マーム同行記11日目
眠っているあいだに、夜鳴きそばの夢を見た。僕がウトウトしているところに、父が「おい、倫史。夜鳴きそばが来とるで。食べに行かんでええんか」と話しかけてくる。遠くでチャルメラが鳴るのが聴こえる。僕はもう眠たくって、食べようかどうか迷いながら、目をつむったまま「ううん」と答えている――そんな夢だった。初めて父のことを懐かしく思い浮かべた気がする。一体どうしてこんな夢を見たのかと思ったら、ホテルで飼っているニワトリが、少しチャルメラに似た音階で鳴き続けているのだった。
10時半、今日も僕が泊まってるホテルのロビーに皆が集まってくる。出発する前に、皆エスプレッソやカプチーノ、カフェアメリカーノなど、思い思いのコーヒーを注文している。会計は――もしかしたらフェスティバルが後で支払ってくれているのかもしれないけれど――まったく請求されなかった。
「いや、充実してるよね」と藤田さん。「こんなふうに、仕事する前に皆でコーヒーを飲むとか」と笑っている。
「日本だとこういう時間はないんですか?」
「ないですね。行ったとしてもスタバとかじゃないですか。カフェってものが違うよね。この生活に慣れちゃうと、この先が不安だわ」
12時、ワークショップの会場に到着した。今日からは昨日のスペースではなく、発表会を行うギャラリーでワークショップが行われる。絵画が展示されていて、カーペットの敷かれた部屋だ。
12時20分、今日はまずアップからワークショップはスタートする。「橋本さんもアップやろうよ」と荻原さんに誘われたので、僕も初めてアップに参加してみることにした。藤田さんも、「今日は俺もやろう」と言っている。
「今日は朝イチなので、いきなりやるとストレッチで怪我しちゃうから、じっくり身体を開いていきましょう」
今日も聡子さんが先生になって、アップが始められていく。靴下を脱いで輪に加わると、「橋本さん、ボンジョールノ」とあゆみさん。
「ぼ、ボンジョールノ」
「コモエスタ?」と、今度は荻原さんが言う。
「『コモエスタ?』ってどういう意味ですか?」と僕。
「『元気?』って意味です」
「元気ですよ」
「オカピーノ」
「『オカピーノ』ってどういう意味ですか?」
「『承知しました』って」
「……それ、使うことあります?」
「ある、ある」と荻原さんは笑っている。皆、意外とイタリア語を学習しつつある。
アップというからには、何かに向けた準備運動であるはずなのに、僕はそれだけでへとへとになってしまった。ストレッチをしているあいだに「吸いまーす」「吐きまーす」と言われるのだけれども、言われた通りの体勢になるだけで身体が強張り、ほとんど呼吸をすることができなかった。頭に血がのぼったみたいになって、かなりふらつく。そして、自分の身体をいかに思い通りに動かすことができないかを思い知らされる。
アップをしているときに、尾野島さんが隣にいたバレンティーナに「ソックス、キュート」と話しかけている。たしかにバレンティーナのソックスにはペンギンのアップリケみたいなのが付いていてキュートだけど、その唐突さに少しバレンティーナも戸惑っている。
「尾野島さん、酔ってる?」と藤田さん。「素面のテンションじゃないよね?」
「尾野島君は頑張ってるんだよ」と波佐谷さんが言う。というのも、今日はアップが終わったあとで、尾野島さんがボクササイズをやることになっていたのだ。
「日本の劇団の中でも、僕は独特の身体の使い方をするんですね。たとえばボクシングの動きをそのまま劇の構造にしたりもしてるんですね。今日はちょっと、皆にボクササイズをやってもらおうと思います。それで、慎太朗がインストラクターをやります」
尾野島さんはリラックマのタオルを頭に巻いて、目一杯にテンションを上げてボクササイズの指導を始めた。ギャラリーにビートの聴いた音楽が響き渡る。アップだけでもくたびれてしまっていたところに、尾野島さんがハイテンションに進めていくボクササイズで体力が底を尽きてしまった。
尾野島さん大活躍。
14時、お昼ごはんの時間になった。何かを判断する力がゼロになってしまったのか、自分のサンドイッチを半分齧ってコーヒーを買いに行き、帰ってきてからは隣に座っていた実子さんのサンドイッチを食べてしまった(かもしれない)。ちなみに、このサンドイッチは主催者側が用意してくれたものだけれども、ちゃんと昨日とは違う味のものを用意してくれていた。
僕らがランチを取っている近くに、老人がふたり佇んでいた。特に会話をする様子もなく、湖のほうに向けて、ただただ景色を眺めていた。この次の日も、そのまた次の日も、その姿を見かけた。
15時過ぎにワークショップは再開された。まずは昨日やった「名前鬼」というゲームをやってみる。
「昨日もやったけど、今日は新しい空間に来たので、もう一回やってみましょう。皆、お互いの名前はもう覚えてると思うので、どんどんやっていこう」
昨日の今日だからか、皆ルールとコツを覚えていて、昨日よりもスピードアップしている。10分ほど「名前鬼」をやると、次の10分は「椅子取りゲーム」をして、そのあとに昨日と同じ地図をもう一度作ってみる(昨日テープを貼った場所は、ワークショップの会場とは別の場所なのだ)。
この作業が終わる頃には、16時をまわっていた。どこの会場でも、昨日の今日で作ってみても、やはり土地と土地の位置関係で微妙に揉めるのがおかしい。
地図が完成すると、藤田さんによるインタビューが始まった。今日の質問は2つ――「ワークショップ初日の朝、何時に起きましたか?」、「起きてまず、誰と話しましたか?」というもの。この二つの質問に答えて、それぞれの朝の風景を再現してみせることになる。
まず最初に答えたのは、バレンティーナという名前の学生の女の子だ。彼女は9時半に起きてまずトイレに行き、そこから階段を降りてキッチンに向かった。キッチンにはサリータがいて、サリータと「チャオ」と言葉を交わした。
2人目はマリアルイーサという女の子。彼女は9時半に目を覚まし、「バレンティーナ、先にトイレに行って」と伝えて二度寝をした。その次、3人目はジュリオという男の子。彼はマリアルイーサの隣で寝ていた――と、ここまで聞いてわかるように、最初に話をした3人、それにサリータという名前の女の子は同じ部屋で朝を迎えている。
「僕らは4人で同じ部屋に泊まってたから、1人ずつ再現してみせるより、4人いっぺんにやってみたほうがわかりやすいんじゃない?」――自分の朝を再現してみせる前に、ジュリオはそう提案したけれど、藤田さんは「いや、まず一人ずつでやってみてもらいたい」と答えた。
同じようなことはもう一度起きた。
7人目にインタビューに答えたのは、カミーラという女性。カミーラは9時半に電車の音で目を覚ました。起きると、アレッツォ(フィレンツェからクルマで1時間ほど離れた田舎町)にいるフィアンセから「おはよう、カミーラ」とメッセージが届いていた。それを確認するとトイレに行き、シャワーを浴び、窓を開けて服を着る。ベッドをきれいに整え、1階に降りてみると――そこにアンドレアがいた。そこで「チャオ、アンドレア」と話したのが、彼女の最初の会話だ。
次にインタビューに答えたのがジャコモという男性。ジャコモは何時に起きたか覚えていないという。彼は寝起きが悪く、まず隣に寝ていた人に「待って待って、今起きるから」というようなことを半分寝言のようにして言ったのが、おそらく最初の会話だ。そこから何とか身体を起こし、寝ぼけまなこのまま靴を履く。部屋を出ようとしたところで鍵を忘れていることに気づき、取りに戻って鍵を締めて、1階に降りていく――そこにいたのはまたしてもアンドレアだ。そこで「チャオ。ここに座っていい?」と話したのが、最初のきちんとした会話。
さて、二人の朝に登場したアンドレアという男性はというと、9時9分に目を覚ました。ケータイを確認するといとこからメールが届いていたけれど、読むだけ読んで返信はせず、ケータイを放った。少しだけ二度寝をして、起きて窓を開け、着替えを済ませる。そうして隣で寝ていたジャコモ――ジャコモの朝はジャコモの一人芝居で再現されていたけれど、このアンドレアの朝ではジャコモも隣に寝かせられている――に声をかけたけれど、ジャコモはうわごとのようにモゴモゴ言うだけだ。「鍵を忘れないでね」と言い残して部屋を出て、1階に降りるとルイーサがいた。そこで挨拶を交わしたのが、アンドレアの最初の会話だ。
「この3人、面白い」と藤田さんは言った。「最初にジャコモのシーンを観たときは独り言みたいに聞こえてたのが、アンドレアのシーンになると会話として聞こえるのが面白くて。あと、ジャコモが鍵を忘れて取りに戻るってことも、アンドレアのシーンを観ると繋がってくるよね」
たしかに、同じホテルに泊まっているカミーラ、ジャコモ、アンドレアの3人の関係性や、4人部屋に泊まっているバレンティーナ、マリアルイーサ、ジュリオ、サリータの4人の関係性は、順を追って立体的に立ち現れてくる。
「僕の劇で独特なのは何回もシーンを繰り返すってことで、繰り返すことによってわかってくる事実があるって構造になっていて。だから、4人の部屋も、繰り返していくことによって、どういう部屋に泊まってるのかっていうことがわかってくる。繰り返すことによって4人の時間軸もわかってくるし、サリータは2段ベッドに寝てたんだってことも、最初からいきなりわかっちゃうんじゃなくて、繰り返すことでわかってくるのが面白い。さっきジュリオが『4人いっぺんにやったらわかりやすい』と言ってくれたときに、『いや、一人ずつやろう』って言ったのはそういうこと」
全員の朝を聞き終えたところで、時計の針は18時を回っていた。今日のワークショップはここで終了となる。外に出てみると、マッジョーレ湖は夕焼けに照らされていた。女子たちがほとりに立っているけれど、夕日を反射する水面が眩しくて、その輪郭しか見えなかった。湖畔のバーからは陽気な3拍子の音楽が流れている。「これは南イタリアの伝統的な音楽だ」とアンドレアが教えてくれた。今回のワークショップの参加者は北イタリア出身だから、郷土の音楽ではないはずだけれども、皆ステップを刻んで踊り始めた。向こうのほうで、老人が踊りながら赤子をあやしているのが見えた。
19時過ぎ、ホテルまで戻ってくる。他の皆は先に到着していて、もうビールを飲み始めていた。カウンターのところには尾野島さんが立っていて、生ビールを注文しようとしているところだ。が、「もうグラスがないから生ビールは出せない」と言われてしまった。そんなにたくさんビールを飲む習慣がないのかもしれない。
どうしよう、ビールは諦めてワインにしようか――少し迷っていると、「1リッターのビールなら出せる」と店主は言った。
「どうします? 1リッターにします?」
「そうしましょうかね。何だかんだで1リットルぐらい飲んじゃいますもんね」
ということで結局、尾野島さんと僕は1リッターのビールを飲んだ。さすがに手首はくたびれるけれど、イタリアのビールは日本に比べて薄いから、グビグビ飲むのにちょうどいい。ワークショップ参加者も一緒になって、貸し切りみたいになった小部屋で酒を飲んだ。バレンティーナは日本のアニメが好きで、コスプレをしたりするほどだという。アニメの画像も見せてもらったけれど、何のアニメかはわからなかった。
1時間ほど飲んだところで、皆は宿に戻ることになった。というのも、夕食はここではなく、それぞれが宿泊している宿に届けられているのだ。お昼のように1人ずつ分かれたメニューではないけれど、「たぶん橋本さんのぶんも一緒になってるんだと思いますよ」と誰かが教えてくれた。昨日の晩は、頑張っても食べきれない量が用意されていたという。
せっかくだから、皆の宿を訪ねてみる。荻原さん、尾野島さん、熊木さん、聡子さん、波佐谷さん、藤田さんの6人が泊まっている宿。そこはホテルというよりも1軒屋になっていたのだけれども、中に入ってみるとリビングにテントが張られていた。舞台の小(?)道具として使われるテントだ。
「なんか、ツインが3部屋だって聞いてたんですけど、来てみたらダブルが3つで。仕方なく聡子とまるまるは一緒に寝てるんですけど、さすがに男子はダブルで寝れないから、くまちゃんがリビングのソファで寝て、僕がテントの中で寝てるんすよ」
今日のワークショップで藤田さんもアップに参加していたのは、テントで寝ていて身体がガチガチになったからだった。「俺、あのテントで初めて寝たとき、すごいうなされて起きて。っていうのも、すぐそばに教会があるんですけど、その鐘の音が朝からずーっと鳴ってて。目を覚ましても閉ざされた景色しかないから、夢なのか何なのか、よくわかんなかった」
藤田さんが日本から持ってきたナンバーガールのCDを聴きながら、女子2人と尾野島さんが料理を温めてくれるのを待つ。22時、7人で遅い夕食をとる。ラビオリと、大きなチキンと、イタリア風のかまぼこみたいな料理だ。食後はワインを飲みながら、23時過ぎまで大富豪をした。