マーム同行記16日目

 8時20分、ホテルを出て駅を目指す。雨の匂いがする。どうやら昨晩雨が降ったらしかった。8時半を少し過ぎた頃に駅に到着すると、もう皆は駅で待っていた。少し空気がぴりついていて、僕が遅れてしまったせいだろうかと所在ない気持ちになる。

「今、良くないなと思うのは、皆が『明日にはどうにかしてくれるんじゃないか』って推測でやってることで」と、藤田さんは駅のホームで皆に語りかける。「部屋が寒いとか、毛布が足りないみたいなことは、普通に人としての限界じゃん。それはちゃんと言っていかないと駄目だよね。今はまだこうやって話ができるけど、小屋入りしたら俺とかくまちゃんは皆に対して気を遣えなくなっていくわけだから。こっから3週間で3つの場所で公演をやらなきゃいけないわけだから、役者さんたちも自分で言うか、自分でできないならかなやんに言うとかしないと。かなやんはそれをやる係なんだから、遠慮とかしないでどんどん言っていかなきゃ駄目だよ」

 どうも劇場内にある宿泊施設が中々にシビアな環境だったらしい。布団がなかったり、毛布が臭かったり、窓が閉まらなくて風邪を引きそうになったりしたという。皆の宿に対するリクエストをまとめている横で、ひとりホテルに泊まっている僕は、一層所在ない気持ちになった。

「初日は毎回これがあるよね」と藤田さん。
「まあでも、しょうがないよ」とはやしさん。
「入るときに、もっと緊張しないと駄目だな。チェックリストを作って、皆で『これが足りない』とかってことを確認しないと」

 しかし、今回のツアーは本当にドサまわり感のあるツアーだ。宿泊施設のこともそうだけれども、イタリアと聞いて思い浮かぶ街――ローマにもナポリにもフィレンツェにもトリノにもベネチアにも行かず、ツアーをしている。

 ただ、公演はしないものの、今日はフィレンツェでワークショップが開催される。元は監獄だった建物を、今はアーティストが滞在制作をしたり、ワークショップをしたりする場所として改装したそうだ。

 10時過ぎに会場に到着してみると、もう既に参加者たちがアップをしながら待っている。「これ、10時からやる感じできてくれたんだよね。だらだらしちゃったな」と藤田さん。まずは自己紹介からワークショップは始まった。振付家や映像作家、この施設にレジデンスをしているアーティストが主な参加者だ。それと一緒に、ベルバニアでのワークショップに参加してくれていたアンドレアとジャコモの姿もあるのが嬉しい。

「最初にゲームをやります。すごくシンプルなゲームです。まず、自分のことを指して『イオ』(私)と言って、誰かのことを指して『トゥー』(あなた)と言って、その人のところに移動する。これをどんどん繰り返していきましょう。よく相手の目を見て」

 ベルバニアでのワークショップのときにもやった、「私あなたゲーム」だ。しばらくすると、「じゃあ、今度は『トゥー』のところを、その人の名前でやろう」と藤田さんは言った。皆「覚えてないよ」といった様子で笑っている。もう一度全員が自己紹介をして、再び「私あなたゲーム」に戻っていく。

 10分ほど「私あなたゲーム」をやったところで、次は「名前鬼」を始める。まずは鬼ごっこの説明からしなければいけないのだが――今日は経験者のジャコモがいるので、ジャコモから皆に説明をしてもらう。「名前鬼」、そして「椅子取りゲーム」が終わると、地図を作る作業に入っていく。

「ここにいるのはたぶん、皆フィレンツェの人だよね? だから、今日はここにフィレンツェの地図を作りましょう。まず、ここがサンタマリアノヴェッラ駅(フィレンツェ中央駅)だとします。で、あっちが北だとして、皆さんの家はどこにありますかってことを書いて行きましょう。別に厳密な地図が作りたいわけじゃなくて、皆さんの体感でいいから、ああだこうだ言いながら作ってみよう」

 映像作家のステファノだけは少し離れた街に住んでいて、ジャコモとアンドレアもフィレンツェの中でも郊外に暮らしているけれど、後の皆はフィレンツェの中心部に住んでいる。そのせいか、今回のツアーのワークショップの中でも、一番細かい地図が作られていく。ロータリー式の交差点まで再現している人もいる。「職人技みたいになってきてるな」と藤田さんは言った。

 皆の地図が完成しようかというところで、藤田さんはそことは少し離れた場所に四角の囲いをテープで作った。

「じゃあ、僕が『ウノ!』(1)と言ったら、自分の家に立ってください。それで、『ドゥエ!』(2)と言ったら、自分以外の誰かの家に立ってみよう。(参加者が別の人の家に立つのを待って)よし、じゃあこの配置を覚えよう。『ドゥエ!』のときは、皆この位置に立つ。それで、『トレ!』(3)と言ったら、今僕が貼った四角の中に移動して、皆でもっと絡み合って欲しい。もっと近づいて。よし、この形が『トレ!』。それで、僕が言った場所に、素早く移動してほしい。よし、やってみよう」

 藤田さんの「ウノ!」「ドゥエ!」、「トレ!」の号令に合わせて、参加者は地図の上を走り回る。それに慣れてきたところで、「ワンエイティー」の号令も加わった。「ウノ、ワンエイティー!」と言われると、サンタマリアノヴェッラ駅を中心として、皆の配置がぐるりと180度回転させられる。




 こないだのワークショップに比べると、難しそうな顔をしている人が目立つ。前回は4日かけてじっくり関係を築き、藤田さんが理想とする俳優の動きを少しずつ伝えていったけれど、今日はたった3時間しかないのだから、無理もない話だ。振付家であるクリスティーナは、「何でこんなことをさせられているんだろう」といった顔をしている。

 ここまでの動きは、ベルバニアのワークショップでもやってみたことだ。それに加えて、ここフィレンツェでは、もう一つ新しい動きが加わった。

「じゃあ、新しい動きをやってみよう。今の『ワンエイティー』っていうのは、ぐるっと180度回転させるわけだから、ようは天体ショーだよね。今度は、線対称になるように動かしたい。じゃあ、僕が『ウノ・シンメトリーア!』って言ったら、線対称になる位置に移動してみて」

 皆、少し戸惑った様子を見せながらも、線対称になる位置に移動している。この動きをしばらく繰り返し、休憩を挟んだところで皆へのインタビューが始まった。今日の朝は何時に起きて、どんなふうに過ごしたのかを、全員に再現してもらう。8人の参加者が全員朝を再現し終えると、「じゃあ、今と同じことを、角度を90度変えてやってみよう」と藤田さんは言った。

 角度を90度回転させてみると、最初にやったときは皆に背を向けていたシーンが見えやすくなる。

「僕の演劇って、アングルを変えながら繰り返すことが多いんだよね。だから、彼女がカーテンを開けてたシーンとかも、アングルを変えるとこっちに向かってカーテンを開けることになるから、見えづらかったものが見えやすくなる。演劇とか舞台が難しいなと思うのは、座ったところがそのお客さんにとってのカメラになっちゃうってことで。だから、そのアングルを舞台のほうで変えてあげる」

 最初は「何でこんなことを」という顔をしていたクリスティーナも、真剣な顔で頷きながら爪を噛んでいる。イタリアの人は、何か考え事をするときによく爪を噛んでいる。

 ワークショップ最後の30分は、まったく新しいことが行われた。

「ここからは、皆でこの四角いテープを囲んで、皆がそれぞれのタイミングで四角の中に入って出ていくってことをやってみよう。ここがどこなのかは特に設定せずに、言っていい台詞は『ボンジョルノ』だけにする。それで、好きにやっていいんだけど、どこから入ってどう動いて、どう出て行ったのかを覚えておいてほしい。オーケー? よし、じゃあやってみよう」

 ワークショップの参加者たちは、それぞれ好きなタイミングで枠の中に入り、「ボンジョルノ」と誰かに声を掛け、そして枠の中から出ていく。普通に歩いて出入りする人もいれば、へんてこな動きをしてみせる人もいる、とにかく即興で空間が構成されていく。「ボンジョルノ」だけというルールだったのに、なぜか途中から「アリーデベルチ」と言い始めた人もいた。

 全員が枠を出たところで、「はい、オッケー」と藤田さんは中断した。「今のが面白いのは、別にここに設定はなかったはずなんだけど、観てる側には微妙に設定が生まれてくるし、やってる皆にも設定が生まれてくるってことで。じゃあ最後に、今とまったく同じことを再現してほしい。ちょっと難しいと思うけどやってみよう」

 皆は「まじかよ」という顔で笑いながらも、なんとか1回目の動きを再現しようとする。途中、1回目と同じか少し怪しいところもあったけれど、何とかラストまでこぎ着けた。

「1回目に比べて、2回目は皆も意識して設定を作ってるように見える」と藤田さん。「舞台表現っていうのは、反復芸術だと思ってるんですね。もちろん、最初に即興でやったときも面白いんだけど、公演をやるってことは積み重ねていく作業だと思うから、ちゃんと1回目の面白さを残しつつ、繰り返し繰り返し稽古をすることが大切だと思う。だから、僕が舞台の中で繰り返すっていうことは、別に新しいことをやってるつもりはなくて、舞台の歴史の中で繰り返されていることを、1つの作品の中でやってみようってことだから」

 13時、ワークショップは終了した。「今日はすごい面白かった」と藤田さんは嬉しそう。「なんかもう、不満げな顔をしてる人にも慣れてきた気がする。今日は『俺の興味でやらせてくれよ』っていう気持ちになれた」

 13時半、ファブリカ・ヨーロッパの人たちと一緒に、施設内にあるレストランに入った。すぐに注文をして、前菜と飲み物はすぐに運ばれてきたのだけれど、パスタが運ばれてきたのは店に入って1時間が経とうとしたときのことだった。食事を終えたのは15時過ぎで、そこから2時間、駆け足でフィレンツェ観光をした。アンドレアとジャコモがお薦めの洋服屋さんや香水ショップを急いで巡る。皆、目を輝かせて喜んでいる。

 会場に戻ると、スタッフの女性が施設の中を少し案内してくれた。建物はある程度手が施されているものの、一部は当時のまま残っている――つまり監獄として使われていた当時のまま残っているスペースもある。具体的な名前を聞きそびれてしまったけれど、イタリアの犯罪史上に名を馳せる人や、第二次世界大戦中には政治犯なども収容されていたのだという。普段はあまりそんなことを感じないのだけれども、その場にある気配に当てられて、中に立ち入ることができなかった。

 17時半、ワークショップを行った施設まで引き返して、アーティストトークが始まった。フィレンツェ近郊のポンテデーラで公演が行われるということもあって、ファブリカ・ヨーロッパが今回のワークショップとアーティストトークを企画してくれたのだ。聞き手は、イタリアの批評家の男性だ。

――1年半前、マームとジプシーの作品を観れたことは本当に幸運でした。彼らの演劇を観たとき、とても驚きました。今聞きたいことがたくさんあるのですが――あなたは記憶についた扱った舞台を作ってましたけど、その記憶に関することというのはどこから生まれたのでしょうか?

藤田 僕は、日本でもほんとに田舎の北海道ってところで生まれ育ったんですよね。その街を出て、今は東京に10年住んでるんだけど、その10年住んでるってときに、まずは田舎の自分の街のことを思い出したっていうことを描こうとしたのが最初の始まりですね。それで、その記憶っていうのは、良い記憶ばかりじゃなくて――暗い記憶が僕のテーマなんですね。その記憶っていうことについて言うと、繰り返し繰り返し同じことを思い出すわけですよね。インパクトのある事件だったり、記憶だったりっていうことを。その、繰り返し思い出すっていうこと自体を舞台に上げたかった。

――トラウマという言葉は日本では悪い意味になりますが、こちらだと「夢」みたいなこともトラウマと言うんですね。去年の作品の中では、いくつかのトラウマ的な出来事が描かれていました。そこでは一人の女の子の死も扱われていたし、もっと大きなテーマも扱われていましたね。世の中で起こっている出来事――日本には広島や長崎の悲劇や、福島の悲劇もありますが――そういう社会的な出来事と、「自分の友達が亡くなった」といった個人的なテーマとの関係について、どのように考えていますか?

藤田 さっきの質問に対して話したのは、僕のパーソナルな話じゃないですか。その街で育ったっていうことから僕の話は始まるし、この作品で描いているのも「小さな街から出ていく女の子の話」でもあるんだけど、記憶っていうことはパーソナルなことに留まらず、少し大きな話――とてつもない人数が死んだ悲劇のことを、国とかそういうレベルで思い出すわけですよね。すごく小さなところから始まって、そういう大きなところまで手を伸ばすことができたらなってことを考えてます。今回の作品は、僕の作品の中でもそれをすごく極端に描いてる作品だと思うんですね。

――舞台の中で、10年前の記憶を語るシーンがありましたね。それが本当に起こったことなのかどうかはわかりませんが、フィクションである過去を扱うということは、藤田さんの作品の中でどのぐらい大切なことでしょうか?

藤田 でも、僕はフィクションを描いてるとは思わないんですね。今回の作品でもモデルにしている事件はあって、本当に3歳の女の子がレイプされて殺された事件はあったし、そういう事件は日本では結構あるんです。そういう、いろんなモデルを混合させて――ある種のフィクションだと思われるかもしれないけれど、僕としては相当リアリティをもって記憶っていうことに踏み込んでいるつもりです。あと、僕は自分のことを“記憶を描く作家”だと思っていて、未来のことを描こうということは、現段階ではまだ思ってないんですね。だから、過去に起こったことをどれぐらいリアリティを持って描けるかってことを僕はずっとやっているので、そのモチーフがどれぐらい大切かっていうより、それがすべてだよね。どの作品も記憶のことを扱っているから、大切と言えば大切でしかない。

――今の話を受けてお聞きしたいんですけど、舞台を観ていると、俳優達が演技をしているようには見えなかったんですね。俳優達はとても自然で、それにまず驚いたんです。演技をしているはずなのに、それがフィクションのことには思えなかった。すごく遠くにいる自分の友達が話をしているように、自然な感覚で観ることができました。この作品に出ている俳優の方たちは、どのような勉強をしてきたのでしょうか?

藤田 僕と一緒にやってる役者さんたちは、僕と同じ大学の人が多いんですけど、演劇の大学を出ていて、演劇の訓練を受けてきてる人たちではあるんですね。ただ、僕が大切にしてるのは、僕の記憶を、ちゃんとリアリティを持ってやってくれることだと思っていて。それをすごく虚構感の高い身体でやるのではなくて、今回の作品は特に、僕の話をすごく知っている人たちとやりたかったし、「僕はそのときどういう感情だったのか」を体現してもらっているし、体現してもらいやすいように、僕の話を日々聞いてくれてる人たちをキャスティングしているから、今言ってくれたような感想を持ってくれたんだと思う。だから、役者さんではあるんだけど、僕に近い人たちとやってるから、もろに演出をつけてるわけではないですね。

――劇の中では、日本語の言葉で繰り返しがあったりもしますが、僕たち観ている側は、まったく日本語がわからないにもかかわらず――もちろん字幕があるわけですが、それを観なくても、その言葉に圧倒されたのを覚えています。言葉というのはすごく大切なものだと思いますが、海外で公演をするにあたって、他の言葉に訳すということについてどんなふうに考えていますか?

藤田 それはものすごく大変なことで。こないだボスニアでやったときはボスニア語に訳したし、去年サンティアゴでやったときはスペイン語に訳したし、今回はイタリア語にまた翻訳してもらってるんですね。そうしたときに、日本語のニュアンスの細かいところまで伝わっているのかどうか、まだ微妙なところはあって。やっていく中で「ここは変じゃない?」ってことを現地の人に言ってもらって、それを正直に直していくっていう感じですね。あと、日本語を英語に訳してからイタリア語に訳し直すと、英語はすごくシンプルな言語だから、どうしてもシンプルな言葉になってしまうらしくて。とにかく難しいですね。

――マームとジプシーは、“ゼロ・ジェネレーション”の劇団として紹介されています。この“ゼロ・ジェネレーション”にはどんな特徴がありますか?

藤田 えっと、日本の演劇のことを僕なりに話してみると、90年代には平田オリザさんがいて、日常を描いた演劇が盛んに行われていたんだけど、もっとミニマムなものを描こうとする作品が現れたりしたのが2000年代以降の演劇だと思っていて。それは「ポストドラマの世代」だとかって言われているんだけど、2000年代の日本の演劇シーンはかなり試行錯誤が繰り返されていたというか、作品の一つ一つを観ても実験的な10年間が続いたんですね。

 ただ――こっちに来てから、僕が“ゼロ・ジェネレーション”の作家だと言われてるってことをよく話されいていて、どの記事からそれを言われてるのかわからないんだけど、僕は2000年代に活躍した人たちよりもさらに若くて、僕の名前が出始めたのは2010年以降なんですね。2010年以降というのは「テン年代」とか言われているんです。そのテン年代ってことで考えると、2011年の自身のことはどうしても外せないと思うんですね。2011年に日本で地震があって、地震によって原発事故があって、それまでずっと安全な国だとされていた日本が安全じゃなくなった。そうすると、「人が死ぬ」って話を書いたら地震の話と結びつけられたり、「水が飲めない」ってことを描いたら放射能の話に繋げられたりするから、ミニマムなことだけやっていてもいけないようなシーンになっているのではないかと思っていて。だから僕も、今回みたいに大きなモチーフをあえて扱ってみようって感じに、今なってる。

――あなたたちの世代のアーティストにとって、社会的な出来事やグローバルな出来事はどのぐらい大切なことでしょうか?

藤田 えっと、2011年という年があって、僕はその2011年に大きな賞をいただいたんですね。他の劇作家や演出家がどういうふうに取り組んでいるかはわからないけど、“地震のあった日本”っていうことには――まず、お客さんの目がもうそうなってるんですよね。観客の目がそうなってるし、そこであえて社会的な問題を取り上げないとしたら、それは「あえて取り上げない」ってことで避けてるわけだから、社会的な問題を扱っていてもいなくても、結局それを無視できなくなってるわけじゃないですか。だから、2011年っていう年は、日本にとって大きい年でもあったんだけど、その年に大きな賞をいただいて、それを描いてるってことが評価されたから、たぶんこれからも無視はできないし……。去年は第二次世界大戦のことをモチーフにした作品を作ってもいるんだけど、それは取り入れなくてはいけないことの一つだと思います。

 18時50分、アーティストトークは終了した。「難しいな。どう答えていいのか、わかんなかった」と藤田さんは言った。「原発の話をしたいわけじゃないんだけど、結局そういう話になっちゃいますね」

「そうですね。しかもあそこで広島と長崎の名前が出るんですね」と僕。

「ほんとに平等に並べ過ぎてて、超怖い。でも、難しいけど、それを引き合いに出さなきゃ伝わんないのかもしれない」

「それはありますよね。僕らのほうとしても、たとえばボスニアのことを考えるとき、すぐに紛争のこととかを思い浮かべてしまうのと近いのかもしれないですね」

「そうそう。あと、僕が答える内容も、自分でも嫌になるぐらいシンプルな答えをするしかない」

 電車の時間が迫っていたので、バタバタとタクシーに乗り込んで、フィレンツェ駅へと急ぐ。これからロンドンで仕事のあるルイーサとは一旦お別れして、電車に乗り込む。ポンテデーラへと戻る電車の中では、ずっと藤田さんに話を聞いていた。

――なんか、今日のトークを聞いていると、すごく壁を感じましたね。

藤田 感じますね。イタリアの人って、日本人のことをある程度馬鹿にしてる気がする(笑)。あと、ポンテデーラを歩いてると、ほんとに指をさされますよね。ここにきて、すごいドサまわりしてる感じがある。今日も朝起きたら、皆がちょっと苛立っていて。宿のこととか、食べ物のこととか、余裕で文句を言う人がいるじゃないですか。そうすると、連れてきてしまったのは僕だから、「ほんとごめん」ってなるしかなくて。ただ、そのことをわかってるメンバーは、寒いのに「寒くない」とか言っちゃったりして――それはそれで良くなくて。なんか、去年以上にドサまわり感がある。ただ、未映子さんの(「まえのひ」の)ツアーのときも思ったけど、何歳まで何歳までこういうことをできるのかなって考えるんですよ。僕はまだ全然楽しいんですけどね。

――たしかに、「宿はボロいほうがいい」と思ってるわけではないでしょうけど、ちょっとドサまわりを望んでるところもありますよね? それは、何でドサまわりをしたいと思ってるんですか?

藤田 僕はちょっと、空間オタクみたいなところがあるんですよ。「小さい空間から大きい空間へ」っていうサクセスストーリーは僕の中では全然なくて――もちろん大きい劇場でやれるっていう手段が増えるのは嬉しいことだけど――いろんな空間でやりたいって気持ちが強いんですよね。空間に出会ったときのぞわぞわ感が、まだ全然色褪せてない感じがある。その空間に入ったとき、嫌なとこを探すってことは全然なくて、「こうしたほうが良いかも」とか「こっちのほうが面白いかも」ってことを探してるんですよね、常に。たとえばポンテデーラだと、舞台の上手側にドアがあるじゃないですか(開けると劇場の外に出れる扉がある)。今回の公演では、どっかのタイミングでドアを開けたいなと思ってるんです。昨日、その話を部屋でぽつぽつしてたのに、男子が誰も拾ってくれなかったんですけど(笑)、夜でもめっちゃ鳥が鳴いてたんですよ。日本だと夜に鳥の鳴き声をあんまり聴かないけど、劇場の近くで鳥がずっと鳴いていて。あれは面白いなと思うから、どっかのタイミングでドアを開けたい。


 話を聞いているうちに、あらためて思ったことがある。マームとジプシーというのはユニットみたいなもので、演劇作家の藤田さんと制作のはやしさんだけが母体として存在していて、あとは作品ごとに出演者を選ぶスタイルだから、劇団ということではない――と、藤田さんはよくそんなふうに説明している。ただ、青柳いづみさんをのぞけば、他の劇作家の作品に出演する人はほとんどいないし、ここ最近はさらに関係が変わってきているように思えた。

藤田 えっとね、それは昔と今ではすごく感覚が変わったと思います。実子、あっちゃん、青柳さんって人たちは、僕の劇よりも年上の人の劇に出たがってたんですよ。皆もそっちを優先するし、僕にも止める力はないですよね。でも、数年前から、皆の中でそれが逆転するタイミングがあったと思うんです。あと、マームは公演のペースも早いから――何だろう、ここ1年ぐらいのことだと思うんだけど、「自分が出てなくても、追ってないと駄目だな」って意識が皆の中で生まれてきてる気がする。未映子さんのツアーのとき、たとえばまるまるは「スタッフでもいいから行きたい」って言い出したし、こないだの『小指』の現場も、まるまるは結構観にきてたんですよ。実子とかも、もっと役者をやりたい人だったんだけど――そう考えると、『マームとだれかさん』っていうコラボレーションのシリーズは、かなりうまいタイミングで入れたなと思ってるんですよ。あの前後で僕が変わってるってことに、皆も気づいたんだと思う。そうしたときに、別に劇団ではないんだけど、マームの中での役割みたいなことを考え始めたんだと思います。

――昨日も言ってましたよね。「ここにきて劇団感が出てきてる」と。

藤田 そうですね。っていうのも、この作品に関しては、珍しいほど執着心があるんですよ。僕はそんなに再演ってことをやってこなかったし、上演が終わったらその作品も終わるっていうふうに思ってたはずなんだけど、『てんとてん』に関しては旅をしたいなと思ってるし、できれば来年も旅をしたいと思ってるんですよね。去年のイタリア公演のとき、かなり強めに「旅をする意味がなくなったらこの作品はやめる」ってことを言いましたけど、でも、これまではそんなことを言うまでもなくやめてたわけじゃないですか。基本的に再演はしないわけだから。ただ、この作品に関しては続けること込みで考えようと思えた。それは僕にとってスペシャルなことだったんですよね。くまちゃんが舞台監督をやってくれてることも僕の中では重要なことだし、南さんが照明をやってくれていることも重要だし、ツノが音響をやってくれてることも重要だし――なんか、マームの中でも、『てんとてん』って作品は独立国家みたいになっている気がする。

――ああ、この作品に関しては違う法律がある?

藤田 そうそう。なんかもう、一つのチームになっていて。セットに関しても、「この小道具さえ広げれば上演できる」ってところがあるし、人員の配置だったり、ツアーのしかただったりを含めて、このセットになっている幹事が好きなんですよね。ちょっと箱庭的なところはある。こういう作品を、マームを作ったときから僕は作りたかったんだと思います。

――それは、これまでは作らなかったってことですか? 作れなかったってことですか?

藤田 なんかね、作れなかった。それこそレベルが低かったんだと思う。何だろう、難しいなこれは。何でこんなに『てんとてん』に執着してるのかはわからないんだけど、僕的にはかなりテクニカルなことをやってるんですよ。これまでやってきたいろんな要素を、いい具合に散りばめてる作品なんです。ただ、まだ少し隙間がある。たとえば、僕の中では"あゆみ”は死んでる設定なんですよ、実は。そういうことだとか、まだ差し込めることはあるんだけど、今の自分の編集能力ではここまでみたいなところがある。それを編集し続けているのが、なんか楽しいのかもしれない。

 宿舎までタクシーで帰る皆を見送って、劇場のスタッフの女性と2人で街を歩く。夕食をとりたいところだけど、どこかにレストランはないかと訊ねてみると、ここはスモール・タウンだから、この時間になるとほとんどの店が閉まっているのだと教えてくれた。「この時間」というのは夜の9時だ――この街の若者は一体何をして過ごしているのだろう? ただ、「あなたが泊まっているホテルにチャイニーズ・レストランがあって、そこは開いているかもしれない」と教えてくれたので、道順を聞いてスタッフの女性とは別れた。

 たしかにチャイニーズ・レストランが建っていて、そしてまだ営業していた。「その土地の料理を食べ続ける」と決めていただけに、何かに負けた気持ちになりつつも、久しぶりに汁物が食べたくなって中に入ってみる。店員は皆中国人だ。これなら間違いがないだろうと担々麺を注文したのだが、運ばれてきたのは僕の知っている担々麺とは違う料理だった。麺はあきらかにスパゲティーだ。イタリアにきて中華を食べようとしたのが間違いだったのだと自分に言い聞かせて、担々麺だと呼ばれるその料理をナイフとフォークで食べた。