ホテルの朝食というのは、どうしてこんなに楽しいのだろう。朝食バイキングに並んでいるのは、パンとヨーグルト、ハムにチーズ、トマトと胡瓜、ゆで卵にシリアル、それにりんごくらいだ。特別な手間が加えられているわけではなくて、スライスして並べてあるだけなのに、それでも美味しく感じるのは異国にいるからなのか――わからないけれど、まずパンがうまいというのは大きい。朝食会場で一緒になった藤田さんは、「ほんと、日本人って何なんですかね?」と言っていた。海外公演のときはいつもそんな話になる。

 土曜日の朝に放送されていた『知っとこ!』という番組があった。この番組には「世界の朝ごはん」というコーナーがあった。毎回、どこかの国の新婚夫婦を取り上げて、夫のために朝食を作り、準備が整ったところで起こしに行くという内容だ。あのコーナーを、何の疑問も抱かずに毎週観ていたけれど、本当に普段からあんなに料理をするのだろうか。夫のために妻が早起きして支度をするというのは、ある視点から見れば異様なことになるだろう。

 食後にコーヒーを飲みながら、アイフォンで新聞を読んだ。寝屋川の事件の続報を読む。「長時間食事与えず? 胃に内容物なし」という見出しの記事が出ていた。殺された女の子の胃には内容物がなく、拘束されたあと長時間連れまわされた可能性が高いという。男の子の胃の内容物の有無は、遺体の傷みが激しかったせいか、確認できなかったとある。続けて『週刊文春』の記事も読んだ。容疑者の事件前の動向が書き記されている。そこには、容疑者が秋葉原の路上に座り込んでいる女の子をナンパしようと車を急旋回させたこと、その急旋回を怪しまれて警察の取り調べを受けた際、荷物の中からスタンガンと手錠と注射器が出てきたこと、さらに事件の起きる前の週には乱行パーティーに参加していたことが書かれている。この記事を読む限り、事件が起こる少し前からもう箍が外れていたように読める。

 しかし、日本から遠く離れた場所にいながら、日本の新聞や雑誌を読んで、日本の事件を考えるというのは不思議な感じがする。その不思議な感じは、マームとジプシーに同行して海外を訪れるたびに感じているものだ。

 今日はケルン滞在3日目にして、ケルン公演初日だ。11時前に劇場に到着すると、まずはミーティングが開かれることになった。役者の6人を集めて、藤田さんがぽつりぽつりと話を始める。

「今年の『てんとてん』は、この一ヶ所でしかやらないんだけど、いくつか話したくて。この作品は『その土地でやる意味』みたいなことを考えてきたわけだし、その問題には去年からぶち当たってきたわけなんだけど、その問題を変に空中分解させているつもりはなくて。去年のツアーの後半は、そういう話が高まってて、その高まった状態で(去年のツアーの最終地である)メッシーナまで行ったノリがあったじゃん。でも、今年はこの一ヶ所のみだから、『ただやればいい』ってことになりそうな感じもなくはないんだけど、僕的にはケルンでやる意味はあると思ってるんだよね。

 それはどういうことかっていうと、その土地でやる意味をどうやって見出すかってなったときに、“その土地のことを調べたりなんだりして見出す”ってことではなくて、“これってどの街にも当てはまることだよね”っていうこととしてやっていくってことだと思う。だから別に、『てんとてん』って作品をやるときに、その街のすべてを孕んで上演したいってことでやっぱりないっていうこと。ただ、観に来てくれるのはこの街の人たちだから、やっぱりこの街でしかやれないことになっていくじゃん。何だろう、今日この日に来てくれる人たち――それが何人であろうと、今日ここにきてくれた人たちとやるってことが重要なことだと思うのね。

 僕が『ケルンでやる意味がある』と言ってるのにはいくつか理由があるんだけど、まあ、2週間前に『cocoon』っていう作品が終わって――この6人の中でも『cocoon』に関わっている人と関わってなかった人がいるだけど――でも、皆2015年っていう時間を過ごしてるわけじゃん。『cocoon』に関わってた人だったら、ここ2ヶ月はあの作品でツアーをやって、いろんな人に触れてきたわけじゃん。たとえば沖縄に行ったときには沖縄の人たちに向けてやったことっていうのはあるわけだよね。実子とまるまるはスタッフとして関わってたから、舞台に立ってはいなかったにしても、『cocoon』って作品で出会ったお客さんがいたわけだよ。それは沖縄に限らず、いろんなところで、いろんなレベルであったと思う。僕らの活動っていうのは、「その土地に行って、その土地の人たちに作品を見せる」ってことをずっとやってきたわけだし、最近はその発展形として、その土地の人たちに出会いに行って作品を作るっていう作業を福島でやってるわけだよね。

 そのときに僕が気をつけてるのは、何だろう、いろんなことを調べたり勉強したりしても、やっぱりその人たちには近づけないところがあるってことで。その“近づけないところがある”ってことが肝だと思うのね。それは海外に限った話じゃなくて、同じ日本人であっても、わかってあげられない部分があるわけだよ。『cocoon』って作品をもってしてでも、沖縄っていうところとどれぐらいちゃんと作業ができたのか、わからないわけだよ。そういう意味で言うと、『てんとてん』での作業も『cocoon』での作業も全部同じなんだよね。僕は作家だから『同じ』って言えるのかもしれないし、皆は扱ってる作品が違うから『同じ』とは言えないと言えないかもしれないけど、僕のスタンスの話をすれば同じなんですよ。

 どこに行っても、自分はそこにいてはいけない人なんじゃないか、自分はそこにいないんじゃないかっていう不在感とともにいるわけ。でも、じゃあ何でそこに足を運んで作品をやるのかっていうと、『自分はそこにいてはいけないんじゃないか』ってことで諦めたくないからなんだよ。どこかに足を運んだときに打ちのめされることもあるわけだけど、その打ちのめされるってことが作品を伸ばす一番の樹液になってるみたいな状態だと思うのね。その作業を、どの土地に行ってもやりたいなと思うわけ。

 今は土地の話をしたけど、次は時間の話をしたくて。

 時間っていうことで言うとさ、『てんとてん』って作品は2年前にできたわけだけど、今年で3年目じゃないですか。時間はどんどん経過してるわけだよね。それは、誰であろうが何人であろうが経過してるんだと思うのね。だから、この作品も2年前のように見られるわけがないんだよ。たとえば2年前の2013年にケルンに来てたとしても、2013年にやってみたときの感触と、今年やる感触っていうのは絶対違うじゃん。時間っていうのは絶対に経過していて、今はあきらかに2015年なわけなんだよ。その“あきらかに2015年”っていうモードで僕らがやれるかどうかだと思う。

 この2年間旅をしてきて、皆、土地とか場所にこだわり始めてるのかもしれないけど、土地と僕らの距離はあきらかにあるっていう温度でいいと思う。ただ、時間的な感覚って実は平等だと思うんだよね。世界で起きてることは色々あるわけだけど、時間って感覚で言えばもう“今”でしかないわけじゃん。これはよく言われているような言葉かもしれないけど、演劇っていうのは完全に“今”っていうことでやってることだと思うんですよ。そこに再演って言葉はあり得ないと思う。演劇だけじゃなくて、たとえば映画でも、1968年に公開された映画を今上映したとして、映画自体は同じだとしても、観客の時間は進んでるわけだから、やっぱり違う見方をするわけだよね。そういう意味で、再演とか再上映ってことは不可能だと思うわけ。それと同じように、観客の時間も進んでるし、僕らの時間も進んでるじゃん。生きてる人の時間は進むわけだから、その時間をすり合わせるって作業をするわけだよ。それに関しては、どの土地だからとか関係なく、どこであっても緊張することだと思う。『てんとてん』って作品は、それがすごくエッジのきいた状態でのってる気がするのね。だから余計に、“今日観に来たお客さん”ってことにフォーカスを当てていかないとよくないなってことがあある。

 あと、日本でやった最後の通し稽古をやったときに気になった台詞があって。聡子がさ、『わたしなんていう“てん”は、ありとあらゆる幾ばくの、夥しい数の無数のてんのなかの、あるひとつのちっぽけな“てん”にすぎない』『でも、どんなにちっぽけだって、いろんな記憶が、わたしのなかには、つまっている。あのこにだって、あのこにだって』って話をするわけじゃん。ちょっと話が戻るようだけど、それは『cocoon』でも言えることだと思うんだよね。

 20人とかって数のキャストで『cocoon』のツアーをしたわけだけど、それってものすごくちっぽけなことでしかないわけじゃん。毎回死ぬ演技をするわけだけど、その死ぬ演技っていうのは誰に届いたのかもわからないぐらい小さなことかもしれない。福島で福島の子たちとやってる作業だって――何だろう、あの子たちは“福島のこども”ってことでひとくくりにされてしまう瞬間があるし、ひとりひとりにフォーカスが当たらない悲しみみたいなものがあるわけだよね。その悲しみみたいなものが、僕の作業の中には常にあるんだよね。大きな時間は立ち止まろうとしないけど、やっぱり誰かが立ち止まらなきゃさってところがあるんだよ。誰かが立ち止まって考えるってことをしないと、おかしい世界になっちゃうんじゃないかって感覚が、僕の活動全部を通してあるわけ。

 今回、こうしてまた『てんとてん』のメンバーってことでケルンで集ったわけだけど、それが僕の統制してる時間じゃなくなってきたのもいいことだと思ってるんだよね。もちろん僕のテキストだし、僕のフォームでやってもらうんだけど、マームの中でもひとりひとり活動が違ってきてるじゃん。それが今、いい形になりそうな気がしてる。『cocoon』でツアーしてたり、違うツアーをしてたり、スタッフとしての関わりが続いて中々キャストとしては出れなかったり、でもキャストじゃないところで僕の作業をずっと見てたり――6人が6人、全員違う風景を見てきてここに集ってきたってことがすごくいい感じがしてるんですよ。だから、僕が皆の考え方をすり合わせたいわけじゃなくて、6人のキャストがいるんだったら6人の頭のままでやってほしいんだよね。

 6人ひとりひとりが見てきたり感じてきたりした2015年があるはずだと思う。去年のメッシーナでの公演から1年近く経ってるわけだけど、その“1年近く経ってる”ってことを更新できれば、今年の功績になるんじゃないかなって思ってる。去年のツアーが終わってから、1ヶ月に1回単位で稽古してきちゃったから、何となく去年のツアーの延長っぽいイメージはあるんだけど、“今”っていう時間として――6人が6人の頭のまま、この1年近くのあいだに自分たちは何を見てきたのかっていうところでやってほしいんですよね。それをやるしかないんじゃないかって思う」

 ミーティングが終わると、役者の皆はウォームアップに入った。テクニカル・リハーサルが行われているあいだ、僕は劇場の近くをぶらついて、ビールを飲み、犬をつけまわしたりした。ケルンでは犬を散歩させている人を本当によく見かける(そういえば僕たちが泊まっているホテルもペット可だ)。そんなことをしているうちに、あっという間に18時を過ぎている。公演は20時開演の予定だったけれど、フェスティバルのスタッフのローラさんが「今日は天気が良いから、皆ゆっくり来ると思うので、20時開場にしたほうがいいと思う」という言葉に従って、20時まで開場を遅らせることになった。開場時刻が迫ったところで表に出てみると、ようやく日が沈もうとしているのが見えた。

 20時14分、ケルン公演初日は開演のときを迎えた。満席には少し遠い客入りだったけれど――フェスティバルを主催するサシャさんは、初めて開催されたこのフェスティバルに専任の広報を用意できなかったことを後日申し訳なさそうに語っていた――観客は食い入るように見入っていた。

 『てんとてんを、むすぶせん。からなる、立体。そのなかに、つまっている、いくつもの。
ことなった、世界。および、ひかりについて。』という作品には6人の登場人物がいる。彼らは中学校のクラスメイトだ。冒頭のシーンで、6人は森の中にいる。森の中では、“あやちゃん”がキャンプをしていて、同級生たちはそこに遊びに訪れている。

 彼女が家出をして森の中でキャンプを始めたのは、彼女が住む町で起きたある事件がきっかけらしかった。“あやちゃん”はこんな言葉を口にする。

「わたしがテントを張った、この場所のすぐ裏には、川が流れている。その川の用水路の入り口に、こないだ、ちいさなおんなのこの死体が浮かんでいたらしい。おんなのこは服を着ていなかった。裸で、用水路の入り口に浮かんでいた。つまりはそういうことだ。おんなのこは裸のまま、用水路の入り口に捨てられた。わたしが住むこんな小さな町で、そんなことが起こったのだ」

 この話から思い出されるのは、2011年の春に起こった事件だ。スーパーマーケットに家族で買い物にきていた3歳の女の子が、20歳の男に乱暴されたのちに殺された。男は女の子の遺体をリュックに詰めて運び出すと、用水路に捨てた――この事件というのは、『てんとてん』という作品が生み出される要因の一つだろう。実際、2013年の初演を観たときは、その事件のことを思い出した。でも、2014年に『てんとてん』という作品を観たときに思い浮かべたのはまた違った事件だった。

 “あやちゃん”は、別のシーンでこう語る。

「きょうの朝さあ、先生が言ってたじゃん。わたしたちは被害者にもなれるし、加害者にもなれる、って。ひととして、まっとうな『ニンゲン』として、どちらにもならないようにしろ、って言われたじゃん。あれって、どういう意味なんだろう。わたしもいつか、殺されるかもしれないし、ひとを殺すかもしれないってこと? なんでそんなことを想定して生きていかなくちゃいけないの? あれってどういう意味なんだろう」

 この台詞を耳にしたときに、僕の頭によぎったのは、2014年の夏に起きた佐世保の事件――同級生が被害者と加害者になった事件だ。今年であれば、家を出てテントで生活しようとしていたところを殺された寝屋川の女の子と男の子のことがどうしたって頭をよぎった。朝に感じたように、日本の事件を考えるというのは不思議な感じがする。遠く離れた異国にいて、日本で起きた事件の報道に触れたり思いを巡らせたりするというのは、奇妙なことでもある。でも、そう感じる一方で、「じゃあ日本にいるときは近いのだろうか?」という疑問も浮かんでくる。その事件というのは、自分にとって縁もゆかりもない場所で起きた、見ず知らずの誰かに降りかかった出来事だ。その意味では、私とはまったく関わりのない出来事でもあるけれど、どんなに遠い世界で起こっていようとも、また別の意味からすればそれは私たちの出来事だ。

 脳裏によぎる事件が変わっている――その事実からは、また別の考えも浮かんでくる。

 『てんとてん』という作品には、2013年から2014年にかけては大きな変更が加えられた。2014年から2015年にかけても、昨年ほど大幅な変更はなかったにせよ、ある重要な要素が加えられた。2014年のバージョンでは、森の中でキャンプをしていた“あやちゃん”がどうやら死んでしまったらしいことが示されていた。そして、2015年のバージョンでは、同級生のひとりである“あゆみちゃん”が死んでしまったことを思わせるシーンが追加されていた。“あゆみちゃん”の死を思わせるシーンに差し掛かったとき、外から救急車の音が聴こえてきた。

 6人しか登場しない世界の中で、去年は“あやちゃん”が死んでしまって、今年は“あゆみちゃん”も死んでしまった。その世界は、僕が生きている世界そのものであるように思った。去年はそんなふうには思わなかった。そこにはきっと、つい最近までツアーに同行していた『cocoon』が影響している。『cocoon』にはこんな台詞がある。

「皆、皆、死にたくなかっただなんて、そんなことはわかっているのに、何で、何でなんだろうね。過去にとって未来はさあ、現在なわけなんだけれど、現在って未来を過去の人たちは想像していたのだろうか、こんな現在を未来ってことで想像していたのだろうか」

cocoon』という作品は、ひめゆり学徒隊に“想を得た”作品だ。女の子たちは舞台上を駆け抜ける。看護活動をしていたガマを抜け、海に向かって走り続ける。その途中で、ある女の子は自ら死を選び、またある女の子は銃弾に倒れてゆく――そこで語られている「皆」というのは、第一義には『cocoon』の舞台上にいる女の子たちであり、彼らが“想を得た”と語る女の子たちである。でも、『cocoon』を観ていたときから感じていたことではあるけれど、その「皆」という言葉はもっと普遍的な言葉として響いてくる。

 「皆、皆、死にたくなかっただなんて」――その台詞を語る吉田聡子さんは、『てんとてん』にも出演している。『てんとてん』で彼女は、「あやちゃん。あゆみちゃん。私、もう、この街に――」と、死んでしまった二人のことを振り返っている。生きていると、私たちの中にはどうしたっていろんな記憶が堆積してゆく。楽しいことだけでなく、悲惨な出来事だって起こるし、ひとり、またひとりといなくなっていく。年を重ねていくのはこういうことなのだと、『てんとてん』という作品を観ていて思った。

 舞台に立っている人は、3年目ということをどう感じたのだろう――終演後に、吉田聡子さんに話を聞く。

「どうなんだろう。終わってから思ったのが、どこかに通うのって結構好きで、私みたいな人はどこかに通わされることって大事だなってことで。学校とかもそうだし、稽古とかもそうなんですけど――自分から行くのは緊張するけど、『来い』って言われて行ってみると、嫌なこともあるけど、結構得るものもあるなってことを思いました。それを思ったのは、初めてかもしれないです。

 2013年から2014年にかけては大きな変更があって、台詞も違うから“違う音”を出すみたいな認識があったけど……。今回、私の台詞自体はあんまり変わってないですけど、でも自分の中で変わってくものがあるから。それは、通ってみなきゃわかんないっていうか――昔、ダンスを習ってたときもそうだったんですけど、週に1回ダンスを習いに行っていると、日によってすっきりと動かない場所とすっきりと動きやすい部分が違うし、違和感を感じる部分っていうのが違うんですよ。『てんとてん』っていう作品は1年に1回っていう単位ですけど、その1年に1回ってことの中でもそういうことがあるんだなっていうのを、うん、今年は思いましたね」

 1年という時間のあいだに、変わっていくものがある。今朝のミーティングでも、藤田さんはそんなことを話していた。あの話を、聡子さんはどんなふうに聞いていたのだろう。

「藤田さんが土地のことと時間のこととを話したときに、たしかに、今までキャッチーな土地ではないなっていうことを思ったんですよね。それはたぶん、皆も思ってると思うけど、日本に似てるっていうか、違和感なくここに来れたなってことがあって。だから、今日の初日は、日本にいるときのいいことも持ち込めた気がする。いいことっていうか、普段日本にいてふらふらしてるときに思ってること、漠然としたストレスとか、不安なこととか、もやもやしたこととかを、そのままここに持って来れた感じがしたんですよね。それがちょっと、海外にきた感覚としては新しい感じがしました。これまではもっと高揚感があったりとか、空が青いなとか思ったりしたけど、今回は全然思わなくて。ケルンも、東京に比べれば空は広いけど、北海道に行けば空も広かったし。人の温度差みたいなものも、親切ではあるんだけどすごく親切ではない感じが、この短い時間でいうとすごく楽で。それで日本と大した変化もなくいられる感じなのかもしれないですね。『cocoon』が終わって、もやもやしたものが残ったまま来てるっていうのも、『てんとてん』っていう作品に関わる上で新しいような気もする」

 今年の公演を観ていて面白かったことの一つは、聡子さんの声だ。公演が後半になるにつれ、聡子さんの声はどんどん去年と違う響きを持っていった。彼女が演じるキャラクターは、本名と同じ“さとこ”という名前だ。聡子さん自身が出したい声、出そうとする声と、“さとこ”というキャラクターが出そうとする声とがせめぎあっているようにも感じられた。

「それがたぶん、私が追いつけてないところで。『cocoon』をやってきた“さとこ”がいるから、それが今『てんとてん』をやるってなったとき、『この台詞をこうは言わないよね』とか『このことをこういうふうには見ないよね』っていう“さとこ”がいて。でも、1年前にはこう見てたってことを、私は身体で覚えていて。私の中には、こういうふうに見てたっていう身体の感覚が残ってるし、こういうふうに言ってたっていう音の感覚が残ってるんだけど、『cocoon』をやってきた“さとこ”としては、別にこんな音でしゃべる必要もないし、ここにいる必要もないっていう感じがある。どっちがいいのか、私にはわからないけど、まずやってみないことにはわからないから。とにかく、今そこでやろうとしてる“さとこ”がいるから、それを私が通してあげなきゃいけないんだけど、そこで私が一つ一つに動揺しちゃうから。今日はそれにすごく緊張しました。その“さとこ”に動揺して躓いちゃったら、普通にシーンが躓いちゃうから。今日はそこが、私的にはギリギリだったというか、緊張しました」

 去年のツアーのときから、聡子さんは自分自身と“さとこ”とを分けて語っていた。いくら実名が役名になっていたとしても、いかに実在する聡子さんから想を得たものだとしても、戯曲の中にいる“さとこ”は藤田さんが創造したキャラクターだ。それはもちろんそうだろう。でも、今年の聡子さんの話を聞いていると、その関係がまた少し違っているように感じられた。

「マームにおいて、さとこって結構さとこだなと思っていて。初めて実名の“さとこ”って名前でやったときは『役名があったほうがもはや楽じゃないか』って思っていて。役名があるだけで折り合いがつくことって多いんだなっていうか……。なんか今、(中嶋)祥子ちゃんのことを思い出すけど、祥子ちゃんが自分の名前で罵倒されるシーンがあったときに、悲しい気持ちになったらしいんですよね。私には別にそういうことがあったわけじゃないけど、自分の名前が役名になるっていうのが不思議で。役作りとか、よくわかんないけど。そういう、付き合い方が、ちょっとわかんなくなって。でも段々、マームにおける聡子っていうのが、何だろう、私の中でもちょっと名詞みたいになってきて――もちろん名詞は名詞なんだけど――『cocoon』の“さとこ”も、『ヒダリメノヒダ』の“さとこ”も、『てんとてん』における“さとこ”も、大して変わらないっていうか……。それは別に、どれも私がやってるから変わらないっていうよりは、どこかにいる“さとこ”が――。いや、でも、そういう住所的なことじゃないんですよね。何だろう、手塚治虫の作品の中に同じキャラクターが出て切るみたいな感じに近いのかもしれないです。全然違う設定の世界を行き来して、そこでそのキャラクターだから見れる視点があるって感じかもしれないですね」

 ところで。今日の公演を観ているとき――いや、朝のミーティングが行われているときから、ずっと気になっていたことがあった。それは、昨日不安を口にしたあゆみさんは、今日の公演に何を思ったのだろう。

「ねー。どうだろうね」とあゆみさんは笑う。「朝にたかちゃんから話があって、そのときはあんまり腑に落ちなかったんだけど、だんだんそれがわかってきたんですね。最初に『てんとてん』をやったとき――1年目のフィレンツェ公演のとき、たかちゃんが『海外でやる意味がなくなったらこの作品を終わらせる』って言ってたことが念頭にあり過ぎて、この土地でやる意味を見つけようとし過ぎてたんだなって思いました。それが不安だったんだと思います。でも、たかちゃんの話を聞いていて、『だからといって、やる意味がありそうな場所でしかやらないのはおこがましい』って話を聞いて、ああ、それはそうだなと思った。去年行ったボスニアって場所が特別だったりしたけど、でも、どこにだって出会いと別れはあるんだなと思いました」

 もう一つ、昨日語っていた寂しさというのは、本番を迎えれて解消されたのだろうか。それとも、それはまた別の種類のものなのだろうか?

「いや、それはちょっとあるかもしれないです。なんか、あっけない感じは、うん、あるけど。でも、それは本当に個人的なもので。その寂しいって気持ちのことを、ミーティングのあとにたかちゃんにしたら、『そういう気持ちがあるなら、オファーを断ってほしい』って言われたの。『俳優としてそれはどうなの?』って。それはたしかにそうだなと思った。場所と出会うことばっか考え過ぎてて、俳優として自分を高めようとしてなかったなと思った。なんかね、今日は初めて『日本と変わらないな』と思ったんですよ。それはたぶん、良いことなんだと思うんですけど、日本と変わらないなと思ったんですよね。それがすごい、今日は緊張しましたね」

 公演が終わり、ロビーでビールを飲んでくつろいでいると、破裂音が聴こえた。一体何事かと思って外に出ると、向こうで花火が上がっているのが見えた。誰かが「ポンテデーラでも、公演が終わったあとに花火を見たよね」と言った。そのまましばらく花火を眺めた。花火を見ているのは同じメンバーだけれども、あのときとは違う街にいて、あのときとは違う時間を過ごしていて、そして、たぶんきっと、同じメンバーではないのだ。