マーム同行記20日目
14時、今日も稽古が始まった。今日は冒頭のシーンからではなく、昨日の公演で気になったシーンを返していくことになる。
「昨日はぶっちゃけ、前半がもたついた感じがあるんだよね」と藤田さんは話を始めた。「学校の休み時間のシーンとかも、もっとワーッとなって欲しいんだよな。っていうか、昨日楽しかった? まあ観てるほうとしては楽しいんだけど――もちろん“あやちゃん”の回想ってことは絶対にやらなくてはいけないことだし、そのストイックさは必要なんだけど、この作品を観て毎回思うのは、本当に中学時代って楽しかったなってことなんだよ。それは、大人として『あの頃は面白かったよね』ってことを言うんじゃなくて、こう、皆はその時代を描くために没頭するわけじゃん。そうやって没頭したときに、『何でこんなふうに手紙を折ってたんだろうな』とか、そういう楽しさみたいなのが出て来るはずなんだよ。
もちろん、楽しかったってことに没頭し過ぎて“あやちゃん”のことを忘れちゃうと駄目なんだけど――思い出して欲しいんだけど、学校には“授業”っていうタイムラインと“休み時間”ってタイムラインがあったと思うんだ。その日の休み時間にはその日の軸があって、休み時間になるたびにずっと同じことでいじられるとかさ、あったと思うんだよ。今はそういう時間の過ごし方をしないけど、中学生の頃にはそういう面白さがあったよね。朝の8時に登校してから夕方4時ぐらいまで、ずっと同じことで責め立てられるとかさ。
飼育小屋のシーンも――“じつこ”は“あやちゃん”がいなくなったせいで鶏に餌をやんなきゃいけなくなるわけだけど、そういう理不尽な抑圧が学校にはあったけど、それは理不尽であるとともに、『何でこんなことやってるんだろう』って面白さもあったはずだよね。それは別に、海外だから伝わらないってことではないと思うんだよね。ワークショップとかやってても、日本人よりも馬鹿馬鹿しいことを馬鹿馬鹿しくやったりしてくれるじゃん。その面白さがもっと出るといいと思ってるんだけど」
狭い視野から考えると、この話は昨日の話と矛盾しているようにも思える(昨日は「ただ楽しいだけになるのはよくなくて、ちゃんと一つ一つが“あやちゃん”との記憶に対して「今思えば」と振り返らなきゃ駄目だ」と話していたのだから)。ただ、ここで言われているのは、そのシーンの一つ一つは――たとえば家出をした“あやちゃん”の話題で持ち切りだった休み時間というのは、その瞬間としては、“あやちゃん”に対する心配がありつつも、いつもと同じ楽しい休み時間でもある。その時間のことを、未来の自分から振り返れば、悲しみが滲んでいるかもしれない、でも、“現在”としては楽しさがなければ駄目だし、その“現在”が未来に従属するような形で演じられては駄目だということを言っているのだろう。
この作品には、あやちゃんが家出をして、森の中でキャンプをしていた2001年という時代と、それから10年経ち大人になった2011年という(2001年のことを振り返っている)時代があり、その上で、今、ここで作品を発表している2014年という年がある。もちろん、2001年にもいくつかグラデーションがあって、“あやちゃん”が家出をする前の時間があり、家出をしてからの日々があり、そして、“あやちゃん”が自殺してしまったあとの時間がある。その一つ一つを独立した“てん”として描かなければ、どこかの時間が死んでしまうことになる。
「学校の休み時間のシーンだと、“あやちゃん”はまだ見つかってないわけだよね。だから、このチャプター1の時間は全部“あやちゃん”を探している時間で、休み時間もずっとその話をしているし、放課後になってもまだその話が続いていて、だから“はさたに君”の手を借りたり、ロッカーをこじ開けて“あやちゃん”の靴下を盗んで、その匂いを犬に嗅がせて探したりするわけだよね。このくだりで一番影響を受けているのはゴダールとかで。
ゴダールの映画を観てると、すごい無駄なことをやるじゃん。『勝手にしやがれ』とかを観てても、お金の調達をするためにめっちゃ頑張るし、すごい細かいお金を盗ったりしていくじゃん。あれは『何を見せられてるんだろう』って感じにもなるけど、でも、だからこそ最後に撃たれるシーンが虚しいものになっていく。まあ、言っちゃうとチープにもなるけど、そうだったよなとも思うんだよ。ロッカーをこじ開けて靴下を盗むとかっていうのも、はっきり言って選択としては間違ってるよね。でも、その間違っていることをすごく真面目にやってたあの時間は楽しかったなと思うんだよ。
“さとこ”とかも、急に森の中でキャンプを始めた“あやちゃん”に対して怒ってたりするけど、それは『何でこんな楽しいことに私を誘ってくれなかったんだろう』ってこともあると思うんだよ。“あやちゃん”の自殺は――皆にとっては唐突な自殺だったと思う。その自殺に対して、昨日も言ったように『今思えば』ってことはあるとは思うんだけど、そこはもうちょっと複雑にしていいと思っていて。自殺とかって、ほんとに自殺されなきゃわかんないところもあるし、自殺されたあとに『今思えば』ってことはあると思うんだけど――たしかに、“あやちゃん”の手紙を読むと『何か抱えてるんだろうな』ってことはわかるけど、自殺するってことなんかは想像もしてなかったと思うし、さっきも言ったように『何で誘ってくれなかったんだろう』って気持ちもあったはずなんだ、“あやちゃん”が自殺する前の時点では。そこが『何かを抱えている“あやちゃんに対して、話を聞いてあげることができなかった私たち』ということだけに回収されてしまうと、物語として立ち直れない」
去年から『てんとてん』のツアーに同行しているけれど、藤田さんからの話がいよいよ微細な話になってきているのを感じる。去年のツアーは、もう少し広い話――たとえば音についての話や、作品と旅をすることについての話のほうが多かった印象がある。
稽古は16時には終了した。昨日と違って、今日は18時半開演と標準的な時間に開演するから、皆てきぱきと小道具をセットし、衣装に着替える。17時40分に集合して記念写真を撮った。
開場時刻は18時だと聞かされていたけれど、18時15分になってもお客さんは入ってこなかった(でも、開場が大幅に遅れることにも慣れてしまった)。役者たちは舞台にいて、台詞を反芻したり、じっと椅子に座ったりしている。と、その場にしゃがみ込んでいた聡子さんは、客席にいた藤田さんのもとに近寄り、何か訊ねていた。藤田さんはしばらく聡子さんに何か話をして、それが終わるとテントの向こうにいたあゆみさんの元に近づき、再び何か語りかけていた。
お客さんが入り始めたのは、開演時刻を6分過ぎたことだった。昨日を上回る65人ものお客さんが詰めかけてくれて、客席はあっという間に満杯になり、すぐに開演の合図が出た。こうしてポンテデーラでは2日目にして最後の公演を迎えた。
今日の公演には、メイナやフィレンツェでのワークショップに参加してくれた人がたくさん観にきてくれていた。ファブリカ・ヨーロッパでも作品を発表したことのあるダンサーのクリスティーナは、藤田さんに「動きがまるでダンサーみたいだった」と感想を伝えている。
「良かった。ダンサーの人に観てもらうのは緊張する」と藤田さん。
「すごく振付的だったし、動きも完璧だった。リズムがずっと変わり続けていくことが、すごく特別なものに見えた。ものすごく特別だし、繊細だし、正確だった」
この劇場のプロデューサーでもあるルカは、今日も観劇してくれていた。
「昨日も良かったけど、今日は本当に良かった。あと、このサイズが良かった」と藤田さん。
「僕はこのサイズが良かったことを知ってたよ」とルカ。「何でか知ってる? 最初は大きいほうのスペースで上演してもらうつもりでいたけど、考え直したんだ。去年のフィレンツェ公演の印象からすると、大きいほうのスペースはちょっと劇場っぽさが強過ぎる。もう少し小さいスペースのほうがいいはずだと思って、この場所を選んだんだ」
「そうだね。シー、シー」
「今日の公演も良かったと思う。今度また、未来に何ができるのか、一緒に考えてみよう」
ちなみに、最初にマームとジプシーの作品を映像で観たとき、ルカの印象はあまり良くなかったらしかった。ルカは現代演劇が専門ではなく、もっと古典が専門の人なのだ。でも、去年のフィレンツェ公演を観て、マームとジプシーのことを高く評価してくれて、それが今年の公演にも繋がっている。マームとジプシーの活動がこうして蓄積されていった先に何があるのか、今はまだわからないけれど、それはとても楽しみでもある。
観客の中には、メイナでのワークショップとフィレンツェでのワークショップ、その両方に参加してくれたアンドレアとジャコモの姿もあった。
「今年はどうだった?」と、去年の公演も観てくれたアンドレアに訊ねてみる。
「モア・カラフル!」と、アンドレアはその第一声で言った。「パフォーマンスも力強かったし、音楽もエモーティヴな雰囲気を作り出していた。僕が思うに、場所も去年より良かったと思う。去年公演をやった場所は駅だった建物だけど、ここは劇場だからね」
「役者の皆はきっと、ボスニアのときに比べても逞しくなってると思います」と僕。
「そうだね。聡子は本当に力強かった。彼女は僕が観た女優の中でもベストの1人だと思うよ」
アンドレアは、ワークショップのレポートも書いてくれていたし、若い劇作家でもあり劇評も書いている人だから――いや、というよりもほぼ同世代の人間として、もう少し踏み込んで聞いておきたいことがあった。
「去年の『てんとてん』では、“あや”が死んだかどうかははっきりしない設定だったけど――」
「うん、覚えてるよ」
「今年は“あや”は死んだことになっているけど、その変更についてどう感じましたか?」
「でも、去年も“あや”のシーンはサッド・モーメントだったよね。今年はそれがよりクリアにはなったと思うけど、印象としてはそんなに変わらないかもしれない」
「“あや”は自ら命を絶つという設定になっていますよね。日本では毎年、3万人もの人が自殺しています。イタリアではきっと、そんなに多くの人が自殺をしていないですよね?」
「そうだね、イタリアではそんなに一般的なことではないと思う。たぶん、ヨーロッパの北部ではもっと多くの人が自殺してるけど。ヨーロッパの北部と日本に共通するものがあるのかどうか――それはわからないけれど、イタリアに関して言えるのは、僕たちはあらゆるコンテクストの中で生きている。他の国の人がやってきては新しいネーションを作るし、新しいステートを作るし、教会も作るし――だからイタリアの人はこう言うんだ。『オーケー、イッツ・ノット・ソー・グッド、バット・ウィー・リブ』と。ただ、“あや”に関して言うと、彼女はとても繊細なキャラクターだし、3歳の女の子が殺されたことに敏感に反応してもいるけれど、彼女はとてもポジティヴなキャラクターだと思ったよ」
「もう一つ。ワークショップのときに、皆が自分の生まれ育った街を離れるときの話を聞かせてもらったと思います。この作品でも、街を離れるシーンが描かれてますよね。そのシーンについてはどんな印象でしたか?」
「あのシチュエーションは、僕らにも共通するものだと思うよ。特に演劇の仕事をする人はね。演劇の仕事をするためには、家族と離れて都会に出ないといけないし、それは父親や母親にとっては必ずしも良いチョイスではないからね。ただ、イタリアでは、ああいうシチュエーションというのは、一般的にはイタリアの外に出ることを指すことが多いかもしれない。たとえば、ポンテデーラの街を出てロンドンに行く――とかね」
藤田さんはアンドレアとジャコモ、それぞれとツーショットで自撮りをしていた。隣で見ていたはやしさんが、「藤田君は気に入った男子がいると、ツーショットを撮り出しちゃうから」と言っている。「男優には興味がない」と時々口にしている藤田さんにしては、それは結構珍しいことだ。
アンドレアとジャコモもキッチンに招いて、一緒にお酒を飲む。飲んでいると、アンドレアは1冊のノートを取り出し、荻原さんに手渡した。メイナで一緒に飲んだとき、このツアーのあと延泊してローマに滞在する予定の荻原さんは、アンドレアに「ローマのおすすめは?」と訊ねていた。そのとき、口頭でもいくつか説明してくれていたけれど、それを1冊のノートにまとめてきれくれたのだ。その手書きのノートには、ローマでおすすめのスイーツだとか、いろんな情報が絵を交えて記されていた。そのお礼に――というわけでもないけれど、アンドレアとジャコモににゅうめんを振る舞った。
皆がワイワイ飲んでいるとき、僕は聡子さんをつかまえて少し話を聞いた。聞きたかったのは、開演直前のことだ。
――本番が始まる15分くらい前に、聡子さんから藤田さんに話しかけて何か聞いてましたよね。あれはどんなことを聞いてたんですか?
聡子 今日の稽古のときに、「もっと複雑にやっていいよ」って話がありましたよね。今日の稽古場で、“あやちゃん”が死ぬことに向かい過ぎてるって話もあったじゃなないですか。それで、自分としてもシーンの中に入り込んで、皆の中から外れていく“さとこさん”がいつつ、それを2011年から見ている自分もいつつ、2014年から見ている自分もいつつ――その、シチュエーションがシチュエーションとして思いされていればいいんだなってことはわかるんだけど……。わかるっていうか、私の中で、その「何かに偏り過ぎないで」ってことに対して腑に落ちてないことは何もないんだけど……何だろう。藤田さんの声で聞いておきたかったみたいな感じかもしれないです。
――それを訊ねたときに、藤田さんはどんな話をしてたんですか?
聡子 そのときは、藤田さんが出てきたときの話をちょっと聞いて。聞くのがぎりぎり過ぎたから、あんまり言葉を選ばせてあげられなかったかもしれないですけど、最後の駅での別れのシーンで、“さとこさん”が“あゆみちゃん”に「ごめん」って言うところとかも――ちょっと、私の性格だと、今までは“自分”(「こんな街」と言って出ていく“さとこ”)が間違っているとも“相手”(「私は残るよ、この街に」「“さとこちゃん”が言うこんな街に」という“あゆみ”)が間違っているとも思わずにやってたけど、今日話を聞いて「あ、ここはちょっと違った」ってことがわかったんです。私は上京したことがないからわからないけど、藤田さんは「上京するときに、ほんとに申し訳ない気持ちになった」と言ってたんですね。親とか、兄弟とか、死んだ人とか、あとは友達――ほとんどいなかったけど、数少ない友達に対して、申し訳ない気持ちになった、って。「その街からいなくなるってことは、死んだ人と同じことじゃないか」って。そういうことを藤田さんは言っていて、え、申し訳ないなんて思うんだなって、そんなこと思わなくてもいいのになって、思ったんです。私はあんまりそういう気持ちで演じてなくて、最後の「ごめん」って台詞も、もっと全体的なことで言ってた気がするんです。
――そうですね。特に去年は、そこの「ごめん」の意味は今年より明確にされてなかった気はします。
聡子 だから、上京するときに「申し訳ない」なんて気持ちになるんだなってことが、今日の直前に藤田さんに聞いてみて、ちょっと発見だった。
――不思議に思ったのは、あれはほんとに開演直前だったじゃないですか。あのタイミングで話を聞いておきたいというのは、どういう気持ちなんだろうと思って。僕は舞台に辰人間ではないから、どうしたってそれはわからないことだから、それを聞いておきたかったんです。
聡子 もし聞くタイミングがあれば聞いたほうがいいなとはずっと思ってたんですけど、昨日の夜に私がサングリア作ってるときも、(藤田さんは)ずったまねぎを切っていて、聞けなくて。ただ、どう考えても自分の中で考え足りてないし、ちょっとギリギリまで自分で考えたほうがいいなと思ってたんですけど、お客さんが全然入ってこないし、聞かなくてもできないことはないんだけど、なんか、聞いておきたいなと思った。
廊下で聡子さんに話を聞き終えたところに、あゆみさんがやってきた。今度はあゆみさんにお願いして、少し話を聞かせてもらう。
――開演前、藤田さんがあゆみさんに何か話をしてましたよね。あれはどんな話をされてたんですか?
あゆみ 言われてたのは、“さとこちゃん”とのお別れのシーンのことで。そのシーンが、“さとこ”と“あゆみ”に集約されてるのが嫌だって言われたんです。
――ああ、二人だけのシーンになっている、と。
あゆみ “さとこちゃん”はこの街から出ていくっていう選択をしたし、“あゆみ”はこの街に残るっていう選択をしたけど、もう一人、“あやちゃん”は死んでこの街からいなくなるって選択をした――だから、この街ってことを中心にして、皆がバラバラになったってことを考えて欲しいって言われました。
――そういう話を直前にすることって、どういう影響を与えるんですかね。というのは、昨日と今日とで、全体のノリが違うなと思ったんですよね。
あゆみ そうね。昨日と今日でだいぶ違ったのは、そこかもしれないね。昨日は、開演前にたかちゃんが“あやちゃん”の話をしたじゃない? それに、昨日はポンテデーラでやるってことに対しても緊張感があった回だと思うんだけど、今日の稽古でのダメ出しもあって――「楽しいシーンをもっと楽しくして欲しい」って話があったじゃないですか。今日ダメ出しをされているとき、「こんなに細かいことを言われるのは久しぶりだな」って思ったんですよね。たぶん、全体ができたから、一つ一つの細かい話ができるようになったのかもしれないですけど。
――昨日問題になっていたことは、土地をどう踏んでいくのかってことだったと思うんですね。その話のあとに昨日の本番があって、今日の本番があって、実際にはどういう手応えがありましたか?
あゆみ 実際の手応えか。そうだね。稽古のときは、誰もいないがらんとした客席に向かって台詞を言うことになるじゃない? そうしたときに、あゆみが問題としてる台詞のところがやりづらかったんですよね。それで、本番のときはお客さんがいっぱいいて、その人たちを見てやってみて、手応えは――ボスニアで感じたみたいな手応えはぶっちゃけなくてね、そこは結局、迷って終わっちゃったかもしれない。でも、ポンテデーラってことは特に思えなかったかもしれないんだけど、ただ、たかちゃんが言ってたように、誰にでも歴史があるというか、観にきてくれは一人一人にってことでは言えた気はする。昨日とかは特に、迷っちゃったけどね。
――なんかでも、そこはすごく難しいですよね。この作品に関して言うと、すべてが決定されてしまった時点で死んじゃうわけじゃないですか。そこの不確かさを常に持っていなければいけない作品なんだと思うんですけど、実際に台詞を言ってる役者さんは大変だろうな、と。
あゆみ なるほどね。そっか。じゃあ、それでいいのね。
――僕が言うのは余計なことかもしれないですけど、昨日、あゆみさんが「何を思えばいいのか」ってなったことはすごく真っ当なことだとも思うし、逆に言うと、何の疑問も抱かなくなったときに、この作品をまわす必要はなくなるんだと思います。
あゆみ ありがとうございます。なんか、ちょっともうすいませんって思った。昨日のあんな感じとか、すごい恥ずかしいなと思って。ヤバいなこれはと思ってたけど、そっか、真っ当なんだ。そうだよね、でも、そうですよね。どうしてもそれを求めちゃうけど、「これでいいでしょ」って思っちゃったら駄目だもんね。きっと、大変じゃなくなったらダメなんでしょうね。腐っていくんでしょうね。
話を聞いているあいだ、花火のような音がずっと響いていた。時刻は23時になろうとしている頃だった。こんな時間に、まさか花火が上がっているわけはないだろう――半信半疑で外に出てみると、そこには本当に花火が上がっていた。日本から遠く離れたポンテデーラという街で花火を眺めるというのは、何だかとても不思議な心地がした。芝生の上に立って、皆でただただ花火を眺めていた。
帰り道、いつもはとっくに閑散としているはずの街が、どういうわけだか活気に満ちていた。20時か21時に閉まっているはずの店が開いていて、バーにはお客さんが入りきらないほど集まり、路上に溢れ出してビールを飲んでいる。あとで知ったのだが、この日は夏時間最後の日だった。夏の終わりを洗い流すように、この日は皆でお酒を飲んで過ごすのだろう。