ポンテデーラに激震が走っている。

 初日にも書いたように、この町に対する印象は「パノラマという巨大なスーパーマーケットがある町」だった。皆が滞在制作をしている劇場の近くにはパノラマが――いやパノラマしか存在しない。ポンテデーラを訪れるということは、劇場とパノラマ、徒歩1分ほどの距離を往復するだけの生活を意味する。僕も、おそらく皆も、そんな生活を想像していたはずだ。しかし、だ。ポンテデーラの町に、新しいスーパーマーケットがオープンしたのである。

 新しいスーパーマーケットの名前は「LiDL」。パノラマからは徒歩3分ほどの距離にある。このスーパーマーケットは、今回皆がポンテデーラを訪れた日にはまだオープンしていなかった。駐車場もまだ完成しておらず、穴だらけだったという。それが、駐車場が穴だらけだった翌日に通りかかってみると、華々しくオープニングセールをやっていたのだ。それが水曜日のことだ。

 水曜と木曜の2日間は、まるで新しいスーパーマーケットなんてオープンしていないかのようにパノラマに通い続けた。「新しいスーパーに行ってみない?」と切り出したのは藤田さんだ。朝10時、藤田さんと日本人の役者の皆とでLiDLに出かけてみることになる。ガラス張りのスーパーマーケットは、自動ドアが開くなり香ばしい匂いがした。「良い匂い」と、荻原さんが小さな声でつぶやく。一足先に入店していたゆりりは、「この店の売り、絶対これだよ!」と引き返してくる。

 LiDLの店頭で販売されていたのはパンだ。ショーウィンドウの中に、何種類ものパンが並んでいる。どのパンも美味しそうだ。衛生管理を徹底するためなのか、パンは透明なガラスの中に収められて、ライトで照らされている。パンを買うにはまず、ビニールの手袋を装着して、パンを入れる袋を手に取る。ショーウィンドウには小さな隙間があり、そこから棒が突き出している。その棒を操作して、買いたいぶんだけパンをかき出す。その作業もまた、UFOキャッチャーをやっているようでちょっと楽しくもある。僕はピザパンとクロワッサンを買った。劇場まで待ちきれず、帰り道にさっそく食べてみる。うまい。パンってこんなにうまいものだったのかと驚くほどだ。

 劇場に戻ると、藤田さんは料理を始めた。それまで料理なんてしなかった藤田さんが初めて料理をしたのは1年前、このポンテデーラのレジデンス施設にあるキッチンで、だった。もしあのとき料理を始めていなければ、『ヒダリメノヒダ』の客入れ中、藤田さんが舞台に立ちスープを調理する姿を観客に見せるということもなかっただろう。去年はずっとスープばかり作っていた藤田さんだが、今年は新しいジャンルに挑んでいる。「橋本さん、実験的なパスタを作ってるんですけど食べますか?」と藤田さんに声をかけられて、テーブルにつく。今日は切手みたいなパスタを使い、チーズソースのパスタを作っているようだ。テーブルにはゆりりがいて、ブラッドオレンジとスープで朝食を取っている。LiDLで買ってきたアップルパイもテーブルに置かれていた。

 パスタの茹で上がりを知らせるアラームが鳴る。「どうかな?」と藤田さんが言うと、ゆりりはフォークを手にコンロの前に立ち、一つ試食する。「もうちょっとかも」というゆりりの言葉に従って、もう少しだけパスタを茹でると、チーズのソースと絡めて完成だ。パスタが完成する頃には、波佐谷さんと荻原さんもキッチンにやってくる。パスタを一口つまんで味の批評をしながら、二人はLiDLで買ってきたパンを食べている。

「このパン、おいしいよ」
「そうなんだ?」
「食べる?」
「いや、大丈夫」
「食べてみ? おいしいよ?」
「いや、いい」

  荻原さんが何度勧めても、藤田さんは一向に食べようとはしなかった。たしかに、LiDLのパンは人に勧めたくなるほどうまいパンだ。あとからキッチンにやってきて朝食を取り始めた亜佑美さんもまたLiDLのパンを食べていて、藤田さんはまたパンを勧められている。そしてまた断っている。藤田さんは、料理というものに対する実験的な興味はあるけれど、自分が食べるということにはあまり興味がなさそうだ。

 朝食を食べながら、皆口を揃えてパノラマの心配をしている。本当に、突然スーパー戦争が起きてしまった。戦いを仕掛けたLiDLはしっかり戦略を練っている。まず、店頭にパンを配置したこと。パノラマに並んでいるパンはパサパサで、いかにも巨大なスーパーマーケットらしく雑然と陳列――本当に陳列という言葉がしっくりくる佇まい――で並べられているのに対し、LiDLの棚は眺めているだけでも心踊る。それに、店頭で客を包み込むあの香り。あの匂いに客は心を鷲掴みにされるが、パノラマにはそうした仕掛けはないのだ。

 LiDLの驚きは仕掛けと味だけではなく、その値段だ。ピザパンは79セント(約100円)、クロワッサンは39セント(約50円)である。パンだけでなく、たとえばビールの値段もパノラマよりずっと安いのだ(これはオープニングセールだからかもしれないが)。パノラマの優っていることと言えば品揃えぐらいだ。LiDLは、パノラマの何分の1かの敷地しかないのである。ただ、これも非常に戦略的であるように思える。全面戦争を仕掛けるのではなく、パノラマの弱点をついた戦いをしているわけだ。

 スーパーマーケットの話題で持ちきりだったキッチンには、明るい陽射しが差し込んでいる。今日も良い天気だ。もう肌寒い季節だろうと長袖ばかり持ってきたけれど、半袖で十分な気温の日々が続いている。こんなに良い天気だと、つい「ビール飲みたい」って言っちゃいそうになりますね。僕がそう漏らすと、ゆりりが「言ってる、言ってる」と指摘する。キッチンにやってきたばかりの林さんが「いいですよ、もう飲んでも」と言ってくれたので、まだ午前中だけどハイネケンの蓋を開ける。しあわせだ。「こんな優雅な朝食の時間、東京に帰ったらなくなるんだろうな」と林さんはこぼした。味に納得がいかなかったのか、藤田さんはチーズソースのパスタに、昨日作ったミートソースをかけている。ミートソースをかけ終えると、「ちょっと行き詰ってきてるから、きょうはゆっくりやるわ」と言った。

 その言葉通り、イタリア人の俳優が到着するとまず、皆で蚤の市に行ってみることになった。LiDLと劇場のあいだ――1年前は移動式遊園地が出ていた広大な空き地――に、ずらりとトラックが並び、蚤の市が開かれているのを、スーパーマーケットの帰りに確認していた。13時、皆で足を運んでみたのだが、どういうわけだか撤収作業をしている。お昼休みに入ってしまったのかとも思ったが、午前中で営業は終了したのだという。平日の午前中だけの営業で、儲かるのだろうか。商品を並べて開店し、閉店して撤収作業をする手間を考えると、効率が悪そうに思える。商品のタグや包装袋が風に吹かれている。

 せっかく皆で歩いているのだからと、ジェラートを食べに行くことになった。美味しいジェラート屋があるのだという。アンドレアとジャコモに案内してもらって、駅まで歩く。ポンテデーラは、劇場があるあたりは郊外としか言い様のない風景だが、川を越えて駅に近づくと古い石畳の街並みがある。「ピサの空港に着いてすぐ劇場にきたから、私の中のイタリアは劇場とパノラマだけだった」とゆりりが言っている。こうして街を散策するとき、あれこれ写真を撮る実子さんがいちばん後ろを歩くことは多いけれど、今日は実子さんとゆりりがいちばん後ろを歩いている。

 稽古が終わると、役者の皆はキッチンでカードゲームに興じている。まだ辿々しくはあるけれど、通訳を介さずにコミュニケーションが取れるようになっている。ひとしきり遊んだあとで、イタリア人の皆を見送る。時計を見ると20時半だ。晩ごはんの買い出しをするべく、皆でパノラマに出かける。閉店時間まであと30分しか残っておらず、店内はがらんとしている。ひと気のないパノラマを歩いているうちに、新しいスーパーマーケットに心躍らせたことが、妙に悪いことであるように思えてきた。ビールくらいしか買うつもりはなかったけれど、1年前に何度となく食べたタコの惣菜、パノラマと店名の貼ったショッピングバッグを2袋、それにパノラマで一番高いワインを買った。トスカーナの赤ワインを一晩ですっかり飲み干して、倒れるようにベッドに転がり込んだ。