2月11日

 朝9 時に起きると、喉に違和感がある。風邪を引いてしまったかもしれない。9時半、朝食。ごはん、あおさの味噌汁、塩鯖。13時、近くのスーパーで赤ワインを購入して、原宿に出かける。まずは駅前にある「オッシュマンズ」に入り、アウトドア用の小さな折り畳み椅子とステンレス製のマグカップを購入する。それから、駅構内にあるコンビニ――狭い店内は猛烈に混んでいて、一方通行になっている――でアサヒスーパードライじゃがりこ、それにサラミを買った。これで準備は整ったぞ。さっそくビールを飲み始めながら、代々木公園のほうに向かって歩き始める。足下にはビラだろうか、何かの紙が落ちている。「沖縄」という文字が印刷されているのが一瞬だけ視界に入る。警察官の姿をよく見かけるが、デモ隊の姿は見かけなかった。半纏姿の人がチラホラ歩いている。何かアイドルのイベントでもあるのか、カラフルな服を着て稲妻柄の服を着た人の姿も多い。代々木公園野外音楽堂に近づくと、そうした人の姿が少しずつ減っていく。今日はこの野外音楽堂で、クラムボンのフリーライブが行われるのだ。

 13時55分に到着してみると、前のほうはたくさんの人がいるものの、後ろのほうにはまだ少し余裕がある状態だ。邪魔にならなそうな場所に椅子を広げ、ワインやツマミを取り出していると、わっと完成が上がる。時計をみると14時で、予定時刻通りにライブが始まった。1曲目は「ある鼓動」だ。少し離れた場所で、シャボン玉を飛ばしている人がいる。周りにいるちびっこたちは、シャボン玉が飛ばされるたびに笑顔で追いかけては泡を消していく。泡のようにすぐに消えてしまいかねない脆さを、どこか温かい気持ちで僕は眺めていた。クラムボンの音楽を聴いていると、何かが解きほぐされるようなところがある。そこにあるぬくもりを感じて、こうして子供連れの観客も大勢いるのだろう。ふと、これがZAZEN BOYSのフリーライブだと全然違った客層になるのだろうなということを思った。ただ、入口こそ違うけれど、聴いているうちに心が静かになって、世界に自分一人だけになってしまったような気持ちにどこか至るという点で、僕の中ではどちらも共通する音楽だ。

 本編の最後に演奏された曲は、この日発売された2年数ヶ月振りの新曲「yet」だ。その歌詞にある「いっせーのーせ って 声 きこえる?/のこされた 僕ら つづけなくちゃ」というサビのフレーズを聴くと、どうしても2013年に上演されたマームとジプシー『cocoon』のことを思い出してしまう。「いっせーのーせ」というフレーズは、『cocoon』で繰り返し口にされたフレーズで、今でもその声は耳の感触として残っている。もちろん、この「いーっせーのーせ」というフレーズは『cocoon』より先に飴屋法水演出の『転校生』で使用されていて、それ以前にはさらに園子温監督の『自殺サークル』にも登場して――という系譜はあるのだと思うけれど、僕がパッと思い浮かべてしまうのは郁子さんが音楽を担当していた『cocoon』のことだ。

 『cocoon』という作品は、ひめゆり学徒隊に着想を得た作品だ。戦火が激しくなる中、女の子たちは海を目指して走り続ける。途中で銃弾に撃たれて命を落とす子や、自決を選んだ子もいる中で、最後に一人の少女だけが生き残る。青柳いづみ演じるその少女――主人公のサンだけが舞台上に立ち、先に死んでしまった子たちは少し高い場所に立っていて、そこで「いっせーのーせ」と繰り返している。サンはラストに語る。「前を開けると、まだ私は生きていた。繭が壊れて、私は羽化した。羽があっても、飛ぶことはできない。だから、生きていくことにした」と。彼女は「のこされた 僕ら」であり、また、戦後68年(当時)という長いスパンで見れば、観客である私たちも、それに作り手である人たちも、全員が「のこされた 僕ら」であった。その舞台に携わったことは、郁子さんにとって大きな何かであったはずだ。爆撃の音も、つまり人を殺す音も郁子さんが奏でることになったわけだし、「そのとき、女の子はどんな音が聴きたかったのだろう?」ということを考えずに、あの舞台を担当することはできなかったはずだから。

 『cocoon』が上演されたのは、クラムボンの新曲のリリースが途絶えていたこの2年数ヶ月のあいだのことだ。それから、この日のライブでは、5年振りとなるオリジナル・アルバムを3月25日にリリースすることも発表されたが、この5年という時間のあいだには、あの地震も含まれている(その意味でも僕たちは「のこされた 僕ら」だ)。この5年に感じていたことが、一滴に凝縮されたようなアルバムになっているんだろうなと思う。僕は以前、「震災以降」ということばで表現が括られることが嫌いだった。震災ということに対して、何か回答を求められたり、回答を提出するような感覚は嫌だと思っていた。でも、どんなに関係のないふりをしていたって関係がないわけではないだろうし、そこに滲む何かはある。その滲んだ何かを、この「yet」という新曲に感じた。少し前に、僕は郁子さんと話をする機会があった。郁子さんは「同じ曲を歌っていても、それは同じだと思っていないのかも」という話をしてくれた。そのときの僕は、その言葉が意味することにあまりピンと来ていなかったけれど、アンコールで披露された「サラウンド」を聴いて、郁子さんが言っていたことの意味が少しだけわかったような気がした。

 ライブが終わる頃には、赤ワインを1本飲み干していた。ステージの裏手にあるトイレでマグカップを洗おうと思ってふらふら歩いていくと、少し人だかりができていた。そこにはバックステージがあって、フェンス越しに郁子さんが観客と話をしていた。一瞬だけ目が合ったので、僕は会釈をした。少し待って何か話したいような気もしたけれど、ワインを空けたあとにちゃんとしゃべれる気もしなくって、僕はトイレでマグカップを濯ぎ、渋谷に向かって歩いた。東急東横線に乗車して、家から持参したホットコーヒーを飲んで、少し酔いをさます。同じ車両に知人が乗っていたことに気づいたのは、目的地であるみなとみらいに到着してからのことだった。18時半、知人と並びの席でマームとジプシー『カタチノチガウ』観る。知人とは演劇の趣味が合わないのはわかっているのだが、どうしても見せておきたかった。帰り道、知人と話す。女優も皆可愛いし、舞台も可愛いし、映像もすごく凝ってるし、衣装も可愛いし――でも、その全部が好きになれないのだと知人は言った。もちろん好みはあるだろうけどさ、でも、好み世界を見せるためだけに作ってるわけじゃないじゃん。好みは人それぞれあるけど、それを超えたところにある「問い」があるから、別にすごくお金がもうかるわけでもないのに、長い時間と労力をかけて演劇を作るわけでしょう。“あなたたち”だってそうなんじゃないの――そこまで言ったあたりで、知人の目には涙が浮かんでいた。演劇の話をしていると、知人はいつも涙を浮かべる。