マーム同行記25日目

 朝9時、1階に下りていくと、荻原さんと波佐谷さんがキッチンにいた。荻原さんは「今日はここで書こうかな」と言って、ペンと紙を広げている。僕は近くにあるコインランドリーに出かけることにした。波佐谷さんもコインランドリーに出かけてきたらしく、「今日は散歩日和っすよ」と教えてくれた。

 昨日の晩のうちに、僕が書いていた手紙はこんな内容だった。


荻原さんへ

 この2日間はスーパーに出かけるぐらいしか外を歩いていないので、少し不思議な気分です。荻原さんは、毎朝散歩に出かけていますよね。歩いた先で、何か印象的な風景はありましたか?

 手紙でやりとりをしようと思うと、しかもこの街にいるあいだの文通で聞きたいことを聞こうとすると、どうしても詰め込み過ぎてしまいます。だからあまりくだらないことが書きづらい感じになってしまうのでしょうね。それはほんとうに、申し訳ないと思っています。

 ただ、このやりとりができるのもあと2往復だから、やっぱりちょっと、くだらないこととは反対の手紙を書きます。

 1通目の手紙にも書きましたが、僕が14歳の頃には「キレる14歳」という言葉が話題になりました。もしかしたら17歳のときだったかもしれませんが、とにかく、自分と同い年の人が、14歳のときには子供をバラバラにしたり、17歳のときにはバスジャック事件を起こしたり(ジャックされたバスが止まっていると中継されていたのがうちの最寄りのパーキングエリアだったので、自転車をこいで見に行ったのをおぼえています)、20何歳だかのときには秋葉原で通り魔事件を起こしたりして、自分と同い年の人が、同じクラスにいたかもしれない人が……なんてことを折に触れて思っていた気がします。

 もちろん、別に年が同じじゃなくたって、佐世保で女の子が同級生を殺した事件だとか、神戸で女の子が殺されてしまった事件だとか、北海道で高校生が母親とおばあちゃんを殺した事件だとか、そういう事件が起こるたびに、一体どういうことなんだろうと、考え込んでしまいます。別に僕なんかが考えたところで何がどうということでもないのだけど、それって一体どういうことなんだろうと、ただただ頭の中がぐるぐるしてしまうのです。

 『てんとてん』のあやちゃんという子も、自分の生まれ育った街に起きた悲惨な事件にゆさぶられていますよね。

 荻原さんは、そんなふうにして、世の中で起きた出来事だとか、世の中とまではいかなくても身の回りで起きた出来事で、一番揺さぶられた出来事は何ですか? そして、たとえばあやちゃんであれば、学校という均質な世界や家庭という場所に背を向けて森の中でキャンプを始めることでバランスをとろうとしていますが、荻原さんは、そういう気持ちを、どう落ち着かせていますか?

 最後に。

 文通なんて、それこそ中学生のとき以来のことだし、普段は手書きの手紙を書くこともないけれど、なかなかいいものですね。たぶん、面と向かってだと、まずこんなことを聞くこともできない気がするし、聞いたとしても「え、どういうこと?」と笑って流されてしまう気がします。だから、普段はこんなふうな質問をすることはできないけれど、手紙という形でなら、素直な気持ちで聞くことが出来る気がするし、荻原さんの声に触れられるのではないかと思って、こうして手紙を書いています。

 洗濯を終えて宿舎に戻ると、荻原さんはもう手紙を書き終えていた。「今日は袋が見つけられなかった」と、荻原さんは申し訳なさそうに言う。手紙に使われている紙はいつも違っていて、今日はグラシン紙のような紙だ。僕はいつもポンテデーラのスーパーマーケットで買った既製品を使っているので、こちらのほうが申し訳ない気持ちになってくる。

橋本さんへ

 おはよう。今日はこっちに来て、初めての晴れだね。早く散歩に行きたいなー。

 アンコーナの散歩で印象的だった風景はいくつかあって、まず1つはカタツムリのからが斜面にいっぱいころがってたこと。中身はどこにいるんだろう。冬になるから冬眠してるのかな? それと、もう1つ、今泊まってるところの坂道をくださって、すぐの道で、おばあちゃん・おじいちゃん・40代くらいの娘?の家族を見たこと。特別な家族ではないけど、何でか頭に焼きついてる。おばあちゃんはちょっと足がわるくて、ゆっくり歩いてる。黒い服に、黒いタイツ、細い足に、黒い靴、後ろから娘さんのような女の人が少し支えるようにしてゆっくり歩調を合わせてあげていた。おじいちゃんは、おばあちゃんの1歩前をゆっくり歩く。ただそれだけだったけど、印象的だったよ。

 橋本さんは、この旅で印象的だった風景は何ですか?

 世の中の出来事で衝撃的だったのは、オウム事件と、神戸で起きた、児童殺害事件です。

 オウム事件はたしか小学校2年生ぐらいでしたが、東京がたいへんなことになったという自覚が心のどこかにあったのを覚えています。オウムの教団が家の近くに住んでいたり、当時、第1・3土曜に通っていた交通少年団の新宿警察署に逮捕された教団の人達がいて、同じ建物の中に私も通っていたり、生活の近くに、知らない闇があることを知りました。

 神戸事件はたしか小5か小6だったかな?

 朝、ニュースで流れるのはその事件で、校門に置かれていた頭のことばかり考えていたような気がします。

 それと、これはまた少し別の感覚でしたが、アメリカで起きた9.11事件も衝撃的でした。夜のニュースで映画が流れてるんだなーと、少し夢見心地で、信じることができないでいました。

 そんな夢見心地の感覚は、朝起きたら、現実に引き戻され、これは戦争が起きるんだと、ひしひしと感じたのを思い出します。

 世の中で起きている大小たくさんの事件と、自分の身のまわりで起きている毎日の出来事は、全部が現実で、折り合いなんてつくわけがなく、そこから逃げることもできて、どうしようもなく、そこにいました。今となっては、嫌なことから逃げてもいいよ、と思いますが、逃げることを知らなかった私は、ただそこにいることしかできませんでした。

 今はほんの少し免疫力がついたのか、折り合いをつけつつ、目をそむけることもせず、私が考えたところでどうしようもできないけど、それなりにそっと受け止めたりしています。

 今日は、みんなが劇場へ行った後、はさたにさんがつけて去っていったFMラジオを聞きながら、キッチンで書きました。日が当たっていて、いい朝だったけど、時間がなくなってしまったので、今日はここまでです。イタリア、のこり少なくなってきましたね。思い残すことはないですか?

2014.10.30 AM11:00
オギワラ アヤ


 僕が手紙を読んでいるあいだ、役者の皆は昨日までワークショップをやっていたスペースでアップをしていた。今日は仕込みがあるから、スタッフの皆は朝の8時には宿舎を出て劇場に出発していた。他には誰もいないキッチンで、藤田さんが昨日作っていたポトフを食べながら、僕は手紙を読んだ。

 12時20分、役者の皆と藤田さんと一緒に宿を出発した。バスの時間が12時35分だったので早めに移動したのだけれど、時間になってもバスはやってこなかった。バス停の向かいにあるピッツェリア――僕が一昨日お酒を買った店――は多くの人で賑わっている。このあたりには他に食事のできる店はなさそうだから、皆この店に集まってくるのだろうか。

「今日はもう、帰ってくる頃にはスーパー閉まっちゃってるよね?」
「閉まってるだろうね」
「どうする? また自分たちで料理する?」
「でも、そうすると皆また、気を遣って料理して疲れちゃうよね」
「じゃあ、そこのピッツェリアでピザ買って帰る?」
「そうだね。それか、劇場の近くで食べて帰るかだよね」

 そんな話をしているところに、バスが遅れてやってきた。すると、ピッツェリアで談笑していたお客さんの半数以上が店を出てバスに向かって歩いてくる。彼らはそこでバスを待っていたのだ。僕らもその後に続いてバスに乗り込み、運賃を払おうとすると、「そこのタバッキ・ショップ(タバコ屋)で切符を買ってくれ」と運転手が言う。先に切符を買っておかなきゃいけなかったのか――皆で大慌てでタバッキ・ショップに駆け込んで、「セブン!」と伝え、7枚ぶんの料金を支払って切符を受け取り、バスに戻る。全員に切符を配ってみると、1枚足りない。仕方なくまたタバッキ・ショップに引き返し、「ワンモア!」と言ってまたお金を支払い、何とか全員がバスに乗ることができた。

 昨日と一昨日の2日間、せいぜいスーパーマーケットくらいにしか出かけなかったから、久しぶりの外出という感じがする。バスに乗っていると、窓の外の景色が動いていくのが楽しくて、つい何枚も写真を撮った。駅の近くに、何枚もポスターが貼られている場所があった。よく見ると、ポスターの中には聡子さんの姿が写ったものもあった。底を過ぎると、ほどなくして海に出た。晴れていても、海は水色でありながらも土の色をしていて、不思議な色彩を放っていた。

 会場に着いてみると、仕込みをしていた皆は食事に出ているらしかった。僕たちも皆、その店に向かうことになる。

「フレッド!」と、レストランに向かう道すがら、藤田さんはルイーサに声をかけた。フレッド、というのは、イタリア語で「寒い」という意味らしかった。ルイーサは笑いながら、「イズ・トーキョー・“フレッド”?」と藤田さんに訊ねる。ううん、と藤田さんはしばらく考えて、「キョート・イズ・ベリー・ベリー・“フレッド”!」と答えた。ルイーサは来月末に来日する予定で、そのときに東京と京都を旅することになっているのだ。

 何度も繰り返し「フレッド」という言葉の発音を確かめていた藤田さんは、「イタリア語って、日本人の口だと発音しづらいですよね?」と言った。

「たしかに。動かす筋肉が違う感じはありますよね」と僕。「そうすると、顔の筋肉の付き方も違うのかな?」

「違いますよね、きっと。骨格からして違う気がする」

「それはワークショップとかをやっていても感じる?」

「感じます、感じます。しゃべってるとき、目はほとんど動いてないのに、口だけはすごい動いてたりするから、日本人とは全然違いますよね」

 レストランで食事を終えると、15時、近くにあるカフェを借り切って記者会見が行われた。まずはテレビ用のインタビューの収録が始まる。

――日本は長いあいだ、テクノロジーを輸出することに努めてきました。その一方で、文化的なことに関しては輸入することが多かったと思いますが、最近になって日本の文化が多く海外に輸出されています。そのことをどのように見ていますか?

藤田 でも、日本が芸術みたいなものを輸出してくことに関してはまだ積極的ではないと思うというか……。日本の古典を知りたい人は海外にいるかもしれないんだけど、もっとコンテンポラリーなものに関しては、日本が海外に向けて何かを能動的にやろうとしているとは僕は思えてないですね。

――マームとジプシーはゼロ年代を代表するカンパニーですが、ゼロ年代を特徴とする演劇のスタイルはどんなことでしょう?

藤田 マームとジプシーが日本で一番新しいことをやっている自信があるんだけど、っていうのも、一つ上の世代がやったことを繰り返してはいけないと思っているんですね。彼らが作ってきた時代っていうものは上塗りしてかなくちゃいけないから、僕はいろんな人とコラボレーションをしたり、これまで使われなかった構造を用いたりっていうことを、すごく意識的にやってるんですね。それはたぶん、上の世代の人たちがやってきたことを繰り返しても生き残っていけないっていう危機感が強いんだと思うんですよ。

 そこまで翻訳されたところで、藤田さんにカメラとマイクを向けていた男性は「グラッツェ」とインタビューを終えてしまった。それにしても、イタリアを旅していると、どこに言っても「ゼロ年代とは」という質問を受ける。なぜ「ゼロ年代」という言葉について訊ねられるのかと疑問に思っていたけれど、英語でも読める数少ないインタビューが国際交流基金のサイトに掲載されていて、そこに「ZERO GENERATION」というフレーズが登場するのだ。質問をする側も、日本の演劇どころか、日本の文化に対する情報が何一つないせいで、まずは「ゼロ年代とは?」と訊ねるしかないのだろう。昨日も書いたように、イタリアを旅していると、その遠さについて考えさせられることが多々ある。

 テレビ用の取材が終わると、記者会見が始まった。役者さんたちも全員並んで、会見が始まる。司会をしてくれている女性は公演を観てくれたことがあるらしく、これまでの取材の中では比較的具体的な話になった。

――マームとジプシーの作品や今回のワークショップを拝見して思ったのは、使われている台詞がアンサンブルのようである、ということでした。藤田さんはそのことについてどうお考えでしょうか?

藤田 僕がいつも思ってるのは、台詞も動きもライティングも、すべて一つのアンサンブルの中に平等に埋まっていればいいなってことなんですね。あえて言うなら、上の世代の人たちが作った演劇には重要なこともたくさんあるとは思うんだけど、役者さんばかりが際立って見えるところがあって、若い世代の僕らにとってはそれははっきり言ってダサいと思うんですね。別の言い方をすると、舞台上にあるものは全部平等に扱われるべきだと思ってます。

――『てんとてん』という作品は、マルチレイヤーというか、たくさんの層がある作品ですね。そのことについて教えていただけますか。

藤田 今の話の流れで言うと、僕の発想というのは、今までの演劇表現をしていた人からいただいたインスピレーションではなくて、映画だとか、映画のコマ割りだとか、そういものからインスピレーションをいただいて作っていて。漫画も映画も、ものすごい量のシーンをエディットしてると思うんだけど、僕の作業もエディットって側面はすごく強いと思います。彼女が「マルチレイヤー」と言ったのはそういうことで、演劇的に言うと「レイヤー」って言葉になっちゃうんだけど、僕はいろんなことを輪切りにしてエディットしてるんだと思う。それに関しては、音楽、映画、小説、漫画とかってところから大きな影響を受けてますね。

――あなたの作品の中では、角度が変えられていきます。そのことはとても映画的ですね。

藤田 そうですね。マームとジプシーは、日本でも特殊なことをやってるんですね。その特殊なことを、マウリッツィアって人が観てくれて、それを評価してイタリアに呼んでくれたってことはすごい嬉しいことです。


 記者会見が終わると、司会進行役を務めていた女性が「劇場はどうですか?」と藤田さんに訊ねた。
「すごい可愛かった。ああいう劇場は日本にないもんね」と藤田さん。
「本当に? それは不思議ですね」
「日本っていうのは、やっぱり古いものを壊すんだ。だから、ああいう使い込まれた劇場みたいなのは少ないよね」
「イタリアには、歴史的な劇場がたくさんあります。18世紀からあるトラディショナルな劇場もありますよ」
「そうなんだ? 日本にはね、ほんとにない。なぜなら、全部焼けたからね」
「ただ、そういうトラディショナルな劇場で仕事をすると、難しいこともあります。舞台が傾いてることもあるし、客席が低い位置にあるので観客は見上げなきゃいけないということもあります。この街にはもっと大きな劇場もあって、そこが私のオフィスなんですけど、もしご興味あればご案内しましょうか?」
「ああ、行きたい、行きたい!」

 時計を見ると、16時40分だ。今日の予定では、17時からテクニカル・リハーサルが開始される予定だった。僕は――その時間のことを気にしてというよりも、アンコーナの街があまりにも寒くて風邪を引きかけていると感じていたので、劇場を観に行く皆とは別れて、近くにあるブティックに入ってマフラーを購入した。

 劇場に戻ってみると、まだ皆は戻ってきていなかった。リハーサルを始めるはずの時間になっても、まだ誰も帰ってこなかった。イタリア人のテクニカルスタッフも客席にスタンバイしていたけれど、「あれ? この時間に始まるんじゃなかったっけ?」とキョロキョロしている。熊木さん、角田さん、南さんは「着替えて帰ろうかね」なんて笑っていたけれど、あとで熊木さんがごく小さな声で「何だよ」と漏らしているのを聞いてしまって、胸が苦しくなった。

 司会進行役の女性――あとで聞くと、たしか劇場のプロデューサーかディレクターだった――と一緒に劇場を見せてもらいにいくことが大事だということもよくわかるし、その一方で、17時にすべてが滞りなく始められるようにと懸命に仕込みを行っていたであろう皆の気持ちが、その小さなつぶやきに凝縮されていたように感じられたのだった。

 皆が帰ってきたのは、17時5分になる頃だった。この日のリハーサルは17時半から始められることになった。客席の後ろのほうでその様子を眺めていると、音の面では厳しいところがあった。一つには、会場が広いせいで音が散ってしまうということがある。その上、今回の公演では(通常、この劇場で行われる公演ではつけられる)袖幕をつけずに上演するので、余計に音が散りやすいのだ。

 もう一つの問題は、音響のオペレーションをするブースの位置だ。

 この劇場は広く、客席の真ん中あたりに通路が設置されている。今回の公演では、この通路よりも前方だけが客席として使用されることになっていた。だから、この通路のすぐ後ろに字幕のオペレーションをするブースと、照明のオペレーションをするブースが設置されている。ただ、音響のブースは、最後列の後ろに設置されていたのだ。

「音響ブースをさ、字幕と照明と同じラインに持ってこれないの? そこでオペをやってると、たぶんお客さんが入る場所とは音の聴こえ方が全然違うから、音がバラバラになってるんだ」と藤田さんは言った。

 イタリア人の音響スタッフに「ここにブースを設置できないのか」と訊ねてみると、「まず、客席に音響ブースを設置していることが異例中の異例だし、ケーブルもないから、客席の真ん中に移動させるのは不可能だ」と言われてしまった。「ケーブルがない」というのが本当なのかどうか、それはわからない。ただ、イタリア人の音響スタッフの彼としては、1時間もかけて設置した音響ブースを、一度バラしてもう一度組み直すなんてことをやりたくないという気持ちもあるだろう。彼は、マームとジプシーの公演を観たこともなければ、どんな劇団なのかすら知らずに仕事をしているはずだ。となると、マームとジプシーがどれだけ音にこだわって作品を発表しているかということも知らずにいる。しかも、今回の公演は1夜限りだ。彼の側からすると、「なぜ同じ作業をもう一度やらされなければならないのか」という気持ちになるのも、無理はないことかもしれなかった。「音響スタッフ」としてしか知らない相手に、そこまで情熱を持って仕事をしてもらうことは、なかなかに難しいことだ――もちろん、「だからしょうがない」で片づけてしまうと、ボスニア公演のときに話があったように、すべてのことが「しょうがない」という言葉で片づけられてしまうことになる。

「でも、これはまったくしょうがないってことだよね」と藤田さんは厳しい顔で言った。「まったくしょうがないってことかもしれないけど、でも、客席と同じレベルの場所にブースを組まないと駄目だよね。今の位置でオペをしても、それは予想でしかないよね。それは、マームがこれまでやってきたこととは全然違うことだから」

「どうしても移動してもらわないと困る」と伝えるか、それともこの位置で何とかやってみるか――その判断は角田さんに委ねられることになった。でも、角田さんは「ここでやってみます」と言って、明日の午前中に何とか調整をするということで話はまとまった。

 この日は19時に劇場を退館することに決められていたので、リハーサルもそこそこに切り上げることになった。帰りのクルマを待つあいだ、僕は少し暗い気持ちになっていた。アンコーナでの公演は、明日1日だけだ。明日、素晴らしい公演を観ることができるのだろうか?――もし素晴らしくなかったとしたら、僕は「素晴らしくなかった」と書かなければならない。そのことを思うと、とても気が重くなった。

 迎えのクルマは遅れていた。待っている場所のすぐ近くにはバーがあった。はやしさんが「橋本さん、ビール売ってるよ」と優しく声を掛けてくれたけれど、とてもビールを飲む気になれず、「今日は休肝日にしようと思ってるんです」と僕は答えた。

 宿舎に戻ると、先に到着していた皆が夕食の支度をしていた。結局、今日もまた皆で料理を作ることになった。

「え、橋本さん、今日飲まないって聞いたんだけど本当ですか?」と藤田さんが言った。

「いや、ツアーが始まってから毎日飲んでるから、今日ぐらいは肝臓を休ませようと思って」と僕は答える。

「でも、明日は宿舎に戻ってこれるのは日付が変わる頃だし、次のメッシーナではホテルに滞在することになるから、こうやって皆で料理をしてごはんを食べるのはこれが最後ですよ」――藤田さんにそう言われると、僕はすぐに冷蔵庫を開けてビールを手に取った。