僕が彼らについて書くことがどういう印象を与えるのか、そのことを考えるととても萎えた気持ちになる。「あ、マームの人だ」と言われたときの気持ちが甦ってきて、くそが、ということしか頭に浮かばなくなってくる。でも、それで言葉にするのをやめるというのはあまりにもあまりにもという感じもするので、書き記しておくことにする。マームとジプシー『ヒダリメノヒダ』のことを。

『ヒダリメノヒダ』という作品は、最初の3公演がマームとジプシーの役者のみ出演するマームVer.として上演され、そのあとにホンマタカシ、山本達久、スズキタカユキ、Kan Sanoがゲストに出演する回が上演された。僕が最初の公演を観た感想は、「最後の15分がマームの文法に収斂され過ぎてはいないか」というものだった。それは、たとえば、ラストが駅のシーンになるということを受けてのことだ。他のシーンの実験性に比べて、なぜラストシーンをこれまでの文法に収斂させるのだろうかというのが、僕の疑問であった。

 その疑問は、帰りの電車で本人にも伝えたし、そのときの感覚を撤回するつもりもない。ゲストを迎えた実験的な作品で、町を出る/出ないとうモチーフを匂わせる必要があったのだろうかということは今でも思っている。その文法がなくたって、物語を閉じることはできたはずだ。慎太朗君だって、殺さないという選択肢もあり得ただろう。でも、どうやら慎太郎君が自ら死を選ぶという結末は、比較的早い段階で決まっていたという。その結末は、やはりこれまでのマーム的でもあるとは思うのだけれども、なぜ、劇作家はラストにあえてその結末を持ってきたのかということを吟味する必要はあると思っている。ゲストの回を観ているうちに、それは決して手癖として用いられたのではなく、あえてその結末を――これまでのマーム的と言われかねない結末を持ってきたのだと、僕は思った。なぜか。それは、これまでのマームとは、「死」というモチーフの扱いが変わってきたのだろうと思うからである。

 慎太朗君は自殺をした。これまでのマームの作品でも、自ら死を選ぶ人は何度も描かれてきた。ただ、今回のそれは、決してセンチメンタルには描かれなかったように思う。それを象徴するものこそが、慎太朗君の自殺だったと僕は思う。これまでのマームとジプシーの舞台では、自ら死を選ぶ人というのは、もう少しセンチメンタルに描かれていた。でも、今回の慎太朗君は、もう少しドライに描かれている。今、藤田貴大という作家の中では、自ら死を選ぶ人間というのは、ややもすると「楽な道を選んだ人間」として認識されているフシがある。だからこそ、慎太朗君が自殺したことが響いてくるのだと思う。慎太朗君は自ら命を絶つ決断をした。だがしかし、この作中では、そのことを過剰に悼んではいないのだ。

 誰かが町を出るとする。町を出るということは、町に残る人間からすると、町を出るということに――その“町“という規模からすると死んでしまったかのようにも思える。だとすれば、だ。町で巻き起こっていることに対して「イヤだったら出ていけばいいじゃん」と言う人が、「納屋で自殺」するという選択肢をとることで、町で巻き起こっていることから逃げた人間に対して批判的であるということが、僕にはよくわからなかった。

 僕は「成功」だとか「失敗」ダとか言える判断基準を持ち得ていないけれど、今回の『ヒダリメノヒダ』という作品について、一カ所だけ、はっきりと「良い」と言える箇所がある。それは、川崎ゆり子という女優に関してである。

 中島広隆に自転車を修理してもらったあとに、川崎ゆり子が自転車を漕ぐシーンがある。そこで川崎ゆり子は、「あ・お・い/あ・お・い/あお・すぎ・る」と、叫ぶように言う。あの叫び声が、僕からすると、今回の舞台のすべてではないかとさえ思う。青い、青過ぎる。それは。まぎれもなく日本語ではある。あるのだけれども、その音というのは、言語以前の叫びのような響きを持っていた。クラムボン原田郁子さんが、言葉になる前の音で表現をしたいというようなことをしばしば言及しているけれど、それに近い何かを感じた。思えば、川崎ゆり子
だけはスケボーに乗っていて、いろんなタイムラインを自由に行き来することができるのだ。

 で、一体何が言いたかったのかと言うと、「虚無感」のことだ。

 今回の『ヒダリメノヒダ』には、藤田貴大自身も舞台に立っていた。彼は時に、マイクで音を拾い、料理をし、カメラを向けていた。役者たちがごにょごにょとやり合うシーンに、彼だけが淡々とした目線を向けつつ立ち尽くしている場面もあった。その目線は、たしかに無表情であった。ただ、ここで問題になるのは、彼が無表情であるからといって、無関心であり、ただ単に虚無感に支配されているのだろうか? ということだ。

 たしかに、舞台上で他の役者たちと関わるシーンで、藤田貴大という作家は無表情であったし、何かしら揉めている状況に対して彼は傍観者であった。しかし、傍観者であるということは、虚無に支配されているということだろうか。希望を抱いていないということだろうか。否、と僕は思う。彼がそこまで徹底して虚無的(に一見すると思える)視線を向けているということは、一つのアプローチであるはずだ。もちろん、それは一つのアプローチであって、その先に思想的な答えがあるのかどうかはわからない。そこには何の答えもないかもしれない(もっと言えば、藤田貴大という作家がその規模での答えを求めているのかどうかも僕にはわからないが)。ただ、藤田貴大という作家にとって、この無常観というものは決してネガティブなものではないということは確かなことだと僕は思う。その虚無を見つめる視線の先にこそ、今年の『cocoon』が――藤田貴大ならではの『cocoon』があるのだと思う。そんなことを考えたときに、あらためて、『ヒダリメノヒダ』の稽古期間中に繰り返し聞いていた楽曲のことが思い浮かぶ。そこで、向井秀徳はこんなフレーズを口にしていた。「ただ、じっとこの世を見据え睨み続ける」「その目はもしかしたら、とても優しい」。

 最後に一つ付け加えるとすれば、彼らに対する批判的な言辞に賛同するとき、「その言葉を聞いてすっきりした」なんて言葉を言ったって無意味だということだ。彼らがなぜ同じようなモチーフを描いているのかということを考えるだけでも、「すっきりする」などということがいかに無意味かということは伝わるはずなのにと、僕は思っている。