朝6時半に起きて、お金を数える。昨日1800元あったのに、もう1200元だ。7時半にホテルを出ると、街にはもう人が往来していた。表では包子(肉まん)が蒸されている。昼に向けて支度しているのかと思いきや、店内に目を向けると朝から大入りだ。皆、朝からもりもり食べている。せっかくだから僕も入ってみることにした。蒸し器を指差し、「1つ」と注文すると、すぐに包子が運ばれてきた。10個で15元(約300円)だ。ゆっくり食べていると、厨房の近くに積んである卵を手にして席に持って行く人がいる。店員に注意されるふうでもないから、自由に取っていいスタイルなのだろう(しかし、トッピング代というのはないのだろうか?)。皆、卵を何と合わせているのだろう。僕も1つもらおうかと思ったけど、少なくとも包子には合わなそうだからやめておいた。

 店を出て地下鉄の前門駅まで歩く。包子の店だけではなく、路上の粥屋や、クレープみたいなものを出す店も賑わっている。前門周辺にはもう観光客がいて、ベンチに座って一休みしていた。7時54分、地下鉄2号線に乗車する。満員電車で押しつぶされる覚悟をしてきたのに案外空いていた。ラッシュを避けてタクシーに乗ろうかとも思ったけど、地下鉄にしておいてよかった。タクシーだと渋滞に巻き込まれていただろう。地下鉄には路線図があり、次の停車駅が点滅している。あと4駅、あと3駅と数えて到着を待つ。駅名は簡体字とアルファベットで表示されている。韓国を訪れたときはハングルではなくアルファベット表記を目で追っていたけれど、ここでは繁体字を追っている。日本で使用される漢字とは微妙に違っているけれど、似ているからパッと把握しやすい。

 8時13分に積水路に到着し、「877」の数字が表示されたバスを探す。ここはバスターミナルになっていて、何台ものバスが停車している。ひときわ大きな人だかりができた場所に、877番、八達嶺長城までの直通バスが停車していた。そのバスはもう満席に近いけれど、後ろにもずっと「877」と表示されたバスが控えている。乗車口に立つ女性がマイクでけたたましく話し続けているが、何を言っているのかわからなかった。ジェスチャーから察するに、おそらく「あと3人乗れる」と言っているのだろう。でも、バスの中にはもう立ったまま乗車している人もいて、誰も乗りたがらなかった。バスを待つ行列に沿って物売りがいた。シール。ミニ国旗。とうきび。サングラス。麦わら帽。ミネラルウォーター。ミネラルウォーターの売り子は、バスの中にも乗り込んで販売していて、彼も一緒に乗車したままバスは出発してしまった。

 バスが発車すると、すぐに料金の徴収が始まる。前から順番にではなく、お金を差し出した人のぶんから受け取る。ひとり12元だ。全員分の料金を徴収し終えると、今度は前から順番に切符が配られた。バスはずっとまっすぐ走っている。しばらく走って気づいたけれど、北京市内にいると視界の中に山がなくて、どこまでも広大な風景が続いているように感じられる。公園や広場が見えるたび、「70周年」の文字が見える。不思議なのは、抗日戦争勝利70周年ということで盛り上がっている人をまだ見ていないことだ。あのパレードを喜んだ人は、いないのだろうか?

 ふと、去年旅したボスニアのことを思い出す。『てんとてん』という作品のラストには、「目を、開けると。1914年から100年経った、1984年から30年経った、2014年、ボスニアサラエボだ」と言う台詞が登場する。1914年は第一次世界大戦の勃発した年で、1984年はサラエボ・オリンピックが開催された年だ。この台詞に、少し笑いが起こった。一体なぜ笑いが起こったのだろうと現地の人に聞いてみると、「今年はもう、第一世界大戦100年を記念した行事や企画が散々行われていて、それに辟易としていたところに、日本からきた人がそれを言ったからではないか」と話してくれた。

 中国の人も、政府が強烈に打ち出す「抗日戦争勝利70年」ということに辟易としているのだろうか――?

 そうして中国のことを考えるのと同時に、日本のことを思い浮かべる。日本でも、今年は戦後70年ということが何度となく語られた。しかし、では、たとえば外国の劇団が日本にやってきて上演した作品の中に「1945年から70年経った」という言葉が出てきたとして、日本人の観客から笑いが起こるだろうか? もちろんその言葉が語られるシチュエーションによって受け取り方は違ってくるとは思うけれど、笑いは起きず、粛々と受け止めるのではないか――?

 そんなことをぼんやり考えているうちに眠ってしまった。マイク越しの声に目をさますと、バスは山の中を走っている。添乗員が中国語で何やら解説をしている。バスの乗客は、僕以外は全員中国人だろう。窓の外に目を向けると、緑の合間にゴツゴツした岩肌がのぞいていた。小山の頂に楼閣が見えた。

 バスは1時間ほどで八達嶺長城に到着した。2万キロを超える万里の長城の中で、観光地として整備されていて北京中心部からのアクセスも良いのが、この八達嶺長城だ。バスの発着場の近くには売店が並んでいる。店頭で餅をついている人がいた。生のフルーツやドライフルーツ、翡翠の民芸品、毛沢東グッズやTシャツ――修学旅行生が喜びそうなエリアを抜け、アスファルトで舗装された坂を歩いていくと広場に出た。ここが万里の長城の入り口だ。窓口で40元払ってチケットを購入する。小さく切り取られた窓口の向こうに座る女の子はスマートフォンに夢中で、こちらに目もくれずにチケットを放った。

 万里の長城には圧倒された。文字通り長い城だ。万里の長城がこんな山の中にあるとは思わなかった。ずうっと続く嶺に沿って、城がずうっと続いている。すげえなこれ。思わず言葉が出た。「この嶺に沿ってずうっと城を造ろう」と思った発想がまずぶっ飛んでいる。嶺に沿って建てられているから、城は当然坂になる。それもかなりの勾配だ。もはやちょっとした登山である。その坂を見上げて、また「すげえなこれ」とつぶやいた。

 八達嶺長城には「男坂」と「女坂」に分かれている。傾斜のきつい階段が続くのが男坂で、比較的緩やかなのが女坂だ。男坂を行く人はほとんど見かけなかった。そちらのほうがのんびり観光できるのだろうけれど、せっかくだから大勢の中に埋もれようと思って女坂を行くことに決めた。世界遺産でもあるし、本当に、小学生の頃から知っているような場所だから、もっと外国人観光客がいるのかと思ったが、9割以上が中国人観光客だ。これは中国に限らず、ヨーロッパに行っても思うことだけど、皆フルーツが大好きだ。山頂(?)で食べるのか、フルーツが入ったビニル袋を提げて歩く人もいるし、途中で座り込んで食べ出す人もいるし、食べながら登る人もいる。

 入り口から4つめの楼まで歩いたところで、足を止めて景色を眺める。次から次に、ひっきりなしに観光客がやってくる。城に沿って大量の人が移動する風景を眺めているうちに、不思議な気持ちになってくる。

 万里の長城が築かれ始めたのは、今から2200年以上前のことだ。燕、趙、秦の3つの国は、北方の遊牧民族の侵入に備え、それぞれに城を築いていた。それを秦の始皇帝が統一し長城としたと解説には書かれている。つまりこの長城は、この嶺を越えようとする流れを阻止するために築かれたわけだ。それから2000年経つと、城に対して垂直に移動しようとする流れは途絶えてしまって、城に平行にだけ人が流れている。

 30分ほど眺めて引き返した。長城を出てすぐの場所にある売店でコーラを買おうとしていると、ミダル、ミダルと声をかけられた。売店には金メダルがいくつもぶらさがっている。店員さんは「ミダル、証明書」と繰り返しながら、電卓を弾く。電卓には30と表示されている。僕が首を振ると、「いくらなら買うんだ」とばかりに電卓を渡してくる。20と打ってみると、「よし、じゃあこれがラストプライスだ」と25とタイプした。わざと悩んでみせるような素振りは微塵も見せず、きっぱりと振舞っているのが少しおかしかった。そして、僕が「じゃあ買います」と答える前から、次の動きに取り掛かっている。店主は紙とペンを取り出し、それを僕に差し出してくる。中国語だから何を言っているのかわからなかったけれど、どうやらメダルに名前を彫ってくれるらしく、それで「名前を書け」と言っているようだ。うっかりアルファベットで名前を伝えてしまったけれど、今思えば漢字で彫ってもらえばよかった。

 時計を見ると11時45分で、小腹がすいてきた。土産物屋に混じって食堂もあるが、観光地価格だろうと思って駆け足で歩いていると、チンギス・ハンの肖像画が目に飛び込んできた。「内蒙草原大串肉」と書かれた看板には、草原の中に佇む羊の群れが写っている。なかなかのギャグセンスだと感心する。万里の長城は、北方の遊牧民族の侵入を防ぐために作られたものだ。しばらく放棄されていた長城が復活するのは、女真族が1115年に建国した金の時代だ。金は北方からの襲撃に備えて城を築いたのだが、城はモンゴル帝国によって軽々と突破され、金は滅亡し、モンゴル帝国によって支配される元の時代がやってくる――そのモンゴル帝国創始者チンギス・ハンの看板に掲げた店を、この万里の長城に出すというのは妙におかしかった。つい笑ってしまったので、6串で10元の羊肉を購入した。

 バスで積水路まで帰ってきたのは、13時過ぎだ。駅前に屋台が出ていて、この屋台も羊肉の串を売る店だ。屋台の前には少し人だかりができていて、羊肉を頬張っている。僕は地下鉄で雍和宮駅に出た。街には昼下がりののんびりした時間が流れている。食堂は店を閉めて洗い物をしている。理容室で髪を切ってもらっている人たち。次第に赤い装飾の店が増えてくる、よく見ると仏具屋だ。そこからさらに歩くと、雍和宮の入り口が見えてくる。

 雍和宮というのは、北京最大のチベット仏教の寺院だ。総面積は6万平米の巨大寺院である。料金――何元だか忘れてしまった――を支払って、手荷物検査を受けて門をくぐる。並木道を歩くとお堂が見えてきた。お堂の前には香炉があり、その手前には台がある。信徒の方は、線香を手にして跪き、祈りを捧げている。ミニスカートを履いた人も、グラサンをかけた人も、同じように祈りを捧げていた。

 第一の主殿「天王殿」に足を踏み入れると、めでたさで満たされた。天王殿に鎮座しているのは黄金の布袋様だ。口を開けてがっはと笑っている布袋様を見ていると、めでたさがすごい。布袋様の両脇にはバースデーケーキみたいな塔があり、そこにも小さな仏像が並んでいる。チベット仏教と聞くと荘厳でちょっと堅苦しいものを想像していたけれど、とにかくめでたく、また雑多だ(そもそも布袋様はチベット仏教と関係ないだろう)。

 この雑多さというのは、雍和宮を歩いているあいだずっと感じていた。雍和宮に掲げられた額は、満州語、中国語、チベット語モンゴル語の4種類で書かれている。この寺院は、清の時代に開かれた寺院だ。清の支配民族は満州族で、伝統的にチベット仏教を信仰していたのだと『地球の歩き方』に書かれている。そうした背景も、この雑多さの一旦を担っているのだろう。日本が建国した満州国で使用された「五族共和」というスローガンは、清の後期から使用されていた「五族共和」という言葉に倣ったものだ。満州事変および満州国への評価は措くとして、当時の日本人の中には、中国が掲げる「五族共和」が多様性と寛容さに憧れを抱いた人もいたのかもしれないと、めでたさに満ちた布袋様を眺めながら思った。

 多様さというのは、朝から感じていたことだ。万里の長城を行き交う中国人観光客を眺めていると、顔がいくつかの系統に分かれていることに気づいた。中国人と言っても一様ではないし、ここは多民族国家なのだと改めて感じる。この広大過ぎる大地に、10億を超す人が、いくつかの民族が暮らしている――それが一つの国としてまとまっているというのはすごいことだなと素朴に思った。そんな国を支配できるんじゃないかと思って戦争を始めたというのは、考えが甘いと言わざるを得ないと思った。この国には、日本人では到底叶わない何かがあるように感じる。

 雍和宮には仏殿がいくつも連なっていた。第2の正殿「雍和宮」やの第3の正殿「永佑殿」に鎮座する仏像は、黄金に輝いているとはいえ、見慣れた雰囲気の仏像といった感じだ。最初に見た布袋様のめでたさが突出していたのだろうか――そう思って第4の正殿「法輪殿」に入ってみると、黄色い袈裟を纏い、微笑みを浮かべた仏像が鎮座していた。隣にいた外国人観光客へのガイドを盗み聞きすると、どうやらチベット仏教の(ある宗派の)創始者の像だ。印象的なのは、天井から光が射し込んでいることだ。その光に、意識が上に向く。光に迎えられるような気持ちで最後の「万福閣」に足を踏み入れると、目の前に膝があった。この万福閣に置かれているのは、20メートルをゆうに超す弥勒仏の立像だった。

 雍和宮の見学を終えると、仏具店で布袋様の仏像を探した。雍和宮大街にはずっと仏具屋が建ち並んでいる。小さい布袋様がいれば買おうと思っていたのだけれども、やはり見当たらなかった。探すのにも疲れてきたところで、街角の露店が目に留まった。そこには飲むヨーグルトが大量に並べられている。北京の街を歩いていると、これを飲んでいる人をよく見かける。いや、僕が飲むヨーグルトが好きだから、つい目を向けてしまうだけかもしれないが、喉が渇いたので購入してみる。1本で2元(約40円)だ。一口飲むと、驚くほどぬるかった。屋台で売っているのだから当たり前なのだが、しかし、ヨーグルトって常温で平気なんだっけ。不安になって、ひと口しか飲めなかった。

 雍和宮のすぐ近くには孔廟があった。孔子を祀った廟で、こちらも2万平米と広大な敷地がある。文化大革命のとき、毛沢東は「批林批孔」を掲げた。孔子は中国に封建主義を広めた悪人であり、林彪はその考えを復活させようとする悪人だと批判したわけだ。それから半世紀近くが経った今、現政権には孔子復活の動きがあると、磯崎新さんが以前語っていた。事実、習近平孔子生誕2565周年記念国際学術シンポジウムに出席している。たしかに、孔子の考えというのは統治者にとって利用しやすいものでもある。孔廟には、近々何かの式典が開催されるのだろう、たくさんのパイプ椅子が並べられて、サウンドチェックが行われていた。ただ、すぐ隣りにある雍和宮が観光客で溢れていたのに対して、孔廟にはほとんど観光客がいなかった。

 一度ホテルに引き返して休憩したのち、夕方になって再び街に出た。ホテルと劇場までのあいだには、「牛街」と呼ばれる地区がある。回族と呼ばれる人たちが暮らすエリアだ。回族というのはイスラム教を信仰する人たちで、1千万人近い回族が中国に暮らしている。清の後期から掲げられた「五族共和」のスローガンにある「五族」というのは、雍和宮に書かれていた4つの文字――満州族漢民族モンゴル族チベット族に、この回族を加えた五つだ。

 牛街は、コミュニティであるのだから当たり前かもしれないが、他とは少し分位置が違っている。緑色に彩られた建物をよく見かける。看板に「清真」と書いた店も多くある。「清真」というのは「汚れがない」という意味で、イスラムの戒律を守ったハラル料理を出す店だ。羊肉を扱う肉屋もよく見かけた。街が静かで、つつましやかに暮らしてる感じがする。路地を入り、団地の中を歩く。ベランダに鳥小屋を設置した部屋が多いようだ。丸い帽子をかぶった老人がいる。子どもたちがボール遊びをしていて、それを見守るように小型犬が座っていた。カメラ片手に歩きまわるのははしたない気がして、早めに目的地の寺に向かうことにした。

 牛街には「牛街礼拝寺」という寺院がある。北京最古のイスラム寺院だ。するりと中に入ろうとすると、建物から男が現れ、中国語で話しかけられる。言葉がわからずにいると、「VISITOR:10元」と書かれた看板を指した。ああそうかと財布を取り出し、支払いを済ませると、ジェスチャーで「写真はどんどん撮ってくれてオーケーだ」と伝えてくれる。

 『地球の歩き方』を読むと「礼拝大殿はイスラム教と意外は立ち入り禁止」と書かれているので、礼拝殿以外のエリアだけ散策する。境内には、牧歌的ということばがぴったりくる。礼拝寺は、中国の古典的建築様式とアラビア式の建築様式が融合したものだ。シルクロードを渡り、イスラム教と建築様式が伝わってきて、それが中国に根を張ったわけだ。長崎や函館の風景を思い出す。明治時代に日本を訪れた西洋人が暮らした洋館をみると牧歌的な気持ちになるのと同じように、ここにも牧歌的な時代があったのだろうと思いを馳せた。中国では少数民族である回族には苦難の歴史があるわけだが、その前にあったであろう牧歌的な時代を。

 礼拝寺を出ると清真料理の店に入って食事をした。羊肉の串とピラフを注文した。羊肉も好きだし、羊肉を焼くときに使われる香辛料も好きだ。ちょっと脇のにおいがする。癖になる味だ。

 食事を終えると、いよいよ劇場に向かった。国家話劇院劇場に到着してみると、表にはダフ屋らしき男を何人か見かけた。セキュリティ・チェックを受けて劇場に入る。入ってすぐの場所には大きな劇場があり、「WarHorse」という作品が上演中だ。そこを通過し、カフェを抜けると、「国話小劇場」の文字が見えてきた。今日から3日間、マームとジプシー『カタチノチガウ』が上演されるのだ。

 受付でチケットを受け取り――席を用意してもらって恐縮する――劇場に入ってみる。ここは300人も入る、結構大きな劇場だ。だが、席にはほとんど客がおらず、ケルン公演のことを少し思い出す。開演まで30分近くあるので、表のカフェに行ってみる。謎のフレッシュジュースが並んでいる。その一つはスイカのジュースだ。20元払って購入して飲んでみる。スイカの味だ。ちびちび飲み干して、開演直前になって劇場に戻って驚く。いつのまにか劇場は一杯になっていた。満席には少し届かなかったけれど、9割以上は埋まっている。中国で公演をするためには当局の許可が必要で、政府が忙しい時期だったことが関係しているのか、9月に入るまで許可が直前まで下りなかったのだという。それでここまで観客が入ったというのは驚異的だ。マームとジプシーが北京で公演を行うのは、これが初めてのことなのだから。

 中国語によるアナウンスが行われると、聡子さん、ゆりり、青柳さんの3人が舞台に登場した。19時39分、初日が開演のときを迎える。舞台上には、マームとジプシーの舞台にしばしば登場する脚立が置かれている。あの脚立も海を越えてここに立っている――そう思うと、少しだけ感慨深かった。途中までの印象は、少し厳しいかもなという感じがした。ケータイを見ている人もいるし、ごそごそ動いている人も一定数いた(ただ、そんなふうに観劇するのは、中国では普通のことかもしれない)。ただ、舞台の後半に差し掛かると、客席の集中力が増してゆくのを感じた。涙をすする声も聞こえて驚いてしまった。舞台が終演のときを迎えた瞬間に、「これで終演かな?」と様子を伺うこともなく大きな拍手が巻き起こったのも印象的だった。終演後はアフタートークが行われた。その冒頭、ジャーナリストの徳永京子さんが、マームとジプシーはどういう存在であり、どんな特徴があり、彼らは何を更新してきたのかを観客に説明した。最後に「マームとジプシーのファンの一人として、皆さんが気に入ってくれたことを祈っています」と語って話を終えると、会場からはまた拍手が起きた。

 アフタートークの後半には会場からの質問タイムになった。様々な質問が出た。なぜシンデレラの話が引用されるのか、白い衣装が貞子みたいだ、太宰的だと感じた、三女はあのあとどうなるのか、ちょっとだけパブロって犬が出てくるけどあれは何だったのか、なぜ同じ動きを繰り返しているのか――等々、様々な質問が出た。アフタートークでは到底収まりきらず、終演後のロビーでも質問タイムは続いた。他の人が質問しているあいだ、おずおずと、中々話しかけられずにいる若い二人組の男性がいた。他の人たちが質問し終えるのを待って、彼らは藤田さんに声をかけた。やや興奮気味に語る彼らが何を言っているのか通訳してもらうと、それは「今まで観た演劇の中で一番面白かった!」という内容だった。「すごく詩的だと感じたし、他の演出家の前に走ってる感じがするし、今までの演劇とは全然違う」と二人は口を揃えて言った。彼らの興奮した様子は、日本と何ら変わりがないと思った。全員が全員絶賛したわけではないかもしれないけれど、こういう響き方をする人がいるということが何より嬉しいことだと思った。

 23時過ぎになって打ち上げに出かけた。最初にテーブルに用意されていたのはヒマワリの種だ。殻を割れずに悪戦苦闘していると、歯で割るのだと教えてもらった。手に持ったまま歯で割り、そこから実を取り出して食べる。慣れれば片手で食べられるようになるそうだ。不器用にヒマワリの種を食べているうちに、次々といろんな料理が運ばれてきた。でも、僕がこの日強く印象に残っているのは白酒だ。強いものだとアルコール度数が50度を超える蒸留酒だ。中国では、酒席で乾杯をする際にしばしば飲まれるお酒なのだという。度数はウィスキーに近いが、こちらは何かで割ることもなく生で飲む。一口飲むと身体に染み渡り、ぐわっと内臓に火がついたように感じられる。香り自体はフローラルだから飲みやすく、危険な酒だ。

 4杯目の白酒を飲みながら、はたしてちゃんと話が聞けるだろうかと不安な気持ちになっていた。打ち上げのあと、ホテルに戻って話を聞かせてもらえないかとお願いしていたのだ。話を聞いてみたいと思ったのは、“ゆりり”こと川崎ゆり子さんだ。北京公演ではいくつか印象的な箇所があったけれど、何より印象的だったのはラストシーンだ。そこでゆりりは、舞台の正面にあるシャッターをあけると、奥のスペースに移動し、そこで壁に向かってボールを投げていた。その風景が何より強く残っていることもあり、午前1時、ゆりりに話を聞き始める。





公演中の様子。字幕が映し出されているモニターと同じラインにシャッターがあるのだが、ゆりりは自分でスイッチを操作して、シャッターの奥にあるこの場所に移動して終演のときを迎える。







――今回の『カタチノチガウ』の北京公演は、三人にそれぞれ感触を聞いてみたいと思ってるんです。ひとりひとり聞いてみたいことは微妙に違うんですけど――今日で北京滞在何日目なんでしたっけ?

川崎 5日に入ったので、今日はもう4日目です。

――稽古があるから、そんなに街を歩いたりする時間はなかったかもしれないですけど、北京の街はどうですか。

川崎 あの、思っていたのと違くて。

――思っていたのと違う?

川崎 まず、空気がもっとヤバいんだと思ってて、全員マスクしてると思ってたんですよ。でも、聞いてみたら、中国の人が全員マスクして歩いてたのはPM2・5が酷かった時期のことで、そのときの映像が日本ではずっと流れてたっていう。

――別に皆ずっとマスクをして生活してるわけじゃないんですね。

川崎 あと、私たちが到着した前の日までが“パレード”だったんです。“パレード”のために青空をつくるってことで、近隣の工場を休みにさせたらしいです。だから、今朝からちょっとずつ、煙で遠くのビルが少し霞むのがわかってきたけど、昨日まではもっと良くて。そうそう、そうでした。

 私の北京のイメージっていうと、私たちが泊まってるホテル周辺のイメージが一番大きいんですけど――でも、ホテル周辺はちょっとくしゃくしゃっとしてる感じだけど、国際交流基金のオフィスがある場所とかはもう銀座でした。きらっきらのミラー的なオフィス街で、道もすごい綺麗で。OLたちが、きらきら、歩いてる。

――エリアによって全然違いますよね。

川崎 全然違いました。で、国際交流基金のオフィスに行ったあとで天安門のほうに行って、天安門自体は見れなかったんだけども、そのあと南鑼鼓巷っていう、北京の竹下通りと言われてるところに行って。たしかに原宿みたいな感じで、ちっちゃくてオシャレでちょっと安いみたいな、面白い感じのお店がいっぱいあったりして。あと、アゴラ劇場にすごい似てる劇場があったんですよ。その劇場もすごくおしゃれで、劇場自体はアゴラに似てて、そのほかにカフェとか展示のスペースもあるんですけど、そういうのの真ん中に樹齢200年みたいな木が生えてて。それで、上に上がっていくとテラスがあって――ツリーハウスみたいですごくオシャレでした。うん。そういう感じで、場所によって全然印象が違うし、日本に入ってきてる情報みたいなのってほんとに断片だったなって思いました。

――僕もちょっと、自分が恐ろしくなるなと思ってたんですよね。っていうのも、僕の中で中国に来るってことに対して先入観があって。今日は買ったばっかのスニーカーを履いて歩いていて――それは中国に来る直前に買ったんですけど――そのスニーカーを買ってるとき、「このスニーカー、もしかしたら『あ、日本人だ!』ってなったとき、コーヒーだとか何かの汁だとかをびゃっとかけられるかもしれないな」と思ったんですよね。

川崎 そっか、そんなことまで思ってたんだ。

――一人で行動するときに、いわゆる観光地的なエリア以外も歩きたいと思ってたから、日本人に対して敵対心を持って暮らしてる人に出くわしてもしょうがないと思ってたんです。でも、北京に来てみると、今のところ誰からも嫌な感じは受けないし、言葉は通じないけど、屋台の人なんかもすごく良く接してくれて。「抗日戦争勝利70周年」って文字はあちこちで見るけど、そんな空気は今の所感じないし――ってことに気づいた瞬間に、何も見てもなければ聞いてもないのに、勝手にそんなふうに思ってた自分の目と耳ってなんなんだろうって恐ろしくなったんですよね。すごい偏ってたんだなと。

川崎 そうですね。情報で入ってくるものにしか触れられていなかったわけで。たしかに、ここに住んでる人は人間なんだからそりゃそうだとも思ったし、何でそのことに気づけなかったんだろうってことでもあるんだけど。なんか、そうですよね。

――なんでこんな話をしているかっていうと、目ってことについて話を聞いておきたいなと思っていて。『カタチノチガウ』は今年の初めが初演だったわけですけど、そこでも「目」とか「目玉」ってことは言われてるし、その次に上演された『ヒダリメノヒダ』でも視覚ってことを扱ってるし、『cocoon』の中でもまた、誰かの視点とまた別の誰かの視点があるってことは扱われてますよね。そうしたときに、この1年、見るってこと、目ってことについてゆりりは何を考えてきたんだろうってことを思ったんです。

川崎 目のこととか見るってことは、自分の中で、大きい研究テーマみたいなこととしてあったんですよね。それが、大学生の終わり頃やっと言葉にして考えられるようになってきた。目は見てるだけで、それが情報として脳みそに入ってくるけど、それは私の脳内で映像になってるけど、それが本当なわけじゃないというか。世界は私の外にあるようにみえて、私の中にあるのかも、とか。だから、本当ってこと自体がわからないし、人によって見えるっていうことは違ってるし――思い返していくと、そういうことについての興味はずっとあった。たとえば高校生のときにいきなり気づいたんです。私、いつも朝が弱くて、ドタバタして親とケンカして学校へ行ってたんだけど、ホームルームとかでは澄ました顔で過ごしていたんですね。で、ある朝ふと気付いたのが、皆ここで普通の顔して座ってるけど、家で親とケンカしてきてる子もいるだろうし、私がいないところでも、私が見てないところでも生きてきたんだなっていう。

――それぞれの時間があって、それぞれの時間がある、と。

川崎 そうそう。それが集まってきてこのホームルームの時間なんだなって気づいたんですよね。それで、じゃあ「一人ひとりのそれを遡って行ったらどうなるんだろう?」と思って――でもそれは絶対私には見えないんだけど――そういうことが興味としてあって、最初は映画を作りたかったんですよね。映画が好きだったこともあって。

――あ、そうだったんですね?

川崎 そうなんです、実は。作るのをやりたかったんです。その考えはもったまま大学にきて――でも、同時に表に立って表現する側もやってみたくて、まずそっちをやろう、と。そしたら藤田さんが演劇でそういうことをやってた。びっくりしました。視点ってことについては、大学最後のレポートで「テーマは何でもいい」って言われたから、そのことについて自分で掘り下げて書いて。見ることや、世界って自分の中にあるんじゃないかっていう。そうしたら、すごいちちゃい頃からそういう興味があったんだなっていうことに気づいたんです。

――ちっちゃい頃だと、何でそういうことに興味を持ったんですか?

川崎 明確な考えとかじゃなかったんだけど、自分の視覚を騙して遊ぶとかいうことをしていて。たとえば、長い通学路をずっと歩いてるとき――家から5キロぐらい歩かなきゃいけなかったんだけど――そのあいだずっと、ベルトコンベアーみたいに地球がまわってて、私が動いてないとかってことを想像して。

――ああ、「地球が動いてるから進んでるんだ」と。それ、高度ですね(笑)

川崎 そういう感覚遊びとかを結構やっていて、ちょっとスイッチを切り替えて遊んだりとかしてました。でもそのときは、私にとっては本当にそうなることができるという。

――それは友達とやってたんですか? それとも一人でやっていた?

川崎 いや、一人でやってました。兄弟には言ってたかもしれないけど、あんまり友達とはやってなかったです。なんか、うん、宇多田ヒカルの「In My Room」っていう曲に「夢も現実も目を閉じれば同じ」っていう歌詞があるんだけど、それを聞いたときに「はっ、これか!」って。そこから段々言葉を見つけ始めて。なんか、そういうのがありましたね。

――ちなみに、さっきレポートの話がありましたけど、それはどういう結論になったんですか?

川崎 でも、レポートってあんまり書いたことなくて、レポートとしてちゃんとまとめられたものではなかったかもしれないです。でも、自分の中では初めてまとめて文字にすることができて。「ああ、なるほど、私はずっとこれに興味があったし、たぶんこれからもそうなんだな」と思いました。

――外から見ていると、その“目”とか“見ること”とかってことに対して、『cocoon』での旅が与えた影響が結構大きかったように感じたんです。

川崎 そうですね。『cocoon』の中にある目ってことで言うと――ちょっと話のニュアンスが変わってしまうかもしれないんだけど――単純に、目線を上げることとか、前を見るってこととかって意味での“目”っていうのは、『cocoon』をやってるあいだすごく思ってました。前を見ることって、それって身体的にもそうなんだけど、すごい重要なことだなって。

――そういえば、前にどこかでその話をしましたよね。『cocoon』ではとにかく海に向かって走り続けるわけですけど、「下を向いてたら走れない」って。

川崎 そうそう。前を見ることって、目を向けることって、基本的には希望っていうか――何だろう、意志を向けることなんだなっていうのがあったなと思います。選んで見るっていうか。

――見るってことと選ぶってことはセットですよね。全部を見るってことはできないわけだから。

川崎 うん、そうですね。見るってことにもいろんなニュアンスの見るがあるとは思うんですけど。『cocoon』の中での「見る」という言うと、そのイメージが強い。今年の春にチビチリガマとシムクガマに行ったじゃないですか。

――行きましたね。『cocoon』に先駆けてリーディングライブをやったときに、沖縄公演には出演者の皆も大勢来ていて。沖縄公演の会場は読谷にある「水円」ってとこでしたけど、その近くにもガマ(自然洞窟)があるってことを聞いて、チビチリガマとシムクガマに皆で行ったんですよね。二つのガマはすぐ近くにあるけど、チビチリガマでは集団自決でほとんどの方が亡くなったのに、シムクガマでは「投降しよう」と呼びかけた人がいて1000人近い住民が助かったという。

川崎 あのガマに行ったときに――それまでは、『cocoon』はとにかく、深刻で辛い話だっていう風に思っていたし、そう思わなくてはいけないと思っていた。あんまり笑ったりしちゃいけないような気持ちで。それで、戦跡をめぐって、気持ちが重くなったり……。だけど、シムクガマに行ったときに、ぱんって視点が切り替わったんです。あそこにいた人たちは、生きることを選択した人たちだったじゃないですか。「生きようと思ったんだ」って、そのときにストンとその事が入ってきた。それがすごく嬉しかったし、それで、私も生きる事を選んでいいんだ、選ぼうってなんか思えたんですね。例えば移動中とか、ご飯の時間とか、ずっと喪に服して過ごす事は、私のするべき事ではないかもって思った。

――しかも、当時の状況の中で「生き残る」って決断をするのは、今考えると途方もないエネルギーですよね。「捕虜になるのは恥だ」と言われていて、皆で死のうって空気が支配してる中で、「いや、生き残らなきゃ駄目だよ」ってことを主張して1000人を生き延びさせようとしたっていうことは。それってすごく勇気のいることでもあるし、すごく大きな選択だなって感じがしますよね。未来を見据えてるというか。

川崎 そうそう。でも、もちろん誰も死にたくなんてなかっただろうし、ほんとは生きることを選択したかったと思う。当たり前なんだけど、そう思って。そこでまず大きな視点の切り替わりがあったと思います。

――そういう変化があった上で、今回久しぶりに『カタチノチガウ』をやったときに、感触の違うところはありましたか?

川崎 ありました。『cocoon』をやっているときに“生きること”っていうのがすごい出てきて。さっき話した切り替わりがあってからは、学校のシーンが楽しみでしょうがないみたいな感じになったんですよね。公演が始まる前とかはもう、考えるのはほぼ学校のシーンのことみたいな。

――後半に待っている、戦火に追われて海に向けて走るしんどい時間のことは考えずに?

川崎 そう。なんか生命力が出てきたし、楽しみだったんです、始まるのが。

――客席から眺めてても、楽しそうだなと思って見てましたよ。『cocoon』のとき、開場してから開演までの時間に、役者さんがステージを漂っていたじゃないですか。開演直前になって一旦ハケるときに、ゆりりはもう、跳ねるようにハケていくのが気になっていて。最終日なんかもう、ほんとに飛び跳ねてましたよね。あれは、始まるのが楽しみだったから?

川崎 楽しみでした(笑)。そう、始まるのが楽しみになってきて。でも実はそれは、自分で「そうしよう」と決めたのもあるんですけど。そっちに目が向いてきたというか、向ける事にしたのもある。「私ってそうだ」って思い出したんです。私はたぶん、「楽しい」ってことをエネルギーにしてる人間なんだろうなって。面白がれるポイントとか楽しいポイントをいかに探すかってことが、原動力なんだと思う。そのことに自覚的になってきたのかもしれない。『カタチノチガウ』は、初演のときは、公演期間中、あまり笑えないみたいな感じになってたんですよね。本番前も、終わってからも、もう青ざめてるみたいになっていて。なんかもう、「クズみたいな自分だ」って気持ちになっていたし、ならなきゃいけないとも思っていた。自分の拙いことの悔しさもあったし、それはゼロにすべきだとは思わないんだけど。『cocoon』を経て、今回の北京公演は、初演のときと台詞も変わってないし、音も基本変わってないけど、遊んでるシーン(註:『カタチノチガウ』は三姉妹の物語で、幼い日の三姉妹がボードゲームで遊ぶシーンなどがある)とか、明らかに楽しげなシーン以外でも、なにがーー笑えるという意味でなくおもしろいのかって見直しました。前回よりもそういう意味で、素直に楽しめる部分があります。

――なるほど。本当に、今日半年ぶりにこの作品を観たときに、結構印象が違うなって思ったんですよね。もちろんそれは観客である僕の目が変わってるってことも大きいとは思うんですけど――「未来」、「光」って言葉がこの作品には出てきて、その言葉は『cocoon』でも『てんとてん』でも出てくるわけですけど、そういうことの響きがまた微妙に変わってきた気がするんですよね。

川崎 エピローグのラストに、私がシャッターを開けて外に出て、そこでボールを投げるっていうのは、本番直前に決まったんです。あのシーンをやってるときにふと来た感覚があって――やぎ(青柳いづみ)さんはそのとき最後のモノローグをやってるんですけど――「子どもが親を殺して先に行く」っていうか……「親が死んで子供が生きる」って事かな。光でもあるけど、悲しくもあるし強くもある。そして光とか未来って、否応なしに向かわされるものでもあるのかも。この言葉が適切なのかな、まだ纏まっていない気もするけれど。やぎさんは私の母親役じゃないし、私の役が殺すのはお父さんなんだけど、なんだかそんな事がよぎった。

――それは本番中に思ったんですか?

川崎 本番中に、でした。頭の中で言葉になってというよりは、感覚として。

――あそこでシャッターを開けるシーンって、すごく印象的だったんですよね。これはそういうことが可能な劇場かどうかってことも大きいとは思いますけど、『cocoon』の沖縄公演でも、『てんとてん』のケルン公演でも、ラストのところで窓やシャッターを開けて外の光が入ってくる演出になっていて。客席にいると、なんかすごくギョッとするんですよ。舞台にはまだ役者が立っていて作品は続いてるのに、現実の風景が目に入ってくるわけですよね。今回だと、ゆりりが自分でシャッターを開けて奥の空間に移動することで、それまで見続けてきた空間とは別の次元にある空間が生じて、ちょっと目が混乱するというか、自分の見ている空間に揺らぎが生じたんですよね。それに、今回のラストの台詞は、青柳さんの「わたしや、わたしたちが、見ることができなかった、ヒカリを、ヒカリを、ヒカリを、ヒカリを、あなたたちは、あなたたちは、あなたたちは、あなたたちは」ってことばですけど、そのモノローグの時間にゆりりが別の空間でボールを投げて過ごしてることによって、青柳さんが演じる長女の目と、それとは別の場所にあって別のものを見ているわけですよね。

 視点が変わるってことでいうと、ゆりりは海外で舞台に立つのは今日が初めてだったわけですけど、初海外公演はどういう感触でしたか?

川崎 初海外ってことは、意外とあんまり気にならなかったですね。ただ、違う土地であるって事で『カタチノチガウ』をどう受け取られるんだろうってことはありました。まず単純には、中国って一人っ子政策があるし、はたして三姉妹ってことがどう受け取られるんだろうとか。兄弟間の感覚とか、お父さんとかお母さんって存在の位置づけが違ったりするのかなってことはあったんだけども。でも、やってたら、日本のお客さんが泣いてたようなところで泣いてたりとかして、「ああ、伝わる事はあるんだな」と思って。うん、そうですね。今日、呉さんっていう国際交流基金の人としゃべりながらホテルまで帰ってきたんですけど、結構深いことを話してくれて。なんか、人の悲しみって、本当にはわからないよねって話とかをして。複雑な話だけど、それって、マームが作品を通して考えてきた事だったりもする。だから複雑でも伝わるって事はあるんだろうとも思えた。そして同時に、言葉が通じないと、そんなことって考えてなさそうに見えたりするんだって。言葉が通じるだけでそういう話までできるのにな、と思って。言葉が通じればそんな事まで話せる可能性があるのに、言葉がわかんないという時点で、同じ人間に見えなくなってしまったり。そんな自分が、悔しいなと思いました。