりがシチリアにしよう。それで、皆が今住んでる街があるところにテープを貼って、そこに名前を書いてください。同じ街に住んでる人もいるけど、その街の中でも微妙に違うだろうから、そこも含めて書いて欲しくて。ただ、そのときに――僕は全然土地勘がないから、『そこは違う』とかってことを皆で話し合いながらやってほしい」
⑦ 番号ゲーム
10分ほど経ったところで、「皆、書いた?」と藤田さんが声をかけた。「書き終えたら、自分の名前を書いたところに立ってください。じゃあ、この地図を使って『番号ゲーム』をやってみましょう」
番号ゲームは、藤田さんが指示する3つの“番号”に従って参加者が動かされる。藤田さんが「ウノ」(1)と言うと、皆は自分が住んでいる街のポイントに立つ。「ドゥエ」(2)と言うと、マッジョーレ湖のポイントに集合し、全員で「マッジョーレ!」と言う。「トレ」(3)と言うと壁際に散らばる――この1、2、3の動きを何度も繰り返していく。
複雑なのはここからだ。
「次は、僕が『180』と言ったら、皆に180度回転してほしくて。たとえば、『ウノ、180』って言ったら、皆が『ウノ』のときに立ってたフォーメーションをキープしたまま、マジョーレ湖を中心に時計回りでぐるーっと180度回転してください。オーケー?」
参加者の皆は、最初は混乱した様子だったけれど、何度も繰り返されるうちにコツをつかみ始めた。「ウノ、180!」。「デュレ、180!」。「テレ、180!」――空間の中で、何度もイタリアの地図が反転させられていく。
「今日のワークショップは、ずっと空間のことをやってきたよね。ずっと『広い目で見て』ってことを言ってきたわけだけど、この番号ゲームのコツは、イタリアを上空から見たときに地図がひっくり返るってイメージで。上の視点で見たときにひっくり返るってことがイメージできたら、すごく楽しいと思う」
30分ほど番号ゲームをやったところで、参加者にも課題が出される。それは、自分の住んでいる街からマッジョーレ湖までのルートをテープで貼ること。それが終わる頃には17時になっていて、今日のワークショップは終了した。
朝と同じように、何台かのクルマに分かれてメイナの町まで引き返す。メイナを出るとき、「皆で晩ごはんを食べよう」と話していたけれど、ホテルで待っていても誰もやってこなかった。皆のホテルはWi-Fiがほぼ飛んでいないらしいので、連絡を取ることもできない。同じホテルに泊まっているルイーサも電話をかけながらどこかに歩いて行ってしまって、ぽつんと一人、寂しい気持ちになる。耐えきれなくなってビールを注文し、1杯目を飲み干そうとしていたところに皆がやってくる。スーパーに寄ってもらっていたらしい。ここ数日、ずっと同行しているのに、懐かしい友人たちと再開できたような気持ちになって、涙がこぼれそうになった。