昼頃までホテルでぐずぐず過ごす。12時過ぎに外に出て、まずは近くにある「萬松堂」という書店をのぞく。郷土本のコーナーから、『越後の民話』、『越後の鬼』、『あのころみんな夢があった―追憶の越後100年の記録』、『にいがた 文化の記憶』などを購入する。そののち、新潟駅に到着した知人と合流し、「ピア万代」という場所を目指す。産直センターのような施設で、駐車待ちのクルマの列ができるほど賑わっている。市場あり、バーベキュー用のスペースあり(市場で買ったものをすぐに食べられる)、回転寿司ありと、新潟の食が好きな僕にとって夢のような場所だ。

 先にこの場所に到着していた皆に挨拶をして、まずは生ビールと岩牡蠣を食べる。ほどなくして回転寿司の順番(整理番号制)がまわってきたので、入店する。とにかく美味かったのは南蛮エビだ。旬から一番遠い時期であるのはわかっているのだが、それでも十二分にうまかった。あんまりうまいものだから、3皿も食べてしまった。知人はすっかり呆れた様子でビールを飲んでいた。

 店を出たところで皆と別れた。歩いていると橋の近くに草むらが見えた。ぽかんとした空間が何なのか気になって近づいてみると碑が建っていた。「皇太子裕仁親王殿下本日ヲ以テ良子女王殿下ト御婚儀ヲ挙ケサセ給フ」「大正十二年七月廿一日新潟市會ハ御成婚奉祝記念公園設置ヲ決議シ地ヲ白勢成熙ノ宅址ニトス明治十一年九月先帝御巡幸ノ時十六十七十八ノ三日御駐輦アリシ所ナリ」と書かれている。明治天皇が巡幸し、昭和天皇の御成婚を記念して作られた公園とは思えない雰囲気に、しばし立ち止まる。

 さらに歩いて、「みなとぴあ」という施設を目指す。このあたりでようやく気づいたけれど、新潟には「ぴあ」と名のつく施設が複数ある。この「みなとぴあ」というのは新潟市歴史博物館だ。入館料を払って中に入り、常設展「郷土の水と人々の歩み」を観る。入り口の場所にある唐突な展示をしばらく眺めていて、新潟の海沿いの地域が広大な砂丘であることを初めて知る。何度も新潟を訪れているのに、そこが砂丘だったとは一度も意識したことがなかった。

 今、新潟では「水と土の芸術祭」というのが開催されている。それに、新潟と聞けば、水と米がうまい土地だという印象がある。でも、展示を見ていくと、新潟は水にも、それに稲作にも苦労してきた土地だということがわかってくる。「飲料水は信濃川から」と題したパネルには、こう書かれている。

 新潟町のほとんどの所は、井戸水の質が悪くて飲めなかった。人々は、信濃川の水を飲んでいた。水屋が、川の中央でくみ上げ、ろ過した水を舟に積んで売りに来た。この水を家々でかめにためて使った。

 この「舟に積んで売りに来た」という言葉からもわかるように、新潟の街は堀をはりめぐらせた水都だったという。「堀の水は生活用水となり、行き交う舟が食料品・飲料水をもたらし、堀は暮らしに欠かせないものとなった」と書かれたパネルもある。

 新潟が苦しんできたの飲料水の問題だけではない。川沿いに暮らすひとびとは、度重なる川の氾濫に苦しめられてきた。新潟にはずうっと平野が続いているけれど、平野が続くということは高低差が少なく、少し川が氾濫すると大変なことになる。また、砂丘にできた町となると、作物の育つ土地を開墾するのも一苦労だ。そこを「水と米がうまい土地」にするまでには、長い歴史があったわけだ。米にしたって、新潟の米がうまいと言われるようになったのは戦後のことだ。新潟の米は「鳥さえ食べない」と言われていたのを、なんとかそのイメージを更新しようと開発が繰り返され、1955年にコシヒカリが誕生したのだという。

 印象的だったのは、新潟の近代化のあゆみだ。

 近代以前の新潟は、廻船による交易で栄えた都市だった。江戸時代の末期、1858年には箱館・横浜・新潟・神戸・長崎と並んで開港されているが、「新潟の周囲には貿易を必要とする人が少なく」、また「地理的条件も悪かった」ため、「開港場といいながらほとんど貿易のない状態が続いた」という(交易で栄えた都市だったのに、なぜだろう)。

 新潟を近代的な都市に開化しよう――そう奮闘したのは、二代目新潟県令として明治政府から派遣された楠本正隆だ。彼は肥前藩出身で大久保利通の副審だった男である。「新潟の開化」と題したパネルにはこうある。

 1872(明治5)年、新潟県令に就任した楠本正隆は、町を清潔な町にするために、ゴミやし尿の処理の方法を改めた。
 また、旧来の風習を改めて風紀のよい町にするために男のまげや裸を禁止し、旧来の休日や祭りを禁止した。
 町並みを整えるために、道路を整備し、ひさしを整え、石油ランプの街灯を設置し、白山公園(りゅーとぴあのある公園だ――引用者註)を開園した。
 銀行や会社を起こさせ、川蒸気を運航させた。
 開化の動きは、1875(明治8)年に楠本が去った後も続き、西洋風の建築も相次いでできた。

 また別のパネルには、「町には数は少ないが外国人が、新潟の人々にまじって暮らしていた」「西欧思想に触れた人々は、文明開化を進める新聞を刊行し、政治的自由を求めて運動を起こし、旧来の地主文化を高めていった」とある。これは新潟以外の県でも同様だったとは思うけれど、「旧来の地主文化」をベースに近代化が推し進められていったわけだ。新潟には大地主が多かったというから、とりわけその傾向が強いのだろう。明治5年に創刊された「北湊新聞」は、県の規則を知らせたり、牛乳を奨励する啓蒙的な新聞だったという。また、その後に刊行された新聞も自由民権思想を紹介し、また漢詩文や和歌の投稿を掲載して地域文化を発展させたと記されている。そうした新聞の一つが新潟新聞社で、この経営に携わったのが大安寺村の地主・坂口仁一郎――坂口安吾のお父さんだ。

 近代化にむけた努力が続けられてきた新潟という街にとって、転換点となったのが1931年9月に開通した上越線だ。それまで上野から新潟までは11時間もかかっていたところを、上越線を通れば7時間と、一気に4時間も短縮された。新潟が、一気に東京に近い街になった。満州事変が起こるのは1931年9月18日、上越線開通のわずか半月後だ。

 東京から満州国の首都・新京に向かうには、以下のルートがあった。敦賀に出て清津北朝鮮)行きの船に乗るルート。伏木(富山)から雄基(北朝鮮)行きの船に乗るルート。神戸から大連行きの船に乗るルート。下関から釜山行きの船に乗るルート。ただ、いずれのルートも2千キロ超の旅路だ。これが、上越線の開通により、東京-新潟-清津のルートであれば1896キロと、最短ルートが開発されたのだ。博物館には当時の汽船会社のポスターが展示されているが、「日満連絡最捷路」であることが強調されている。真っ赤なポスターの中に、日本と朝鮮半島満州が描かれた地球が浮かべられている様を眺めていると、あのときに希望を、そこに風穴を見出していた人たちがたしかにいたのだと実感する。

 ただ、希望に満ちた時代は当然短かった。太平洋側の港が連合軍の攻撃で壊滅すると、「新潟港は物資荷揚げの貴重な港として繁忙を極めた」が、「それは一時のことで」、「すぐに機雷封鎖されて港の機能は失われ」てしまった。街には艦載機の空襲があったが、B29などによる大規模な空襲は行われなかったという。

 大都市だけでなく、比較的小規模な都市にまで大きな空襲が続く中で、新潟のひとびとには不安があった。1945年8月に入り、広島・長崎に「新型爆弾」が投下されると、不安は具体的なものとなった。広島や長崎と新潟には共通点があった。大都市でありながら、大規模な被害には遭っていなかったことだ(実際、新潟も原爆投下の候補地として名前が挙がっていた)。そうした状況下にあって、新潟県知事は次のような布告を出している(本物の布告はもちろん旧仮名遣い)。

鬼畜敵米は新型爆弾を使用し広島市を暴爆した。之が為、同市は従来国内諸都市が蒙った空襲に比べて、極めて僅少の爆弾を以て最大の被害を受けたのである。此の被害は今迄の各種防空施設を殆ど無効とし、従来の民防空対策を以てはよく対抗し得ない程度のもので、人命被害も亦実に莫大であって酸鼻の極とも謂うべき状態であった。此の新型爆弾は、我国未被害都市として僅に残った重要都市新潟市に対する爆撃に近く使用せられる公算極めて大きいのである。

茲に於て県は、熟慮の結果、人的資源を確保し、戦力の保全を期する為、別記の如き措置を急速且強力に実施することと致した次第である。

市民各位は、既に敵の中小都市に対する空爆開始以来疎開に関し充分なる理解を以て着々実行して来たのであるが、変転の激しい戦局と暴戻なる敵の攻撃手段に対し、市民各位は覚悟を新たにし、本措置に基き更に一層徹底したる疎開を急速に実施しなければならない。

本措置は、敵の無辜の市民に対する殲滅的殺傷企図に肩透かしを喰らわせんとするものである。本措置は甚だ突然であるが、よくこの趣旨を諒解し、益々闘魂を燃やし、逃避的に堕せず、整斉たる秩序を以て市外転出を成す様、特に要望して止まない次第であります。

 どういう気持ちで、知事はこの布告を出したのだろう。本土決戦が盛んに叫ばれている時代にあって、大都市の知事が徹底した疎開を命じるというのは、「敵前逃亡」と批判を受けるおそれもあっただろう(だから「本措置は、敵の無辜の市民に対する殲滅的殺傷企図に肩透かしを喰らわせんとするものである」という言い訳めいた文言が含まれているのだろう)。そんな時代にあっても、一人でも生き延びさせようとして、風穴をあけようとして布告を出した人がいたのだと思うと、何とも言えない気持ちになる。自分にそんな行動がとれるだろうか。

 結局、原爆は投下されなかった。新潟は、ほとんどひと気のない状況で終戦の日を迎えたという。

 展示を見ていくうちに、一つ不思議に思ったことがある。それは、新潟には戦災が少なかったというわりに、あまり古い町並みが残っている感じがしないことだ。ただ、この疑問もすぐに解決した。戦後、1955年に新潟大火が、1956年に大水害が、1964年には大地震が起こっている。さらに、街に張り巡らされていた水路も、街の美化と交通の改善のためこの時期に埋め立てられていたのだ。

 知らないことがいっぱいだ。

 じっくり時間をかけて展示を観たあと、ミュージアムショップで『地方紙と戦争 新潟日報第二代社長「坂口献吉日記」に見る』という本を購入する。みなとぴあを出ると自衛隊の艦船が見えた。タクシーを呼んでホテルに引き返し、しばらく休んだあと、缶ビールを2本買って散歩に出かけた。りゅーとぴあに向かい、そのすぐ裏手にある信濃川の川べりに出た。薄紅色に染まる空を眺めながら、あたりが暗くなるまで河川敷に佇んでいた。

 今日も古町にある「五郎」に出かけるつもりだったけれど、混んでいて21時まで空きがないと言われたので、古町通りをぶらついたり、通り沿いにあるローソンに設置された椅子でぼんやりしたり。21時過ぎにようやく「五郎」に入店し、五郎酒と刺身の盛り合わせを注文する。うまい。黒崎茶豆も、十全ナス漬けも、岩モズク酢も、アワビ肝バター炒めも、のどぐろの塩焼きも、どれも皆うまかった。

 23時にはホテルに戻り、コンビニで買ってきた竹鶴のミニボトルをロックで飲みつつ、「情熱大陸」のオンエアを待つ。今日は又吉さんの回だ。楽しく観ていると、心臓がきゅっとなる。「これオススメです」と又吉さんが手にしたのは、『イタリア再訪日記』だ。「劇団がものすごいスピードで公演を打ちまくってて。志が高くて、めちゃめちゃ次元の高いことで役者と演出家がやりとりしてるのでまず、芸人として焦る」と又吉さんが説明しているあいだ、書影まで出してくれている。嬉しいなあ。にまにましながら、遅くまで竹鶴を飲んだ。