マーム同行記23日目

 朝8時に起きる。午前中は部屋で日記を書いていた。外に出てみると、荻原さんは庭に並ぶテーブルで手紙を書いていた。ここアンコーナに滞在する4日間、荻原さんと僕は文通をしてみることにしたのだ。

 きっかけは、ポンテデーラの夜だった。

アンコーナにいるうちに、荻原さんにも話を聞きたいんです」

 キッチンでお茶を飲んでいた荻原さんにそう話しかけてみると、「私、答えられる気がしないんだけど」と荻原さんは言った。たしかに、話を聞きたいと言いながらも、荻原さんにうまく話を聞ける気がしなかった。メイナでの休日、マッジョーレ湖のほとりを歩きながら荻原さんと話をしたときにも、この人からうまく話を聞ける気がしないと感じていた。質問をぶつけてみても、交わされて終わるだろうと思っていた。それは、荻原さんに答える気がないというわけではなく、会話という形式ではうまく言葉を紡ぐことができないのではないかと感じていた。

「手紙、とか?」――どうすれば話を聞くことができるだろうかと頭を抱えていたときに、荻原さんがそう提案してくれた。聞いた瞬間に、それは素晴らしいアイディアだと思った。手紙なら、荻原さんも頭の中にあることを言葉にしてくれる気がするし、この『てんとてん』という作品の中にも文通をするシーンが登場する。そこで文通をしているのも、荻原さんが演じる“あやちゃん”というキャラクターだ。

 僕はポンテデーラを出発する前の晩に、荻原さんに手紙を書いていた。その内容が、これだ。

 手紙でやりとりをしようと言ってみたものの、いざ書き始めてみると照れくさい気持ちになって、さっそく少し後悔してしまっています。でも、せっかく書くのだから、なるべく素朴な気持ちで書いてみようと思います。

 僕は、今回のツアーについて、最初から同行するつもりではありませんでした。本当に、8月5比に行われた講演を観たときに、「これは観に行かなければ」という気持ちになって、今回のツアーに同行させてもらうことになったのです。

 去年の『てんとてん』は、僕にとって美しい作品でした。でも、今年の『てんとてん』は、美しいというよりも愛おしい作品だと感じたのです。どうしてこんなに愛おしく感じるのだろうーーずっとそのことを考えていたのですが、ポンテデーラ公演の2日目の稽古のとき、藤田さんが話しているのを聞いてやっと納得がいった気がします。そこには、自分が少年時代に感じていたのであろう色んな感覚が詰まっていたのだと思います。それは「懐かしい」とか「愛おしい」とかって言葉で片付けられるものではありませんが、いろんなものがないまぜになっていて、何とも言えない気持ちになってくるのでした。

 自分の中学時代のことを思い返してみると、恥ずかしいことばかり思い浮かんできます。僕は地元の公立校に通っていて、そこはサッカー部のない学校だったのですが、昼休みの時間になるとボールを持ってサッカーをしに駆け出していました。雪の秀も、誰もいないグラウンドでPKの練習をしていました。小学生のときにJリーグが開幕して、僕は急激にサッカー少年になったのです。ただ、そのあとすぐに『スラムダンク』がヒットして、皆はバスケットボールに夢中になってしまい、中学生になる頃には一緒にサッカーをしてくれる人は少なくなっていました。それでも、僕はひとりでサッカーをしていました。そうしていれば「あんな熱心な少年がいるのか!」と誰かに発掘してもらえるのではないかと、心のどこかで思っていた気がします。

 今思えば荒唐無稽な話で、記憶から消し去ってしまいたい思い出でもありますが、そういうことほど記憶から消えないものですね。

 中学生の頃、荻原さんはどんな学校に通っていて、どんな子供でしたか? どんな記憶が残っていますか? 荻原さんにとって、中学に通っていた時期というのはどんな時代でしたか?


 『てんとてん』という作品んいは、「大人たちは……」という台詞が出てきます。まさに荻原さんが語る台詞ですね。

 僕の学校は、学ランのホックを外しているだけで怒られるような学校でした。2つ上の学年までは、男子は強制的に坊主にさせられていたし、女子はみんな、くるぶし近くまであるスカートを履いていたし、自転車通学の子はヘルメットを着用し、冬になるとオレンジ色のウィンドブレーカーを着ていました。中学校にあがって、最初に英語の授業を受けるとき、「手は膝の上!」と怒鳴られ、どうやってノートを取ればいいのだろうと途方にくれたのをおぼえています。

 今考えると(いや、当時からそう感じていましたが)いわゆる管理された教育を受けていたのだと思います。ただ、そこで「大人たちなんて!」ということを口にできない微妙な気持ちがあったようにも記憶しています。それは、ごく個人的には、僕の両親が教師だったせいもあるのかもしれません。中学3年のとき、担任の先生から「お前は親が教師だから、教師のことをなめてるんだろう」と言われたことがあります。それは個人的な話だけど、中学生の頃は「キレる14歳」だとかっていう言い方がテレビや新聞でされていて、そんなふうに言われてしまうと、教師に反抗してみたりすることがすごく型にはまったことのように思えてしまって、ただただ大人しく、その時期をやり過ごしていた気がします。

 荻原さんは、中学生の頃、大人という人たちに対して何を思って過ごしていましたか? どんな大人になりたいと思っていましたか? そして、今はどんな大人でありたいと思っていますか?

 聞きたいことはたくさんあるのですが、1通目はこれぐらいにしておこうと思います。

 ただ、最後にもう1つ。

 藤田さんが、ポンテデーラ公演2日目のとき、「え、皆、やってて楽しい?」と聞いてましたね。荻原さんは(役者として舞台に立つことが、という意味ではなく)あやちゃんというキャラクターを演じていて、楽しいと思うことはありますか?

2014.10.26
橋本倫史


 この手紙に対する返事を、庭にあるテーブルで荻原さんは書いていたのだ。14時過ぎに書き上がった手紙を、荻原さんはキッチンで僕に手渡してくれた。せっかくだからと、僕は紅茶を淹れて、荻原さんが手紙を書いていたテーブルの向かい側に座って封を開けた。中にはどんぐりが入っていた。


橋本さん
2014.10.28 in アンコーナの庭にて(寒い!!)

 お手紙ありがとうございます。
 たったの2行で、かれこれ30分過ぎました。
紙を探すので3日間が立ちました。

 14歳ぐらいのことは、14年前までさかのぼります。
 今、28歳なので、ちょうど半分くらい月日が経ちますね。

 中学生の頃のは私は、どんなだったかなって、ここ何日か考えていたけど、正直なところ楽しかったことが思い出せないでいます。自分のこともよくわからず、先生のことも、親のことも誰も信じていないような、ひねくれた中学生だったんじゃないかなって思います。

 私の通っていた学校は、とってもあれていたので、いじめの対象が毎日違うような、けんかの絶えない学校でした。

 小学生のときは優しかった男の子が、いじめの中心のグループに入って、あばれていたり、不登校の子は存在自体忘れられ、たまに学校に来ると、またいじめられるの繰り返しでした。

 友達もたくさんいましたが、中1のときに、JRの社宅が取り壊されて1番仲のよかった女の子が引っ越していきました。手紙じゃ書けないくらい、ささいなことに、傷ついては、傷をおって、その対処方法がわからず、親にあたって、3年間が過ぎていった気がしてます。

 ただ、何でこんなに思い出せないのかなって、考えてみたところ、たしか18歳くらいの時、(専門学校1年)初めて中学校の同窓会があって、それに行ったんですね。そしたら、当時、いじめの中心にいた男の子が何人か来ていて、中学を卒業して3年くらい経った頃だったんだけど、その時のいろいろが、ぐわっと尾奈子の底からでてきたんですね。3年越しだったんだけど、その時に、やっと、自分は、傷ついてたんだってわかったんです。あっトラウマってこういうことだって。あの時は、今生きるのに必死で、自分がどんなことに傷ついていて、どう守っていったらいいのかが、わからなかったんだなって、今になってやっとあの時のことがわかります。

 きっといっぱい笑ったこともあるんだろうけど、28歳の今は、まだ苦しかった気持ちのほうがいっぱい思い出されます。10年も20年も先の未来かもしれないけど、ふと楽しかったことが、お腹の底からわいてきたら、また手紙書きますね。

 少し矛盾してしまうけど、いろんなことにすぐ傷ついて、感情的になれたり、笑ったり泣いたりできるこっって、たくさん歳を重ねると薄れていくような気がしていて、でもそのまっさらなシンプルな部分も、体と心は知ってるからなるべくシンプルな心でいたいなって思う。よ。

 そんな大人でありたいよね。

 とても寒くて、もうこれ以上、外にいれそうもないので、最後に、舞台を創る時間は、楽しいけど、それとこれとは別な気がしているよ。橋本さんは、どういうときが楽しいとき?

オギワラ アヤ

 手紙を読み終えてキッチンに戻ると、昼食の支度が整っていた。それを食べているうちに、何人も来訪者があった。今日から2日間、この場所で行われるワークショップの参加者たちだ。急いで食事を済ませて3階にあるスペースに移動して、14時、アンコーナでのワークショップが始まる。

「こんにちは。えっと、今日から2日間、よろしくお願いします」――まずは藤田さんが参加者に挨拶をする。ここでは日本語とイタリア語を通訳してくれる人はいないので、まずは門田さんが英語に翻訳し、それをワークショップ参加者でもあるマッテーロという男性がイタリア語に翻訳し直してくれる。

「僕らは10月の最初のほうからツアーをしてきて、ボスニアからマッジョーレ湖の近くイあるメイナって街に移動して、そのあとフィレンツェでもワークショップをやったから、ここがヨーロッパでは4カ所目のワークショップなんですけど、すごく楽しみにしてます。時間は2日間あるので、ゆっくりやっていきましょう」

 今回の参加者は10人だ。事前の情報だと20代前半から35歳くらいまでと聞いていたけれど、もっと幅広い世代の人たちが集まっている。全員が自己紹介をして、今回もまた「私あなたゲーム」からワークショップが始まった。いつものように、最初は「私」「あなた」と呼んでいたところを、途中からその人の名前に切り替えていく。最初は名前を覚えておらず、少し詰まったりもする。

「日本人の皆は、わかんなかったら日本人に当てていいから。テンポ落とさないで」と、藤田さんがマームの役者たちに指示を出す。門田さんは藤田さんの意図を汲んで的確に翻訳をしてくれるけれど、2段階に翻訳をするとなると、どうしても少し間が生まれてしまう。「名前鬼」や「椅子取りゲーム」をやるときにも、どうしてもその間が生まれてしまった。

 今回の参加者は役者ではない人も多いのか、どのゲームも少し苦戦していた。毎回藤田さん自身から説明があるように、これは「いかに空間を把握するか」というゲームであるのだけれど、楽しくレクリエーションをやっている空気になってしまう。

 14時40分、一通りゲームをやってみたところで休憩になった。「ここで10分間の休憩にします。皆、下でコーヒー飲もうよ」と藤田さんが誘い、参加者の人も一緒にキッチンでコーヒーブレイクを取った。ふとルイーサに目をやると、『インスタント・ジャパニーズ』という本を読んでいた。一体どんな内容なのだろうと少し見せてもらうと、「私は富士山が好きです」という例文が載っていた。「こんなこと、言う機会ないよ!」――そう笑いながらも、ルイーサにはただただ頭が下がる気持ち。今回の旅で、ルイーサは単に仕事して同行しているのではなく、ずっと僕らとコミュニケーションを取ろうとしてくれている。


 20分ほど休憩して3階に戻る。参加者の一人、フランチェスカはもうそこで待っていて、「10分休憩と言っていたのに、10分じゃなかった」と笑ってる。いつのまにか僕らもイタリア時間で過ごすようになってきている。藤田さんは「イタリアン・スタイル」と言って笑っている。ワークショップが再開されたのは、15時5分になる頃のことだった。

「ここからは、もう少し皆のことを知っていきたくて。というのも、明日は小さい発表会をやるつもりなんですね。どういうプレゼンテーションをやるかというと、今から僕が皆にインタビューをして、それがそのまま作品になるってことをやりたいんですね。今日は皆、いろんな場所からこのレジデンス施設に来てくれたと思うんだけど、そのルートを今から床に描いていこうと思います」

 最初にまず、宿舎のポイントを決めて、マーレ(海)のラインを決める。その上で、自分の家がどこにあるのかを、それぞれが貼っていく。

「じゃあ、僕が『ウノ(1)!』と言ったら、自分の家の上に立ってください。それで、『ドゥエ(2)!』と言ったら、誰か違う人の家に立ってください。あともう一つ、『トレ(3)!』と言ったら、皆でこのマーレの上に集まろう」

 この「番号ゲーム」が終わると、いよいよ皆に、今日家を出てからワークショップ会場に来るまでのことをインタビューしていく。

 ここまでのゲームを観ていると、「本当に発表会にまでこぎ着けられるだろうか」と少し不安に思っていたけれど、それぞれの朝の風景を再現してもらうと、ここまでのどの会場よりも面白かった。

「日本でやるより、こっちでやるほうが幅があって面白い」――この日のワークショップが終わったあと、藤田さんはそう言っていたけれど、たしかにイタリアの人たちは恥ずかしがることも、また、妙に自分をアピールするでもなく、面白い動きをしてみせてくれる。

「こんだけやってると、掴めてくるよね。あと、どの場所でもそうだけど、こっちの人はシャワーの浴び方が適当だよね。動きだけ見てると、ほんと流してるだけだよ。だから香水があるんだと思うけど、日本人としては座ってしっかり洗いたいよね」

 ワークショップが終わると、僕は部屋に戻って手紙を書いた。しばらく経つと、キッチンから「はしもとさーん!」と大声で呼ぶ声が聞こえた。夕食の準備が整ったらしかった。この日は皆で料理をして、いろんなメニューがテーブルに並んでいたけれど、中でも印象的なのはルイーサが作ってくれた料理だ。プレートの中央には茄子やパプリカ、ズッキーニを炒めたものが載っていて、その周りを囲むようにしてライスが盛りつけられていた。「そろそろお米が食べたいんじゃないか」と気を利かせて、ごはんを炊いてくれたのだろう。ごはんには塩が振ってあって、塩むすびみたいな味がしてとても美味しかった。この料理を訳にはいかないと思って、お腹が満杯になるまで食事を続けた。

 今日は昼のうちに、ルイーサのクルマに乗せてもらってスーパーに出かけていた。そこでビールを15本、それに5リットル入りの赤ワイン――これだけ入って9ドルと格安――を買っておいたので、酒は十分過ぎるほどある。

 23時、皆が部屋に戻った頃になって、藤田さんは料理を始めた。ポンテデーラでも作っていたオニオンスープだ。「橋本さん、何か音楽流してくださいよ」と言うので、パソコンを持ってきてニール・ヤングビートルズを流すことにした。料理が完成するまで、赤ワインを飲みながらぽつぽつと言葉を交わす。

「今回の役者さんは6人ですよね。どの作品にも出てる人もいるけど、それぞれとの関係は作品ごとに違うんですか?」

「ああ、そうかもしれないです。まるまるとかはわかりやすいですけど、毎作品違いますね。まるまると何がやれるのか、毎回もがいてるんですけど、いつも良い感じで結果が出るから、また次もやりたいなって思うんですよね。もし『もう見えないな』って人のことはドライに切るし」

「その切るっていうのは、次が見えないってこと?」

「そうっすね。僕のほうでも新しいことが浮かんでこないし、その人にとっても僕とやらないほうがいいんじゃないかと思ったら、その人との作業は終わるんですよ。それは稽古レベルで感じるんですけど――歯ごたえみたいなのがあるんですよ。『常に新しい口触りがある』みたいな感覚があるかどうかってことは、マームの稽古場ではシビアにあって。それはきっと技術的なことではなくて、個人的なことだとも思うんですよね。正確に言うと、『新しい歯ごたえがなくなったとき』じゃなくて、『このまま続けてると、新しい歯ごたえを感じられなくなるんじゃないか』と思うと怖くなって、そこでドライに切っちゃうんです」

「その新しい歯ごたえって、何なんでしょうね?」

「何なんですかね? でも、僕がこれまで関わってきた女優って、基本的に心変わりが激しい人たちなんですよ。一作品ごとに状態が変わるし、顔つきも変わるし――そういう細かい部分を見ちゃうんですよね。これは別に『恋愛を禁じている』とかってことでは全然ないんだけど、、たとえば恋愛をすると、全然表情も変わってくるんですよ。顔も段々大人になっていくから」

「女優との関わり方が、ちょっとその人の人生単位での関わり方になってきてるんですかね?」

「そうなのかもしれない。たとえば、子供を産むかどうかってこともあると思うし、僕が何も変わらないとしても、今の状況は変わりかねないと思うんですよね」

「そのときにマームがどうなっていくのか、そこで藤田さんは何を書くのか――それは楽しみでもありますけどね」

「ね、僕も楽しみですよ。どうなっていくんだろう」

 藤田さんは「僕が何も変わらないとしても」と前置きして話をしたけれど、藤田さん自身だってきっと変わっていくのだろうと思う。ごく些細な話をすると、昨晩話していたように生活感のまったくない日々を送っていた藤田さんが、ここイタリアでは料理を始めたりなんかしている。ずっと鍋に向き合いながら、丁寧にたまねぎを炒めたり、灰汁を取ったりなんかしている。

「やっぱり、母親たちに対して興味があるんですよ」――真剣な目で鍋を見据えたまま、藤田さんは言った。「今まではまだ子供だったから、どこか母親たちに対して他人事で見てた気がするんですよ。でも、どうやって自分を育てたのかとか、母親たちに対して興味はありますね」

「僕は正月に実家に帰るたび、そんなことを考えるようになってきてるんですよ。今はもう、大晦日に帰省すると、親が年越しそばとおせちの準備をしてくれていて、それで正月が迎えられるんですよ。でも、いつかきっと親もいなくなって――そうすると、正月を迎えるためには、生活を自分で作らなきゃいけないんだなってことを、毎年思うんです」

「そうですよね。いや、途方もないな。色々怖い、怖いんだけど、取り組むことになるだろうな」と藤田さんは言った。

 今回のツアーに同行していると、彼らの姿少しずつ変容して、新しい何かが胎動しつつあるのを感じる。藤田さんはこれまでずっと、自分は過去を、記憶を描く作家だと言ってきた。でも、その中に、未来が――それがどういう未来なのかはわからないけれど、未来が胎動しつつあるのを僕は感じる。

『てんとてん』という作品は、“さとこ”による――いや、ひょっとすると聡子さんによる――モノローグで締めくくられる。

 目を、開けると。2014年、イタリア、ポンテデーラだ。私は、私たちは。今、という、てんに。立たされて、いるのかもしれない。今、という、てんに。今、って、てんの。先に、ある。ひかりは。ひかりは。ひかりは。ひかりは。ひかりは。ひかりは。

 今という“てん”の先にある“ひかり”――1年前にこの作品を書いたとき、その“ひかり”が何であるのか、そもそも“ひかり”とは何なのか、藤田さんの中でも、それはまったくわかっていなかったのだと思う(だからこそこの作品が書かれたとも言える)。でも、それはごく微かなものではあるかもしれないけれど、その“ひかり”が見えてきているのではないか――今回の旅の中で、僕は少しずつそう感じるようになっていた。

「そうなのかな。見えてるのかな」と藤田さんは言った。「ただ、これから老いていくことに意識は向いている気がするんですよ。あと、死ぬってことはこれまで珍しかったけど、これからもっと直面することになるだろうなって気はするんです。未来は動かないと思ってきたけど、やっぱり未来に向かっている感じはあるし。ただ――『ΛΛΛ かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと--------』が終わったあとに、橋本さんが書いてたことがあるじゃないですか」

 僕が書いていたこと、というのも、未来についての話だ。僕は『ΛΛΛ』という作品は大好きな作品だけれども、一つだけ不満があった。その作品には、未来に向けた芽が、“ひかり”が、感じられた。その作品が、最後の最後に過去のほうを向いて終わってしまうことが、僕には不満だった。それは、僕の好みというよりも、見えかけているものに蓋をしたようにも感じられたからだった。

「橋本さんが書いてたことはその通りかもしれないし、『cocoon』でも『Rと無重力のうねりで』でも、未来のことを意識してないわけではないんだけど――ただ、『ΛΛΛ』という作品で、僕の地元である伊達に帰るとなったとき、そこでは未来のことを前に押し出せなかったところはあるんです。『ΛΛΛ』のラストの台詞って、『てんとてん』のラストの台詞とほぼ同じじゃないですか。その「ひかり」っていうのは、ぶっちゃけ、ポジティブではないニュアンスがありますよね」

「たしかに、そうですね。街を出ていくことに決めた“さとこ”っていうキャラクターは、街に残る“あゆみ”や、『私には、“ひかり”が、見えない』と言って自殺してしまう“あや”に比べると、外の街に“ひかり”を見出したようにも思えるけど、でも、ラストの台詞の響きを聞いていると、はっきりと“ひかり”が見えている人だとは到底思えないですよね」

「そうなんすよ。この劇に限らず、僕は人が死ぬとか、人が自殺するってことを描いてるわけじゃないですか。僕としては、そのときに『未来とかじゃないよな』って態度を取るしかないってところはあるんです。それは僕の弱さなのかもしれないけど、未来が明るいとか暗いとか、そういうことは生きてるテーマとしてないなと思っちゃうんですよね。……いや、でも、描かなきゃいけない未来はある、あるってことは十分思い知ってるんだけど、それを今までのマーム流に、ラストシーンで未来のことを語り出しちゃうと、どうしても美化される気がするんですよ」

「ああ、それはあるかもしれないですね。しかも、僕も含めて、観客はそこに強く反応するでしょうしね」

「そのときに、どういう手段を用いて未来ってものを語るか、ほんとに悩ましいんですよ。たとえば『小指の思い出』のラストにあるのは、最期に子供に託す言葉じゃないですか。あの言葉というのも、残される子供たちにとっては未来だと思うんです」

「そうですね。残された人にとって、その言葉は抽象的な未来じゃなくて、現実ですからね」

「そう、現実としての、未来。その言葉を、ずっと探してる気がするんですよ」

 気づけば時計は2時をまわっていた。藤田さんのオニオンスープはようやく完成したようで、僕は味見をさせてもらった。ひと口飲んで「うまい!」と言ってみたものの、へろへろに酔っ払った自分の舌が正しい判断ができるのかと思うと、急に心許ない気持ちになるのだった。