マーム同行記35日目(パリ3日目)

 この日はお昼頃から散策に出かけることになった。聡子さんが乗るはずだった飛行機に関してトラブルがあったので、結局、三人ともパリを経つのは明日ということになった。街を散策できるのは今日が最後なので、せっかくだからパーッと美味しいものでも食べにいくことに決めた。

 向かったのは、マレ地区にある「カフェ・ド・ミュゼ」という店。ミシュランにも載っている店だと聞いていたが、思っていたより気さくなビストロだ。店内には大勢のお客さんがいたけれど、ちょうどタイミングよく席に座ることができた。青柳さんは白身魚を、聡子さんはダッグを、僕は本日のおすすめを注文した。それに、せっかくだからと赤ワインをボトルで頼む。自分が頼んだ料理の味は覚えていないのに、聡子さんに少し分けてもらったダッグがうまかったことだけ覚えている。

 ほろ酔い気分で店を出る。この日は日曜日ということもあって、街はのんびりした空気に包まれていた。あちこちに“楽隊”がいて、小気味のよい音楽を奏でている(そういえばマレ地区までの地下鉄の中にも音楽家がいた)。ある楽隊の周りには、少し人だかりが出来ていた。近づいてみると、音楽に合わせて踊る老女がいて、小気味よくステップを刻んで踊り続けていた。

 サン・クロワ大聖堂を見学したのち、リュクサンブール公園へと移動した。とても広い公園だ。日本で言えば代々木公園くらいの広さだろうか。ただ、代々木公園に比べて、ここでは子供の姿を本当に数多く見かける。メリーゴーランドやプレイグラウンドもあるが、何より印象的なのは、僕たちの目的地でもあるシアターだ。ここリュクサンブール公園には小さな劇場がある。人形劇が上演される劇場だ。青柳さんは、パリに来るたびここを訪れているという。それならば皆で一緒に行ってみようという話になって、ここを目指して公園にやってきたのだ。

 近くにある露店で、ビールとフライドポテトを購入する。これで人形劇を楽しむ準備は万端だと思っていると、「持ち込みはちょっと……」と係員から注意を受けてしまった。しぶしぶ外の安全そうな場所にフライドポテトを残して、中に入ってみる。入場料は4ユーロ程度だったと思う。中にはちびっ子があふれ返っていた。三人で前のほうの席に陣取ると、再び係員がやってきてフランス語で話しかけられる。言葉は何もわからないけれど、どうも前列は子供のための席だったようだ。

 今日の人形劇はピノキオだった。ピノキオが何か問いかけるたび、ちびっ子たちは「ウィー!」と大合唱だ。不思議なことに、言葉は何一つわからないのに案外楽しめた。

 こうして日記を書くためにパリの地図を広げてみると、この日は本当によく歩いた。リュクサンブール公園を出ると、グラン・ブールヴァール駅まで地下鉄で移動した。この近くにはパサージュが続いている。ベンヤミンの『パサージュ論』のパサージュだ。パサージュ・ヴェルドー、パサージュ・ジュフロワ、パサージュ・デ・パノラマ……。いくつかの小径が、何度か大通りに中断されながらもずっと南北に連なっている。パサージュの両脇には雑貨屋、玩具屋、アンティーク・ショップ、洋服屋、レストラン、カフェなどが立ち並んでいるが、今日は日曜日のせいか、その大半が閉まっていたのが少し残念ではあるけれど、歩いているだけでも楽しくなってくる。ディスプレイされた商品の中に、『まえのひ』ツアーで使用していた気球を見つけて少し驚いた。

 3つのパサージュを通り抜けると、少し先に立派な建物が見えてきた。パレ・ロワイヤルと言うらしい。建物の回廊を抜けると、広大な庭園が広がっていた。綺麗に手入れをされた樹木が整然と並んでいて、その真ん中には噴水が置かれている。樹々はずっと向こうまで続いていて、林みたいだ。その整然ぷりにため息がこぼれる。都市のど真ん中にこんな自然が――しかもあきらかに人工の自然があるというのが面白かった。皇居前広場や、規模は違うけれど京都の龍安寺の石庭を見たときの感覚に近いものがある。

 噴水の周りには無造作に椅子が並べられていた。パリジャン、パリジェンヌはここに座り、噴水のふちに足を投げ出して語らうのだと青柳さんが教えてくれたので、三人でその真似事をした。

 パレ・ロワイヤルの南側にあるのがルーヴル美術館で、その隣には先ほどよりさらに広大な庭園が続く。普通の人間の縮尺とは不釣り合いなほど広大で、自分が縮んでしまったような気にさえなる。ここからはずっとまっすぐ道が続いている。途中からシャンゼリゼという名前に変わるその通りからは、正面にずっと凱旋門が見えていた。せっかくだから凱旋門まで歩いてみることに決めたのだが、そこに見えているのに、歩いても歩いても凱旋門は近づいてこなかった。

「近くまで行かなくてもいいかも」

 誰もがそう思っていたような気がするけれど(「パリに来たからには凱旋門に行こう!」と話して歩き始めたわけではなく、ただそこに見えているから、せっかくだから行ってみるかと言って歩き出しただけなのだ)、誰もそれを言い出さないまま歩き続けた。シャンゼリゼ通り沿いには、いくつも仮設の小屋が建設中だ。この時期になるとクリスマスマーケットが建ち並ぶのだという。

 凱旋門の前に出る頃には、1時間近く経過していた。道路の路側帯に立って記念撮影を済ませると、見物もそこそこにレストランに移動した。最後にセーヌ川沿いからエッフェル塔を眺めて、タクシーを拾ってホテルに戻った。歩き疲れたからタクシーを拾ったというのもあるけれど、最後にパリの夜景をタクシーの中から眺めてみたかった。

 ホテルに戻る頃には、23時になろうとしていた。午前0時にロビーで待ち合わせて、夜の街を散策しながら青柳さんに話を聞く。


――パリ、思ってた以上に楽しいですね。今回訪れた街の中で、一番好きかも。まあ、ここはツアーに同行してるというより、観光気分が強いからってこともあるかもしれないですけど。

青柳 パリを好きになってくれる人が増えて嬉しいです。皆「嫌い」って言うから。特に男の人は楽しめない人のほうが多い気がする。街は汚いし、あとごはんが高くてまずいって言う。

――高いとは思いますけど、もっと格式張った店ばっかなのかと思ってました。まあ、そういう店もあるんでしょうけど。

青柳 ギャルソンがいるような店もいまだにあるらしいけどね。そういう店も行ってみたいなと思うけど。でも、最近はスタバがすごい増えてきてるから、ギャルソン人口は減ってるんじゃないかっていうのが岡田さんの予測。

――あ、ここもスタバですね。

青柳 そう、ここも昔はスタバじゃなかった。このあたりの広場のどこかに――あ、あれだ。あれがピカソとかドガとかゴーギャンとかのアトリエだった建物です。「バトー・ラボアール」、洗濯船って意味らしいよ。

――この写真が当時の様子ってことですかね? 思ってた以上にぼろぼろですね。

青柳 トキワ荘みたいな感じなのかな。にしても、汚いね。「こんなだったんだね、パリ」って感じがする。

――こんなぼろぼろの建物の写真が残ってるのもすごいですね。だって、ここに住んでたとき、彼らはまだ何者でもなかったのに、ちゃんと住んでた建物の写真が残ってるって。

青柳 この広場で、皆語り合ったんじゃないのかな。モンマルトルで初めての場所に来れた。

――5回目にして。

青柳 5回目にして、初めての場所がやっぱりまだある。夜の街歩き、楽しい。

 今年の6月、慰霊祭の日に沖縄に出かけた(そのときのことは『沖縄再訪日記』に書いた)。そこで青柳さんと話しているうちに、「住むとしたらどこがいいか」という他愛もない話になった。そこで青柳さんが答えたのがパリだった。

 今回、ツアーを延泊して青柳さんと合流しようという話になったとき、真っ先に思い出したのがその話だった。青柳さんはドイツに、聡子さんと僕はイタリアにいたわけだけど、せっかくヨーロッパで会うならパリにしようということで、今こうしてパリにいる。

――青柳さん、パリに住みたいって言ってましたよね。

青柳 うん、言ってました。私、ここに住みたいもん。この窓の中のどれか一個に住みたい。

――住みたいのはモンマルトル?

青柳 今まで毎回モンマルトルに滞在してるから、住むところだっていうイメージがもともとあるせいかもしれないけど、街を歩いてると「モンマルトルがいいな」って思う。

――でも、6月に沖縄で「住みたい街はパリ」って話を聞いたとき、ほんとに遠い世界のこととして聞いてましたけど、今その街で話を聞いているってのが不思議ですね。

青柳 その場で話してるって、すごいよね。沖縄で話をしてるのもすごいと思ったけど――すごいよね。もうどこででも話せるね。どこにでも行けるんだなと思うし。

――この3日間、青柳さんにガイドしてもらってパリを歩いてると、なんか色々考えることがあったんですよ。特に印象に残ってるのは、一つには剥製の店なんです。

青柳 ああ、そんなに印象的だった?

――これは動物愛護的な気持ちではないんですけど、「何で剥製にするんだろう?」と思ったんですよ。狩猟が趣味の人が、自分が獲った獲物を剥製にして飾るのはまだわかるんです。でも、あの店で剥製を購入して、それを部屋に飾って過ごしてる人もいるわけですよね。その欲求って結構過剰だなと思ったんです。「クレイジー・ホース」に行ったときにも、ある過剰さというか、突き抜けたものを感じたんです。他にも、今日歩いたパレ・ロワイヤルは、昔の貴族が作ったわけですよね。あんなふうに、街のど真ん中に人工的に巨大な林を造成して――そういう過剰さを、街を歩いているとすごく感じたんですよね。

青柳 ああでも、買い物依存症にはすごくわかる街ですよ。剥製を買うのも依存と言えば依存で、「洋服が好きで集めちゃう」とか「靴が好きで集めちゃう」とか、そういうのと同じじゃない? それって何でと聞かれても、「だって……いいじゃん!?」って言うしかないっていう――絶対に他人にはわかれないものがあるじゃん。でも、それはどうしようもないじゃん。私も、買い物依存症を直すことはもうムリだなって諦めました。

――それは、いつ諦めたんですか?

青柳 それは、去年ツアーでパリにいたとき。諦めたというか、「ああ、別にいいんだな」と思った。そのとき、パリは依存してる街だなと思ったんですよ。いろんな物への依存がすごいある街。それを感じるから、パリを嫌いっていう人がいるのかもしれない。「物欲でしかないじゃん、この街」って。でも、「そうでしょうよ」と思うんですよね。「そういうのにまみれてるでしょうよ」って。私は、沖縄の離島みたいなところも好きだけど、沖縄にいても自分が好きな洋服を売ってる店を探して買っちゃったから。

――でも、剥製に関して不思議なのは、何で生きてる動物じゃ駄目なんだろうってことなんですよね。たとえば、ドバイの金持ちはチーターとかライオンとか飼ってるわけですよ。それは何となくわかるんだけど……。

青柳 今の橋本さんの発言を剥製コレクターが聞いたらきっと、「馬鹿かお前は」って言われるよ。だって、毛皮を集めてる人に「動物飼えばいいのに」って言ったら、「何言ってるんだ」って言われるのと同じで。

――毛皮はまだ実用性が――でも、集めてたらもう実用性とかじゃないか。

青柳 うん。洋服だって、実用じゃないと言ったら実用じゃないもんね。1週間分、いや、3日分あれば十分なのに、それ以上はただの道楽ですよね。必要のないものを求める――それが依存ってことじゃない? その感覚がすごく合うから、パリが好きなんだと思う。

――もう一つ不思議なのは、たとえば動物を飼うとすれば、おそらく自分より動物のほうが先に死にますよね。でも、剥製はきっと、それなりに保存されていれば自分の人生の尺度に比べてずっと長く残るわけですよね。

青柳 こだわるなー、動物の話(笑)。

――いや、動物じゃなくてもいいんですけど。そういう、自分が死んでも残りそうなものへの欲求って何だろうなと思ったんです。お寺とかを見てても、思うんですよ。何で人間はこんな像を作るんだろうな、と。それを残そうとする動機って何だろう、と。

青柳 『火の鳥』とかに、「作らずにはいられねえ!」って感じの彫り師がいたじゃん。そういう欲求も、何かを集める人の欲求と同じなのかもね。必要のないものをなぜ作るかと言われたら――「ヤボなこと聞くでねえよ」ってなるんじゃない?


 たしかに、「ヤボなこと聞くでねえよ」という気持ちがわからないではなかった。僕自身、放っておけば忘れてしまう出来事や気分や会話をこうして残している。ただ、自分でもどうしてこんなことをしているのかわかない。

――昨日も話しましたけど、飴屋さんのインタビューの中に、一回性と再現性の話がありましたよね。それは舞台の話ですけど、人間っていうのはそもそも一回性のある存在ですよね。いつか消えていくわけですから。それに比べると、剥製は――別に剥製にこないけじゃないんですけど――ちょっとずつぼろぼろにはなるかもしれないけど、ずっとそこにあるわけですよね。

青柳 でも、消えちゃうのって身体だけだよね。洋服だって消えないし――私は私でしつこく「洋服」って言っちゃってるけど――身体だけですよね。

――前に、「そんなに長生きしないと思ってる」って話をしてたじゃないですか。

青柳 ああ、私がね?

――そう。それがどこまでの話として青柳さんが言ってるのかはわからないけど、まあ、いつか死ぬわけですよね。そのあとのことって、考えたことはありますか?

青柳 全然考えたことないな。全然ないです。ないけど、もう、ヤバいものは全部捨ててあるから大丈夫だと思います。……全然関係ないかもしれないけど、ついこないだ、あんまり会ってなかったほうのおばあちゃんが亡くなったんですよ。外国に来る何日か前に亡くなって、私が飛行機に乗る日が告別式で、「ああ、行けないな」となって。でも、おばあちゃんが亡くなるっていう感じが――何だろう、何かわかんないけど、「悲しい」とかじゃなかったんだよね。「動かなくなる」とか、「同じ次元にいなくなる」ぐらいのことで。

――ああ、違うところにちょっと移動した感じ?

青柳 移動したぐらいのことだなと思ったんです。そのおばあちゃんも、わりと身近な人だと思うんだけど、そういう、ちょっと引いた感じで見ちゃったところはある。たぶん、自分がいなくなることもそういう感じだと思います。自分のことが一番引いた感じで見れちゃうから。だからまあ、移動するぐらいのことかな。パリに移動してるとか、それぐらいの感じだと思います。

――じゃあ、あんまりいい喩えじゃないですけど、「あと数日で死にます」と言われても、特に何もしないですか?

青柳 あれ? この話、最近もした気がする。……そうだ、フランクフルトでラーメン食べまくって、日本酒飲みまくったときに、「最後の晩餐みたいな感じだね」って話を、誰かとした。最後の晩餐がラーメンは嫌だけど。でも、怖くはないんだけど、その瞬間だけがめっちゃ怖いかもしれない。移動する瞬間だけが怖い。飛行機に乗るときもいつも怖い。「この瞬間が最後かもしれない」って、離陸のときにいつも思う。

――ああ、それはわかります。なんか毎回そういうことを考えるから、僕もあんまり飛行機乗りたくないです。

青柳 電車のほうが楽だよね。いや、別に飛行機自体が怖いわけじゃないんだけど、離陸の瞬間だけは――まあ寝てるときもあるけど。だから、そう、死ぬときって、「めっちゃ遠くに行く」みたいな気持ちかな。ロケットに乗るぐらいの気持ち。

――ああ、地球の外に行く、と。そのときに、何か残すものはありますか?

青柳 うーん。今のところ、誰かに何か言っておきたいとか、何かを残したいとか、そういうのはわかんないです。ただ、私の洋服は全部くんちゃんにあげようと思うけど。

――何でくんちゃんに?

青柳 前に、ミナペルホネンでお揃いの服を買ったんですよ。私がくんちゃんにプレゼントして、飴屋さんが私に買ってくれたワンピースがあって。それは大事に取っておいて、彼女が大きくなったときに私のワンピースをあげて、私にもし子供か何かがいればくんちゃんのワンピースをもらって――それを繰り返して行けば、彼女とそういう循環ができるなと思った。あのワンピースを交換したときに、私の洋服たちはくんちゃんが大きくなったらぜひあげたいっていう気持ちにすごくなった。くんちゃんが一番似合うし。

――青柳さん自身は、そうやって託されたものとかは何かあります?

青柳 いやー、ないんじゃない? ないと思うよ。でも、何とはなしにくれたものを大事に取ってたりはします。今日さんが何とはなしにくれた十字架とか。

――あ、今も持ってる?

青柳 財布に入ってるだけだけど、ありますよ。これは、今日さんがバルト三国のどこかで買った十字架で、これは『小指の思い出』公演中によしもとばななさんがくれた奇跡のメダルです。

――奇跡のメダル?

青柳 ここも時間があれば案内したかったんだけど、サンジェルマンにある教会で売ってるんですよ。これを持ってるといいことがあるみたいなことですごく有名な、メダル。これも何とはなしにばななさんがくれて、こういうのは大事。

――こっちが十字架で、こっちがマリア様ですかね。そういえば青柳さんは、教会とかにいるとき、何を思ってるんですか?

青柳 教会? ただ単に「きれいだなー」っていう(笑)。でも、zAkさんが『en-taxi』のときに、インタビューで「僕がやりたいことは主観じゃないもの――すべての人が聞いて良いと思うもの。たとえば空に虹が出ているのを見たら誰もが『キレイだな』と思うけど、それはもう主観かじゃなくて、もっと大きなものだと思う」って答えてたじゃない? それと同じように、教会にいるときは、誰もが思う気持ちになってる。本当に、誰しもそういう気持ちにさせるのはすごいなと思う。それってなかなかできることじゃないよね。稀だよね。

――たしかに、教会にいるとそういう気持ちになりますよね。そうすると一方で、ここにいる「私」っていうものは何だろうと思うし……。

青柳 「私」っていうものの境界線がなくなる感じ?

――それもあるし、いつかはその境界線がなくなって死ぬんだなということも思うんですよね。

青柳 そうね。死ぬっていうか、消えてなくなるんだなとは思う。死ぬとは思わないけど、形としてはなくなるんだなって思う。別に魂がどうとかは知らんけど。こないだ、『ユリイカ』の原稿を書くために、ラース・フォン・トリアーの映画をすごい観てたんですよ。その中でも『奇跡の海』って映画を――橋本さん、『奇跡の海』は観ました?

――いや、観てないです。

青柳 帰ったら観てみてください。……帰ったら観て欲しいっての多くない? その『奇跡の海』って映画の主人公はベスって女の人なんだけど、ベスは教会でずっと祈りを捧げていて、自分が神様に問いかけて、神様からの言葉も自分がしゃべってるんですよ。最初は狂ってるなと思ってたんだけど、皆そんな感じなのかもしれないと思った。私にはわからないけど、教会で祈る人ってそれが普通なのかもしれないし、なんかいいなと思った。その、脆さじゃないけど。

――『小指』のラスト、あれは別に祈りではないけど、自分が消える直前に何かを言い残してるわけですよね。

青柳 そうだね。消える直前に。今の私自身にはそういう感覚はまったくないけど。子供がいたら違うんじゃない? 本当にそれに尽きる気がする。

――次の新作はきっと、そこにクローズアップした作品になるんじゃないかと思うんですよね。あと、おそらく次の作品で青柳さんは母親を演じるんじゃないかと思いますけど、親がメインにくる作品はマームとしてもきっと初めてですよね?

青柳 そうね。『小指』をやってるとき、それは野田さんの戯曲だけど、ほんとうに母親のことを考えたというか……。そうだ、ばななさんが『小指』を観て、「青柳さんが動物にしか見えなかった」と言っていたらしいんです。それは別に小動物みたいだったとか、獣みたいだったとかってことではなくて――。たとえば、ワニが寝てるとするじゃないですか。その目の前に肉を差し出すとパクって動くみたいなことで、「動物にしか見えなかった」と。……ごめん、母親とはあんまり関係ない話だったかも。

――いや、関係あるんじゃないですか? 条件反射というと違うかもしれないけど、自分の中に刷り込まれている本能で動いてるってことですよね。

青柳 そういう動物本能的な感覚として、「残す」っていうこともあるのかもしれない。動物は絶対に子供を守るじゃん。守らない親もいるかもしれないけど、基本的には「守る」っていう本能がある。それは飴屋さんにも感じるんだよね。飴屋さんが『小指』で当たり屋をやるにあたって、「くるみがいる僕には、やっぱり本当に考えられないんだよ」と言っていて。それを聞いて、ああ、やっぱりくんちゃんはそういう存在なんだなと思った。それは飴屋さんにとって変わらないことで、動物的な感覚で「考えられないんだよ」と言ってると思ったその感覚――かなあ。そりゃ残すよなっていう。今の、伝わったかな。ああでも、話しててわかりました。別にそう意識してやってたわけじゃ全然ないんだけど、そういう感じで『小指』をやってたのかもしれないです。

――『小指』のときは野田さんの戯曲でしたけど、その感覚を、今度の『カタチノチガウ』では、藤田さんが自分の作品として、自分の言葉としてやろうとしてるんだろうな、と。

青柳 ああ、そうだね。たぶん彼もそういうふうに意識してたわけじゃないと思うけど、結果的にそうなった感じだと思いますよ。だから『小指』稽古中にも「こうやりたい」ってことをすごい言ってきたんだと思う。

――今回の『てんとてん』のツアーの中で大きかったなと思うことの一つは、上京のシーンの描かれ方が変化したことなんですよね。それがもうセンチメンタルな描かれ方ではなくなったときに、藤田さん自身も、「自分の上京ってものも、センチメンタルってだけではなかったな」と改めて思ったんじゃないかと思うんです。そこでセンチメンタルではない上京をした人が母になり、子を残して死ぬときに、何を言葉にするのか――それが次の新作になるわけですよね、きっと。

青柳 そうだね。「そのときにあるのは感傷じゃないはずなんだよね」ってことを話した気はします。周りの人間は泣いちゃうけど、本人はもっと醒めてるんじゃないか、って。「感傷って何だろう」ってことも話した気がする。

――そう考えると、次の作品はこれまでとは違う一歩になりそうな気がしますね。

青柳 そう思います。あと、地味に私、藤田君の言葉をしゃべるのはめっちゃ久しぶりなんですよ。

――『cocoon』も今日さんの原作があっての作品だし、『まえのひ』も未映子さんのテキストだし、『小指』も野田さんの戯曲でしたからね。『穂村さんとジプシー』や『名久井さんとジプシー』も、藤田さんのオリジナルのテキストってことではなかったですもんね。あと、それに加えて、これまでマームはずっと記憶のことを扱ってきたけれど、次はたぶん、未来の話になるわけですよね。

青柳 それを見てみようってことに、『小指』のときになったんじゃないかと思います。『ΛΛΛ』で振り返りきったなっていうことがあって、その次に『小指』があって……。ちゃんとこう、段階がありますよね。だから本当に、次の作品は大事な作品になるんだろうなと思います。

 ホテルを出発する時間はバラバラだった。朝8時、聡子さんと僕とで青柳さんを見送って、お昼頃になって今度は僕が見送られることになった。別れ際、聡子さんは「いってらっしゃーい」と言った。「また」でも「さようなら」でもなく「いってらっしゃい」かと、とても印象的だった。次に皆と会うのは東京だろう。そこで会うときには、僕も皆も、今とは少し違っているはずだ。別れて同じ場所に戻るのではなく、また違った場所に向かっていく。