メッシーナ公演1日目――ルイーサとの別れ

 14時半、今日もテクニカル・リハーサルが始まった。ツアーも4都市目だけあって、途中で中断することもほぼなく、比較的通し稽古に近い形でつつがなく進められた。藤田さんも「昨日よりは全然良くなっている」と満足そうだ。

「では、本日のテクリハはこれで終了したいと思います」――16時15分、熊木さんの合図でテクニカル・リハーサルは終了した。「ずいぶん時間は空いてしまいますけれども、本番は21時15分の予定です。皆様、それに合わせて休憩とスタンバイのほう、よろしくお願いします」

「今、“ひまわりちゃんっていますか? いない?」とあゆみさんが切り出す。“ひまわりちゃん”というのは、ルイーサのことだ。本人にバレないようにルイーサの話をするために、彼女のことを“ひまわりちゃん”と呼ぶことに決めたのだ。

「“ひまわりちゃん”の場当たり(本番と同じ状況で確認をする稽古)もやっとかなきゃね」と藤田さん。
「場当たりの前に、集合写真を取っておきたくて」とあゆみさん。「映像の最後のネタを集合写真にしたいの」
「じゃあ、17時に何となく集合して、誰かが『集合写真撮ろう』って言い出すことにしましょうか」と熊木さん。
「それで――作戦としては、集合写真を撮ったあとに、門田さんとかなやんが“ひまわりちゃん”を連れ出してミーティングをしてもらって、そのあいだにここで場当たりをやりましょう」

 17時、ルイーサと一緒に集合写真を撮影し、ミーティングに連れ出してもらうと、バタバタと映像撮影が始まった。ここ数日、あゆみ監督はずっと、明日でお別れするルイーサにプレゼントするための映像を、「MyMovie」というiPhoneのアプリで撮影していた。

「あと2秒残ってるから、最後に皆で『ルイーサ』って人文字を作ろっか。『Luisa』だから――最初は『L』だね」とあゆみさん。
「え、ここでいいですか?」。尾野島さんは舞台上で「L」という人文字を作っている。
「違う違う、向きが反対になってる」と藤田さん。
「ちょっと尾野島さんだと『L』が大きくなっちゃうね。やっぱり、ツノに『L』をやってもらおう」と監督の指導が入る。「それで、聡子ならひとりで『U』できそうだよね。で、実子が『I』で――まるにひとりで『S』をやってもらうのは難しいよね?」
「『S』はこうやってやるとか?」と、波佐谷さんはひとりで『S』の字を作っている。
「それいいじゃん!」
「じゃあ、『S』ははさっちにして、最後の『A』を尾野島さんにしよう。(全体を見渡して)『L』だけちょっと小さいね。じゃあ、まるさんとツノの2人で『L』を作ることにしよう。あとは――あと何人いますか? あと4人か。くまちゃんと南ちゃんは、二人でハートを作ろう。で、たかちゃんは『ルイーサ!』ってめっちゃ絶叫してみて」
 あゆみさんの演出に、藤田さんは「いや、ルイーサたちは隣で打ち合わせしてるんだから、絶叫したら聴こえちゃうでしょ」と意見をした。
「あ、そうだね。じゃあ、たかちゃんはそこに立ってよっか。で、橋本さん! 橋本さんはこの端を持って先頭に立っててください」
「あっちゃん、そこから撮って全員入る? 客席の最後列まで下がったほうがいいんじゃない?」
「入る、入る」
「大丈夫? ダメ出しあったら言って?」と実子さん。
「ちょっと待ってね。旗、L、U、I、S、A、♡、いいよいいよ! はい、じゃあ撮ります!」

 こうして、あゆみさんの初監督作品はクランプアップを迎えた。この映像は、ただ単にルイーサにプレゼントするわけではなかった。あゆみさんは、公演中は映像オペレーターを務めている熊木さんのパソコンに、完成したばかりの映像を送信する。そうして17時15分、“ひまわりちゃん”作戦の場当たりが始まった。

「ちょっと、段取りを確認しますね」とあゆみさん。他の皆は客席の最前列にいて、あゆみさんの指示を待っている。段取りを確認すると、映像と音響、照明の準備が整ったタイミングでリハーサルが行われた。リハーサルが終わり、「南ちゃん、照明完璧でした。つのさん、音楽も完璧でした」と監督からオーケーが出ると、誰からともなく拍手をした。



「これ、かなりサプライズ感あるね」と藤田さんは言った。
「こんなにしっかり準備をしたのは、まるの誕生日以来だな」と実子さん。そういえば1年前のツアーのとき、サンティアゴ公演の最終日は荻原さんの誕生日で、皆でサプライズでお祝いをしたのだった。

 サプライズの準備が終わると、今度は順番にメッセージーカードを書いていく。ルイーサにプレゼントするメッセージカードだ。皆、単語を調べつつ、英語でメッセージを書いている。時計を見ると17時半になろうとしていた。

「あと3時間半か」とあゆみさんがつぶやく。

「まだ3時間半もあるんだ? 3時間半もあれば、『ゴッド・ファーザー』観れるじゃん」――そんなことをボヤいていた波佐谷さんも誘って、藤田さんと3人で夕食に出かけた。レストランに入って、僕と藤田さんはビールを、波佐谷さんはファンタを注文して乾杯をした。

「客席にめっちゃ椅子並べてたけど、あんなにお客さん来るのかな?」と藤田さんは不安げだ。というのも、プロデューサーのコラド氏が、「この劇場でやる公演は、平均年齢70歳ぐらいのときもある」なんて話していたからだ。この劇場でイタリア人以外が作品を発表するのは初めてということもあるし、はたしてお客さんが来るのか、少し不安にもなってくる。

「ポンテデーラのときは、同じ劇場でロベルト・バッチさんが公演してたからかもしれないけど、劇場が頑張ってお客さんを呼んでくれてる感じはあったじゃないですか。あと、ポンテデーラとかだと、去年のフィレンツェ公演を観てくれてたお客さんもいましたけど、ここまで来たら去年観てくれた人はいないですよね」

「たしかに、フィレンツェシチリアって、北海道から大阪まで観にくるぐらいの距離はあるよね」と波佐谷さん。

「お客さんの平均年齢が70歳だとして、それぐらいのおじいちゃんが急にノリノリで観始めたら面白いですけどね」と僕。

「いや、かっこいいなそれ」と藤田さんは笑った。「怖いのは――日本の劇団が海外で公演をすると、シェークスピアとかに慣れてる人って、途中でどんどん帰るらしいんですよね。僕の劇、どうなんだろう?」

 食事を終えたところで、スタンバイの必要な波佐谷さんは一足先に劇場に戻っていった。僕と藤田さんはもう一杯ビールを注文して、2皿目の料理を食べていると、外では雷が鳴り始めた。今日の天気予報では、夕方に雷マークがつけられていたそうだ。食事を終えて会計をしてもらう頃には、雨はざあざあ降りになっていた。

「これは――これは走って帰るのは無理ですね」と僕。
「え、めっちゃ降ってるじゃないですか」と藤田さん。
「こんな土砂降りの雨の中、お客さん来てくれるのかな」

 店内には他にお客さんもいなかったので、雨脚が弱まるまで待たせてもらうことにした。が、15分待ってみても、雨は弱まるどころか勢いを増しているように見えた。雷はずっと轟いていて、空はピンク色に点滅している。

 時刻は20時になろうとしていた。店員さんにもう一度「傘はありませんか?」と訊ねてみると、奥のほうからぼろぼろになった傘を一つ探し出してくれた。その傘を頼りに、意を決して街に出た。

「これはヤバいですね。誰も歩いてる人がいない」と僕。
「こんな状況で、ほんとにお客さん来るのかな。もう、劇場が浸水してるんじゃないかってレベルの雨ですよね、これは」
「道路が川みたいになってますね。もう――どうすれば渡れるんだろう?」
「あ、こっちがちょっと浅くなってるから、ここを飛びましょう」
 一番浅そうなところをせーので飛んでみたけれど、かかとまで水に浸かってしまった。
「あー、もう駄目だ」と藤田さん。「これ、いちおう長靴なのに。これ、もはや台風の画ですよね?」

 4分ほどかかって劇場にたどり着く頃には、服も靴も、すっかりびしょ濡れになってしまった。劇場は、浸水こそしていなかったけれど、一部で雨漏りが始まっていた。建物の中にいても、ずっと雷の音が聞こえていた。

「えっと、ツアー4カ所目ですけど、頑張ってください。ずいぶん遠くまできた感じもあるけど、アンコーナの公演については僕の中で反省したところもあるので、それが更新できればと思います。あと、終演後もよろしくお願いします。感謝しつつ」

 藤田さんがそう話し終える頃には、開場時刻は15分後に迫っていた。劇場の中には、案内係の女性や、消防士の男性が何人も入ってくる。今回のツアーでは一番大きな劇場だからか、スタッフの数も一番多かった。さて、肝心のお客さんはと言えば、この悪天候の中でも100人を超すお客さんが集まってくれた。大勢の観客に見守られて、メッシーナ公演の初日の幕が上がる。

 大きな拍手に包まれて終演し、3度のカーテンコールを終えると、役者さんたちはいそいそと楽屋に引き返した。この日は「最速で着替えて、帰りの支度をするように」と指示が出ていたのだ。フロアでは、現地のテクニカルスタッフの人たちが「もうスピーカーの電源を落としていいか?」と訊ねてくるけれど、「いや、もうちょっと待ってくれ」とお願いする。15分ほどで帰り支度を済ませて皆が集合すると、「はーい、では、仕切り直します」と熊木さんが声をかけた。荻原さんがルイーサを呼んで舞台に中央に連れていくと会場は暗転し、ここ数日のあいだにあゆみさんが撮影・編集した映像がスクリーンに映し出された。

ピンスポットを当てられたルイーサは、映像を観ながら涙を流していた。映像が終わると、聡子さんがルイーサに一輪のひまわりを手渡した。

「こないだから皆がルイーサの名前をやけに言ってた理由を説明したほうがいいんじゃない?」と藤田さんは言った。
「こないだは、今日の段取りを皆で相談してたの。それだとバレるって反省したから、ルイーサに“ひまわりちゃん”って名前をつけました」

 ルイーサという女性には、ひまわりの花がよく似合う。音楽を聴けばステップを刻み、劇場の稽古場に入ればバレエダンサーのように舞ってみせる――この天真爛漫さは、ひまわりという他ない。

 さて、感動に浸っている時間はなかった。ルイーサが晩ごはんをテイクアウトするように手配してくれているので、急いでホテルに戻らなければならないのだ。23時半にホテルに戻り、部屋に荷物を置くと、203号室(波佐谷さんと藤田さんの部屋)に集合となった。役者さんたちが衣装を洗濯したところで全員が揃って、ワインで乾杯する。

「ルイーサ、お疲れ! サルーテ!」

 部屋の中には、ワークショップに参加している映画ライターの女性もいた。彼女は今日の公演を観てくれて、「藤田さんに少しインタビューをしたい」ということで、一緒にホテルに帰ってきたのだ。

「日本の映画監督の中で、特にインスピレーションを得ている映画監督はいますか?」とインタビュアーの女性は訊ねる。「例えば、キタノであるとか、オオシマであるとか」

「ああ、大島渚の映画は大好きですけど――今回の作品に関して言えば、日本の映画監督ではないですけど、とにかくウェス・アンダーソンの影響を受けてますね。あと、日本の映画監督で青山真治って人がいて、その監督の映画はこの作品を作っているときにも観てました。その監督は、自分の地元である北九州って街のことを描いている作家で……」

 インタビューが行われているあいだ、あとの皆はまた別のサプライズの相談をしていた。ルイーサのためにケーキを買っていて、そのケーキをどうやって差し出すかを話し合っているらしかった。演出家になっているのは、ここでもあゆみさんだ。

「皆で歌をうたいながらケーキを出したいんだけど、何の歌にしよう? 『ハッピーバースデー』ぐらい短い曲がいいんだけど」とあゆみさん。
「キューピー3分クッキングとか?」とはやしさん。
「あ、それにしよう。さすがかなやん、決まりました」
「3分クッキング――いや、それだと英語が入ってるから、『3分料理』って言おう」と波佐谷さん。
「いや、『ルイーサ』って名前を言うとバレちゃうけど、横文字は別に控えなくていいでしょ」とはやしさんは笑う。
「いちおう、いちおうね?」と尾野島さん。「流れはどうする? まず、どこで三分料理を歌う?」

 インタビューが終了すると、ルイーサを一度部屋の外に連れ出した。そのあいだに皆はベランダに集まって、ケーキを持ってルイーサが戻ってくるのを待ち構えて、もう一度ルイーサに感謝の言葉を伝えた。

 ケーキを食べながら、「マームとジプシーの作品を観ていると、毎回違うことに気づかされる」とルイーサは言った。「座る位置も違ったから、見える角度もアンコーナのときとは違っていて、余計に色んなことに気づけたのかもしれない。もうちょっと酔っ払ったら、ハサタニさんの物真似が出来ると思う」

「もうちょっと酔っ払ったら」――ルイーサはそう言っていたけれど、1分と立たないうちに「よーしよしよし」と、波佐谷さんが犬たちをなだめるシーンの物真似を始めた。

「波佐谷さん、これはもう、ルイーサのために、ラップのシーンをもう一回やってあげたほうがいいんじゃない?」

「ルイーサさーあ、俺に、イエア、そのことお願いするってどういうことかわかってる、メーン?」波佐谷さんは少し劇中のシーンを再現しようとしたけれど、「結構長いんだよ、あそこ」と中断してしまった。

「いや、最初から最後までちゃんとやろう」と藤田さん。「あのシーンは聡子とあっちゃんと尾野島さんが並んでるけど、あっちゃんと尾野島さんのあいだにルイーサを並ばせて、尾野島さんのお尻を叩いたりするのはルイーサにやってもらおう」

 こうして、『てんとてん』の1シーンが、メッシーナのホテルで“ルイーサ・バージョン”として再演されることになった。午前1時を過ぎても宴は続き、ルイーサとの最後の夜は賑やかに更けてゆく。