キッチンの外にまで、陽気さが溢れ出していた。

「あ、橋本さんだ!」

「おかえりなさい!」

「まあまあ、まずは一杯」と促されるままに赤ワインを飲む。僕はまだ気が動転していて、洗顔タオルも見当たらないままシンクで顔を洗った。キッチンにいるのは藤田貴大さん、波佐谷聡さん、成田亜佑美さん、荻原綾さん、川崎ゆり子さんだ。藤田さんと成田さんは音楽に身体を揺らしている。僕は成田さんが小刻みに踊る姿が好きで、少しホッした気持ちになる。

 音楽を流しているのはアンドレアだ。キッチンにはポータブル・スピーカーが設置されていて、彼がYouTubeでイタリアの音楽を流し続けてくれている。日本の皆は、イタリアのリズムに身を委ねている。イタリアの皆――アンドレアとジャコモとカミッラとサラ――は、時折YouTubeにあわせて歌声をあげる。今流れているのは有名な曲なのだろう。コンロの上では藤田さんの作ったスープと成田さんの作ったポトフとが火にかけられている。スープがテーブルに並べられる。ジャコモは猫舌のようで、スープが少し冷めるのを待っている。波佐谷さんはすかさず、「イタリア語で猫舌って何て言うんですか?」と由紀さんに尋ねている。由紀さんは、マームとジプシー初となる海外公演をフィレンツェで行ったとき、通訳をしてくれた女性だ。

 「猫舌っていう言葉はイタリアにはないですね」と、由紀さんの隣に座る男性が日本語で言う。外見はどう見てもイタリア人なのに、流暢な日本語を語る。「橋本さん、彼は“太郎”です」と紹介されて、僕の頭はいよいよ混乱する。彼の本名はバレリオだと、あとで教えてもらった。「猫舌はないけれど、ネコババという言葉はある」という話から、議論が「狐という単語を使った慣用句」に移ってゆく向こうで、荻原さんが小さな声でサラに話しかけている。ほどなくして、ミーティングを終えた林香菜さん、召田実子さん、門田美和さん、それにルイーサがキッチンにやってくる。このメンバーで、彼らは数日前から滞在制作を行っている。

 ここはピサとフィレンツェのあいだにある小さな町・ポンテデーラだ。最初にある「おかえりなさい」という挨拶は、一般的な言葉遣いとしては誤りではあるが、たしかに僕はこの町に“帰ってきた”。1年前、マームとジプシーの海外ツアーに同行して旅をしていた僕は、この町を訪れている。まさかポンテデーラを再訪することになるとは思わなかった。劇場に併設されたレジデンス施設にはキッチンがある。ここで過ごしたのは1週間にも満たない時間だったけれど、いくつもの思い出が詰まっている。キッチンから窓の外に目をやると、大型スーパー「パノラマ」と広大な駐車場だけが見える。この殺風景すら懐かしく思えてくる。

 マームとジプシーは今、ここポンテデーラで、日本人の俳優4名とイタリア人の俳優4名とで作品を作っているところだ。イタリア人の俳優4名というのもまた、これまでの旅で出会った4人だ。2013年、最初に海外公演を行ったときから、彼らは「移動すること」と「土地と出会うこと」を考えながら旅を続けてきた。それが今、こうして一つの作品として結実しようとしている。藤田さんは「まだ全然できてないけど――ヤバいことになってるから観てほしい」と言う。他の皆も「うん、ヤバいことになってきてるね」と口を揃える。一体イタリア人を交えた創作の現場がどうなっているのか、想像もつかなかったけれど、僕はキッチンの片隅で赤ワインを飲み続けた。

 20時過ぎになると、イタリア組は帰途につく。彼らは皆、フィレンツェに住んでいる。「ばいばーい」「またねー」と見送る。イタリア組は「アドマーニ」と答える。本来はイタリア語であるはずの「アドマーニ」という言葉が、平坦な発音になって、ちょっと日本語みたいに聴こえておかしかった。