朝5時には目が覚めてしまった。中庭に置かれた椅子に座り、朝日に照らされ読書していると門が開いた。オレンジ色の作業服を着た男性が、顔だけ覗かせている。こちらに一瞥をくれると、彼は門を閉め、草刈りを始めた。この日は一日中草刈りの音が響いていた。刈られた草は風に吹かれて舞っている。どこに生えていたのか、わからなくなって、一つの塊として舞い続けている。

 今、このTEATRO ERAで作られている作品のタイトルは『IL MIO TEMPO』――『私の時間』だ。ポンテデーラでの滞在制作は、13時から18時まで稽古が行われることになっているようで、午前中はそれぞれ自分のやるべきことをして過ごしている。「ちょっと役者さんは劇場に集合しようか」と藤田さんが言ったのは、11時半になろうかというときだ。劇場に集合すると、床に整然と並べられたメモ用紙を囲むように座る。そこには、たとえばこんな言葉が書かれている。

 CAMILLA インド人
 YURIKO 心臓
 AYUMI だっきゅう
 GIACOMO カギ オオカミ

 暗号のようにも思えるこれらの言葉は、昨日までに作られたシーンたちのタイトルだ。そこには69枚にも及ぶメモがある。つまり既に69個ものシーンが作られているというわけだ。わずか4日でそんなにシーンができるのかと驚かされる。ただ、このシーンはまだ断片である。その一つ一つに直接的な繋がりはないのだが、いくつかの系統に分類されてゆく。ばらばらだった断片が、カードのようにシャッフルされ、しかるべき場所に配置されてゆく。マームとジプシーの作品を観ていると、しばしば「編集」という言葉が頭に浮かぶのだが、それは、こんなふうに作品を作っているからかもしれないと思った。

 イタリア人の役者の皆も、10分前までには到着して、13時ちょうどに稽古が始まる。ここからは実際に役者を動かしながら、シーンとシーンとを編集し、断片を接続していく。たとえば。オオカミの死体を見つけたエピソード。扉で指を挟んでしまったエピソード。夜、イノシシに遭遇したエピソード……。本来はまったく相関性のなかったエピソードを「けもの」というジャンルに分類し、一つの連なりをもったものに仕立ててゆく。

 短いものだと30秒にも満たないシーンを、A→B→C→Dの順でやらせてみる。それが終わると、次はC→A→D→Bの順でやらせてみて、次はD→B→C→Aでやらせてみる――そうして役者が実際に動く様を見つめながら、藤田さんはシーンを組み立ててていく。ときどき少し考え込んで、「あ、わかった」と言って、また別の順番で動かしてみる。

 ここでのエディットというのは、単に順番を入れ替えるというだけではない。AだのBだのと書いていると、書いている僕も混乱してしまうので、ここからは具体的に記す。

 まず最初に、扉で指を挟んでしまったサラのシーンが配置される。そのシーンが終わってもサラは舞台上に残り続けて、まるで痛みを紛らわすかのように煙草を吸うそぶりを見せている。それと並行して――だがそれとは関係なく――夜道を歩いていた波佐谷さんとジャコモがイノシシに遭遇するシーンが展開される。次に、波佐谷さんとアンドレアとジャコモの3人が犬に追われるシーンが始まる。波佐谷さんとジャコモは先に建物に逃げ込むと門を閉めてしまって、アンドレアだけが取り残される。アンドレアは「開けて!」と叫んでいるが、二人は笑い転げるばかりで一向に門を開けずにいる。舞台の端で、サラはまだ煙草を吸っている。シーンが移行する。さきほどのシーンからしばらく時間が経っているのだろう、波佐谷さんは怒り心頭に達したアンドレアをなだめ、詫びながら歩いている。この次にくるシーンが、煙草を吸っていたサラに波佐谷さんとジャコモが出くわすシーンだ。

 サラがドアで指を挟んでしまったシーンと、波佐谷さんとジャコモが煙草を吸うサラに出会うシーンとは、当初はまったく関係のないシーンだった。でも、「痛みを紛らわすために煙草を吸っていた」ということを藤田さんが創作することで、2つのシーンを繋げてゆく。また、2つのシーンのあいだにまったく別のシーンを挟むことで、舞台上に複数のタイムラインを走らせている。

 こうしてシーンを編集する作業は、マームとジプシーの作品づくりの特質の一つだと言える。シーンが並べ替えられるごとに、役者は頭を切り替えてシーンを演じることになる。客席から稽古の様子を眺めているだけでも頭が混乱してくる。日本人の役者は、藤田さんとの作業に慣れているから、こうした複雑な作業をこなしているのは理解できる。驚いたのは、イタリア人の俳優も藤田さんの演出を即座に理解し、演じていることだ。次々と変更されることで、混乱をきたすことはないのだろうか――イタリア人の俳優のひとり・アンドレアにそう訊ねてみると、今のところ混乱するということはないと答えてくれた。「ビコーズ・ヒー・イズ・ノット・“いじわる”」とアンドレアは付け加えた。

 藤田さんの演出で複雑なのは、シーンの編集だけではない。たとえば、ベンチに座って語るシーンがあるとする。「じゃあ、そのベンチに座って」と演出をつけられると、普通は自分が立っている場所から最短距離で近づいていき、腰をかける。ただ、藤田さんはしばしば「その椅子に座るときに、ぐるっとまわって座って欲しい」と演出をつける。あるいは、舞台上にどのポイントに立つか、どの順番で座るかを厳密に指示する。そうした配置の緻密さも、マームとジプシーの作品に含まれる、ある美しさを担っているものだ。それに対して「近いほうから座るのと、ぐるっとまわって座るのとで、一体何が違うのか」という反応も出るのではないかと思っていたけれど、少なくとも今日の稽古を見る限り、藤田さんの意図することは伝わっているように見える。

 それはきっと、彼らが1年前、まさしくこの劇場で上演されたマームとジプシーの作品を観て理解してくれているということが大きいのだと思う。しかし、それにしても、飲み込みの早さには驚かされる。藤田さんも「集中力がすごいよね」と漏らしていた。「日本人とやるときより、こっちの反応をすごい見てくれる感じがする」と。何度も同じシーンに編集を加えていくうちに、通訳を介さずとも、藤田さんの言った言葉が伝わっている瞬間もある。

 飲み込みの早さは、いろんな箇所にあらわれている。

 マームとジプシーの作品はセットを組まずに上演される。プロセニアムな劇場で上演するときも、舞台袖を幕で隠したりせず、剥き出しな状態で上演されている。今回の作品だと、舞台の床には白いテープが四角形に貼られていて、その四角形は3つに区切られている。あるときは、その四角形に入ったところからシーンが始まり、そこを出るとシーンが終わる構造になっている。またあるときは、ある台詞を言った瞬間にシーンが終わり、枠の外に出て行くように演出がつけられている。またあるときは――それは椅子を使ったシーンだが――「椅子を置いた瞬間にシーンが始まるってことで考えて欲しい」と藤田さんが伝えると、それもすぐに理解して演じている。つまり、そこには複数のルールが混在しているのだが、それも過不足なく伝わっている。

 ただ――難しいのは、今回はワークショップにきているわけではなく、一緒に作品をつくるために来ているということだ。生まれた国も育ってきた環境も違う人と、マームとジプシーがこれまでに培ってきたものを共有することができている。それも一つの達成ではあるし、喜びもあるだろう。でも――と書きたくなるのは、僕が稽古の内容に不満を感じているだとか、そういうことではまったくない。むしろ僕は稽古を観ながらただ驚くばかりだった。でも、誰より演劇作家である藤田さん自身が、どこか焦りを感じているように見えた。それは手応えを感じればこその焦りだろう。予定より少し早く稽古は切り上げられた。表に出てみると、草はさっきより大きな塊になってくるくる舞っていた。